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奈良・桜井の歴史と社会

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『文学で読む日本の歴史』

『文学で読む日本の歴史』。桜井の図書館本である。

元東大教授の五味文彦先生、中世史の研究家である。5年ほど前の本であるが・売れ行きはどうだったんだろうか‥

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五味先生は日本の中世を研究されたが、「日本中世史の分野・領域の研究の限界を知ることになった。その歴史に限って探っていてはあまり見えないことが多すぎると思う中、新たな視角から日本の歴史を広く探ってゆく必要を痛感し、そのためには時代区分を再考しなければならないと考えるに至った。」

として、時代区分の検討…それを中世だけではなく、有史の古代からの変化を考えるとして100年単位(三世代)で、歴史を区切られた。
その区分は、なかなか魅力的で、そのまま紹介ると・・:・以下のとおりである。

57年 倭奴国、漢に朝貢     弥生時代の後期

266 倭の女王、晋に使者を派遣 古墳時代前期

369年 百済、七支刀を倭の贈る  古墳時代中期

477年 倭の武王、宋に朝貢    古墳時代後期

572年 敏達天皇即位       飛鳥時代

667年 天智天皇称制       律令時代

767年 道鏡政権         律令体制の変容

866年 摂政藤原良房       摂関時代

969年 摂政藤原実忠       後期摂関時代

1068年 後三条天皇即位      院政時代

ムリムリに当てはめているところもあるかもだが、ネーミングも含めてとてもおもしろい。
弥生時代、古墳時代、飛鳥・藤原時代・奈良時代のような言い方よりも、はっきりわかりやすい、語りやすい。
「文学で語る」の本筋は、何も紹介できないけど・・これだけ読んだだけでも価値があった。
『古事記』、『萬葉集』、『日本書紀』、『古今和歌集』などと続いて、最後は『枕草子』と『源氏物語』である。

清少納言の『枕草子』は、最近読み直したばかりで興味深かったが、

「その自然観を端的に物語っているのが第一段」として、

「はるはあけぼの.やうやう白くなり行、山ぎはすこしあかりて、むささきだちたる雲のほそくたなびきたる」

であり、

「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし」。

「秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音などいとあはれなり。」

「冬はつとめて。雪のふりたるは、いふべきもあらず。霜のいとしろきも、またさらでも、と寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。

いいよなあ・・この景色、これが日本人の一つの自然観を形作ったと思うが・・

「総じて一段は、枕を交わした人と見たり、聞いたりする景色をあげたもの」とのことで、ああ、なるほど・・・

である。

こんなことが、次々と書き連ねられる、文学を通して歴史を考えようという本である。

350ページほどである、楽しめた。

『文学で読む日本の歴史』山川出版社。元東大文学部教授の五味文彦著である


# by koza5555 | 2019-09-18 21:32 | 読書 | Comments(0)

『金剛の塔』

1400年前、百済から渡ってきた工人(大工)が、四天王寺の五重塔を作り上げたという。

『金剛の塔』。小説である。木下昌暉著。「技能時代小説」というらしい。

「兵火雷火で七度も破壊されつつも、そのたびによみがえった宝塔のことよ。まあ、火や雷には弱かったが、自慢なのは地震では倒壊したことがないことじゃ。これはわが四天王寺だけでなく、日本の全ての木造五重塔がそうじゃ」というところから物語は始まる。

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この本の面白いところは、初めに造った(578年)大工の工夫と努力だけではなく、承和三年(836)の落雷で焼失した後の再建、天徳4年(960年)の火災のあとの再建、天正19年(1591年)の再建、享和元年(1801年)の落雷で焼失したのちの再建など、その時々の大工の努力と工夫を紹介しながら、五重塔の構造を解説していくところである。


中国にも朝鮮にもなかった木造の五重塔、大量の雨が長く降り続く日本の風土に合う五重塔でなければならない。しかも、その当時も何度も地震に襲われる(南海トラフの崩壊、内陸の断層のズレによる揺れ)日本で耐えうる五重塔を設計、建設した大工の智恵である。


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これは中国の西安(長安)の大雁塔。ちょっと日本の塔とは雰囲気が違う

それは心柱の発明である。

「一本の心柱が、通し柱のように五重塔を貫いている。だが、この柱は五重塔を支えていない。ただ、それ自体が独立して立っているだけだ。‥全く無意味な材だ。にもかかわらず、これしかないと思う。倭国の地揺れにたえる仏塔は、この形しかないと断言できた。」

どうして、百済の工人が新柱に行きついたかの解明はない。ちょっと超能力的な聖徳太子の啓示によるとのことで、ここは小説である。

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この心柱の考え方、技術は現代のスカイツリー、東京駅前の新丸ビルに生かされていると、話が広がって、『金剛の塔』はまとめられる。

技術的なことは『おもしろサイエンス 五重塔の科学』(日刊工業新聞)が、解明している。併せて読んでいただけるならば、理解が深まるだろう。

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ちなみに現在の四天王寺の塔は鉄筋コンクリート、飛鳥時代の技術を傾注しているとのことだが、空襲で焼けた塔は昭和38年に再建された。



四天王寺にとって、西門の石の鳥居は海からの入り口だったことがふれられていて、これは興味深かった。昨年のお彼岸に写真を撮っている。

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最近、瀧川寺社建築の社長に「天平尺」の定規をいただいた。1尺は2954センチメートル。



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# by koza5555 | 2019-09-16 22:20 | 読書 | Comments(0)

飛鳥(大字)の弥勒法要

9月の第一日曜日、午後2時から明日香村岡の弥勒堂にて、「弥勒法要」が行われた。

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強烈な陽ざし、猛暑のなか、飛鳥寺の僧侶の読経の中、参加された来賓、村民など30名あまりが様々な願いをミロクさんにお願いをする。

もともとは旧暦の85日の行事だったが、昨年(平成30年)から9月の第一日曜日に日程を変更されている。


弥勒堂の前の表示

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弥勒石

この「弥勒石」は、真神原の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が細工されているだけである。

 弥勒石を拝むと下半身の病気が治るといういい伝えがあり、今も地元や周辺の人々の信仰を集めるとともに、「ミロクさん」と呼ばれている。

 毎日旧暦8月5日に飛鳥大字がお祭を行っています。

                   明日香村大字岡です

掲示されている由緒と別に、今では足の仏さんと言われるようになり、わらじの奉納が行われている。

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ミロク石は「飛鳥川の十流から流れて来たとも、近くの飛鳥京苑池のものとも、また、現在は百㍍程上流になっている木の葉堰の石であるとも言われている」。「弥勒石が川から引き上げられたとされる旧暦の8月5日」、(『繋――明日香村の大字に伝わるはなし』)に飛鳥の大字により法要が行われる。飛鳥川下流の飛騨(橿原市)の村からも参列がある。

ミロク石は岡の大字に所在するが、この祭りにはあくまでも飛鳥の大寺の主宰で、岡は来賓としての参列する。



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「あすか夢の楽市」から県道124号線をセブンイレブン(亀石ちかく)の方向にむかい、飛鳥川を渡る橋の手前の左手を見ると小さなお堂が見れる。川沿いの側道ができており、どんな靴でも軽く入れる。

