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奈良・桜井の歴史と社会

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葛城氏に関する古墳の数々

『古代豪族葛城氏と大古墳』、小笠原好彦著、吉川弘文館を読んだ見た。昨年(2017年)の9月の本である。

馬見古墳群の250基もの古墳をだれが築造したのか、それは葛城氏だけにより、築造され得たのだろうか、それが小笠原さんの問題意識である。この疑問を検証したい、そして最近の考古学の研究成果も含めて、あえて、被葬者の名を具体的に検討する(p5)

小笠原先生の論を見てみよう。

まずは建内宿禰である。小笠原さんは「建内宿禰は実在」と明瞭である。その墓は、巣山古墳(4世紀後半)だと断定される。

「モガリを正しく行わない玉田宿禰は允恭天皇に追われる。玉田は墓に逃げ隠れるが、允恭は見逃す。その墓は巣山古墳であり、巣山古墳は特別な古墳、特別な墓域ということではないか」(意訳)との論(p91)で、大和朝廷側も建内宿禰には敬意をはらっていたとのことである。

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上方、右側、周濠に囲まれた古墳が巣山古墳


主題である。
葛城襲津彦が葛城氏のすべての秘密のカギを握っていて、しかも、その葛城襲津彦は3名はいたと論じられる。葛城襲津彦とは、葛城氏の有力首長が世襲で名乗ったと言う意味だろう。

まず、葛城襲津彦は382年に実在したとみなされる。この時期に活躍した葛城襲津彦をBとする。

それ以前に朝鮮半島から技術工人を連れ帰ってきたのは葛城襲津彦Aである。秋津遺跡や南郷遺跡で4世紀後半以前に、朝鮮半島から工人らを連れ帰った可能性が高い。

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秋津遺跡の水田跡。これは弥生時代の水田で、今回は直接は関係ないが、葛城地域の隆盛を示すために写真を出した

さらに仁徳朝に女(娘)が皇后となった(磐之姫)襲津彦がいる。Bとは別人とされて、葛城襲津彦のCである。

仁徳天皇は倭の五王の讃とされている。「倭五王の讃」が宋に使いを派遣したのは421年、425年、430年と絶対年代で明確である。すると『百済記』のソツヒコ(382年)とは年に隔たりがありすぎる。(p63)小笠原先生の結論は「別人を考えるべき」となる。

僕もあれこれ計算してみると、磐之媛がBの女とすると、仁徳天皇の活躍した430年頃には50歳をはるかに超えてしまうため、葛城襲津彦Cの存在が必要である。

葛城襲津彦はAとBとCの3人。

古墳の編年に照らし合わせて、3人の葛城襲津彦の墓を推測したのがこの本の面白いところである。

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大和高田市の築山古墳が葛城襲津彦Aが埋葬されている。磐園陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城襲津彦Bが埋葬されているのは、御所市の室宮山古墳である。円筒埴輪列により墓域が囲まれ竪穴式石室、長持型石棺が置かれていた。こちらは4世紀末から5世紀初めにかけての首長墓とみられていて、小笠原論にピッタリである。

『百済記』に記された、382年に実在の葛城襲津彦が埋葬されていると推測される。

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磐之媛の父親とみる葛城襲津彦Cが埋葬されているのは馬見丘陵内の広陵町三吉の新木山(にきやま)古墳である。5世紀前半に築造されたとみられる。この新木山古墳も三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城地域の大型陵墓はすべてが葛城氏に関わる首長の墓域だったことは確からしい。

さらに付け加えるならば、小笠原さんは、以下の葛城氏関係者にも、この地域の古墳を定めている。

河合大塚山古墳は葦田宿禰

河合城山古墳は玉田宿禰

掖上灌子塚古墳は円大臣(つぶらのおおおみ)

屋敷山古墳は飯豊青皇女

明瞭に被葬者を特定されていて簡明だ。あれこれの考えはあるにしても、葛城地域の古墳歩きには大きな助言となるだろう。

最後に、馬見丘陵の古墳群の役割についても紹介されている。

「葛城氏と同一の墓域に、それぞれの氏族の古墳を築造することによって、葛城市との同族関係、あるいは擬制的同族関係を具現化したもの」とされる。

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馬見丘陵内の古墳。これも一つの代表的な古墳のナガレ山古墳。

葛城氏の衰退の後は、平群氏、波多氏、曽我氏、巨勢氏のそれぞれが本拠地に古墳を築造する。

4世紀、5世紀は馬見丘陵をぼいきに。葛城氏が衰退する6世紀以後は各地に・ということである(p184)。

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# by koza5555 | 2018-05-22 14:03 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

傘堂 當麻のレンゾ

當麻寺から二上山に登ろうとすると、當麻山口神社の鳥居に差し掛かるあたり、右側を見ると番傘を立てたような不思議なお堂を見ることができる。傘堂と言われる。

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「この堂は本多侯の菩提の為に恩顧の臣が立てたものである。軒の瓦の面に本と書かれれているのはその証拠。柱の上の方に扉があり開けると位牌があり、また北には添え柱、間に横木が渡されて鐘をかけ、朝晩はこれをつき、旧恩を忘れない(西国三十三カ所名所図会)

この傘堂の法要は9月の第1日曜日であるが、それとは別に5月14日にも法要が行われるとのこと、出かけてみた。


傘堂に置かれていた案内文。とても明快である
二上山の東麓、當麻山口神社の鳥居の北側に、真柱一本のみで宝形造りの瓦屋根を支える総ケヤキ作りの風変りな建物があります。小振りながら、重厚な風格を備え、他に類例のほとんどない珍しい建築遺構です。

その形容から、一般に『傘堂』と呼ばれていますが、江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主の本多政勝の没後、その菩提を弔うために延宝2(1674)年に建立した「影堂」(えいどう)「位牌堂」であることが、棟札やその他の資料から判ります。もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の君臣関係にあったことが推測されます。

『傘堂』は、統家らが開いた大池(傘堂すぐ西側の溜池)により、益を被った付近の新在家、今在家、染野の三地区の人々によって、その後も守り続けられています。特異な建立の経緯にも関わこらず、毀誉褒貶されることもなく、300年以上もひっそりと歴史の流れの中に佇んできました。

また、いつの頃からか、真柱の周囲を身体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、514日の當麻連座(れんぞ)には大勢の人々が『傘堂』を訪れます。民俗、建築双方から注目されるとともに、柳沢家に至るまでの初期郡山藩にかかわる数少ない遺構としても貴重な存在です。 傘堂に置かれる説明書の本文

五色幕が張られた傘堂に参詣される女性

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真柱の上部の扉の中には阿弥陀如来が祀られている。5月14日と9月の法要の時だけお戻りになるようだった。


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お参りにおいでになられた方、真柱を背にして手を合わせられた。真柱の周囲を体を接しながら回る・・・背中をつけて回るんだね。

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これが大池。この池の恩を忘れず、三か村(新在家、今在家、染野)で、この位牌堂を祀ってきた。
さらにその上には、真の大津皇子墓とされる鳥谷口古墳が
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# by koza5555 | 2018-05-14 15:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

語りだす奈良 118の物語   西山厚  

いま、古事記の音読をしている。おもしろい。
なぜ、こんなことを連休に初めたか。それは西山厚さんの本を読んで啓発されたのである。


毎日新聞の連載が本になった。この本の紹介は、アウトラインではなく、いくつかを抜粋した方が良いと考えた。

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こんな人いた!

