人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

桜井市の戒重と仁王堂

地元の阿部と戒重(桜井市)の話である。

安倍文殊院のすぐ北に八町という小字があった。何かの折、阿部生まれ、阿部育ちの森井さんという方に、その名前のいわれを聞いたことがある。

「仁王堂(にょうどう)から八町ということだ」と言われる。ちなみにこの森井さんのお家の住所は「大字阿部、小字は長門」である。

仁王堂は安倍文殊院をまっすぐ北に行くと横大路に突き当たった辺りで、造り酒屋だったお家をはじめ、往時の姿を色濃く残す町である。


桜井市の戒重と仁王堂_a0237937_19305545.jpg

小さなお堂があり仁王堂という。扉はいつも閉まっており、「ここに仁王様がおられるの」と聞いたことがあったが、皆さんの反応はいま一つはっきりしない。

先日から、この仁王堂のお堂の修理が行われていた。

桜井市の戒重と仁王堂_a0237937_19334002.jpg

お堂は完成に近づいていた。今日、通りかかると、人だかりがあり「これから開眼会(かいげんえ)を行う」とのことである。

仁王堂を守っているのは、戒重区の西町、中の町、西横町とのこと。谷の岡本僧侶が導師で、僕もお断りして、参列させていただきました。

いつもは閉まっている仁王堂、今日は開扉されていて写真も撮ることができた。



桜井市の戒重と仁王堂_a0237937_19305907.jpg

仁王堂だが仁王様はいなかった。祀られているのはお地蔵とのこと。堂内には、観音菩薩の石仏、、手前には10体ほどの、いかにも道端のいましお地蔵さんが、こちらで祀られていた。

桜井市の戒重と仁王堂_a0237937_19310955.jpg

「地蔵和讃」がうたわれ、ご真言は「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」で、お地蔵さんを称えるご真言である。

和尚さんにお聞きした。

「安倍文殊院(当時は崇敬寺)の仁王門がここらに置かれていたのではないか。横大路の安倍文殊院への入り口である。八町(800㍍ほど)とか、言っていたのではないか」とのことである。

「現在はお地蔵様です。歌いましたのは地蔵和讃です」と教えていただいた。

戒重の歴史は長くて深い。

34代舒明天皇の宮は「訳語田幸玉宮」とされるが、この宮が戒重だったとされる。現在の白山神社の辺りである。

さらに南北朝の闘いが、戒重城をめぐって激しく戦われたことも記録に残されている。

南朝軍の西阿、子息の良円などは戒重と河合に城を築いている。

1337年に三輪西阿は櫟本(天理)にて北朝軍とたたかう。

1340年には北朝軍は開住(かいじゅう)西阿を討つために出兵。西阿は大仏供庄(大福)の年貢を横領。

13412月、幕府は西阿追討軍。釜口を奪い、阿部山に陣をしく。

4月に河合城陥落、72日戒重城陥落、西阿らは外鎌山城に移り抵抗したが3日に陥落。

この地が江戸時代になって、またまた脚光を浴びる。

大和の織田家、芝村藩は初めの陣屋を戒重に置いたのだ。中世の砦、戒重城を整備して陣屋とした。その後、陣屋は手狭となり、のちに芝村(桜井市三輪)に移転する。

現在の仁王堂(西大路と山田路の十字路)のすぐ西に、陣屋の大門が置かれた。北に向かって陣屋の中央道路が通ったため、門の辺りの横大路は「城下町」となった。

酒屋や魚屋、桶屋などができた。酒は尾張や清州から連れてきた、酒職人の手で「鬼殺し」という酒が醸造された。
その酒は、庶民的でおいしくて、「池田いたみのもろはくよりも 戒重酒屋の鬼ころし」と歌われたという。


付け加えると、織田藩の用人は、ほとんどが尾張、美濃の出身によって占められたが、徐々に足軽、人足は大和の人に替わっていったとのことである。


桜井市の戒重と仁王堂_a0237937_19305861.jpg


by koza5555 | 2019-11-07 19:39 | 桜井市と安倍
<< 多武峰の鳴動と御神像の御破裂 法起寺の三重塔 >>