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今年、撮った初めてのヒガンバナ

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# by koza5555 | 2019-09-08 21:50 | 橿原・明日香 | Comments(0)

祟る神と雷鳴陣

にわかに空かきくもり、雷鳴ひときわ騒がしい。昨日の事である。落雷があり、しばらくは停電があったりでバタバタする。そこで‥‥雷を考えてみた。

佐味田宝塚古墳(河合町)の家屋文鏡にも、稲妻が空を走る絵が描かれている。

宮殿はキヌガサがさしかけられ、空には稲光、稲妻の中に宮殿を見下ろす子供の姿が描かれている。これは子供に化した竜神がいつ下りようかと狙っている図とのことである。『歴史の中の大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』保立道久(岩波新書)による。
佐味田宝塚古墳の全景

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佐味田宝塚古墳は、公園の区画からは外れているが、馬見丘陵古墳群の有力古墳である。

家屋文鏡の雷神の子供、下界をうかがう


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歴史のなかでの雷の位置づけを考えてみた。

まず、清少納言が雷を書いている。

「神のいたう鳴るおりに」『枕草子』(279)である。講談社学術文庫の『枕草子 下』(p230)によると、「雷がひどくなる時に、神鳴の陣ほど、恐ろしいことはない。左右の近衛の大将や中、少将などが、清涼殿の御格子のそばに伺候なさるのが、とても気の毒な感じだ。雷鳴が終わった時に、近衛の大将が一堂に向かって『下りよ』と下知なさる。」

天皇を守り、雷と戦う近衛の武官を「とても気の毒」と書いて、同情している。

先述の保立道久先生が『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で、この神鳴の陣を書かれていた。

「雷電への恐怖は古くから続いていた。たとえば雷鳴の際に、近侍のものが天皇を護衛するために集結する『雷鳴陣』という風習があり、佐多芳彦によれば、その資料的所見は、聖武天皇の727年(神亀4)正月、冬の雷が宮廷に鳴り響いた時の例とされる。この時、宮中に天皇の側にいて雷から天皇を護衛すべき侍従の文官と武官が遊びに出ていたため、彼らはきびしく咎められた(『万葉集』巻6949)」(p186

この歌を紹介しておくと

梅柳 過るらく惜しみ 佐保の内に 遊びしことを 宮もとどろに(萬葉集6949

「梅や柳の盛りが過ぎることを惜しんで佐保に遊んだが、大騒ぎになった」という意味である。

さらに以下のような注がついている。

「右は、神亀4年正月、多数の皇族や臣下の子弟たちが春日野に集まって、打毬の遊びを行った。その日急に空が曇って雨が降り雷が鳴り稲妻が光った。この時、宮中に侍従や舎人たちもいなかった。そこで勅命で処罰し、皆を授刀寮に閉じこめ、みだりに外出することを許さなかった。そこで心も晴れず、この歌を作った。作者はわかない。」『萬葉集』二のp148 (小学館)

雷の鳴ったときに、「雷鳴陣」を取らなかったことが咎められた。

雷が鳴ると天皇を守るために欄干を前に並んで座る。なんとなく落雷を招くみたいな行為だが、その体制は奈良時代・・平安の時代を通して守られた。

雷の怖さは、自然現象の雷の怖さだけではなく、実はこれは怨霊から天皇を守ると言うのが雷鳴陣とのことである。

怨霊は雷神になるという。記録にある一番古いのは早良親王(崇道天皇)で、その後も数多くの怨霊が雷神になった。菅原道真は雷神として有名だが、道真だけではないのである。

地震があり、火山の噴火があり、落雷があると飛鳥の時代から平安時代まで、政治は大きく影響を受けた。

怨霊という考え方もあるが、それを契機に政治が変わるという契機にもなるようである。

さらに古代になると、雷神の力により、あるいは雷神そのものによって身ごもられた子供の力は強いという観念もあるようである。

雄略天皇が少子部のスガルに、「雷を連れて来い」と命令する、これが『日本霊異記』の一番目のテーマである。

「雷を連れてこい」は、天皇の婚合の場を邪魔をしたことへの怒りの無理難題かと思っていたが、婚合は雷の力を求める儀式だったとの意とのことである。「時にあたりて雷なりき」とあり、婚合の初めから、空はかき曇り、雷鳴と雷光のなかでの儀式をスガルが邪魔をしたとのことらしい。

雷神は古代(神話時代)は王権に力を授ける神である。雷神の強烈さから、奈良・平安時代にはもっとも恐れられた怨霊がこの雷神の姿となって現れるような変化も生まれた。

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# by koza5555 | 2019-09-05 20:33 | 読書 | Comments(0)

崇峻天皇、妃の小手子と蜂子皇子

談山神社の社報、『談』の92号は、倉橋とか下、浅古の下居神社を取り上げてみた。
崇峻天皇と小手子妃、蜂子皇子がテーマである。
大和では今一つ人気がでない、崇峻天皇一家は奥州で花を咲かせていた。
以下、全文である。



桜井市にゆかりの人、大伴小手子(こてこ)と蜂子(はちこ)皇子を紹介したい。

元号が改まった。「令和」は萬葉集から取られたと評判である。「初春の令月にして、気淑く風和らぐ」は、大伴旅人が官人などを誘い開いた梅花宴の序にみられる。

この大伴旅人にちなみ、大伴氏の家系を考えてみた。倉橋に宮を置いた崇峻天皇の妃は大伴小手子、皇子は蜂子皇子である。
大伴氏の家系を研究した北山茂夫氏は、「神代紀以来壬申の乱に至るまでの、日本書紀に登場する大伴氏一族の行動を克明に調べた結果、小手子というたった一人の女性を除けば、大伴氏の一族は一度も天皇家に逆らっていない」(『大伴家持』平凡社)と書いた。


これはどういう事だろうか。
イノシシを奉られた崇峻天皇が、「いつかこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思う男を斬りたい」と語ったという。情報網を張り巡らしていた蘇我馬子は先手を打って天皇を撃ち滅ぼしたと、『日本書紀』には記されている。


さらに、「ある本に曰く」として、「天皇の寵愛が衰えたことを恨んで、天皇の企みを馬子に通報したのは小手子だ」との異論も書かれている。崇峻天皇を馬子に売り渡すようなことを、大伴氏の娘が行うとは信じがたいが、この「ある本に曰く」が一人歩きして、「大伴一族の中で小手子だけが天皇家に逆らった」と言われるようになってしまった。小手子の悲しみはあまりにも深い。

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崇峻天皇倉梯岡上陵

崇峻天皇の亡き後の小手子と蜂子皇子の事を日本書紀は何も語らないが、小手子と蜂子皇子は奥州(東北)に落ち延びて、存在感のある歴史を残していることがわかった。


まずは蜂子皇子のことである。
崇峻天皇が暗殺された後、蜂子皇子は奥州に落ちのび、出羽三山神社(山形県)を開山、開祖となった。出羽三山神社(出羽神社)には、開祖・蜂子皇子を祀る蜂子神社が置かれ、蜂子皇子墓も祀られている。さらに蜂子皇子が郷里の大和の地をしのべるように、出羽の地には下居神社が鎮座された。


