1月6日付けで発売の『Discover Japan』の2月号(2021)で、僕の講演を取り上げていただきました。
「はじまりの奈良を相撲で語って」と、清澄の里「粟」の三浦雅之社長からお話をいただいた。奈良町センター(「粟」のkoto kotoはこちらの一階)で講演、それをライターがまとめてくれて『DiscoverJapan』に掲載されるというお話だった。
全体の流れをうまくまとめていただいた。記事の構成は出雲人形に焦点が当たった。これは僕の思惑とは少し違ったが、素晴らしい写真を作っていただいた。

掲載された記事の全文は以下の通りである。
「国技として誰もが知っている相撲。そのはじまりが奈良であることを知っている人は少ないのかもしれません。相撲の歴史や、どう発展してきたのか、雑賀耕三郎さんにお聞きしました。」
相撲の神様は、相撲や埴輪、人形も残した!?
国技である、相撲。そのはじまりは、第11代天皇である垂仁天皇の時代にさかのぼる。『日本書紀』に「垂仁天皇2年、纒向(現在の奈良県桜井市)に都をつくった」。さらに「垂仁天皇7年7月7日に、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が相撲をとり、宿禰が蹶速の肋骨を蹴り折り、腰を踏み砕く」とあるのだ。
野見宿禰は、相撲の神様、土師部(はじべ)の始祖として知られている。一度目は相撲に勝った男として、二度目は生贄の代わりに埴輪を考案し、古墳づくりに精を出した男として、『日本書紀』に二度も登場する。力と知恵の人だ。
今回相撲について教えてくれた雑賀耕三郎さんは、こう話す。
「野見宿禰は『出雲出身』とされていますが、私は出雲国ではなく、倭の出雲庄ではないかと考えています。今も残る桜井市出雲(元・出雲村)では『野見宿禰はうちの村の人だ』と語られているんです。でも、出雲国出身とする説もあり、現在も2地域は交流しています」
桜井市出雲でつくられている人気の土産物「出雲人形」は、野見宿禰の埴輪製作の技術がルーツだとされる。
野見宿禰の相撲が行われた場所は桜井市出雲の近くにある穴師兵主(あなしにいますひょうず)神社の境内で、相撲発祥の地だと言われている。カタヤケシという小字名が残っているからだ。ちなみに競技者が控える場所を「カタヤ(方屋・片屋・形屋)」と呼び、現在でも力士が土俵に入ることを「方屋入」という。
「でも、相撲が日本ではじまったものかは明確に分からないのです。相撲形式の競技は世界中にあって、数十万年も前から、戦いや遊びとして行われてきました」
しかし、相撲が国内で独自に発展していったことは疑いようもない。野見宿禰の相撲の開催日を基準にして、734(天平6)年の同じ日に相撲が行われ、聖武天皇が見学した。これが怨霊を鎮魂させる相撲節会(せちえ)のはじまりで、宮中の年中行事として広まっていく。また『万葉集』には、宮中で七夕に相撲節会が行われ、相撲人を諸国から集めることを仕事にしている専門職があったことが記されている。相撲は、宗教や娯楽の要素を含んでいくのである。
鎌倉時代から戦国時代にかけては、武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われた。その後、江戸時代に入ると相撲を職業とする人が現れ、中期には定期的に相撲が興行されるようになった。強豪力士が出現して相撲の人気は急速に高まり、今日の「大相撲」の基礎が確立されたのだ。相撲は競技を指すが、大相撲とは日本相撲協会が主催する相撲のプロ興行を指す。
現在の奈良でも、相撲文化は続いている。奈良豆比古(ならつひこ)神社の秋祭では相撲の奉納が、柳生八坂神社の秋祭では「スモウの舞」が行われている。葛城市當麻には、當麻蹶速を顕彰するため開館した「相撲館けはや座」があり、本場所と同サイズの土俵があって遠足などに利用されている。
また、桜井市の「御綱祭」では、相撲が祭りの賑やかしの中心になっている。泥の田んぼで「泥相撲(田遊び)」を行うのだ。汚れがつくほど豊作だとされている。このように神社や祭りと相撲の関係は深い。
2020年、大相撲初場所で県出身力士として98年ぶりに奈良市出身の徳勝龍関が優勝し、県内が沸いた。はじまりの地・奈良で相撲がより活気づく契機になるかもしれない。 『Discover Japan』2021.2月号p152
出雲人形を作る水野佳珠さんに雑誌を届けた。とても喜んでいただいた。

三浦様をはじめ、関係された皆々様に感謝申し上げます。