どうしょうもない悪い世界に住んでいたとして・・どう生きたらいいだろうか。方法は三つである。それは

あきらめる。

別の世界に行く。それは浄土宗の法然の考え。

この世界を変える。これが貞慶の意見である。

奈良国立博物館で、10年くらい前に貞慶展をやられたとのこと。この貞慶を巡っての話である。
貞慶は鎌倉仏教の本流で、解脱上人・・

最後に住んだのが海住山寺、浄瑠璃寺に関連し、貞慶の関係者が造ったのが伝香寺の地蔵菩薩であり、それらの寺々からご仏像がおでましになったとのこと。(p108

古事記を読む

奈良国立博物館の「古事記の歩んできた道」・・・の準備を進めるうち、久しぶりに『古事記』の原文に触れたくなり、新潮日本古典集成(西宮一民さん耕注)で、全巻を声に出して読んでみた。いい!実にいい!『古事記』がこんなに魅力的な作品だったとは、今まで十分に認識していなかった。(p117


日曜美術館

琴は特別な楽器である。琴を弾く人物埴輪がたくさん見つかっているが、それは神さまに向かって弾いている。琴は神と人をつなぐ楽器、日本人は琴を特別視していた。

琴は絃の下に柱(じ)を立てる。これを琴柱(ことじ)という。琴柱がないと美しい音が出ない.絃の下で美しい音を支える琴柱。私の母の名前である(p230

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天理参考館で拝見した琴。ブラジル移民が慰めの為に琴とかを作った。ちなみに琴は、雅楽で使われる楽器の中では最古から使われたものと言える

談山能

安時代に円仁という比叡山の僧が唐に渡り、常行三昧を伝えた。常行三昧は不眠不休で念仏を唱えながら、本尊の阿弥陀如来像の周りを歩み続ける厳しい修行でそれを行う場所が常行堂である。(談山神社の儀式殿、前は権殿)

お寺では大きな法会のあとに、僧侶によってさまざまな芸能が演じられることがあった。これを延年という。多武峰の常行堂はその代表例のひとつで、正月の修正会のあとには、「翁」をはじめとする66番の猿楽が演じられたらしい。

お堂の後ろの入り口を後戸という。後戸から入ったところの空間には、東大寺法華堂のように、執金剛神像のように、本尊を護る神や、何か特別の力を持つ神仏が祀られた。

多武峰の常行堂の後戸には摩多羅神(またらじん)が祀られていた。摩多羅神は円仁が帰国する船の中に現れた神で、常行三昧に入った僧を守護してくれる存在かと思われるが、

談山神社の常行堂、その後戸の天井の裏の小部屋には「摩多羅神」と墨書された箱が置かれており、中には大ぶりな翁の面が入っていた。

平成23年(2011年)、観世流宗家の観世清和さんが、権殿(現在の儀式殿)において、この面を用いて能「翁」を奉納した。(p345



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談山神社の常行三枚堂。現在は儀式殿に呼ばれている

くっつく

正倉院展に聖武天皇のベッドが展示された。展示されたのはひとつだけだが、正倉院には同じ大きさのベッドがもう一つある。ふたつをくっつけて聖武天皇がおひとりでのびのび寝ておられたのか、ふたつをくっつけて、聖武天皇と光明皇后が仲よく休んでおられたのか。

・・・

ところで、聖武天皇の御陵と光明皇后の御陵はくっついている。地図で見ると,二つの御陵は完全に合体しており、よくみると、合体した姿はハート形だ!(p310

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ハート形かな?

奈良が好きになる。聖武天皇・光明皇后が好きになる。仏教のことを考えたくなる。

そして、こんなわけで、古事記の音読を始めたのである。


# by koza5555 | 2018-05-02 20:46 | 読書 | Comments(0)

天皇と民の大嘗祭

来年の今日、今上天皇は退位され、翌日の51日には新たな天皇陛下が即位されることになる。

201951日は即位の儀式が行われるが、「神器」献上は先に行わることが原則であることから見ると、430日に「神器」献上が行われるとみられる。

今日は、その後の大嘗祭のことである。

『天皇と民の大嘗祭』」(展転社・高森明勅)を読んでみた。実は、いくつか読んだ見たが、これが一番・・良い。

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先帝から皇位を譲られた時の大嘗祭は、その即位が7月以前の時はその年の11月、8月以降なら翌年の11月に行われる。

この例から見ると、来年は即位があり、大嘗祭も11月に行われるが通例である。

スケジュールは以下のとおりである。

4月に悠紀(東日本)・主基(西日本)の「国」、「郡」が卜定される。大嘗祭の神事に用いる稲をどこで作るか、という決定である。田植えの時期が関係するから、その前には決まっていなければならない。

大嘗祭の行事所が任命される。行事所は悠紀・主基、それぞれに置かれる。

8月には大祓の使い、天神地祇に幣帛を奉る使いが出される。畿内に一人、七道に一人づつで8名である。

9月には由加(ゆか)物使を紀伊(和歌山)、淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)の三国につかわす。

由加物とは、アワビ、あゆ、たにし、ウニなどの魚介類や蒜英根(ひるのはなね)漬物や橘子などである。たてまつるものが決められているとのことである。

9月には悠紀・主基で抜穂を行い、斎田の稲が到着する。

10月からみそぎが始まり大嘗祭は始まっていく。

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大嘗祭が始まると天皇は先に悠紀殿に入られる。

ここで奈良県が関係、宮内省の役員に率いられた吉野の国栖らが朝堂院に参入し、大嘗宮の南門の外の庭上にて古風(ふるぶり)を奏上する。つづいて悠紀地方の歌人が・・・

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天皇が高御座におつきになる、いわば直来ともいえる豊明節会(とよのあけのせつえ)でも、吉野の国栖が歌笛を奏することから始まり、そのあと久米舞などが奏じられるとのことである。


高森明勅さんは、悠紀・主基の国郡からの献上は「豪族たちの服属のシンボル化されたもの」とする。

由加物を献上する紀伊、淡路、阿波の三国は重要である。これらの国は悠紀・主基とはちがい、すべての大嘗祭に献上する。非耕作民(漁民)の奉仕は歴史が深いとされる。

須恵器をたてまつるのは、河内、和泉、尾張、三河、備前の五ヶ国である。

そして、国栖・隼人、悠紀・主基の民の国風(くにぶり)の奉仕も注目すべきであるとされる。「海・山の民が天皇のお側近くまで参上して奉仕を行う。それによって平素は見えにくくなっている天皇統治の全体性と根源性を浮かび上がらせる効果がある」とのことである。

悠紀・主基殿を取り片づけると豊明節会(とよのあかりのせつえ)で、天皇は高御座におつきなる。ここでも吉野の国栖の歌舞は初めに奉られる。


大嘗祭、全体は「民とのつながり」で進められる。

高森明勅さんは、大嘗祭の成立、大嘗祭の行事の中身を詳細に展開して、天皇の民との大きなつながりを丹念にたどり、日本の国の在り方を検討している。

大嘗祭を研究する文献は、あれこれ見ているが、民の戸の関わりを焦点にした高森さんの炉は共感が持てる。いま、大嘗祭が興味深く、そして、おもしろい。ここでとどまめず、さらに勉強してみたい。


# by koza5555 | 2018-04-30 23:29 | 読書 | Comments(0)

大坂山口神社(穴虫と逢坂)

履中天皇と言えば、僕の住む「桜井の成り立ち」に欠かせない大先輩・・じゃないだろうか。

磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)で即位、磐余池を作った。磐余市磯池で舟遊びをしているとき桜の花びらが飛んできたなどという話が記紀に記されている。

この履中天皇、即位前にイザホワケ(仁徳天皇皇子)と名乗っていたころ、弟の住吉仲皇子の反逆に合って大変な苦労をするのである。

難波を逃げ出し、石上神宮に向かう。河内飛鳥の山の入り口で、少女に「敵がいない当麻道を行きなさい」と助言され、竜田山方面に向かう。

山間を出たところ、「数里のところ」に「仲皇子に通じた直吾子籠(やまとあたいあごこ)が兵を備えていた」。その場所は「攪食の栗林(かきはみのくるす)」という。

この「攪食の栗林とはどこ」、「それは大坂の辺りなんだ」との論を最近、読んだ(『悲劇の皇子たち』青垣出版社)。


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大坂と言えば、大坂山口神社、崇神天王の時代(崇神9年春3月)に、「天皇の夢の中に、神人があらわれて教えた。赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀れ、また黒の盾を8本、黒の矛を8本で、大坂の神を祀れ」で、疾病は平いだという大坂である。