下居神社の倉橋・下・浅古の氏子は、この縁を大事にして出羽三山の1400年祭(平成5年)に山形県に出向いて公式参拝を行った。のちに、この公式参拝を記念する碑を下居神社の境内に立てることになるが、記念碑の除幕式には、出羽三山神社からも宮司、氏子総代が列席され、蜂子皇子を思う心は大和も出羽も共通であることが示された。

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下居神社天満祭 

妃の小手子の奥州行きも波乱に満ちている。小手子は蜂子皇子を探して奥州を巡行、福島県伊達郡川俣町(旧小手郷)に到った。小手子はここに養蚕と絹織物を伝えて、村の暮らしを豊かにしたと伝えられる。川俣を「絹の川俣、八千八機(はっせんやわた)」と歌われるように一大絹織物産地に発展させた恩人として、小手子は愛され尊敬されている。


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川俣町の小手姫様像 (福島県伊達郡川俣町提供) 

福島県の川俣では、小手子は「ゆるキャラお手姫様」と親しまれ、山形県では蜂子皇子は出羽三山の開祖とされる。大和を逃れた崇峻天皇一家は奥州では大の人気者、ここに日本の歴史の豊かさを実感する。

『日本書紀』は崇峻天皇の宮は倉梯(倉橋)、陵は倉梯岡陵と記した。宮内庁が指定した陵とは別に、天皇の墓地は巨大な石室を持つ赤坂天王山古墳とか、「岡陵」の名にふさわしいスズメ塚(陵墓参考地)との論もあるが、いずれも倉橋の周辺である。


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# by koza5555 | 2019-08-28 23:14 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

八木の愛宕祭


八木の愛宕祭に行ってきた。

今日は三輪恵比須神社の「えびす神道セミナー」でお話をさせていただきまして、講座は一段落。食事をしようと八木に出ると、にぎやかなお祭に遭遇(笑)、愛宕祭であった。八木の愛宕祭は曜日に関係なく823日・24日・25日。

町内のあちこちに愛宕神社祠が設置される。町屋の土間、玄関脇、空き地などに様々な工夫をして設置される。

それは合計で38ヶ所、祭の実行委員会のテーブル(晩成小学校グランド)には、その設置場所の地図が置かれていた。

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それとは別に「立山(造り山)」

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が作られている。

「畝傍駅」(八木まち創り会)、「月に向かうドラえもん」(関西大学)「(牛乳パックで作る)古墳と埴輪の立山」「チコちゃんに叱られる」などを拝見した・・・・

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お供えで不思議なものを見た。

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ズイキが軸にしてするめと昆布をかんぴょうで縛り、ミニトマト、唐辛子、ピーマン、ニンジン、ナス、レモンを串刺しにしたお供えって、見たことあります?

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愛宕信仰は、「火防(ひぶせ)」の神としての愛宕さん、敬神の団体としての「愛宕講」の祭りが、町ぐるみの祭として根付いたものと思われる。「八木」がとくに盛んと聞いていたので、今日は拝見できてよかった。

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この下駄は何だろう?
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# by koza5555 | 2019-08-25 23:22 | 橿原・明日香 | Comments(0)

橿原考古学研究所で「桜井茶臼山古墳出土木棺」展

博物館が改修のために閉館中(昨年12月から。少なくとも来年の春までは開かない)の橿原考古学研究所が1階アトリウムにおいて、茶臼山古墳の木棺を展示している。初公開である。

8月21日(水)から1031日(木)までで、月曜日~金曜日(土・日・祝祭日を除く) 8:3017:15である。

橿原考古学研究所、初めてだとチョット入りにくいが一回のロビー(アトリウム)は出入りが自由である。

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橿考研は、2009年に桜井茶臼山古墳を発掘調査している。60年ほど前に発掘されているが、残っていた木棺を取り出して保存処理を行うことを目的としての再発掘調査である。現地見学会も行われた。竪穴式石室内部は水銀朱で真っ赤、天井石の鮮やかな朱色は今でも記憶に残っている。

この時に取り出された木棺が展示されるとのことで、早速拝見してきた。

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材質はコウヤマキである。

「杉と楠は舟を作るのに良い。檜は宮を作るのに良い。マキは奥津城の棺に使うのが良い。そのために山に木々の種をまこう」と、スサノオが言うくだりが日本書紀には書かれているが、見事、その通りである。

杉及び樟、此の兩の樹は以ちて浮寶と爲すべし。檜は以ちて瑞宮(みづのみや)の材と爲すべし。柀は以ちて顯見蒼生(うつしきあおひとくさ)の奧津棄戸(おきつすたへ)に將(も)ち臥(ふ)さん具(そなえ)と爲すべし。

橿考研による2度目の調査で木棺を取り上げ、約2年半かけて内部の水分をPEG(ポリエチレングリコール)に置き換える保存処理を施した。

木棺はコウヤマキ製。腐朽と盗掘で原形は失われているものの、底の部分が残り、その長大さが分かる。蛍光X線分析では表面から水銀が確認され、水銀朱が塗られていたとみられる。た。(橿原考古学研究所HPから)

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20091029日に現地説明会だった。桜井駅から桜井茶臼山古墳まで、人並みは途切れなかった・・と言っても言い過ぎはなかろう。

付け加えると、同年、月が替わった1114日に「纏向遺跡の居館域の調査(纏向遺跡166次調査)」で大型建物の柱穴、建物の現地説明会が行われている。この説明会も別の場所で集合、200人くらいのまとまりで現地に案内されるという説明会だった。

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この二つの現地説明会は、僕の人生のその後に、ちょっとインパクトを与えた。

さて・・橿原考古学研究所のアトリウム展、ぜひ、おいでください。

2009年の現地説明会の資料と同じものがいただける。『橿考研通信』のバックナンバーなんかも置いてある。

古墳が好きになるチャンス、奈良を見直すチャンスである。


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# by koza5555 | 2019-08-23 09:35 | 古墳 | Comments(0)

海石榴市

大地と空をつなぐ大樹は、今も古代も心の依り代である。


雄略天皇の泊瀬朝倉宮には槻の樹、飛鳥の宮には槻の木の広場。

古代の市も例外でなく餌香(えが)の市には橘、海石榴市には椿、おそらく石上の巷には楢の木(ならの石上から・・・)が植えられていた。


8
18日に東京の奈良まほろば館で聞いていただいた。さらにパワーアップして、25日には三輪恵比寿神社にて「萬葉集と山の辺の道」のお話しをする。とりあえず椿市から始めるが、書紀、万葉だと海石榴市(つばきち)と記される。江戸時代の国文学者、契沖は「つばきとざくろは花が似ている」と書いたが、どうも、これは「実が似ていた」であろう。

では、どこで、いつ、誰が取り交ぜてしまったのか。その「首謀者は隋の皇帝 煬帝じゃないか」(笑)なんて言う話なのである。

椿市と海石榴市。
山辺の道は桜井市金屋、三輪山の南の山すそから始まる。横大路があり、初瀬路があり、宇陀路があり、飛鳥に至る山田道がある。瀬戸内、難波につながる大和川もここら辺りが船運の限界になる。この巷、古代の大きな交易中心地から山の辺の道は始まる。

