北から順に「西峠(墨坂)」「狛峠」「女寄峠」「半阪」「大峠」が古来、大和国中と宇陀を結ぶ道として歴史に刻まれた。
神武天皇の逸話がある。万葉集に関わって阿騎野への道が論となったことがある。
それらを前提として、今回は中世以降の街道、峠越を考えてみた。
ポイントは半阪越えである。中世以降、宇陀郡の中心は阿紀野である。豊臣の時代以降は松山と称される。峠の厳しさはあったが、半阪越えが大和国中と松山を直線で結ぶ道筋の峠となった。

「男阪。大字半坂にあり。古来宇陀郡より国中地方に通ずる唯一の道路にして、神武天皇の史蹟の一なり。中世波津坂と呼べり。小峠の茶屋とて古来名高し、俗謡あり、うだの半坂小峠の茶屋で。泣いて別れた事もある。」『奈良県宇陀郡史料』
奈良県宇陀郡史料
この波津坂(半阪)が南北朝の戦いの戦場となっている。
「波津坂、今の半坂是なり、元弘三年(1333)正月官軍箒氏和泉国熊取地頭木本(湯浅)宗元は護良親王の令旨に応じ此処に戦う事古文書に見ゆ。」(『大日本地名辞書』)。
その古文書とは『師守記』(中原師守・北朝側貴族)のことで、歴応二年(1339)冬に『木本宗元言上状』に「出羽入堂寄来(よせきたり)吉野御所之時 奉属大将軍中院少将家、馳向大和国宇多郡波津坂、致合戦忠節、討捕河野一族 大炊八郎幷四郎」とある。
幕府軍は正面は吉野山、右翼が千早赤阪(第二次)、左翼が波津坂(半阪)の戦いをおこなった。畠山に従っていた宇陀三将(秋山、沢、芳野)の戦いも、ここに始まる。
太平記はこれを取り上げなかった。波津坂の戦いは忘却された。

江戸時代にも目を向けてみよう。織田家四代目の信武が重役の一人を斬り、さらに一人を上意討ちとする。元禄7年(1694)9月29日の事である。これで終わらず十月晦日に信武は自刃、死亡した。
幕府の改めとなり京都所司代から「浅野隼人一行90人、大岡次右衛門一行53人は、生駒主水(筆頭家老)らの先導により、半坂を越え盛砂をした道を辿って大橋・黒門を過ぎ、そして…町家に分宿した」『新訂 大宇陀町史』(『御用部屋日誌』による)。
藩主の乱心、自刃である。大事件だ。しかし、処分は8千石を削られたうえで。丹波の柏原(かいばら)へのお国替えとの軽いもの。殿様ご乱心・自刃だから取り潰しでもあり得た。「木瓜紋」は、「千成り瓢箪」には冷遇されたが、「三つ葉葵」には厚遇された。(新訂 大宇陀町史)
以上を「宇陀崩れ」という。織田藩への処分は軽かったが、松山町は城下町から商家の町になり切りことが求められた。
「松山町から十市郡桜井村には、従来、半坂峠越えの道が利用されてきたが急坂で難渋することが多かったので、麻生田村を経由する女寄峠越え道の開さく要望する声が明治11年(1878)ごろから高まってきた。この企てに対して粟原村が承服しないこともあって、同15年12月に松山町拾生町の石井藤平ら有志は、三輪郡役所の滝口部長あてに粟原村民への説得・・中略・・の願書を出している」(新訂 大宇陀町史 p542)
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この峠は今も歩くことができる。峠の取り付きまでは奈良交通の路線バスが利用できる。