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奈良・桜井の歴史と社会

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2019年 06月 20日 ( 1 )

安倍文殊院渡海文殊菩薩像

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「桜井市の美しき仏に出会う旅」のお手伝いをした。

同志社大学の井上一稔先生のセミナーつき、同行しての案内で安倍文殊院と聖林寺を訪れる講演・ウォークである。最短距離を歩くと、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳とかがあり、「ここを話して」という依頼だった。

「やまとみちの会」(JR東海)の会員限定、現地の企画・実施はやまとびとツアーズだった。

安倍文殊院西古墳、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳をご案内したが・・それはさておいて、井上先生の渡海文殊騎士像の解説が素晴らしかった。

講義の一端を紹介しよう(ちなみに、僕は講義を2回、お聞きした。これはガイドの特権である 笑)

レジメもあるので、講義のあらまし書いてみよう。

崇敬寺 阿部倉梯麻呂が安倍寺を創建(7世紀後半・現在は国史跡安倍寺跡として保存)する。のちに300m東北の現在地に移転。山に囲まれたちょっとした平地、お墓を営むような場所。この地には文殊院東・西古墳があるところだった。

平安時代後期には、阿弥陀信仰の人々が活動し、現在地に別所が設けられた。お寺の出先であるが、ここで何をやるか。平地ではできない修行。それは往生極楽、阿弥陀さんのところに行く修行である。

大治4年(1129年)没した永尋(えいじん)は安倍寺で丈六のお釈迦様と文殊様を建立する。今の文殊菩薩ができる前に文殊さんがいた。これが大切である。

永禄6年(1563年)21日に軍兵(松永勢か)の乱入放火により一山焼失、本堂のお釈迦様は焼け落ちたが、文殊堂の文殊・優塡王(インドの王)・仏陀波利三蔵・善財童子は救出された。

 天正8(1580)に蓮華座、獅子、最勝老人が再興される。

寛文5年(1655年)に文殊堂と礼堂が建立された。

文殊菩薩のことである。

文殊5尊、ルーツは中国の五台山にいきつく。平安時代の中頃、五台山の文殊さんに会いたいと中国にわたった東大寺のチョウネン(ちょう然)さんという人がいる。
この人が宋の皇帝に会い、五台山のお釈迦さんにも会えた。そのレプリカを作って、持ち帰った。それは嵯峨野の清涼寺のご本尊である。この像に版画が入っていた。それが獅子に乗った文殊。最勝老人と善財童子がいる。現代の文殊菩薩の原型である。

 「ちょう然」さんは五台山から文殊菩薩を持ち帰りたかった。ところが釈迦如来を持ち帰った。なぜか。
次は醍醐寺の文殊菩薩像。五尊になっていて、後ろに山が五つある。これが五台山で、ここにいる生身(しょうじん)の文殊さんがいる。

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『日本の美術』314 「文殊菩薩像」より

五台山に日本の僧はあこがれた。ちょう然さんだけでなく、奈良時代から日本の僧侶のあこがれの場所であった。宋が五台山信仰を利用した。イデオロギーと経済で。アジアで五台山へという流れを政治的に作り上げた。

安倍文殊院の文殊菩薩像の特徴。

文殊菩薩は宝冠をかぶる。五智の宝冠という。5つの智恵の宝冠。理知的な顔である。文殊菩薩は理知的なお顔でなければならない。極彩色の文様。五体とも施されており、体は黄金色。体は極彩色が本来の文殊さまの姿。

宋の時代の仏像の特徴がある。

胸からお腹にかけて。肩当があり、ベルトを締めて裳を付ける。宋の時代の特徴。

快慶の像としての特徴も鮮明。

唇の上が少し大きめ。この時代の快慶。

爪が長い。これも宋の時代の特徴。

側面、髪の毛をすき上げて、髻(もとどり)が大きい。

後ろから見ても、髪を巻き上げて、渦のように・・これが快慶の特徴である。

中に快慶が作ったという銘文があるが、作風から見ても快慶である。

極彩色の文様。五体とも施されている。

体は黄金色。体は極彩色が本来の文殊さまの姿。

持ち物は剣と経巻。

もともとは如意ですが、こちらは剣と経巻。文殊院の文殊さんは五台山を採用しているが、持ち物は違う。快慶の工夫がある。

密教の特徴である。西大寺も同じだが、こちらは安倍文殊院の影響を受けている。

○優填王 優填国の王様   表も裏も獣の皮で、力強い。

○善財童子 見上げて合掌。 先頭を歩く。先導者。横に巻いた髪の毛。中国の童子。

体の動きがある。後ろから見ると衣がなびいている。

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○須菩提(仏陀波利三蔵)

インドのお坊さん。高い鼻、歯をむき出して異国のイメージ。興福寺の無著世親がイメージされる。

〇維摩居士(最勝老人(中国の仙人))に『仏頂尊勝陀羅尼経』を持ってきたかと問われ、もう一度インドとの間を往復。

安土桃山時代に再建(獅子・蓮華座・最勝老人)宗院作。1580年。

  1. 建仁3年(1203年)に作ったと書かれている。

重源と共に快慶が作った。名前が書いてある人が50人。

  1. 像内納入の『仏頂尊勝陀羅尼』に承久2年(1220年)の年紀の見える奥書がある。

「同法沙門慧敏(えびん)奉造立九尺文殊像 為籠其一字三礼書之願・・・」

2論ある。重源が中心になって作った説。慧敏が奉造したという説。

崇敬寺の文殊信仰は、安倍寺で丈六の文殊菩薩を建立した永尋(えいじん)にはじまる。

崇敬寺の文殊信仰は、文殊の姿を見て、大菩提心(仏の悟りを得ようとする心)を開発する願う内容である。

菩提心こそが極楽往生の大本であり、安倍別所で文殊像を作造する根拠となる。

文殊菩薩が作られた目的は、極楽往生するために、まず文殊菩薩像に会って、菩提心を開発して、その菩提心によって往生するためであったと考えられる。

井上先生の講義に合わせて、『日本の美術』314 「文殊菩薩像」を参照とした。

井上一稔先生の「聖林寺観音像とその周辺」『奈良学研究第十二号』(帝塚山大学)も、奈良の仏像のガイドには必読本である。

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長々とすいませんでした。



by koza5555 | 2019-06-20 11:13 | 桜井市と安倍 | Comments(0)