ここを椿市。古代には海石榴市(つばきち)と言われる。
椿市、この市には椿が植えられた。ところが書かれてみると海石榴市で、これはザクロの事である。これがわからない。
江戸時代の国文学者の契沖は、「椿と柘榴は花が似ているから」とかいうが、これも分からない。

推古天皇16年(西暦)夏4月、小野妹子は大唐から帰朝した。・・・大唐の使人裴世清と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫に至った。

6月15日、客たちは難波津に泊まる。飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。(この時、妹子は中国皇帝、煬帝の親書を百済で失ったと報告した。天皇は妹子を罰していけないと妹子の罪をゆるした)
秋8月3日、唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。

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仏教伝来、僧や仏像が到来したのもこの地と思われる。

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万葉集もご存じのとおりである。代表的な三歌を示してみよう。

海石榴市の 八十(やそ)の巷(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐(ひも)を 解()かまく惜しも (巻十一 2951)柿本人麻呂歌集

紫は 灰指すものぞ 海石榴市の 八十の街に 逢へる兒や誰  

作者未詳(巻十二 3101

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど  路行く人を 誰と知りてか 

作者未詳 (巻十二 3102)                                        

枕草紙(第14段)ならば。清少納言である   市はたつの市。つば市。大和にあまたある中に、長谷に詣づる人の、かならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり。おふさの市。しかまの市。あすかの市。

『大美和』の創刊100号記念特集号で、「いつから椿市を海石榴市と書くのか。なんで椿と柘榴は関係があるのか」、そんなことを調べた人が書いている。成城大学の名誉教授の上原和先生(故人)である。

石榴とはもともと ざくろのこと。隋の煬帝のころの『初学記』にあるという。


「海榴ひらきつきんと欲し、山桜開きて未だ飛はす」。

中国(隋)で詠まれた詩である。山桜は日本の花、この花が開花する前に落花する海榴とは椿の事で、これは日本の情景と判断された。
花の順は、あくまでも椿、山桜、柘榴である。
煬帝は世界から草木を集めたという事も有名で、現実に隋の時代に長安の皇帝の庭の風景とも思われる。


なんで椿が中国では柘榴とされたか・・・江戸時代の国文学者の契沖は「つばきは石榴(ざくら)の花に似て」と注釈したが、それは誤りで、花にではなく、実に似ているのである。椿は春に花が咲き、夏になって溜状の実をつける。ざくろも初夏には花が咲くが、中秋のころには大きな赤橙色の実をつける。

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8世紀ころからは、日本でも、中国風に椿を海石榴と書かれる。

裴世清が三輪の椿市に到着するのは旧暦の83日(秋)、椿に実が数限りなく実り、これは椿、これは海石榴と喜んだのかもしれない。

8世紀からは椿が中国風に海石榴と表され、平安時代、清少納言のころには椿はつばきとなっている。

海石榴市と書かれた時代は、海石榴市は国の首都の入り口。

椿市と書かれた時代は、長谷への道、伊勢参宮への山に入る区切りの宿・市である。

つばきち(つばいち)の格が、平城遷都・長岡・平安遷都により、国から地方的なものに変わったいったとみるのが妥当だろう。






# by koza5555 | 2019-08-21 20:58 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

えびす神道講座

えびす神道講座でお話しします。

825()13時から90分。

「三輪恵比須神社から観た万葉集と山の辺の道」

●三輪恵比須神社にて、参加費は1000円です。講演後はお茶のふるまいもあります。

●お申し込みは、恵比須神社(0744-42-6432)まで

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記録に残る最古の市場は、海石榴市(つばいち)。三輪山のふもとにあり、山辺道・初瀬街道・竹ノ内街道が交錯した交通の要衝だった。

何よりも大和川を通じて難波に通じ、それは中国、朝鮮への窓口ともなりうる場所だった。

推古16(608)、小野妹子とともに、裴世清は海石榴市に到着、80頭の飾り馬で迎えられたという記録も残されている。

この地に市の神として、三輪恵比寿神社がまつられている。

長くて深い歴史を持つ恵比寿神社で、えびす神道講座が行われている。

今回は、初めて外部講師としてお招きいただいた。

海石榴市と恵比寿神社、そして山の辺の道をきちんと考える講座とした。

ぜひともおいでください。

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# by koza5555 | 2019-08-19 13:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

繋 明日香村の大字に伝わるはなし

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多武峰、万葉展望台から明日香村に下るハイキングコースがある。その道を下ってくる。イノシシや鹿が人里に入らないようにと設置された防護柵を越えると上居(じょうご)の大字である。その道端に10体ほどのお地蔵さまが並べられている。


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いわれを知りたいと考えていたが、「繋 明日香村の大字に伝わるはなし」に解説されている。

上居の上には平尾という大字があり(大正時代に廃村)、このお地蔵さんの所は、平尾の大字の寺跡だったと書かれている。

「平尾の以前お寺のあったところに、周辺から出てきたお地蔵さんや、今では誰も通らなくなった細い山道の角々や辻に祀られていたお地蔵さんを集めて三か所で15体祀られている」。このお地蔵さんの写真を僕は持っていた。5年越の疑問が解けた・・・

大字飛鳥の「弥勒さん」も、とってもわかりやすい。弥勒さんのいわれの地元の伝承が示され、弥勒さんを川から救い上げたとされる旧暦の85日に祭をしていたが、平成30年からは9月の第二日曜日に変更したことなどが記されている。

明日香村の39の大字の大字名の成り

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立ち・歴史にはじまり、お地蔵さん、社寺、村の祭、歴史、「行ってはいけないところ、してはいけないと言われていること」などなどが調べられ、記録されている。いわば、明日香村の悉皆調査である。

明日香村文化協会の20名あまりの皆さんの10年がかりの労作で、その努力とその成果に感動した。平成311月に発行された。

明日香村を知ろうとしたら、この本は必携である。それは奈良を知る上でも大きな力となろう。

各図書館には置かれているが、非売本であるので、入手方法を書き足しておきます。

明日香村文化協会に入会すると、会員はこの本がいただけます。会費は一年で2000円、入会すると、この本が自動的に送られてくる。

明日香村文化協会の窓口は明日香村中央公民館で、直接、出向くか電話を架ける。

出向けば、窓口で入会手続きが完了。会費も払う(本がいただける)

遠方の方は、入会の申し込みを電話で行う、振り込み用紙が郵送されるとのことである。

明日香村中央公民館  電話0744543636

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# by koza5555 | 2019-08-14 11:13 | 橿原・明日香 | Comments(0)

忍阪の迎え火

忍阪(桜井市)のHさんにお願いして、お盆にご先祖様をお迎えする「迎え火」を拝見させていただいた。

忍阪では、ご先祖は13日の早朝に迎えて、16日にお帰りになる。

宗派とは関係なく、垣内(かいと・村の中のグループ)ごとにお迎えする場所が決まっている。12日には祭壇を整え、玄関先には「がきんど」(施餓鬼)も用意して、ご先祖のお迎えに出かける。

