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奈良・桜井の歴史と社会

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飛鳥の神奈備山 


飛鳥坐神社の神奈備を考えた。

『出雲國造神賀詞』は、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したと記されている。また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条には、天武天皇の病気平癒祈願のため「飛鳥四社(飛鳥神社)と住吉大社」に幣帛が奉られた。

『日本紀略』天長六年(829)三月十日条に「大和国高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を同郡同郷鳥形山に遷す。神の託宣に依るなり」と書かれており、現在地に遷座した。

この神奈備の飛鳥社とは、いずれか‥それを考えてみた。 

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石舞台南方のミハ山から飛鳥を見る。正面は天香具山。左手は耳成山。その手前が雷丘、さらに手前が甘樫丘。


さて此里は。飛鳥川の西のそひにて。川のむかひは。すなはち雷村也。いにしへ飛鳥神社のたゝせ給ひて。神なみ山とも。神岳ともいひしは。この所ぞかし。

今来て見るに。さいふべき山有て。「神なみ山の帯にせるあすかの川」とよめるにもよくかなひて。川はやがて此山のすそをなんながるゝ。このわたりまでも。飛鳥と古いひしは。もとよりの事にて。今も飛鳥の里よりわづかに五六丁なるをや。又人まろが哥にも。雷之上とよめれば。今の里の名もふるき事也。(『菅笠日記』下の巻)

本居宣長は1772年、吉野を訪れたのちに、飛鳥や藤原宮跡(天香具山の西方)を回り、雷丘を訪れている。宣長は飛鳥の神奈備山は雷丘としており、その考証を行った。

「うま酒を神なび山の帯にせる飛鳥の川のはやき瀬におふる玉藻のうち響き・・・」 巻⑬―1326 相聞

人まろが哥にも。雷之上とよめれば。今の里の名もふるき事也。

宣長は、歌に詠まれた景観と、現地の景観の一致を重視した。

「神奈備(かむなび)山の 帯(おび)にせる 明日香の川の」を、重視して、飛鳥の神奈備山を雷の丘と決めている。


宣長の「飛鳥の神奈備山は雷丘論は、その後、辰巳利文、豊田八十代が追随したが、近年では、岸俊男、和田萃などを始め、各種、新説が出されて異論の続出である。

一端を紹介すると、甘樫丘を折口信夫、直木考次郎が押し、

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手前が甘樫丘。右側の丸い丘が雷丘


岸俊男、和田萃はミハ山説、

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正面がミハ山。右側の丸い山は仏頭山


岡寺の東の山も、候補地とのことである。

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岡寺山があり、藤本山が見える。万葉展望台の所が藤本山である。その奥に細川山であるが、飛鳥の宮からは見えない


南淵山は桜井誠。そのふもとの飛鳥川上坐宇須多伎比賣神社(ご祭神の宇須多伎比売命は「加夜奈留美命の母神にあたる)もポイントとなる。

桜井満の『飛鳥の祭りと伝承』を見てみると、

「古代飛鳥社の神奈備山は、(一)飛鳥の里から望める、(二)飛鳥川をおびにする、(三)吉野への道筋にある、(四)離宮がある、という山である。」p23 桜井満)と、書かれている。

南淵山という事にこだわらずに、ここから天武天皇が見て、持統天皇も眺めたという場所、飛鳥板葺宮跡から、僕も眺めながら考えてみた。


各論があるが、橘寺の南の仏頭山もなかなかのものではないか。まあ、笑い流してほしいけど、ちょっとこの山も登ってきた。

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ココが頂上である。祭祀ができるようになっている広場があった


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by koza5555 | 2021-04-06 21:14 | 橿原・明日香
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