『大和三山』 1972年の本である。池田源太先生、1995年にお亡くなっている。

耳成山を考えてみる。
大和三山の出現順を『古事記』『日本書紀』などによって確かめてみる。天香具山は天照大御神の天の岩戸で出現、畝傍山は神武天皇の即位で現れる。
最後に出てくるのは耳成山で「允恭42年紀」によれば、天皇の死去、新羅の弔使の来朝、帰途に琴引き坂(秋津病院辺り)にて、「うねめはや、みみはや」と詠嘆したのが初見という。
うねびやま 手前は畝傍高校。
天香具山
この耳成山と万葉歌を、池田源太先生の論、丸写ししておく。
大和三山にはそれぞれ池があった。香具山の埴安池は藤原京時代ことに有名であったが、それ以前『推古21年紀』に畝傍池が作られている。今はその址を失っているが、もしくは山の西辺、檜前川をせき止めて作られたものではないか。雲梯という村が、その下の方にあるが、その村あたりに池より引いた溝(うなて)が作られたのではないかとも考えられる。さもなくば、あるいは畝傍山の南、益田池のできたあたりにでもあったのではあるまいか。
耳成山も木原のうち、山の南辺に今、古池という池がある。現在の池は、古池の西側に新池を添加して大きくなっているということである。本居宣長がこのあたりを歩いて、「今も道の辺に池あれど」と言っているのはこの古池のことでもあろう。それは八木から三輪に行く、いわゆる横大路の北のほとりであるからである。
さて、耳成の池というのは、『萬葉集』巻16、由縁(よしある)の歌の中に三人の男子から想われた一人の娘子が身を投げた池としてあらわされているものである。すなわちそこには、
昔三(みたり)の男ありて、同じく一(ひとり)の女を 娉(つまど)ひき。娘子(おとめ) 嘆息げて曰く、一(ひとり)の女の身、滅易(けやす)きこと露の如く。三の雄(おとこ)の志(こころ)、平(にきび)難きこと石(いは)の如しと。遂に、池の上(ほとり)に彷徨(もとほり) 水底に沈没(しづみ)き。時に壮士等、哀頽(かなしみ)之至(にたえず)、各所(おのもおのも)心を陳べてよめる歌三首
耳成の 池し恨めし 我妹子が 来つつ潜(かづ)かば 水は涸れなむ(3788番歌)
あしひきの山縵の子 今日行くと我に告(の)りせば 還り来(こ)ましを(3789番歌)
あしひきの 玉縵の子 今日のごと いづれの隈(くま)を見つつ来にけむ(3790番歌)
「潜く」はもちろん潜水することで、水が涸れるというのは、その度数が頻繁であるためで、娘子がたびたび来て、水を潜具ので、水も涸れてなくなるであろうと、娘子が生存して水に入るようにみなして、娘子を恨むと『古儀』は解している。・・・
耳成山の西麓、現在、集荷場のある場所に、小さな2アールばかりの池があり、それを小池といっていた。それが『萬葉集』に言う、耳成池であると、木原あたりで言っている。池山よりの端には「耳なし井戸」があり、下手には溝がありそれに形ばかりの橋があったが、それを「こがね橋」と言ったと伝えている(梨原芳太郎氏談)。『大和名所図会』は、その池の所在地を、「耳無山の西麓にあり。今水涸れてなばかりなり」と言っているが、これは、木原の小池の事と考えられる。
ここに「三男」(みたりのおとこ)と出したのは、三山を当ててあるものであろうが、そのもとは三山妻争いで、二人が一人を争ったことに原拠があることは言うをまたない。

耳なし井戸はこちら。耳成山の西北のふもとにある。今もきれいな水が湧き出ている。
木原町の氏神さまは「樋口神社」。集会所の名前も樋口公民館。これは「池があり、樋口だったんだろう」というのが地名の名残と見える。