ご先祖は祭壇に、餓鬼道は玄関先でという事である。

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これは玄関前のガキンド。餓鬼道へのお供え

細い道を粟原川に向かって下る。

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旧道沿いの玉津島神社と聞いていたが、どんどん下ると右手にはちょっとした砂盛があり、左手には、お盆には咲くというみそ萩(禊萩)の花、これが盛りだった。

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砂盛に線香を立て、手を合わせる。そして、煙がただよう線香を家に持ち帰る。先祖の霊は線香の煙に乗って家に帰られる。

砂盛からは忍阪の共同墓地(埋め墓)が見渡せた。

「お墓まで迎えに行かねばならないが、ここで線香を立てて迎えます。この道はソウレン道(葬斂道)で、お葬式の時に送った道、お盆にはここまでお迎えに出ます」とHさんは話される。


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Hさん宅には木彫りの大師像が21体も祀られているのもすごい。この像は「太師講」の名残とのことである。

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お線香を立て、先祖の霊に呼びかける方向は村の共同墓地である。忍阪の共同墓地は「埋め墓」で、各家の墓石が立てられているお墓の方向でないことも注目される。

念のために申し添えておけば、忍阪には埋め墓(木製の墓標。共同墓地)と参り墓(各家の石墓)がある。

遺体の埋葬地(埋め墓)と墓石を立てる墓地を分ける墓制で、ご遺体は村の共同墓地に亡くなった順に埋葬されていた。


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これを両墓制という。この制度は土葬の時代には有効な制度だったが、火葬に切り替えられてからは、廃れていく。しかし、
忍阪ではいまでも両墓制が行われている。もちろん土葬は行われず、お骨を納めて卒塔婆を建てる…。忍阪では、墓参の墓は「石墓」と言い、墓石が密集した二か所の墓地がある。

忍阪には古代の古墳があり、近世の墓制が残り、現代もある。忍阪は奥が深い…



# by koza5555 | 2019-08-13 15:04 | 桜井・忍坂と等彌神社 | Comments(0)

泥掛地蔵(桜井市橋本)の地蔵盆


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橋本のお地蔵さんは村はずれから300㍍も離れた山の中である。泥掛(どろかけ)地蔵の名、長屋王に関わる青木廃寺の跡地に置かれているという事で、ちょっと注目のお地蔵さんである。こちらの地蔵盆、今年もタイミングが合わずにお参りできなかった。

村が行う地蔵盆とお寺の行事の地蔵盆、両方を行われていることを、今まで知らなかった。

23日の2時から村の地蔵盆。さらに24日の2時からは法栄寺(桜井市橋本)のお寺(信者の)の行事である。23日に伺ったとき、「明日はお寺の地蔵盆。法華宗だから太鼓を叩きます」とお誘いを受けた。喜んで参ったが、時間を繰り上げたとのことで終わっていた。盛大なうちわ太鼓たたきの法要の写真は来年の楽しみである。

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橋本の泥掛地蔵、今では、三つのため池がつながる密林の中のお堂であるが、もともと、この地は10世紀初めに創建されたという青木寺の跡である。

お地蔵さんと並んで、青木廃寺の一切供養塔というのも立てられている。

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廃寺青木寺一切之供羪塔也  昭和六十二年七月二三日吉祥日 法栄寺建之

「創建当時の瓦が出土している。この寺は奈良時代の悲劇の宰相だった長屋王が、父高市皇子の冥福を祈って建てたと大脇潔氏(奈良国立文化財研究所 飛鳥藤原宮跡発掘調査部、現近畿大学文芸学部教授)が考証した。

創建当初の瓦は、平城京内の長屋王邸跡で集中的に出土した瓦と同笵である」(桜井市教育委員会)。

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「桜井風土記」(栢木喜一著)に、青木廃寺と泥掛地蔵の紹介がある。

「子供のできものの患部にあたる地蔵さんの身体の部分へ池の泥をぬり、泥のだんごを作り供えた。お礼参りにはほんものの餅と手ぬぐいを供えておく」と記される。


廃寺の事も詳しく説明されている。「『延喜六年造檀越高階茂生』(906年)と左書きした陽文(うきぼり)した宇瓦(のきかわら)は全国的にいっても珍重されているものだ。また鐙瓦(あぶみかわら=軒丸瓦のこと)で『大工和仁部貞行』との陰刻のものなども出ている。共に大和郡山市の水木直箭氏蔵。父君は水木要太郎翁は安倍小学校校歌の作詞者でもある。」

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# by koza5555 | 2019-07-24 18:56 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

『上下する天文』

『上下する天文』・キトラ・高松塚古墳の謎   来村 多加史(阪南大学教授)


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              高松塚古墳(2019年7月20日)

まほろばソムリエの試験にチャレンジする人は、来村多加史さんの名前を一度は聞くだろう。商工会議所が開く検定試験講座の講師とか、一級の受験のための義務となる「体験学習プログラム」の講師をされる。

この来村先生が、このほど『上下する天文』と題して、キトラと高松塚の古墳壁画について上梓をされた。もともと、これに関する本は書かれているが、新たな情報や見解が蓄積されてゆく中で・・」、自説の中心は変える必要がないが、まあ、僕もその論に加わりたいという感じだろうか。

「谷を景観とするキトラ・高松塚古墳」と題して、古墳の立地などについてのまとめはある。とても理解しやすい図も載せられている。

そんな具合にこの本を解説するのは、僕の得手ではないので、ここから一気に結論まで飛んでみたい。

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キトラ天文図について、「第一は星の数が足りない。第二は選択の基準がわからない。第三は星座を辺消させている節がある。」とし、星座間のスペースの変更、星と星の間を等間隔に変更、黄道のずれも作者の故意ではないかなどと論証、「自由な変形」をしているとした。ところが、「一点だけ天文図としてのこだわりを感ずる部分がある」と述べ、天球における方位(緯度)を示す28宿の方位が正確に書かれていることを指摘される。

「天で起こる異変がどの地域の異変を示すものか」、この方位がいい加減にしてしまえば、天文図ではなくなる。キトラに描かれた星空は単なる夜空でなく、「天文図」であり、画家本人、リーダーの図案はそれを示している。

「天文への造詣があればこその自在変形が生み出した最高の天文絵画である」

高松塚天文図。こちらは屋根型ではなく箱型、方形の石室。「高松塚の28宿は形や星数だけは正規の天文図に近い。」「ただ、方形の枠に沿わしているため、星座の傾きは円形天文図とは食い違う。」

ちょっと論理は複雑だが、来村先生は、高松塚の天文図(天井)は傘蓋のイメージというのである。

それを証明したいと‥それが来村先生の結論である。

キトラ古墳の壁画は螺旋を描いて「昇天」という。被葬者が寝た状態で見れば、である。亡くなった人は見ないとか、棺の中からは見えないという事は言わない。生きてるように見る、という事は前提である。古代の葬送の基本である。



一方高松塚古墳の壁画は外に誘い出される構図、絵だというのである。「すべりだす」がイメージ。

ちょっと禁断だが、来村先生の絵・図を見てください。

「キトラ古墳には昇天の思い

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高松塚古墳には出行の思いをこめた画家の心理が読めた。

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キトラは天井を高くして昇天、高松塚は出行を重視して、すべてをその方向に。天井は下げた方が出行のイメージが強調できる。天文図は上下するのである。