さらに、箸墓古墳の築造にあたっては、「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んだ」とされ「おほさかにつぎのぼれる いしむらを たごしにこせば こしがてんかも」という歌まで乗せられている、その大坂である。

それで、念願の大坂山口神社、拝観してきた。

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大坂山口神社(穴虫)

祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)である。

式内社(しきだいしゃ)大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座(ちんざ)されます。

本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺()きで、文化十三年(一八一六)の再建とされますが、寛永ニ年(一六二五)以来の棟札(むねふだ)が残されています。それには、背後の山の石巌(せきがん)を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺(ぎおんぐうじ)とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(一七四四)の再建になります。また、平成元年三月に秋の大祭には宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。境内には石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。

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とあり、さかんに境内で相撲が行われていたことがわかる。

また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組があり、二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。              

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式内社大坂山口神社は、実はもう一カ所残されている。

逢坂の集落におかれ、近鉄大阪線を挟んだ北側にあたる。こちらは伊勢街道に面しているという。

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本殿が奈良県の指定文化財である。三間社流造、檜皮葺で江戸時代のものであるが、細部には室町時代の建築様式があるとのことである。

御神像が十一体、平安時代から江戸時代にかけての8体の狛犬(木造含む)が残されているとのことである。

うーん、魅力的、ツアーで行きたいけど。

例えば、崇神天皇陵、大神神社、墨坂神社、大坂山口神社なんかを回ればおもしろそうである。



# by koza5555 | 2018-04-17 21:31 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

黒塚古墳・三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡

黒塚古墳。130メートルほどの前方後円墳、3世紀から4世紀のものである。

墳丘は、中世・近世に砦、お城として使われた歴史があり、改造が著しい。

竪穴石室は後円部の中心、南北にむけて設けられていた。石室に関わる施設では、前方部につながる鞍部から作業道(墓道)が発見されていて、葬送の儀式の入り口、石室を作るための作業通路として使われたらしい。


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盗掘や開発を逃れて、1997年、タイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。鎌倉時代の地震で石室の一部が崩落していたことが幸いであった。

これを復元した、展示館が設けられていている。古墳に登れて、石室模型が見れて、34面の鏡が見られる、県内では稀有の最良の勉強と楽しみの場所である。

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棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡が置かれていた。棺の中、一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。北枕の遺体の頭の上である。


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「邪馬台国は纒向」というツアーで何度も訪れた。

そのツアーでは、「不思議な鉄パイフ遺物」を、「難升米が受け取ったとされる黄憧の可能性がある」などとガイドしてきたが、34枚の鏡についてはあまり語れてこなかった。ちょっと反省するのである。

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昨年に橿原考古学研究所が、「黒塚古墳のすべて」という展示会を行っている。

面白い図録も出ているし、三次元計測という技術を駆使した素晴らしい写真も出ていることが分かった。一つの鏡を測るのに、400万点を計測する(撮るのではなく)という技術らしい。

データベース化もすすみ、同范、同型鏡は一発で判明である。

そんな研究によると、どうも黒塚古墳の鏡はすべてが舶載鏡らしい。

今度のツアーは三角縁神獣鏡、大いに語ってみたい。

まずは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡のことである。

●直径が23センチ程度で大型

断面が三角形の縁

漢字を用いた銘文がある

神像と神獣が描かれる。西王母、東王父


発掘された角縁神獣鏡のことである。

まず、同范、同型鏡という言葉を紹介したい。

同范は同じ鋳型を何度も使う。同型は母型から何度も鋳型を作り、使用する。区別は鏡の傷(鋳出しの時)などからわかるようである。

日本には三角縁神獣鏡は140種類、380枚が発見された。黒塚古墳からは33枚出ているが、黒塚だけというのは3枚しかないとのことである。言い換えれば、ほとんどが流通版だという事である。

中国の鏡の始まり。中国鏡の文様は、もともとは装飾的な図柄が中心だったが、前漢時代(紀元前202年から5年まで)の終わりころに世界観、宗教観を示す図柄が現れる。図柄は四神や霊獣などであった。


後漢時代(25年~220年)には、神仙と霊獣を描かれた神獣鏡が登場する。

西王母などの人の姿の仙人が不老不死の象徴となってくる。

道教の強い影響が感じられ、鏡の所有者には福がもたらされると信じられた。

国内、とくに畿内で大量に埋蔵されたとみられる画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、これらの鏡の紋様をそのまま引き継いでいる舶載(中国産)、もしくは仿製(国産)の鏡である。

黒塚古墳の資料館では、たっぷりとこの図柄を楽しむことができる。

24号鏡と8号鏡を僕は注目してみたい。

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号鏡。名前は「三角縁天王日月・唐草紋帯四神四獣鏡」 


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この鏡の同范・同型鏡は全国に分布している。

 奈良 佐味田宝塚古墳

 京都 椿井大塚山古墳

 兵庫 吉島古墳1号墳

        2号墳

 滋賀 雪野山古墳

 静岡 赤門上古墳

 東京国立博物館

 直径は23.7センチ

 
 西王母、東王父を感じ取ってほしい。

8号鏡も人気者。三角縁神獣鏡龍虎画像鏡


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こちらは、二人の神人と二体の龍虎。とても大柄で見栄えが良い。

同范・同型なし。ここだけ、これだけオリジナル

平壌(北朝鮮)画紋帯同向神獣鏡(後漢代の後半)には、

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西王母、

東王父、

伯牙(はくが)琴の名手。事の調べで陰陽を調和させる。

黄帝(こうてい)。中国の神話では最高の帝王。巨悪な蚩尤(しゆう)を滅ばす。しゆう・・農耕の神か。人の体で頭に角、足にはヒズメ、81体の同じ形の兄弟がいる。

が描かれている。

これは、今回見れるものではないが、鏡を見るうえでの必須の

西王母がいて、東王父がいて、伯牙、黄帝がいる。

ここらあたりが見とれるだろうか。

クラブツーリズムのツアーの「古事記でたどる大和の旅」の「ヤマトタケル編」で、こんなことをお話ししたい。18日(水)は満席、21日(土)はアキがある。


# by koza5555 | 2018-04-10 17:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

『奈良・大和を愛したあなたへ』

『奈良・大和を愛したあなたへ』東方出版  千田稔著

今年の1月に刊行されている。桜井図書館の新刊コーナーに並んでいたので、そそくさと借りました。何度も書店で「買おうかな」と悩んだ本でもある。
千田先生、図書館の借り読みですいません。しかし、先生は奈良県の図書館長されているんですから、許していただくということで。

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「奈良にゆかりの多彩な人たち その足跡に思いを寄せ、大和への愛惜を綴る」とある。

奈良で活躍した先人に千田稔さんが手紙を出すという設定である。
リストアップされている40名は、ほぼ明治時代の方々、そして歴史学だったり、文学者であったり。

ベルツ、ゴーランド、ブルーノ・タウト、アインシュタイン、バーナード・ショーなどの外国人も取り上げている。

いずれの手紙も唸らせられが、今の問題意識では、伊藤博文、与謝野晶子(『与謝野晶子と大和』」、直木三十五、宮本常一などが興味深かった。

「石上神宮の禁足地で太刀発見」と題した菅正友は特に面白い。

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「大宮司が禁足地を発掘するというのは大胆不敵な調査」。「前代未聞の発掘調査を敢行されたのは、水戸史学の考証的学的学風を持って歴史学に向かっておられたからであろう」と評価し、発見目録(明治7年㋇24日付け)によれば、「神剣一振や菅玉、勾玉、丸玉、鈴一個などで、神剣については実測図がつけられていました。」

「カムヤマトイワレビコの東征の折、タケミカヅチ命が高倉下に下したフツツノタマは石上神宮に鎮座している」と古事記に記されているフツツノミタマはこれと断定したのは菅正友だった。

