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奈良・桜井の歴史と社会

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死者の谷・・龍王山古墳群

龍王山古墳群(天理市渋谷町他)

 

清水真一は龍王山古墳群を「死者の谷」と名付けた。松本清張はそれを『火の路』に引用して、その名を全国に知らしめた。

「踏査により確認できた古墳総数(その分布範囲は東西1キロ半、南北1キロ)は、横穴式石室墳及びその可能性あるもの279基、完存もしくは破壊されていてもそれとわかる横穴は292基、総数571基である。その他見落としのものを入れると600基前後と考えられる。その古墳群は数といい、立地条件といい『死者の谷』と呼ぶにふさわしい。」(「竜王山古墳群の問題」清水真一『古代学研究62』)

龍王山古墳群は「古墳ウォーク」や龍王山登山で案内したことがあるが、「死者の谷」を実感するまでは歩けていない。

もう少し歩いてみようと、何度も歩いた「芝尾」の古墳群を歩いてみた。

龍王山南登山道(崇神天皇の南側の道を、道なりの登る道)をしばらく登る。右側の滝、堰堤を越えると本格的な登山道が始まる。息が苦しくなるころに右側に古墳丘が次々と現れる。そこに六地蔵の断碑がある。そこから右手の古墳に登ってみよう。

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登山道に面した3基(342・341?・340)、谷側に向かって10mほど降った所の4基(337・336・335・334)の横穴式石室にチャレンジしてみよう。

初めに登山道に面した3基(342・341?・340)

342号墳(奈良県遺跡地図 11-D-342)

入室は不能。内部の写真を撮ることも難しい。

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続いて西側(山の下方向)に並ぶ石室。石室のデータ的には341号だが、場所が違う。341?号とする。奥壁の石が抜けている。

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さらに西の340号。

奥壁の一石が抜けているが、入室は可能。天井にも少し隙間が・・

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谷側に向かって10mほど降った所の4基(337・336・335・334)

上流(東から)337号。石材だけで判断する

336号。入口がかすかにわかる程度。

335号。おすすめである。

小さな石材で強い持ち送り、右袖式である。入口が真四角というのが珍しい。羨道の左右の石が動いたのか、初めからこんな形なのか。

石室のデータ(袖の形、羨道の幅など)が332と入れ替わっているように思える。


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334号

入口は広いが、石室は崩れている。入室はしなかった。

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改めて、登山道との関係を、近鉄のウォークマップで示すと

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龍王山古墳群、まだまだ見たい古墳がいっぱいある。更に紹介していきます。

『宇陀の古墳文化』で、楠本哲夫氏が「龍王山古墳群の意義」について触れている。長い文章になるが、それを以下に紹介しておこう。

「龍王山古墳群は新沢千塚古墳群・巨勢山古墳群と並んで大和三大古墳群の一つに数えられている。新沢・巨勢山の二群が後期をもって終焉を迎えるのに対して、ひとり終末期にまで存続する。群の概略は清水真一氏の詳細な分布調査によって、横穴式石室279基・横穴292基の計571基が知られていた。ところが昭和59年度の実施された東黒岩地区の調査結果によれば、無墳丘の小型石室等の検出例が多く、その総数は1000基を達する可能性も考えられるようになった。また造募の年代は後期・終末期にとどまらず、営々と8世紀初頭ぐらいまでに及んでいるらしい。問題の7世紀第2四半期以降の古墳は、前代の者に混じりつつもそれぞれがある範囲内にまとまりをもって築造されている。埋葬施設は有袖の石室をはじめ、無袖石室・小型石室・石棺状のものまで非常にバラエティーに富む。さらに、調査地域内外ではあるが、古墳群内には横口式石槨があり、有墳丘の有袖式古墳が7世紀中葉に至ってなお築造されている可能性が高い。先に見てきた、各地の終末期群集墳とは群総体の規模も含めて明らかに異質の存在といえ、その形成に特殊な事情があったものと推察される。

ところで、大和盆地部の終末期古墳のあり方には注意されるべきことがある。龍王山古墳群を除いて、確実に終末期群集墳と呼べるものが認められない事実である。確かに盆地各処には特殊形態古墳の石室・石槨が築造されており、一部の古墳群では7世紀中葉あたりまで、既存の石室への追走が続いている。しかし、7世紀第2四半期以降、新規に群を営んでいる例はみあたらず、この点においても、龍王山古墳群は特別の存在であり、古墳時代末期の大和のおいて龍王山の葬地として果たした役割がすこぶる重要であったことが認識されよう。

「『万葉集』巻二に、「柿本人朝臣人麿 妻死(みまか)りし後 泣血哀慟して作る歌二首幷に短歌」がみえる。うち、一首に

衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし

があり、律令官人、人麿の妻は衾道の引手の山に葬られたことがわかる。一連の歌趣ならびに作歌の年代からして、この「引手山」が龍王山を指すことは疑いない。律令官人の墓所のひとつが龍王山古墳群であったことが知られよう。

 ひるがえって、大和盆地全域における終末期古墳の分布状況を見れば、特殊形態石室・石槨を除いて、早く7世紀第2四半期には、葬地は龍王山に限られることをさし示している。終末期群集墳出現の契機であった墓域の再編成が大和においては一国を上げて実施されたことを推察させるものである。考えれば、該期の政治中枢大和において最も広範な墓域の再編が実施されているのは至極当然のことともいえよう。

 龍王山古墳群に見られる石室形態を含めた造墓の多様性はまさしく、各階層こぞっての墓域の再編・集中によって生じたものであり、龍王山はこの時期唯一の公的葬地であった可能性がある。己が居住地近くに大型横穴式石室・横口式石槨などを営みえた、中央政権に直接参加する一部豪族の首長層以外はことごとく龍王山古墳群にその葬地を求めたと考えて見たい。」『宇陀の古墳文化』p2225 楠本哲夫著


by koza5555 | 2022-06-03 06:57
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