こんな「メッセージに応じて天文を上下させたとすれば、画家は我々が想像する以上の知識人であり、アイデアマンである」。

1800円+税・・おすすめである。

おりしも、720日(土)から26日(

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金)まで、高松塚古墳壁画の修理作業室が公開されている。今年の目玉は西壁の女子群像・・初日の午前に見学してきた。僕が見たグループは4名。申込のホームページを見ても、けっこうすいている。一度も見たことがない方は、今回、ぜひどうぞ。料金は無料、駐車場も使える。

「高松塚古墳 修理」でネットの検索ができ、申し込みも完了する。

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# by koza5555 | 2019-07-20 16:02 | 橿原・明日香 | Comments(0)

「山の辺の道」と「初瀬の道」奈良まほろば館でお話しします

奈良まほろば館(日本橋三越本店西向い)にて、お話しいたします。818日(日)午前11時からと午後2時からの2ラウンド

11時からの午前は「記紀万葉と山の辺の道~大神神社と石上神宮~」、山の辺の道を楽しくディープに語ります。

14時からの午後は「記紀万葉と初瀬の道~ワカタケル大王~」、ワカタケル大王の見た景色を一緒に味わいます。

それぞれ、500円、ぜひ、おいでください。

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応募の要項は以下の通り(奈良まほろば館のHP参照)です。

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(午前の部・山の辺の道)まほろばソムリエの深イイ奈良講座

NPO法人奈良まほろばソムリエの会の講座です。奈良の魅力を色々な切り口で楽しく語っていただきます。今回は、「記紀万葉と山の辺の道~大神神社と石上神宮~」についてお話いただきます。

記紀万葉に記された最古の道は、奈良盆地の東部の山々の裾を巡る山の辺の道。今回は桜井市のつば市から天理市の石上神宮までを見てみましょう。

大神神社や長岳寺、纒向遺跡や崇神・景行天皇陵などの遺跡と古墳群が連なります。この古道は日本の歴史、芸術、そして風景という点からも、他に比べるものがないことを実感していただけます。四季折々、美しい自然に恵まれる古道ですが、とりわけ秋色に染まる山の辺の道はあなたを魅了するでしょう。

1.日 時 :令和元年8月18日(日) 11:00~ 12:30

2.講 師 :雑賀 耕三郎 氏(奈良まほろばソムリエの会 副理事長)

3.テーマ :記紀万葉と山の辺の道~大神神社と石上神宮~

4.会 場 :奈良まほろば館2階

5.参加料 :500円(※当日受付にて申し受けます)

6.定 員 :70名(先着順)

7.申込方法

・ハ ガ キ :必要事項(講演名・講演日・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送り下さい。

・ホームページ:奈良まほろば館のホームページ(URL:http://www.mahoroba-kan.jp)にアクセスいただき、「講座案内」の「申込フォーム」からお申し込みください。

・電話でも申し込めます。

 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F

 電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932

午後の部(初瀬の道)まほろばソムリエの深イイ奈良講座

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NPO法人奈良まほろばソムリエの会の講座です。奈良の魅力を色々な切り口で楽しく語っていただきます。今回は、「記紀万葉と初瀬の道~ワカタケル大王~」についてお話いただきます。

万葉集、初めの歌はワカタケル大王(雄略天皇)の求婚の歌です。日本書紀には「大王の宮は泊瀬朝倉に置かれた」と記されており、この歌は初瀬谷で歌われたものです。さらに考古学がこの大王の姿を解明しました。初瀬谷で宮跡が発掘され、稲荷山古墳(埼玉県行田市)からはワカタケル大王の活躍を思わせる文字入りの鉄剣が発見されています。

記紀万葉を手掛かりに、初瀬谷の魅力のすべてを紹介します。

1.日 時 :令和元年8月18日(日) 14:00~ 15:30

2.講 師 :雑賀 耕三郎 氏(奈良まほろばソムリエの会 副理事長)

3.テーマ :記紀万葉と初瀬の道~ワカタケル大王~

4.会 場 :奈良まほろば館2階

5.参加料 :500円(※当日受付にて申し受けます)

6.定 員 :70名(先着順)

7.申込方法

・ハ ガ キ :必要事項(講演名・講演日・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送り下さい。

・ホームページ:奈良まほろば館のホームページ(URL:http://www.mahoroba-kan.jp)にアクセスいただき、「講座案内」の「申込フォーム」からお申し込みください。

・申込は電話でもできます。

 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F

 電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932

8月18日、お待ちしています。

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# by koza5555 | 2019-07-19 09:42 | 奈良県 | Comments(0)

下居神社 天満祭

714日(日)、下居神社の天満祭が斎行された。

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神社の住所は下(しも)字天満谷・浅古字宮の谷で、さらに倉橋にも接している。境を接する、三ヶ大字によって守られている神社である。例祭は天満祭といい、夏祭りとして710日前後の日曜日に斎行される。祭の世話役は各大字の持ち回りとなっていて、今年は下区の担当となった。


多武峰に至る県道37号線から登るが下区から登っても(鳥居がある)、倉橋区から登っても(崇峻天皇陵の入り口、これを東へ)、500㍍ほどは歩かなければならない。


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参道は見事に草刈りがされていた。役となった下区の舛田区長にお聞きすると、「一週間、準備してきた」とのことで、準備には力が入っている。

創立年代は不詳ですが『文徳実録』(平安時代前期の歴史書)に「天安元年(857年)八月・・・大和国従五位下椋橋下居神。并授従五位上」とあり古い神社ということがうかがい知れます。


江戸時代以降、天満神社と称した時期もあったようです。その他、境内に近年建てられた石碑に暗殺された崇峻天皇の子供の蜂子皇子とこの神社との関わりが記された石碑があります。静かな落ち着いた佇まいの神社です。御祭神は彦八井耳命

三ヶ大字の氏神で「延喜式」神名帳(巻八)十市郡の「下居神社」に比定(大和志)されている。

以上は桜井市観光協会による

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倉梯に宮をおかれた崇峻天皇、暗殺されたあと、その皇子の蜂子皇子は奥州に落ち延び、出羽三山神社(山形県)を開山したとされている。蜂子皇子は、出羽三山神社に下居神社を鎮座して、大和の地をしのんだ。

平成5年の出羽三山の1400年祭には下居神社の氏子が公式参拝(58日)、公式参拝の記念碑の除幕式には出羽三山から宮司、氏子総代が列席されたとのことである。

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注・延喜式内社、下居神社は大字下居の「新明神社」との論もある。山間には鎮座するが、1711年銘の灯籠、1858年銘の狛犬などを残す由緒ある神社である。

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# by koza5555 | 2019-07-14 22:13 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

安堵風土記

『安堵風土記』を今年の3月に安堵町教育委員会が発刊している。平成8年に刊行した安堵風土記をベースにしたパワーアップ版である。

25年まえに発行された安堵町史を、よりわかりやすく、そしてその後研究の成果を取り上げた本である。

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安堵町の神社と寺院、歴史、伝承と民俗を取り上げているが、明治時代以降の安堵町の名だたる人物紹介もあり、安堵を総合的に理解するうえで大いに役立つ。