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       6月30日、神剣渡御祭の日のお守り

「修史家(歴史家)が知っておくべきことは地理である。地形の高さ、低さ、険しいこと、なだらかなることを知っておかなければならない。土地の遠さ、近さ、東か、北かも知っておかねばならない。」(『修史家は地理を知らざる可からず』)

この言葉に歴史地理学を専攻する千田稔先生は激しく共感して、この書を結んでいる。

僕も同感である。

歴史家でなくても、なんでも関心を持つ野次馬であっても、「地理」は大切。地図から読み取れなければ、「現地に行け」である。

この本はおすすめしたい。買うなり、図書館で借りるなどして。
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鎮魂債祭の日に。夕闇が迫る。灯が入る。人はそれから集まってくる。



# by koza5555 | 2018-04-04 21:13 | 読書 | Comments(0)

長谷寺、大観音大画軸大開帳

長谷寺と十一面観世音菩薩像の原寸大の大画軸が開帳されている。1646センチメートル、横が622センチメートル。画軸であるが重さも125kgあるという。

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軸がは正面に観音菩薩像が描かれ、向かって右には難陀龍王、左には右宝童子が描かれている。

「大きな御影は、室町時代・明応4年(1495年)に罹災した本尊の復興の為に、興福寺の南都絵法眼清賢が高野髪430枚を継いで設計図として描かれたことに由来します。江戸時代に入り、長谷寺本願院65世秀海上人は寛文5年(1665年)に大阪堺の篤信者より信施を受けて、日本最大のこの大画軸を仕立てた」(長谷寺配布資料)とされている。

長谷寺の十一面観世音菩薩は729年、沙弥徳道の指揮のもと稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)によって造仏されたとし、開眼供養の導師は行基(菩薩)とされている。この、十一面観世音菩薩像は、極めてたびたび、火災に伴い焼失を重ねている。

いずれも記録が残されているが、健保7年(1219年)の安阿弥、快慶の手による再建は画期的である。御頂仏まで三丈二尺三寸、1213センチメートルの現在の姿は、この時以来と思われる。


巨大な仏像は、平安時代の末ころからの寄せ木細工という彫法、彫刻ができて作れるようになった。外からはうかがい知れないが、
2本の心棒は下の台座に挿しこまれており、その上部に2本の心棒が前後に入れられ、頭部をささえており、また、この心棒に寄せ木が取り付けられている。

その後も罹災は度重なり、明応4年(1495年)11月、堺商人の大きな喜捨により復興成就。この時に興福寺の清賢による指図が作られたとされる(この図がその後、画軸となり今回公開されているもの)。

さらに天文5年(1536年)6月に兵火にかかり焼亡。二年後の天文7年に造仏、こちらが現在の観世音菩薩像である。

画軸は1495年。菩薩像は1538年ということである。

ぜひとも、拝見していただきたい。この会期は531日までで、大講堂で展示されている。
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拝観料とは別に
500円(合計1000円)が必要だが、普段、拝見できない大講堂に入堂することができる。



今回は撮影も許可ということで、撮影用のグッズも用意されているという破格の対応で、これが楽しみである。

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◆十一面観世音菩薩の罹災(火事)、再建の歴史は、「豊山前史」(永島福太郎著、昭和37年)、「長谷寺の仏教芸術」(豊山春秋5 平成2年)などに詳しい。


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# by koza5555 | 2018-03-31 22:41 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

忍海郎女、亦の名は飯豊(いいとよ)王

『古事記』でたどる大和の旅(クラブツーリズム関西・テーマのある旅)は、今年度は2月から7月まで、各月2回で12回のシリーズである。
最終回、7月の日程とテーマを決めた。
「『古事記』の女性たち。その愛と戦いから学ぶこと」である。
磐之媛命、卑弥呼、外通王、飯豊王を取り上げた。

忍海には、
飯豊王が「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされる角刺宮跡
飯豊天皇が葬られたとされる「飯豊天皇埴口丘陵」が残されている。

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清寧天皇(第22代)と忍海郎女、亦の名は飯豊(いいとよ)王のことである。

『古事記』、清寧天皇は「御子、白髪大倭根子命、いわれのミカクリ宮に坐しまして、天の下治らしめき。この天皇、皇后無く、また御子も無かりき。故、御名代として白髪部を定めたまひき。故、天皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王無かりき。ここに日嗣知らしめす王を問うに、市辺の忍歯別王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき」。


飯豊王は天皇として数えられていないが、天皇の仕事をしていると、『古事記』、『日本書紀』は記している。

さらに陵は「飯豊天皇陵』と明示されている。


ここらあたりの機微を語りたいのである。


また、『日本書紀』、顕宗天皇即位前紀には、「市辺押磐御子と荑媛(はえひめ)の間に顕宗、仁賢の妹して飯豊女王が生まれ、亦の名を忍海部女王であると記している。姉ではないかとの異論も示されている。

飯豊女王は顕宗、仁賢の叔母か、姉か妹か・・・である。

 


雄略天皇の死後(5世紀末)に即位した清寧天皇が跡継ぎを残さないまま死去する。それを引き継いだのが飯豊皇女である。

「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされ、これは天皇に即位したという伝承である。

「自ら忍海飯豊青尊(おしみのいいどよのあおのみこと)と名乗りたまう。ときのうたつくるひと、歌詠みしていわく

 倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮」

葛城磐之媛(仁徳天皇后)が平城山で歌詠みしたという

「倭を過ぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり」に類似するのはなぜだろうか。

忍海角刺は彼女の宮殿の上、もしくは入り口に邪悪なものを退ける鹿角を飾っていたことによるとされる。

そういえば、多武峰のある村の入り口に鹿角が掛けられていたことを見たことがある。あれもそんな意味で掛けられていたのだろうか。

さらに、日本書紀には不思議な、かつすごいことが書かれている。

「角刺宮にてマグワイしたのだが、格別に大したことは無かったので、二度としなかった」(ここに夫あると記されているが詳らかではない)と記されている。

即位の時点では配偶者は無く、子もいない。古代女性が即位後は独身を保つ、皇位継承者を作らないということだった。卑弥呼の「夫壻(ふせい)無く」は、大和王権にも引き継がれている。シャーマンもしくは中継ぎの女帝だったとされる飯豊女王の限界性をしめしたものではないかと、「女帝と譲位の古代史」(文春新書・水谷千秋)で水谷千秋が指摘している。

4世紀頃までは、倭・大和には卑弥呼をはじめ力を持った多数の女王、女首長がいた。

しかし高群逸枝(女性史研究家・娘時代、四国八十八カ寺巡礼のすばらしい道中記 -娘巡礼記― も記した)が描いたような 古代母系社会史は存在せず、「女王・女首長は、例外ではないがあくまでも中継ぎであった」(例えば清家章)という結論が示されている。

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「遅れてきた卑弥呼」ともいうべき、飯豊皇女は葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)に葬られている。

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# by koza5555 | 2018-03-30 22:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

『日本の道教遺跡を歩く』(朝日選書)

『日本の道教遺跡を歩く』(朝日選書)

福永光司、千田稔、高橋徹()である。後書きが1989年で、古い本であるが、2003年に朝日選書に集録されている。

「陰陽道・修験道のルーツもここにあった」がサブタイトルである。


陰陽道と言えば、奈良辺りなら、我が家の近所の安倍文殊院。
文殊院が「安部清明の天文観測所」という高台から、ちょっと西の空を見に行ってきた


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道教の入門書でもあり、日本の宗教施設、行事になかに道教がいかに生きているか、貫かれているかが解明されている。

一つは「道教とは何か」を中国の歴史を探ってみる・・である。

いま一つは、「日本における道教とは」である。日本に持ち込まれなかったとされるのが学会の常識らしいが、朝廷の儀式でも民間の習俗にも、道教の影響が色濃く残ることが証明されている。

まず、二つの書が繰り返し引用されるから紹介しておく。

『淮南子』(えなんじ)。前漢の武帝の頃に編纂された(紀元前150年頃か)思想書。日本へはかなり古い時代から入った。『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき」の大本もこちらである。

