大淀町の今木を考えた。
飛鳥から南へ、御所から南へ向かう道は巨勢谷で合流する。大和の盆地の果てる場所であるが、同時に南西に向かうと重坂(へいさか)峠を越えて紀ノ川に、南東に向かうと今木、車坂を越えて吉野に至る入り口でもある。その分岐は「吉野口」だったり、あるいは「薬水」である。
その今木や、その山中の大岩地区を考えてみた。
吉野への街道沿いは今木、ここにはいくつかの古墳がある。さらに街道沿いではないが、今木あたりから北に登るところ、あるいは巨勢寺跡あたりから南へ上がる稜線、その登りきったところに大岩古墳群(石神古墳)が残されている。
大淀町や五條市では、緑泥片岩を積み上げた岩橋(いわせ)型の石室を見ることができるが、大神古墳の石室はそれとは異なり、盆地型(大和川型)の石室を見ることとなる。
石神古墳に関する論文を読んだ。
橿原考古学研究所の研究紀要第18集、平成25年発行である。大和由良古代文化研究協会が出している。石神古墳を含む大岩古墳群全体の検討である。
筆者の千賀久さんは、「石神古墳のように玄室の高さが幅と同じくらいまで低くなるのと、玄室2段積みから1段積みへの変化が、7世紀中葉を前後する次期に、自然石積みの石室と切石積みの石室にみられることがわかる。このような変化は埋葬空間の縮小化を意図していて」、「玄室の天井が低くなるという変化は、その後に続く横口式石槨への流れの前段階に位置づけられる」と述べられる。それが、近畿(奈良盆地・大和川)の主要な古墳の変化と同じだとして、盆地型の古墳との解説である。
同時に石棺には緑泥片岩が使われた形跡もあることを述べ、紀ノ川の影響を受けたことも指摘される。
「このような様相は、古墳の造られた大岩地区の位置と無関係ではない。つまり、吉野川に通ずる南に開けた地形であると同時に、北の巨勢谷も谷あいの道で下ることができる。巨勢谷は古代の官道の巨勢路であり、石神古墳の被葬者は、この周辺地域を拠点にして、北と南、西への交通路を利用して勢力を蓄えた有力者であったと考える。」
石神古墳を見上げる場所に、奈良県教育委員会による現地説明板が立てられている。
県史跡 石神古墳 付 大岩2号墳
石神古墳(大岩1号墳)は、標高280mの丘陵頂部を利用して築かれた直径23m、高さ約4mの円墳です。10数基ほどの小古墳からなる大岩古墳群に含まれ、背後の尾根上には大岩2号墳(円墳・直径約20m)があります。
埋葬施設は南に開口する大型の横穴式石室です。両袖式で全長10.0m。玄室の長さ4.2m、幅2.0m、高さ2.1m、羨道の長さ5.8m、幅1.47m、高さ1.64mの規模を有し、吉野地域では最大規模を誇ります。石材は花崗岩の巨石を使用し、玄室は奥壁2段、側壁三石2段、羨道は側壁2段、袖石1段の壁面構成をとります。
石室内からは、石棺に使われたとみられる吉野川産の緑石片岩の板石片と、木棺に使用された鉄釘が見つかっています。また、須恵器の子持器台・壺・蓋杯(ふたつき)・鉄製品などが出土しました。石室の様相や遺物の特徴から7世紀中葉に築造されたと考えられます。
石神古墳の横穴式石室は、玄室の天井が引くのが特徴で、壁面構成などからも。同時期に造営された奈良盆地の巨石横穴式石室によく類似しています。いっぽう、出土遺物からは吉野川・紀ノ川流域との接点に位置する地の利を活かし、中央政権との密接な関わりをもちながら、吉野川・紀ノ川を通じたさまざまな交流にも関わった、在地の豪族と考えることができるでしょう。
所在地 吉野郡大淀町大岩103番地の6の一部
指定日 平成24年3月20日
年代 7世紀
墳丘 円墳(直径23m)
埋葬施設 横穴式石室(全長10m)