天誅組の伴林光平を助けた今村文吾、堺県からの奈良県の独立運動をすすめた今村勤三、著名な富本憲吉などである。


この本が欲しい。
安堵町に聞いてみると、安堵町民俗資料館でいただけることがわかった。書類に書名、氏名を書き込むだけでいただける。本のある限りという事だから、ぜひぜひ、早めにどうぞ。

安堵町民俗資料館は旧今村家に置かれている。母屋は民俗資料館として、玄関脇(門)に事務所が置かれている。平成3(1991)に今村家から町に寄贈された。町が整備して、民俗資料を展示している。入館は200円である。

安堵町の「灯芯引き」。これは安堵町の一大産業だった。10月末、稲の収穫が終わった時期に低湿地に藺草(いぐさ)を植え、7月に刈り取る。それをまずは乾燥させて、その後湿らせて、芯を引き出すとのことである。乾燥は「藺干し(いほし)」、「人形立て」とよび、安堵町ならではの風物詩である。今だけがその時期で、偶然だが見ることができた。

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安堵町歴史民俗資料館を拠点に「灯芯保存会」が藺草の栽培、灯芯引き出しの技術を継承している。作られた灯芯は、法隆寺・東大寺・春日大社・薬師寺・元興寺などの社寺の灯明向けに奉納されているのとのことである。

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斑鳩宮と飛鳥をつなぐ太子道沿いの飽波神社の境内には、聖徳太子が腰を掛けたという伝承のある通称「腰掛石」が置かれる。

飽波神社で行われるナモデ踊りも見逃せない。

       

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室町時代の風流踊りの系統をひく「いさめ踊り」は、雨乞いの踊り。一方、降雨祈願が成就したときに踊る満願踊りは「なもで踊り」というとのこと。なもでは「南無天」と書いて、「南無阿弥陀仏」を意味するとのこと、なるほどである。

飽波神社のなもで踊りは延宝元年(1673)に始目られたとのことだが、明治に入って中断、昭和58年(1983年)には、なもで踊りの絵馬、踊り衣装や太鼓、歌本などが奈良県の有形文化財に指定されている。

平成7年(1995年)に、安堵町商工会が中心となり保存会を結成、「なもで踊り」が復活している。


僕は奈良に来て13年、安堵町、実は今日初めて足を踏み入れたかも(笑)。




# by koza5555 | 2019-07-12 21:56 | 盆地中央 | Comments(0)

義犬塚古墳と捕鳥部萬(ととりべのよろず)

捕鳥部萬と忠犬の白い犬の事が、「泊瀬部天皇 崇峻天皇」(『日本書紀』)に書かれている。

「秋7月(崇峻天皇二年589年)に、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼさむことを謀る。」とされ、因縁の蘇我と物部の最終戦が始まる。

『日本書紀』は物部守屋の滅亡までを52行にわたって(岩波文庫版)に書き連ねる。

よく見ると、その行数の配分がすごい。蘇我の陣営、戦いの帰趨、守屋の死去、四天王寺、飛鳥寺の建立までで24行、残る28行は物部の近侍者の捕鳥部萬(ととりべのよろず)のことだけがこまごまと触れられている。


捕鳥部萬は守屋の近侍である。勇敢に戦うが守屋が死んだと聞いて、妻の実家の有真香邑(ありまかむら)に逃げる。朝廷は数百の兵士を動員して捕鳥部萬を追い詰めた。萬は策略を用いて戦い、三十余名の兵を殺すが、最後は自らの首を切って死ぬ。それを聞いた朝廷は「萬を八つ裂きにして、八つの国にくし刺しにしてさらせ」と命令する。

その時、雷鳴がとどろき豪雨となり、萬が飼っていた白犬が萬の頭をくわえ出して逃げ、古墓に埋め、墓を守り通して飢え死にしたという。
それを知った朝廷は、忠犬をあわれとして「墓を作って葬れ」と命じた。萬の一族が有真香村に捕鳥部萬と白犬の墓を並べて作った。


有真香邑とはどこ・・・。貝塚か岸和田かという事だが、ネットで検索してもその町名が出てこない。そこで、地図を見ていたら、「岸和田警察署 有真香駐在所」とか、「有真香郵便局」というのがある。
そこで、岸和田に行ってきた。まずは岸和田城。昭和29年の再建とのこと。

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「もともとは(明治時代のころまで)、津田川の中流域は有真香村であったが、町村の再編成で村名が変わった。残っているのは駐在所と郵便局の名前だけ」(有真香駐在所の警察官による)と聞いた。

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「有真香邑は今の阿間河滝・神須屋・八田・真上・畑・流木・極楽寺町一帯にあたります。」(岸和田市役所HP)
津田川沿いの高台に捕鳥部萬と白犬の古墳が残されている。天神山古墳群といい、多くは宅地開発などで失われたとのことであるが、川から(北側)見て、左は捕鳥部萬の大山大塚古墳、右が白犬の義犬塚である。

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古墳のはるか下流、紀州街道沿いに道標がある。

津田川下流、岸見橋に「捕鳥部萬墓并犬塚是ヨリ三十丁」という道標が立てられている。

街道筋にある名所や社寺への案内道標と同じである。1871(明治4)年正月に建てられたとのことである。岸見橋の南側、海はすぐそこである。

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捕鳥部萬墓(大山大塚古墳)

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捕鳥部萬は、6世紀に朝廷で権力を握っていた物部守屋に仕ええていましたが、587年守屋が打たれたとの知らせを受けると、妻の実家がある有真香邑(現在の八田町・阿間河滝町周辺)に逃れました。しかし、朝廷からの激しい追撃を受け山中で自害しました。朝廷から萬の死体を八つ裂きにし、串刺しにせよとの命令が出ましたが、萬の飼っていた一匹の白い犬が萬の頭を咥えて古い墓に納め、犬はその側に臥してその後死んでしまいました。 

朝廷は忠義深い犬として、萬の一族に命じ、萬と犬の墓を作らせた日本書紀には記されています。(平成30年3月 岸和田市教育委員会)


義犬塚古墳(岸和田市神須屋)

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義犬塚古墳は、径20m、高さ約3mの円墳です。しかし、墳頂部は削平されています。

『日本書紀』によると、6世紀に朝廷で権力を握っていた物部守屋の家来である捕鳥部萬が自害した後、その死体を守り横に臥してそのまま亡くなったといわれる忠義深い白い犬がこの古墳に葬られているとされています。

 また、ここから南東約250mに位置する大山大塚古墳公園内には、市指定史跡の捕鳥部萬墓があります。(岸和田市教育委員会 平成313月)

今に残る、この二つの古墳の伝承と考古学的事実が合致しているか‥まあ、夢は夢として置いておくという事もあるけど、ちょっと勉強中で近日中に・・・ここに補足します。
補足