『抱朴子』(ほうぼくし)という本が道教の土台である。葛洪という人が、東晋の建武元年(317年)に書き上げた。

道教は仙の時代が第一番目。「神仙」をお祭りして、神仙の持っている不老不死の薬をもらう。神仙が下りてくるという山や川でお祭りをする。斉明天皇(皇極天皇の重祚)の時代は、この影響を受けている。

第二番目は「仙道」の時代。これが抱朴子の時代で医薬、丹薬を活用する道教である。

道教の薬には本草薬と石薬があるとのことである。房中術というのもあるそうである。「労損」、スタミナの消耗を図り、不老長寿を全うするという考えである。

「労損」・・なるほどである。

三番目は「洞真」。仙道から道教への時代である。56世紀には完成しる。遣隋使、遣唐使が持ち込んでくるのは、ここら辺りとみられる。

輪廻などの仏教の概念も取り入れ、仏教との習合も図られる。

こうして、あらゆる時代を通して、道教は日本にも持ち込まれてきたとのことである。


皇極天皇の、稲渕の雨乞いの四方拝、飛鳥時代の石造の文化、北極星(太一神 たいいっしん)を敬う皇室行事などもすべて道教の影響がみられるとのことである。

ちなみに鎌倉時代の神道書には「道教の最高神の太一神は天御中主命と同一」と記されているのとのことである。

『続日本後紀』(832年)には仁明天皇の即位の大嘗会が記されている。

豊楽殿で催された宴楽には悠紀と主基の標が立てられ、前者には庭の鳳凰を止まらせ、日輪と月輪の形、天老と麒麟の像がしつらえ、後者には西王母が舜に世界地図を捧げる像、西王母秘蔵の仙桃を盗む童子の像および鳳凰、麒麟などの像が配された」。

「これは道教の世界だろ」というのが、この書の結論である。

それ以外では、鎮宅霊符、宵待ち講、鬼やらいなどの民間習俗もルーツは道教からである。

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阿部文殊院の赤い札、これも道教その者だろう

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# by koza5555 | 2018-03-25 22:44 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

八講祭

3月の第一日曜日は談山神社の氏子が集まって八講祭が行われる。

氏子といっても阿部あたりの氏子は関係がなく、多武峰の本来の郷中の大字の祭である。


今年は倉橋が担当だった。倉橋と倉橋出屋敷(赤坂天王山辺りをいう)がご奉仕された。

来年は多武峰(八井内・飯盛塚、)、次が下居(針道・鹿路)、横柿、今井谷。生田、浅古、下という順番で、8年に一度、回ってくる。


当番の大字から1老から5老と名付けられる5人の長老が選ばれる。村の役員はピシッと全員が礼服を着用する。

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神社の神廟拝所で斎行される。

はじめに、長老の手により、中央に鎌足公、右に定慧、左に不比等を描いた掛け軸が掛けら

れる。その間、謡曲「尾上の松」が謡われる。

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つづいて、脇立画が掛けられる。寒山拾得(かんざんじっとく)である。その間、謡曲「四海波」が謡われる。

献饌があり、祝詞の奏上である。

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そのあと、一老により、「談山権現講式」という、始祖の栄誉を称える祭文が読み上げられ、「南無談山大明神」の神号が10回、奉唱される。

撤饌、脇立、神影を下ろして祭は終わる。

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この鎌足公の御神影は、一年で、30分だけ公開されるのである。

以上、『桜井風土記』(栢木喜一)に詳細が記されている。

さらに栢木さんは、「八講とは八ヶ大字で営むからだといっているが、これはおそらく法華八講から来たものだろう」とも指摘している。

「民間でかくもていねいな行事が長く続けられてきたことがありがたい」…これが栢木さんの結論である。

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付論するが、

もともとは倉橋の金福寺(崇峻天皇陵の東)の八講堂で行われが、今は談山神社の神廟拝所で執り行われる。8年に一度の当番では村々では進行も忘れてしまっていて、現在は、神社の神職にノウハウが蓄積されている状態となっている。

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# by koza5555 | 2018-03-04 21:37 | 桜井・多武峰 | Comments(2)

多武峰の参詣道と町石の道

談山神社の社報、第89号が発行された。本日、2月15日、桜井市の全紙の折り込みに入っている。
「談」の会の会員には、順次発送される。
僕は二面、一ページをいただいている。今回は「多武峰の参詣道と町石の道」をまとめてみた。
ずっと書きたいなと考えていたテーマで、それなりに納得のいくものが書けた。
紹介してみよう。

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一の鳥居から談山神社に至るまで一町ごとに、およそ100メートルを区切りにして町石が置かれている。呼び方は「ちょうせき」とも「ちょういし」とも言われている。

今回は、この町石に迫ってみた。

浅古の一の鳥居の脇には初町と刻まれた石塔があり、談山神社の入り口の摩尼輪塔(まにりんとう)の脇には第52町と刻まれた同型の石が立てられている。52基は順番に配置されていたことは明らかである。仏教では悟りに達するのには52の段階、修業が必要とされているが、それに対応して52基の町石が配置されているのである。修行は信心から始まり、念心、精進心というように進み、52番目の妙覚位は悟りを開いた境地とされている。

町石もこれにならい、一基ごとに「信心位 初町」、「念心位 二町」、と刻まれ、最後の52町石は「第五十二 妙覚位」とされている。町石を辿りながら参詣すれば、おのずから仏の境地に到達できるという道しるべとなっている。

桜井市史(昭和47年)に、この町石が紹介されている。また、12年ほど前に奈良国立博物館の研究紀要で『多武峰の町石』が取り上げられ、元興寺文化財研究所が県道拡幅工事に伴う調査を実施、『多武峰町石調査報告書』を、昨年に発表している。

町石には、40年前(桜井市史)、12年前(奈良国立博物館)、現在(元興寺文化財研究所)の資料があるわけで、これを比べてみると変遷は手に取るようにわかる。今日はそこらあたりを考えてみることにした。

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52基の町石は32本が現存している。町石には「承応3年(1654年)」の年号が刻まれていて、360年前のものであることは明確であるまた町石と対となっている摩尼輪塔はさらに古いもので、乾元二年(一三〇三年)、鎌倉時代の製作であることも判明している。
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摩尼輪塔は鎌倉時代、町石は江戸時代に作られた。作られた時期は大きく違うが、もともとは石製の摩尼輪塔と木製の卒塔婆という組み合わせとの論もあり、この卒塔婆を石製で修理したのが江戸時代だとのことである。
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屋形橋と東門の短い距離のところに第46町、第19町、それから第47町とあわせて3基おかれている。第19町は持ち込まれたものであるが、桜井市史によれば40年前は北音羽にあるとされている。12年前にはすでにこの位置に移動されたとされている。「どんな経過で移設したのか」と尋ねて回った。すると、「ここにあった。トラックに当てられ折れていた。道路拡張の時に置くところが無くなり神社が引き取っていった」とのお話を聞くことができた。「移設してから20年は経つよ」とのことである。

下区の大字内に置かれている第6町石に特別に注目したい。現在は完形ですくっと立っている。ところが12年前の調査では横倒しとなっていて、ワイヤーが掛けられ、いかにもどこからか引き上げてきた様子である。40年前の桜井市史によると、これは「亡失」となっている。江戸時代に立てられたものが40年前には無くて、12年前は横倒し、現在は立っているということである。この経過を下(しも)の前の区長さんにお聞きした。「昭和25年のジェーン台風で流されたと聞いている。川底から拾い上げた。それを平成22年に立て直した。再建の式典もおこなった」と言われるのである。

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江戸時代の初めから村人、旅人を見守ってきた町石、これはすごいが、同時にこれを守ってきた、そして今も大事にしている地域の人もすごいなということである。


