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奈良・桜井の歴史と社会

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吉野山のコウヤマキ

『菅笠日記』は吉野山のコウヤマキに触れている。これを紹介したい。

「京にて高野槇といふ木を、こゝの人は、ただに槇とぞいふ。これを思へば、いにしへ檜のほかに、槇といひしは、この木なるべし。これは、こゝに必いふべきことにもあらねど、此のわたりの山に、此の木のおほかるにつきて、人のたづねけるに、いらへつることばを聞きて、ふと心に思ひよれるゆゑ、筆のついでに書き付けるぞ。」『菅笠日記』

 明和九年春、本居宣長は「吉野の花見にと思い立」ち、吉野山を訪れた。この旅の中で、吉野山にて「高野槙」の群落を目にして、『日記』にコウヤマキの事を書き残している。

 この槇が今でも、吉野山に残る。

 吉野山の「コウヤマキ」群落は、天然記念物(奈良県指定)に指定されている。

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宣長は青根峯の辺りの群落のように書き付けたが、現在の群落は如意輪寺から西に登った辺りで、場所は少し離れている。コウヤマキが当時は吉野山にもっと拡がっていたのか、それとも「筆のついでに書き付け」ただけで、宣長が見た場所はもっと下の方だったのだろうか。

吉野山には約二〇〇本のコウヤマキが群落で生育している。幹周囲が三㍍を超える巨木を交るが、樹高の平均は約六㍍で、高さは低いし幹も分岐、曲がりくねっている。幼木のころから仏事用の槙花として切り刻まれてきた結果と考えられている。

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コウヤマキは、直立して狭円錐形の端正な樹形をとるのが本来の姿。またコウヤマキは水耐性に優れており、その材質を利用して、古墳時代前期の竪穴式石室には割竹型木棺として使われていた。「檜に姿が似ていて紛らわしい」と植えるのを禁止したのは木曽(木曽五本は切りだし禁止。ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキは檜に似ている)で、有用材として大量に植林育成したのは高野山(高野六木といわれヒノキ、コウヤマキ、スギ、アカマツ、モミ、ツガ)だった。

ちなみに吉野山で天然記念物の指定を受けたコウヤマキ群落は私有林である。見学されるときは、それを心得て見学したいものである。

蛇足ではあるが、松坂から初瀬街道へ向かう所に六軒という宿場があった。その近くに立派なコウヤマキがある。家人は、これを見てけと自慢の大木である。舟になり、古墳の木棺にも使えるような大木である。写真だけ紹介したい。

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参考文献

『吉野町史 下』吉野町の植生 天然記念物  昭和47年(一九七二)

『日本の美林』岩波書店  井原俊一  一九九七年

『樹木ガイドブック』朝倉書店  土原啓二 二〇一二年


by koza5555 | 2024-11-12 08:59 | 菅笠日記
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