岸和田市史によれば、ここらあたりは当時は秦氏が支配したとして、捕鳥部の本拠地ではないとしている。妻が秦氏から出た事は可能生が高いとも。

また、大山大塚古墳は前方後円墳とされてきたが、平成13年に岸和田市がトレンチを入れており、報告書には「円墳と考えるほうが妥当」と記されている。

岸和田市教育委員会さんに手助け、頂きました🙇‍♂️





# by koza5555 | 2019-07-10 09:15 | 大阪とか京都とか | Comments(0)

日出処の天子(ひいずるところのてんし) 山岸涼子

マンガを読んだ。「日出処の天子」(山岸涼子)


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1994年だから、25年も前の少女マンガ。7冊もあります。皆さんは読まれているんだろうなあ・・・。僕は今度、初めて読みました。

マンガのテーマは厩戸皇子、聖徳太子である。当然、崇峻天皇が絡むのだから、今、気になっている小名手が登場する。

「聖徳太子はいなかった」という論もあるようだが、山岸涼子が描く厩戸皇子も、ものすごい。第三巻の巻末に作者と梅原猛の対談があるが、厩戸皇子は「美少年で超能力者で同性愛者という設定」で、「奔放な想像力を駆使」してると梅原猛が感心するのである。

蘇我毛人との絡み合いはすごい、リアルな絵もなかなかのものである。

「それだったら厩戸皇子の子たちはどうなるか」との疑問も出るわけで、それもすごい展開となる。「聖徳太子は実の子はいなかった」と断定、たとえば「刀自古は厩戸皇子の妃になる前に、毛人(えみし)の子をはらんでいた」とされ、山背大兄王皇子は蘇我毛人の子だという‥

「厩戸は女は愛せないタイプなんだから、彼の子どもができちゃ困るから、もう一所懸命考えましたよ。うーんうーんて(笑)」(2巻あとがき)。山岸涼子はすごいわ。マンガだけど、そう言われると、けっこう考えさせられたりして(笑)。

僕が考えている本題は、大伴小手子(おてこ)の事だった。

山岸涼子が泊瀬部王子(崇峻天皇)の妃(みめ)として取り上げたのは、小手子(大伴大伴糠手の女)、河上娘(蘇我馬子の女)、布都姫(物部氏 石上神宮斎宮)である。

崇峻天皇5年(592年)冬104日、イノシシを奉られた天皇は、「いつかこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思う男を斬りたい」と言い放った。それを知った蘇我馬子は「東国から調がのぼる」と偽り、宮に兵を入れて、東漢直駒の手で天皇を殺させた。

天皇の言葉を馬子に伝えたのはだれかである。

日本書紀は「天皇が詔したまうところを聞き」と具体的に名前を上げないが、「ある本(ふみ)に言わく」として、「蘇我馬子に(小手子が)使いを出した」と記して、通報者を小手子としている。

馬子の娘の河上娘が崇峻のもとにいるのに、「大伴小手子が伝えてきた」と唐突に書いた日本書紀の真意がわからない。

ここらあたりを山岸涼子が膨らませた。

この暗殺事件は大伴糠手と蘇我馬子の戦いと描かれている。3千とか5千の大軍勢の戦いとなり、大伴軍が負けて天皇も殺される。蘇我は物部と戦って勝ち、大伴との戦いにも勝つという筋書きとなる。

しかし、大伴は次の推古天皇の時代にも活躍していて、この論はちょっと無理があるけど、これはこれでおもしろい。

併せて、崇峻天皇が「誰ぞの首を撃ちたい」と語った言葉を馬子に伝えたのは、小手子を上げずに河上娘としていてわかりやすい。

面白かったり、勉強になったり。絵は僕好みの絵とは言えなかったけど。各地の図書館にあると思うけど‥アマゾンでも安い本が出ている。

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# by koza5555 | 2019-07-06 10:26 | 読書 | Comments(0)

喜光寺 四天王像が「さとがえり」

木造四天王像が「さとがえり」されていると聞き、喜光寺(きこうじ)を拝観した。

本堂の撮影は自由、SNSでもぜひ紹介してくださいとのことである。こちらで四天王が拝観できるのは92日(月)までである。

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四天王は持ち物こそ、すべて失っているが、力強さが感じられる。腕の張りをひときわ感ずる。

大仏殿を作る際のひな型として、本堂が建てられ「試みの大仏殿」とよばれる。 行基菩薩はこの寺で入寂した。

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ちょうど蓮も見ごろを迎えたと聞き、奈良に所要もあり、今日は喜光寺に寄らせていただいた。


こちらには、會津八一の歌碑が建立されている。

ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかへりつつ(會津八一)

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會津八一は大正10年と11年の秋に喜光寺(菅原寺)を訪れている。一人来て、荒廃した寺を目の当たりにし、悲しさに心がうちひしがれてこの歌を詠んだ。

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南大門も再建された。境内の整備もすすみ、また、この寺では、毎週のように法話が開催されている。開かれた寺として発信力は旺盛で、その意欲に感動する。

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# by koza5555 | 2019-07-03 22:56 | 奈良市 | Comments(0)

除蝗祭

奈良まほろぼソムリエの会のHP7月の歳時記は小夫(桜井市)の除蝗祭を紹介した。

7月 小夫(おおぶ)の除蝗祭(じょこうさい)

小夫(桜井市東部の山中)の天神社は、7月22日に除蝗祭(じょこうさい)を執り行います。イナゴの害を取り除く祈祷が行われますが、その日は祭祀道具の虫干し、日干しで境内が満艦飾となります。田植えを終えると虫の害を心配し、風水害をおそれ、疫病の根絶を祈る行事が各地で行われます。(雑賀耕三郎)

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桜井文化叢書(2)に小夫(桜井市)の小夫の除蝗祭が紹介されている。

毎年722日の土用三郎の日に除蝗祭を行う.この祭りは苗を本田に植える稲に夏土用の季節に蝗の害することがある。蝗の害を除くために氏子が戸数毎に長い葉の付いた竹の葉さき(俗に一万度という)に五色の紙を結びつけ社頭に持ち寄り五穀成就を祈念する祭の一つである。これは当神社(桜井市大字小夫 天神社)の昔ながらの祭典である。

除蝗祭祈祷御神札

奉祈念皈命風天子稲病速除五穀成就(攸田毎に麻柄に挟みて立つるものとす)

奉御祈祷五穀成就就災除家内安全幸福延命祈所(戸毎の門口に貼付くるものとす)

以上は昭和36年(61年)の記録で、このすべてが続いているわけではない。

今では、各戸からの五色の紙を結びつけた竹竿の持ち寄りはなくなったが、境内には竹竿が立てられ、五色の吹き流しが立てられている。

座布団、法被が境内で天日干し。社務所の中では祭具の手入れも行われ、土用に入っての三日目(土用三郎)、豊作祈念の行事だが、暑さに負けないとか、曝涼の意味もあるように思われる。


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小夫の天神社。本殿脇の石灯籠は嘉暦の銘があり、14世紀のものである。

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けやきの巨樹もすごい。高さ30メートル、幹周り8.5メートルもあり、桜井市では一番の巨樹とされる。ここが元伊勢との伝承もあり、ぜひぜひのお参りをお勧めするが、車は必要である。

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# by koza5555 | 2019-07-01 14:47 | 桜井・初瀬 | Comments(0)