一基、一基、よく見ていただきたい。文字が判読できるものもあちこちに残されている。
多武峰の町石は奈良県の指定文化財に、町石と対とみられる摩尼輪塔(まにりんとう)は、国の重要文化財に指定されている。

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ありがとうございました。

# by koza5555 | 2018-02-14 23:17 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭は 2月の第一日曜日。

この有名な行事、僕は初めてである。それなりに敬遠してきた(笑)。しかし、オンダを話そうと考えると、これは欠かせない。

祭祀と行事は午後2時からであるが、カメラポジションということもある。早めに行くことに。場所取り用に脚立も用意して万全である。

3時間前、午前11時に会場に到着するが、舞台前の最前列には脚立があり、立っている人もいて、もう入る余地がない。拝殿前の上段にかろうじて空き場所を見つけて脚立が置けた。

それから鳥居あたりに出てみると、もう翁と天狗がバシバシと人のお尻を叩いている。

先を裂いたササラと称する青竹である。

激しくたたく。ぶっ叩くという言葉以外にたとえようがない。

子どもを追い回す。

若い女性を叩く。

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若い男には容赦なく、力一杯だ。

僕も叩かれたが、若い男とは見てくれなかったようで、やさしい叩かれ方。

「叩くことにより厄が飛び散ると考えて」と宮司は解説する。なるほど、それなら強く叩かれるほど良いわけである。

まともにお尻を叩かれたときはさほどではないようであるが、腿に当たると、これは激痛である。

2時から祭祀。舞殿というんだろうか祭を行う場所と、拝殿・本殿の間に観客が入るという特殊な形である。

祭は本殿に向けて行うが、あたかも観客に向けて行われるような形でよく見ることができる。

神饌はコメ、豆、キビ。オンダに使う早苗(松葉)も供えられる。

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玉ぐし奉奠があり、撤饌、しばらく休憩である。

神事は二部制だった。

一部はオンダの所作。

二部が結婚の儀である。

一部は畔切り、マンガとお田植行事がすすみ、田植えは宮司が行い、終了後、早苗は天狗や翁、牛により客席に投げ入れられる。

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二部が結婚の儀である。

天狗とお多福は寄り添って登壇。

まずは天狗とお多福の婚礼の儀式が行われる。

お多福は山もりのご飯、「鼻つきめし」を宮司に給仕する。

天狗が股間に竹筒を構えて舞台を暴れまわる。

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それから「種付けの儀」となる。天狗がササラでお多福の尻を叩き、天狗とお多福の間で性交を模した所作が行われる。

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翁は「ふくの紙」を投げる(拭いた紙が投げられる。これは子宝に恵まれる福の紙である)

その後、お多福が天狗の尻を叩き、もう一度、性交を模した所作がある。初めはお多福が上に乗る。

なるほど、男女平等だ。

お多福が中心となり、「ふくの紙」を投げる。

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西日本、四大性神事とのこと。

他の3つのお祭りは、奈良県江包の網掛け祭り、愛知県三河(西尾市熱池)のてんてこ祭り 田縣神社(小牧市)豊年祭で、奈良と愛知とのことである。

ちなみに僕は愛知県に40年、奈良で12年なんだけど(笑)

飛鳥坐神社のおんだ神事、しょさは卑猥と言えば卑猥なんだけど、まあ、ユーモラスで楽しかった。

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# by koza5555 | 2018-02-04 22:43 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

五輪塔と 出雲の野見宿禰五輪塔

またまた、出雲の話題である。


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出雲には広々とした段々畑が

出雲の十二柱神社には野見宿禰を祀るという五輪塔が残されている。

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「南300mの出雲の塔ノ本に所在していたのを明治20年(1887年)、神社の手洗石の場所に移し、昭和30年に現在地に再移転した」とし、「長谷寺僧が弥勒仏下生の地を想定して造建したが、願主は20体の梵字仏に意匠を凝らしていて特殊な信仰をあらわすものと思われる。大きな岩から手造りした雅趣ある造作に風格がる。野見宿禰の墓という伝えは出雲に結び付いたものである」(桜井市史上p916


この石塔、「五輪四面に単独梵字仏20体をあらわす日本で唯一つの珍しい古塔」と太田古朴は『大和の石仏』で記している。


「一番下から

地輪(方形)は四天王。

水輪(円形)は金剛界四仏。

火輪(笠石)は薬師仏と釈迦、十一面観音と地蔵で

風輪(受花)は不動、弥勒、一字金輪、文殊

空輪(宝珠)は両界大日如来、観音、南面は宝篋印塔」との記述である。

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以上は『桜井市史』

「日本で唯一」とはただ事ではない。「普通の五輪塔とは何が違うのか」である。


五輪塔は『大日経』などに示される密教の思想の影響が強くて、下から「地(ア )、水(バ )、火(ラ)、風(カ )、空(キャ )」の梵字による五大種子(種字 しゅじ)が刻まれる。

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下から読むと、アビラオンケン(ソワカ)で、これは大日如来のご真言である。

五輪塔は、地・水・火・風・空で、宇宙と大地を司る大日如来と一体化を目指す塔だった。

こんな風に見ると、出雲の五輪塔との差が、なるほど、なるほど理解できた。出雲の五輪塔は大日如来の御真言ではないのである。


一方、この大日如来の梵字は出雲ではいつでも見ることができる。
出雲には庚申塔華の行事がある。庚申の日、願人は「奉 青面金剛童子 村内無事 家内安全、五穀豊穣、如意吉祥 修」と刻んだ樫の木を持ち寄り、僧侶に梵字の記入を受けてから法要が始まる。

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この樫の木の記されるのが大日如来のご真言、五大種字である。

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出雲の庚申塔華


出雲の五輪塔には、向きが違うとか、刻み間違いがあるなどの飛び切りの裏ネタもあるが、それはそれで触れ方が難しいし、その具体的な姿が示せれなくては反感が出るだけである。


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こんなダルマ落としみたいなブロックを作って、倒したり、回したりして考えている。


出雲の講演会。「出雲と初瀬谷  記紀万葉と今」は、出雲の十二柱神社境内、出雲農村集落センターにおいて、210日(土)午後130分からである。ぜひ、おいでください。参加費は無料です。



# by koza5555 | 2018-01-26 22:23 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ダンノダイラ(桜井市出雲)


出雲(桜井)には出雲人形、十二柱神社の五輪塔があり、長岳寺石工僧 善教の作とされるお地蔵さん(知福寺)など、興味深いものをあれこれ書いてきたが、今までに書いてないのは「ダンノダイラ」である。


ダンノダイラ、出雲から北の山を見上げる。三輪山から長谷山にかけての稜線のすぐ下に大きな平たん地があり、磐座があり、古代の生活と祭祀の遺跡が残されている場所である。



ここはちょっと避けてきたのであるが、出雲を語ろうとすると避けて通れないわけで・・・登ってきた。

ルートは二カ所。出雲の集落から歩いて登る方法がメインルート。健康的である。標高差は350mである。

あと一つは巻の内から車で奥不動院まで車で上がる方法である。道はちょっとすごい。会うことはほとんどないが、対向車があれば大変である。

今日は車で上がった。

奥不動院の駐車場に停める。

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奥不動院を抜けてそのまま三輪山から長谷山への稜線まで登る。稜線に上がったら左へ。ダンノダイラの看板はある。30mほどで二又に。右へ進む。そのまま200mくらいでダンノダイラに到着。

大きな平たん地。杉林である。右側はクヌギ林。「クヌギの林は山肌を崩さない」と、このクヌギの山主の西野さんは言われていた。

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初めに磐座に。

三段に分かれている。

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これが一段目。

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これは三段目である。

幅は5m以上。土の埋もれたところは判らないが、三段、全体の高さは15mくらいはあるだろうか。


素晴らしいの一語だ。

サークルストーンもある。

平たん地の真ん中あたりに割れ目。こんな頂上近くだが、水が今日も流れていて、しっかり浸食されていた。

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出雲村に残されてきた古い絵図には「段ノダイラ」とされている。


