すこし行きて、山のそはより、川なかまでつらなりいでたる岩が根の、いといと大きなるうへを伝ひゆく所、右の方なる山より、足もとに瀧おちなどして、えもいはずおもしろきけしきなり。又いと高く見あぐる、岩岸のひたひに、物よりはなれて、道のうへゝ一丈ばかりさし出たる岩あり。その下ゆく程は、頭(かしら)のうえにもおちかゝりぬべくて、いといとあやふし。すこし行き過ぎて、つらつらかへりみれば、いといとあやしき見物になん有ける。獅子舞岩とぞ、此のわたりの人は言いける。げに獅子といふ物の頭(かしら)さし出だせらんさまに、いとよう覺えたり
『名張市史』という本がある。昭和三十六年(一九六一)刊行、昭和四十九年(一九七四)に再刊されている。一〇三〇ページという膨大な市史を、中貞夫が個人で執筆したという貴重な記録である。こちらに初瀬街道の改修の記録が掲載されている。「第五編 交通・通信」、道路の項である。
(初瀬街道は)「明治初年に二つの記録的な改革をうけた。一つは鹿高唐懸(からがけ)の改修であり、一つは新田経由を下波田経由に変えたことだ。」と、唐懸道改修の経過を詳しく解説している。

長々しいけど読んでいただきたい。
「宇陀川にそばだつ断崖の麓を通る唐懸道は初瀬街道の難所の一つであった。少し水が出ると通行不能になった。明治初年にこの崖を削って安全な道に改修した功労者は柏原村の井上文次郎(弘化元~明治一〇年)だ。井上は明治八年に副戸長となり、土木工事取締扱に命ぜられるにおよび唐懸道改修の必要を痛感し、明治十年四月に官許をえて工を起し近郊十八カ村夫役を徴して自ら指揮にあたり、日夜工事の進捗に苦心、ついに同年九月竣工に至らせた。村民はこれを徳として同十四年十二月『唐懸修路碑』を現地に建てて、井上の功績を祈念した。」
井上は三重県第十大区四之小区の副戸長であった。これは明治五年に定められた行政の区域割で、四之小区には現在の名張市の西半分、安部田、丈六と中村、青蓮寺などが所属した。
この工事で宣長一行が驚いた獅子舞岩も撤去された。

さて、宣長は獅子舞岩を越えて、登り、下って石の地蔵を見る。国境手前で見た石地蔵は牛飼地蔵のことである。地蔵には元文五年(一七四〇)と刻まれており、宣長が見たころはまだ立てられたばかりだった。
付けたしではあるが国境越え、今は県境越えではあるが、この国道を歩行するのはとても危険である。歩道は全くない。カーブが連続する道で、高速で走り抜ける自動車に肝を冷やす。思いがけない歩行者でドライバーも驚いている。宣長一行は頭上にせり出す岩と足元の水の流れに驚いたが、今は車を避けて崖に身を寄せる。歩行者のことも考える道路を作ってほしい、それを願う。
参考文献
『名張市史』(名張市役所)
『初瀬街道 伊勢本街道 和歌山街道』1982年3月31日(三重県教育委員会)
『おきつもの名張 今と昔』(名張市役所)