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奈良・桜井の歴史と社会

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上市の河原の焼餅とハラワタ餅

八日。昨日、初瀬の後(のち)は雨ふらで、四方(よも)の山の端もやうやうあかりゆきつゝ、多武の峯のあたりにては、名残りもなく晴れたりしを、今日も亦いとよき日にて、吉野もちかづきぬれば、今朝はいとゞ足かろく、みな人の心ゆく道なればにや、ほどもなく上市に出ぬ。此のあひだは、一里とこそ言いしか、いと近くて、半里だにも足らじとぞ覚ゆる。

よし野川ひまもなくうかべるいかだをおし分て こなたのきしに船さしよす。夕暮ならねば、渡し守(もり)ははや(早)とも言わねど【いせ物語に 渡し守はや船にのれ日もくれぬといふに、云々】、みな急ぎ乗りぬ。[以上は『菅笠日記』本文より]

三月八日の朝、吉野川を渡った。今の暦なら四月十日である。「いよいよ吉野」と気持ちも高ぶり、千股からの道は一気に下りてきた。

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対岸の飯貝から戻る渡し舟を待ちわびた。船が着けば、「みな急ぎ乗りぬ」と、吉野川を渡る。上市には目もくれなかった。

復路の事もある。渡し場としての当時の上市を少し見てみておきたい。

吉野への道は、どこかで吉野川を渡らねばならない。渡しには長い歴史がある。「吉野川の三渡り」とか、「妹背の四槽」などと囃されて上市の桜、六田の柳、越部の椿、下市なら檜の渡しで吉野への道は通じていた。

なかでも、六田が本道とされていた。貝原益軒は、「山高からず。長く出たる山の尾の背を通る。六田は其尾崎なり。故に吉野山に上がるには六田より入るが本道なり。吉野へ行人は必ず先ず此道より入るべし。飯貝の方よりも吉野町に上がる。それはわき道なり」と、『和州巡覧記(ヤマトメクリノキ)』に記している。

『メクリノキ』示されるように上市は脇道である。しかし、上市も古代からの交通の要衝である。吉野川に沿う東西の道と芋峠・竜在峠から下ってくる南北の道の十字路だった。さらに吉野川を水運として上にも下にも利用できた水陸のチマタの土地であった。吉野詣、吉野山観桜の中継地としての歴史も古く、その記録も残る。京都の貴人が三輪、初瀬詣から多武峰を経て、吉野に至る順路だったとの事である。「来て見ればここも桜の峯つづき 吉野初瀬の花の中宿」と飛鳥井雅章が詠んだように、竜在峠や細峠を経て上市に出る経路は、吉野へのメインルートの一つであった。

上市は繁華であった。

多武峰や飛鳥からの旅人は上市で舟待ちをする。そして、宣長が「ひまもなくうかべるいかだ」と形容した筏流しの筏乗りも、ここで一休みするのである。

明治になってからの取材だが、『吉野町史』に往時の上市の賑わいが紹介されている。河原では餅も売られていたという。「河原でハラワタ餅を売っていたがよく売れたものである」。「河原で売っていた餅は焼餅ハラワタ餅の二種あった」などの記憶が語られている。

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なるほど、評判の美味しさ、「こばしの焼餅店」は上市の賑わいの伝統を引き継ぐものであった。ところが僕は「ハラワタ餅」がわからない。当たってくだけろで、それを「こばし」のご主人に聞いてみた。「ああ、それはあんころ餅のことだ。うーん、赤福みたいな」と言われる。ハラワタ餅とは、餡(ハラワタ)が外にはみ出たという事で合点がいく。

宣長一行は、千股の宿を出てから一時間も経っていない。焼餅もハラワタ餅も食べることはなく、吉野川を急いで渡った。

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    飯貝の水分神社。井光の井戸


by koza5555 | 2024-12-24 19:00 | 菅笠日記
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