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奈良・桜井の歴史と社会

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2018年 06月 06日 ( 1 )

押熊八幡神社

6月6日は奈良市押熊の定光寺、歓喜天の開扉日である。一年に一回の開扉日である。

お寺に向かう時、押熊神社・・これが気になった。
拝観を終えた後に、参拝してきた。
押熊八幡神社である。主祭神は八幡神、応神天皇である。

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「押熊に八幡神社か」と思いつつ、境内図をよく見ると、忍熊王 麛坂王 旧跡地と記されている
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以下、境内看板による

日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。

 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。

 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、宇治まで退却した。一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、宇治に至って河の北に布陣、戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き、近江との国境の逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入水、亡くなられた。

この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物、王の一人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。

古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。

忍熊王子神社の祭礼は418日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」戸言って農作業を休み、ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。

「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里に「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。

なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王にちなんでつけられた地名であろう。


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かご池? 鳥居前の池に咲くスイレン

ここは押熊八幡神社である。八幡神社なら、応神天皇・・やろ
同じ境内に、忍熊王、麛坂(かごさか)王の旧跡を持ち、祭りがある。神功皇后、応神天皇の軍の滅ばされた両王、一緒に祀られているのである。
このおおらかさ、どうでしょうか。
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境内には押熊の資料展示室、収蔵庫。どんなものがあるんだろうか。水利組合長の許可があると開くとのこと、表示されていた。


by koza5555 | 2018-06-06 23:31 | 奈良 | Comments(2)