大昔の出雲村は”ダンノダイラ”にあった

明治の初め頃まで、毎年、年に一度、村中の者が『ダンノダイラ』へ行って、昔の祖先を偲んで、そこで弁当を食べたり、相撲をしたりして、一日中遊んだもんだー(村の山登りの行事は、嶽山でこれとは別)

それからその『ダンノダイラ』の東の方に、大きい岩があって、それを拝んだソーナ

出雲の氏神さんは本殿はなく、出雲村から真北の方向にある大岩――その岩を拝んだソーナ。年寄りからよく聞かされたモンだ
西脇翁からの聞き取り
    『大和出雲の新発見』(栄長増文著)より

出雲にとって、ダンノダイラは心の故郷というべきものなんだろう。



# by koza5555 | 2018-01-20 21:29 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

出雲城跡 桜井市


26日(土)に出雲(桜井市)で講演する。出雲区の「相撲開祖 野見宿禰顕彰会」の主催である。

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十二柱神社、狛犬を支える力士像

初めに出雲城の縄張り図を見てほしい。城の前面からはとても坂がきつくて無理。尾根から下がってくる形(北から南へ)で城跡に入る。

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出雲の方に出雲の話をしようという無謀な企みである。ネタ作りに苦労しているのである。


そこで今日は、戦国の時代の出雲城跡にチャレンジ。ところが、行く方法がわからない。そこで先々代の出雲区長の西野さんと、先代の門脇区長に頼んで探索してきた。

十二柱神社から白河(しらが)へ行く、峠越しの道がある。出雲区の共同墓地をすぎて、ダンノダイラと白河への分岐点から、右の檜林にはいる。両人とも長くつ、草刈鎌で道を作りながらヒノキ林を進んでいく。

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150mほど南にすすむと初めの堀切。しっかり形が残っている。期待が高まる。

二つ目の堀切は深い。幅8m、深さが4mほどある様子である。

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ここを越えると、これが曲輪。最高点とのことである。標高は183m。村からの比高は60mである。

さらに堀切を渡ると平たんな空き地。400平米ほどで、これが主郭。背中に土塁を背負っていて、左右の前方には帯曲輪を設けている。

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まともに砦の姿、お城の姿が残っているのである。

400年以上も前の遺構である。新たな堀切、新たな曲輪を見るごとに感動の連続だった。

城跡は檜の林にあるが、これは50年ほど前に植林されたもので、もともとはクヌギの林だったとのこと。常緑樹の方が土壌は崩れれやすいとのこと、クヌギの林だったことが城跡に保存に力になったとのことである。

個人の持ち山である。所有者の意向を無視することはできないが、これは皆さんに見てもらいたいと思う。

共同墓地から城跡をのぞむ。一番高いところが曲輪、右が主郭、その先の山はダケである。

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帰り道、十二柱神社の狛犬を支える力士像をパチリ。

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元桜井市の教育委員化に在職された金松さんが詳細な報告を出されている。城の縄張図も金松さんの資料による。

出雲城

 桜井市出雲字城山に所在する。標高183m、比高60m、出雲集落北東の尾根先端付近に立地する。眼下に伊勢街道、西側には白河集落に続く山道がある。 

 主郭は47m×25mを測る。北端には高さ3,5mの櫓台状の土塁が設けられ、東西に傾斜している。西辺は北辺土塁から続く高さ約0,6mの土塁ラインが設けられ、南西端で東に折れる。東辺には土塁がみられない。主郭東側と西側には帯曲輪を排している。

主郭南西端は二重堀切で城域を画す。そして、主郭北側は三重の断面薬研状の堀切で城域を画す。堀切の規模は北からそれぞれ幅約9m・深さ約4m、幅約8m・深さ約3m、幅約9m・深さ約3mを測る。北から2・3本目の堀切間は曲輪となっている。

出雲城周辺の動向として注目できるのは、永禄3年(156011月、当時大和支配を進めようとしていた松永久秀方による、初瀬・宇陀攻めである。すなわち、1118日に(『細川両家記』)。この、軍地的緊張が出雲白築城の契機となった可能性が想定されよう。

築城主体としては、当地との関係を持つとされる国人慈恩寺氏などの在地勢力ではなく、より広域な勢力を想定するのが妥当でいえよう。(『出雲区における講座資料から』金松誠 三木市教育員会)


# by koza5555 | 2018-01-19 22:33 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

陀々堂の鬼はしり

奈良県の重要無形民俗文化財の指定は7件。

指定順ではなく、年の初めから見てみると一番は「陀々堂の鬼はしり」(19951226日 五條市 念佛寺鬼はしり保存会)である。

念佛寺、修正会の結願として毎年1月14日に行われる。

五條市の念仏寺で開催される。

14日の午後4時から、昼の鬼はしりが始まる。これは無灯火だが、鬼はしりと同じ所作が行われる。続いて子供鬼走りである。

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その後、御供まきも行われる。

鬼はしりは夜間だが、初めて行かれるなら昼の鬼はしりもおすすめである。

午後9時,鬼走りの行者は迎えの小たいまつに続いて入堂する。

父鬼は赤、母鬼は青、子鬼は茶の麻の衣装である。手や足にはカンジョーリという紙縄で衣服を縛る。

鐘を合図に、須弥壇の裏をカタン,カタンと樫の棒(板)でたたく音が響く。乱声乱打(らんじょうらんだ・・こちらでは「らんせい」と言われていた)である。

はじめに火天(カッテ)役による「火伏の行(ひぶせのぎょう)」。桶にはめ込まれた大きなたいまつを空に向かって水の字を書く。最後にそれを天井高く差し上げた。

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鬼走りが始まる。たいまつは佐役(スケ)が持ち上げる。斧を持った赤鬼がともに現れ、スケから松明を受け取る。

片腕,片膝でたいまつを受け取った赤鬼は,天空に向かって斧を構えて静止し,火の粉を振りまきながら正面戸口に歩を進める。

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続いて青鬼。さらに茶鬼である。そろって静止した後は順次下がって、堂内を阿弥陀如来を廻る形で周回して、あらためて右手から登場する。こうして堂内を三周して、行は終わりである。

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残されたお面の裏には文明18年(1486年)の文字が残されていることや、安永2年(1773年)の村鑑明細帳には、現在と同じ所作が記されているとのことで、行事の歴史の裏付けもあるのである。

道路事情が劇的改善で、奈良盆地から五條へはとても早くなった。五條西インターチェンジから降りて、一キロもいかない上野公園の駐車場が公的駐車場で、こちらからはマイクロバスのピストン運行である。お昼過ぎから完全に終了するまで随時に運行されていて、とても便利である。混雑するお寺の駐車場に入る必要はない。地図を参照。

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奈良県下で、国が指定した重要無形民俗文化財は以下のとおりである。

題目立
春日若宮おん祭の神事芸能
十津川の大踊
陀々堂の鬼はしり
奈良豆比古神社の翁舞
吉野の樽丸製作技術
江包・大西の御綱(以上、指定順)

大和の神々』(奈良新聞社1996年)参照




# by koza5555 | 2018-01-15 14:43 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

奈良で一番早い  植槻神社(大和郡山市植槻町)のオンダ

植槻八幡神社

平城京地鎮の古社。創建年不詳。伝承では藤原不比等ゆかりの幻の古刹・殖槻(建法)寺の鎮守社で、平城京の裏鬼門(西南)にあたる宇惠都支(植槻)の地に勧請された。清少納言『枕草子』の「森は(106・195)」に「うゑ(へ)つきの森」の記述がある。毎17日斎行の『植槻おん田祭』は古くから大和三大奇祭の1つ。 植槻神社ツィター


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大和郡山城のすぐ北である

例年は「午前10時に斎行」とのことで訪れたが、シーンとしている。オンダは午後4時から、10時からおぜんざいの接待はいたしますとのことである。大和郡山はちょっと遠いのであるが、出直しである。

