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奈良・桜井の歴史と社会

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狂心渠と天理の砂岩

天理の砂岩

『日本書紀』、斉明天皇2(656)年の条に石上山(天理市の豊田山)の石(天理砂岩)を運ぶために渠を掘ったことが記述されている。時の人々は、「たぶれ心の溝工事。無駄な人夫を三万人余り。垣造りの無駄は七万人余り。宮材は腐り、山頂は潰れた」と言い、また、「石の山岡を造っても、造った端からこわれるだろう」と謗った(そしった)という。

 「そんな話もあるかな」という程度であったが、酒船石の丘陵から天理砂岩が積まれた石垣が出土(平成4年)したり、明日香村の各所から幅10㍍ほどの水路が発掘(平成11年)されることが続き、狂心渠(たぶれこころのみぞ)は存在していたとの論が強くなっていたった。天理市豊田のウワナリ塚古墳の近くに、「天理砂岩はココだよ」という、説明板が立てられていて、改めて関心をもち、それに関わる遺跡も明日香村で拝見してきた。

 

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 これが天理市石上町の説明板と解説文

狂心渠(たぶれこころのみぞ) 

「つながりしは石上山から飛鳥の宮へ」

斉明天皇は、飛鳥の地で宮地を転々と移された。

天皇は工事を好まれ、香久山の西から石上山(現天理市豊田山)まで水工に溝を掘らせ、運河を通した。そして、舟二百隻に石上山の石(現天理砂岩という)を積み、流れに従って下り、両槻宮の東の山に石を積み重ねて垣とした。

時の人々は謗って、「たぶれ心の溝工事。無駄な人夫を三万人余り。垣造りの無駄は七万人余り。宮材は腐り、山頂は潰れた」と言い、また、「石の山岡を造っても、造った端からこわれるだろう」と謗ったという。

(思うに、あるいはまだなかなかでき上らない時、この謗りをしたのだろうか。)天理市・

天理市観光協会が、山の辺の道沿いに立てた説明板全文。説明板の下には、「天理砂岩」と書かれた石が置かれている。

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飛鳥座神社前の説明版

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飛鳥東垣内(かいと)遺跡

 平成11(1999)年、飛鳥東垣内遺跡で7世紀中ごろの幅約10m、深さ約1.3mの南北大溝が発掘された。この溝は飛鳥地域の中でも最大規模のもので、物資を輸送する運河と考えられる。また、飛鳥池東方遺跡や飛鳥宮の下遺跡、奥山久米寺の西端でも見つかっており、総延長は約1㎞以上にも及ぶ長大なものになる。

『日本書紀』を見ると、斉明天皇2(656)年の条に石上山(天理市の豊田山)の石(天理砂岩)を運ぶために渠を掘って舟運で運び、宮の東の山の上に石垣を造り、石の山丘と呼ばれたことが記されている。時の人はこの渠を「狂心渠」(たぶれこころのみぞ)と呼んでいた。「宮の東の山の石垣」とは、南方にある酒船石遺跡の事であり、この大溝も酒船石遺跡の東裾から伸びている。飛鳥東垣内遺跡の大溝は、その規模や掘削時期、1から見て『日本書紀』に記載されている「狂心渠」の一部である可能性が高い。(明日香村)

酒船石遺跡

「この丘は版築状に3mほど盛土された人工の丘陵で、石垣は明日香産の花崗岩を地覆石状に並べて基礎とし、その上に天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細流砂岩の切り石を積み上げて築かれていた・・・との説明板が立てられている。掲示者の名前は書かれていない。

山全体が版築というわけではないが、大事な各所は版築工法が使用されていたという事だろうか。

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改めて「狂心渠」(たぶれこころのみぞ)もすごいが、「つながりしは石上山から飛鳥の宮へ」には夢がある。切り出したのは物部氏だろうか。物部の氏の長者は誰だったのだろうか。

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参考文献は各地の説明板

天理砂岩が置かれている山の辺の道(天理市石上町)の説明板

飛鳥座神社前、「飛鳥東垣内遺跡」説明板

酒船石遺跡の説明板


by koza5555 | 2021-12-30 07:51 | 天理・山の辺の道
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