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奈良・桜井の歴史と社会

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東大寺の法華堂と戒壇院

『東大寺のなりたち』。岩波新書、今年の6月の本である。東大寺元管長の森本公誠長老が書かれた。東大寺を考えてみたいと思っていたが、これは期待通りである。

目次をみると「東大寺前史を考える」とあり、「責めは予一人にあり」で、これは、聖武天皇の心とわかる。

ほかに気になるところは「天皇大権の確立」。桓武天皇(勢力)が仏教勢力を排除したところだった。

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東大寺山堺四至図(さんかいししず)のことである。東大寺の寺地が確定(756年)する。佐保川と能登川が最初に描かれた。この区域内が世俗世界と切り離された聖域とみえる。


この山堺四至図に「山房」と記されている。

天平8年(736年)には、「山房は聖武天皇にとっては観音信仰の場、光明皇后にとっては薬師信仰の場、さらに二人にとっては阿弥陀信仰の、それぞれ基親王を偲ぶ霊場であったことが確認できる」(p18

その後、この山房は金鐘寺となり、隣には福寿寺が建立された。この二寺が合併して丈六寺が建立される。金銅仏の丈六釈迦如来仏が安置された。(p30)併せて、羂索堂の建立もこのころには行われている。

丈六堂の場所は不明だが、「丈六伽藍の立地を探しても、残るは現在の大仏殿当たりしかない」(p31)とされる。

この地はのちに大仏造立の立地となり、金銅仏は「やがて大量の銅が必要となる盧遮那大仏像の一助にする、いわば盧遮那仏増に化身することになった」(p34)。


羂索堂(法華堂・三月堂)の諸仏に関わる解明がある。丈六堂の「天部の諸尊像については羂索堂に移安することになった。つまり現在法華堂に祀られている巨大な乾漆八天像が元は金光明寺の丈六堂の諸尊だったのではないかという見解である」(p34


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「現在法華堂内に安置されている巨大な梵天・帝釈天、四天王、金剛力士の乾漆八天像は、年代的に遅れて入ってきた」(p35


元からの諸像と重複があり、

「内陣を改変、塑像の梵天・帝釈天と四天王の六天像を他堂に移し、執金剛神は厨子に安置した」。ということで、元々の仏像が外に出されてしまうのである。

梵天・帝釈天は日光・月光と名前を変えて薬師如来の脇侍に転用され、やがて江戸期に法華堂に戻ってくる。

四天王像は、中世には中門堂に安置、江戸期に戒壇堂に移ったという。

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「諸仏諸尊像も歴史に翻弄されてきたのである」(p35

戒壇院の四天王が初めに祀られたのは法華堂である。法華堂を拝見したならば、必ず戒壇院も拝みに行こうということである。

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年代がきちんと残っているのは以下のとおりである。

神亀元年(728年)山房造営を命ずる

天平5年(733年)羂索院創建と伝えられる

天平10年(738年)阿倍内親王立太子。福寿寺の造営始まる

天平17年(745年)金光明寺(金鐘寺)で大仏造立事初め

天平勝宝4年(752年)大仏開眼供養会



by koza5555 | 2018-10-11 23:14 | 奈良 | Comments(0)
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