ポイントは植槻神社の公式ツイッターにあるように、この神社の前身は平城京の裏鬼門備えのお寺と神社とのことである。九条三坊という条坊からみて、それは認められるとの見解が大和郡山市史に記されている。

さらにポイント。こちらのオンダは、奈良では年明け一番のオンダ祭であるということがある。

オンダは僕の今年のテーマであり、これは見逃せなかった。

神主を先頭に、牛の鼻持ち、牛役、牛追いと拝殿に上る。拝殿の中での行事に今年から変わったとのことである。

鼻持ちは翁の面をかぶり、朗々と口上を述べる。お面をかぶっての口上だが、セリフの内容、声量が氏子のレベルを超えている。そのあとは鼻持ちが鍬をもって、セリフをしゃべりながら、田を耕す(畔を作る?)。

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牛の出番である。牛はカラスキ(唐鋤)を付けて3周、その次にはマンガ(馬鍬)に代えて3周である。

種まきは鼻持ちがして、早苗(松葉)が育ち、田植えとなる。

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こちらの神社には、オンダ祭りに使う鍬(くわ)には、天保10年〈1839〉の墨書銘が残されているのとのことであるが、写真の鍬がそれかどうかは確かめ損ねた。

奈良一番のオンダは17日の植槻神社、奈良で一番終わりのオンダが石上神宮、630日の神剣渡御祭(でんでん祭り)の神田神社で行われるオンダである。

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こちらは石上神宮である。この日は雨で神剣渡御祭が中止。オンダだけ石上神宮の拝殿で実施された




# by koza5555 | 2018-01-07 22:38 | 奈良 | Comments(0)

東大寺勧進所の赤門と公慶上人

東大寺の勧進所の門は赤門である。おなじような赤門を法華寺にみることができ、室生寺にも赤門が残されている。

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            東大寺勧進所の赤門


4月だったか、菅谷文則先生の「歴史と色」という講義を受けた。色は身分を示したり、生死を分ける印であったりということを令義解(りょうぎげ・平安時代の法律の解説書みたいなもの)からの解説だった。


この中で東大寺の勧進所の赤門と東京大学の赤門を話題とされた。少し、時間も経っているが、最近、東大の写真も撮ってきたので、これを僕なりに考えてみた。


東大寺勧進所の門は赤門である。公慶は貞享3年(1686年)、大仏修復勧進を本格的にするため、東大寺の穀屋の地に龍松院(勧進所)を建てる。勧進をすすめて、元禄元年(1688年)には、東山天皇から上人号が勅許された。公慶の個人の評価だけではなく、大仏復興事業を朝廷が認めたということだった。


さて、赤門は門跡寺院(皇族が所属する)などに許されるものである。また江戸時代の大名屋敷などからみてみると、三位以上の官位を受けた者だけに許される門だった。その意味から見ると、公慶上人は三位相当ということなのだろうか。

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      法華寺の赤門。門跡寺院である。

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室生寺の赤門。太鼓橋を渡ると道なりにすぎ左手に見える。開かずの門である。この赤門の設置理由は不明である。


赤門といえば、東京大学である。

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文政10年(1827)加賀藩主 前田家斉にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿(ごしゅでん)門であり、重要文化財に指定されています。(掲示板)

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江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿は御守殿という。これは三位以上の大名であり、この場合は御守殿門が赤門とされた。四位以下の場合は 御住居(おすまい)と称して朱塗りにはされないとのことである。


第13代加賀藩主、前田斉泰は将軍家斉の娘の溶姫を迎えることにより、従三位に昇進したとされる。

この頃(幕末)になると、三位で御守殿、四位のままで御住居という選択は、台所の事情により藩の意向も反映する時代となったと聞く。もちろん、加賀藩は大藩だる。当然、従三位の昇進を求めて、溶姫を迎え、御守殿、赤門を用意したという論もある。

こんな歴史も経て赤門は作られて200年となる。加賀藩の赤門よりもはるかに長い時間を東京大学の赤門として、いまも役割を果たしているのである。


最後に勧進所の赤門と公慶上人に戻りたい。公慶上人はどんなふうに赤門を通っていたのかなである。ところが「公慶上人は赤門を通らなかった」という見方もできるのではと考えた。

上人と勅許されるのは1688年である。

東大寺には「大仏開眼供養図」という屏風が残されている。1692年の会式の図である。この絵に勧進所の赤門が描かれていない。

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話はそれだけである。赤門が作られたのは公慶上人が亡くなってから(1705年)のことかもしれないというのが、僕の問題意識である。
そして、公慶上人の偉業を改めて勉強できたのは、付録の喜びだった。


公慶上人は大仏の修復に成功した。大仏殿の再建の道筋はきちんとつけて亡くなった。

開眼会に参加した僧は一万人以上、俗人が20万人という。当時の奈良市民の10倍以上とのことである。

「公慶はプロデューサーの優れた能力があったように思われる。どのようにすれば人が集まるか、どのようにすれば人が喜ぶか、とてもよくわかっている.企画が優れ、段取りがよく、工夫がみられ、配慮がある。学僧でありながら勧進にも才能を発揮し、何よりも燃え滾る宗教的情熱がある。(西山厚)

参考文献  『近世の奈良 東大寺』 公慶上人の生涯  西山厚 



# by koza5555 | 2017-12-29 06:40 | 奈良 | Comments(0)

嶽山(だけやま)古墳

宇陀市榛原安田の山中である。

嶽山から安田に下る尾根に真南に開口する横口式石槨墳である。見た目では横穴式石室の奥に石槨が取り付けたという形で、複雑で不思議な構造となっている。


桜井市の中心部から東を見るとまずは外鎌山だが、実はその奥に大きな山を見ることができる。

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こんな形で堂々としている。ちょっとカマボコ型で東西に長いから、きたの初瀬から見ると台形に見える。この山の南側は笠間、安田、雨師(いずれも宇陀市榛原)と西から東に並んでいる。

国土地理院の地図には526mと記されるが、山名が記されていない。登山道は笠間の新陽明院陵の横から登っていくとNHKの中継塔が設置されている頂上に到着する。

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            新陽明門院陵

笠間の方に山名をお聞きしたことがある。「ダケだ」とのことである。「いや、山の名は」と重ねて聞くと「ダケ」。

違う機会に雨師の方に聞いたら、「ダケ」、しいて言えば「雨師のダケ」。

「ダケ」だけという山名、村にとっては大事な山だったんだなと思われる。

この名前の古墳があることに、今更ながらだが、最近気が付いた。それは「嶽山(ダケヤマ)古墳」という名である。「ああ、ダケは岳じゃなく、嶽なのね」、という感じである。

明治26年に調査されたという野淵龍潜の調査でも286番として記録がある。

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これをさがした。なかなか見つからなかった何とか到着できた。

安田区の農事集積所をまっすぐ西に上がる。左手に「嶽山古墳150m」の看板がある。

そのまま上ると右に電柵が張られた道が見える。そのまま20mも上がると車が停められる。電柵のフックを外して山に入る。すぐに左に分かれる道があり、それを登る。100mほど登ると右手に看板、右へ行けである。ブッシュをかき分けながら右に入ると尾根の真ん

中に大右があり、到達できた。

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入口見る、狭い。先も見えない。これは絶対に無理である。

墳丘の上に上ると、僥倖、カメラが入る穴があった。横穴古墳かと考えたが、一番おくに石槨が築かれている。

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玄室の奥に石槨があるとはと驚くが、これは大阪府羽曳野市の飛鳥千塚古墳群、奈良では桜井(この古墳と近接)の花山西塚古墳(国史跡)位のものらしい。

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「村の西方帰山の峰にあり。石窟ありといえども・・・入りえず」と龍潜は記した。ほかにも「石槨は見ることができない」とされていたが、最近、羨道の合間に口が開いたと思われる。だから、カメラは入る、滑りこめば入れると思うが、出てくるのが至難の業。それは現場で判断してください(笑)。

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# by koza5555 | 2017-12-27 21:41 | 宇陀 | Comments(0)