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奈良・桜井の歴史と社会

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酒船石 明日香村岡

15年前、奈良に移り住んだ。「じっくり見たいな」と思っていたものの一つは酒船石だった。あまりにも怪しげでなかなか書く機会がなかったが、一度は考えてみようと、あれこれ考えてみた。

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まず、本居宣長の『菅笠日記』には長文の紹介がある。

「あやしき大石あり。長さ一丈二三尺。よこはひろき所七尺ばかりにて。硯をおきたらんやうして。いとたひらなる。中の程に。まろに長くゑりたる所あり。五六寸ばかりのふかさにて。底もたひらなり。又そのかしらといふべきかたに。同じさまにちひさくまろにゑりたる所三ッある。中なるは中に大きにて。はしなる二ッは。又ちひさし。」

「里人はむかしの長者の酒ぶねといひつたへて。このわたりの畠の名をも。やがてさかといふとかや。」

本居宣長は、「大形の硯のようである」と書き、酒などを醸したものだろうという雰囲気である。

酒船石を酒槽と書いたのは、『大和志」で並河誠所が初めらしい。享保191734)年の事である。本居宣長は並河の論に異論は唱えていない。

近世では、『西国三十三所名所絵図』が疑問を呈していることに注目される。

「案ずるに古神に奉る酒は斎にして瓶に醸し その瓶なかから奉るとそ 古は今のごとく槽にて絞りてにはあらず 酒槽に来由いぶかし」。

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稲熊兼勝氏が「酒船石」と題して、古い雑誌で詳細に書かれていた。『明日香風』第四号(1982年夏号)である。

「この地域の導水施設(酒船石・車石・出水の酒船石…その後、亀形石が発見される)は、新羅の施設と同様、宮殿にともなう施設であり、酒や油を作る場所とは考えにくく、饗宴にかかわる遺跡であろう。宮殿内部を流れる観賞用の仕掛石と考える方がよいのではないか。」

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               出水の酒船石。この写真はウィキペディアから拝借した


「車石は酒船石への注水のための導水石とした場合、酒船石は流路を変更する分水界の役を果たす」と結論づける。

石神遺跡の須弥山石、石人像に先立って「酒船石は立体的な噴水施設になる以前の平面的な仕掛け石である」として、酒槽説や松本清張のゾロアスターにかかわる薬草調合施設論を否定している。

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                こちらは酒船石の北の麓、亀形石


時は斉明天皇の時代である。斉明天皇二年に岡本宮の造営と合わせて(続いて)、香久山の西から石上山に至る溝を作り、船200艘の舟で石上山の石を積み、宮の東の山に石を積み石垣を作った。

時の人はそれを、「戯れ心の溝、無駄な人夫を三万、垣づくりの無駄七万、宮材は腐り、山頂はつぶれる」と言った。さらに「石の山を作る、作った先から崩れるだろう」と。なかなか出来上がらない時、この榜をしたのだろう。

以上を考えて、僕の想像を付け加えると、酒船石で流路調整された水は、西に落ちれば出水の酒船石、北に落ちれば亀石…これでどうだろう・・・



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国立飛鳥資料館の前庭(料金がいらないところ)には、岡の酒船石、出水の酒船石、車石、石上遺跡の須弥山石と石人像の石製のレプリカが展示されている。




by koza5555 | 2021-05-05 18:45 | 橿原・明日香
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