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奈良・桜井の歴史と社会

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百市(もものいち)の住吉神社

桜井市の百市(もものいち)の住吉神社(百市字ハダ山)は10月の第一日曜日が「例祭」である。

午前8時に寺川沿いの集会場に村人が集まってくる。神饌などの準備を整えて、神社に向けて出発。神社までは800mほど、しかも登り道である。登山とまではいかないけど、しんどい。登山靴でないことを後悔するくらいの登りである。30分ほどで神社に到着した。皆さんにゆっくり歩いていただいたから助かったが、息絶え絶えである。この日は暑くて、汗でぐっしょりだった。

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神社の周辺には、そこそこの平地でが広がっている。空き地から見ると、村からは西、東は音羽連峰であるが、南北には道らしきものが残されている。

神社そのものは山にへばりつき、投げ入れ堂かという具合の景観である。本殿、拝殿、それぞれが立派である。

氏子が9軒、これで作り、維持してきた住吉神社である。その凄さに声も出ない。実は‥僕は‥ちょっとした祠‥みたいなものかと思っていたのである。

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ご祭神は住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)である。

今日の祭主は談山神社の長岡宮司である。開扉がある。祭主の「オー」という警蹕(けいひつ)にあわせて、ギイー、ギイーという扉の音が重なって、厳かに山中に住吉神が訪れる。

鳥居には榊と同じ感覚で、竹を立てる。この竹は村から持ち上げてきた竹であることがミソである。。

海のもの、野のもの、山のものの普通神饌であるが、海のものを除けば、供物は村人の心を込めた手作りである。


桜井市の百市(もものいち)。桜井市街から県道を多武峰に上がる沿道に百市の村がある。

村の標高は350mほどで・・・神社は450mほどの場所である。神社までの距離は800mほど

なんでこちらの神社は山の上なのか・・

秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思われるが、百市の友人によると、「村は山の上にあった。宇陀からの街道も大峠から針道、百市につながった。百市の手前には古井戸があった」と言われる。「村が山を下りた。神様に下りて頂かないうちに100年たった」とのことである。

神社の周辺に百市の村があり、それは街道でもあったと思われる。

倉橋から大峠を越えて宇陀に抜ける街道である。この道は、史実にたびたび出てくる道だろう。神武東征の男坂はともかく、仁徳天皇に追われて、隼別皇子が雌鳥皇女と共に曽爾に落ちていく街道である。

「梯立の 倉梯山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず」(はしだての くらはしやまは さがしけど いもとのぼれば さがしくもあらず)

幕末には天誅組の楠目清馬が落ち延びてきた道である。楠目清馬は東吉野から宇陀を抜けて大峠を経て、針道に落ちのびた。針道の辰巳家で一泊、武器を捨て農民の服で出発したと記録が残るが、その後、百市、音羽を経て倉橋村の山上、スズメ塚で討ち死にしている。

山を下りた村人、山に残った神様がテーマだった。


  

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こちらは倉橋のスズメ塚の楠目清馬(土佐)の墓地。津(藤堂)藩士に打ち取られた場所とされる

地名学者の池田末則氏によれば、「百は谷間の滝のタギリ流れる所」と言い、川沿いの地名という見解も示されている。これはこれでよく考えるべきであるが、今日はこのまま、保留である。



by koza5555 | 2018-10-08 12:08 | 桜井・多武峰 | Comments(0)
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