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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:桜井・多武峰( 76 )

音羽三山、下り尾・百市・飯盛塚の祭

談山神社の社報、「談」(かたらひ)の2ページ目は毎号、僕が書いている。
「多武峰の村の話を書いて」と長岡宮司に3年ほど前に頼まれた。神社のことより神社へのアプローチを書かせたい様子である。
神社の宣伝みたいな話はあまり書けていないが、それなりに話を探しながら、多武峰という山とか里を紹介している。
今回は音羽三山のふもとの村々・・下り尾(さがりお)・百市(もものいち)・飯盛塚(いいもりつか)の村の祭を取り上げてみた。

桜井市の中心部から南方を望むと音羽三山とよばれる山塊を望むことができる。北から音羽山、経ガ塚山、熊ガ岳である。今回は、この山々に祀られている神の姿、その祀り方を考えてみた。

下り尾(さがりお)から粟原川に流れ落ちる川の名は清滝川と聞いた。「清滝川といえば滝があるのか」と川沿いを歩いたが、滝は見当たらない。この滝へは川沿いではなく下り尾の神明神社の東側から登る道があった。登ること30分、清滝は轟々と流れ落ちていた。岩壁には不動明王が刻まれている。

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下り尾の東幸次郎区長にお聞きすると、「清滝のお祭りは七月の最後の日曜日。毎年、やっている」とのことだった。さっそく同行させていただいた。祭といいながらも参加者は鍬やカマを持参して小枝を片付けたり、石を積んだり、転がしたりしながらの「道作り」の風情である。道を補修しながら、音羽山の中腹まで上り詰めると清滝不動尊に到着する。持参したお米、塩、お酒などを供えて般若心経を読み上げる。
滝の水は、どんな日照りでも枯れることがないといわれる。清滝不動尊の祭は水源を見守る祭りであり、年ごとの豊穣の実りを祈る祭りだと思われた。
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山の上の神社と言えば、百市(もものいち)の住吉神社も紹介しておきたい。県道を多武峰に登っていくと寺川を挟んで左側に百市の集落が見えてくる。百市の住吉神社は村の奥深くの山中に鎮まり、10月の第一日曜日に例祭が斎行される。
祭の朝、神饌や祭祀道具を担って神社に向けて出発する。しっかりした登りを800mほど歩くと神社に到着する。登山とまではいわないけど、息が切れるしんどい登りである。
急な山腹に、長い柱に支えられて拝殿、本殿が建てられている。実はちょっとした祠みたいなものかと思って登ったので、この社を作り、維持してきた百市の力の入れ方に声も出ない。
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境内を掃除し、鳥居には榊と同じ感覚で青竹を立てて、祭が始まる。
秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思えるが、「山の中に村があった。宇陀から針道、百市を経て倉梯へ出る街道沿いの村だった。人は山を下りたが、神様には下りて頂けないうちに百年が過ぎた」は西基之区長の言葉である。神社には「大神宮・村安全・おかげ」(天保3年・1833年)と刻まれたおかげ燈籠も残されていて、伊勢神宮にはこの地から旅立ったことも示されている。
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百市から県道をさらに上ると飯盛塚(いいもりづか)である。飯盛塚の杉山神社は村の上方の山中に祀られていたが、村の集会所の山側に二十年前に遷座されている。

この飯盛塚の秋祭に注目した。「祭は頭屋が中心となってすすめてきたが、時を経るにつれ行事の継続は難しくなってきていた。それで平成二十九年の秋祭から、頭屋の仕事は村(区)で引き継ぐことにしました」と、北浦孝文区長は話される。

祭の準備は第一に御幣を作ることである。その御幣は神前に奉幣され、一年間は村の会所に祀られる。第二は「お人形さん」作りである。太い藁縄、細い藁縄を組み合わせながらぐるぐると巻きあげる。中心は竹筒である。頭の上にはヒゲをつけるが、これは「ジャノヒゲ」で作ることが決まっている。形を整えてから、中心の竹筒に餅をいっぱい詰め込み、衣をつけて「お人形さん」は完成である。

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御幣と共に、お人形さんは区長に抱っこされてお渡りする。
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「お人形さん」を神前に飾り、奉幣を終えると、村人はトンドの周りに思い思いに座り歓談する。男も女も、老いも若きも、そして子供もたくさん集まってきて、ゴーヤの炊いたのとか、黒豆の煮たのを、おいしくいただく。

長く頭屋を務めてこられた方には感謝したい。そして頭屋の仕事を引き継いだ飯盛塚区の考え方は、村の習俗や文化を継続させていくための大切な方法だったと納得させられた。
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by koza5555 | 2019-02-14 23:00 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

増賀上人と談山神社

多武峰縁起絵巻によれば、増賀(そうが)上人は多武峰(現在は談山神社、江戸時代までは妙楽寺)の中興の祖である。増賀上人は参議・正四位下、橘恒平の男子で、10歳の時に比叡山に登り慈恵太師(良源・山門派・円仁門徒)の弟子となる。

 増賀は夢を見る。天暦2年(948年)82日のことで、32歳の時である。夢に維摩居士が現れ、「浄土を志すならこの地に住め」と景色が示された。応和3年(963年)に如覚(多武峰少将・藤原高光)の勧めで多武峰を訪れた増賀は、この地が15年前の夢の景色と同じと理解して、三間一面の庵を結び、41年後の長保5年(1003年)69日に死去した。


この増賀上人を考えてみたい。

明治36年に増賀堂が再建されている。これが増賀上人の庵跡と思われる。45年前の「磐余・多武峰の道」(金本朝一著)には、写真があるが現在は見当たらない。

増賀上人墳(そうがしょうにんつか)は残されている。神社の西口から山腹をめぐる林道を一キロほどたどると、念誦崛(ねずき)に到着する。「増賀上人墓」との看板が建てられている。 正面の石段をまっすぐ上がっていくと石積み塚にが見えてくる。

 


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二重に積み上げられた石の塚で、下段の直径が4メートルほど、全体の高さが2メートルである。覆い堂が建てられていたことは、残された周囲の基石から良く分かる。

周囲には大変な数の五輪塔、板碑が立てられているが増賀上人の石塚の規模はずば抜けている。


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念誦崛

多武峰に増賀上人を招いた如覚(藤原高光)の墓が念誦崛にはおかれていないことが不思議である。

念誦崛から2キロメートルも離れた、飯盛塚の山中に高光の墓は置かれている。東の飯盛塚に高光墓、談山神社(妙楽寺)、西口を経て北山への峠に差し掛かるあたりに念誦崛という配置である。

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藤原高光墓(飯盛塚)



『多武峰ひじり譚』、三木
紀人が記した。40年ほど前の本である。

平安時代は「誰かを語るとき、彼の死とその前後は最も関心を呼ぶ話題であった。」その意味では「増賀の終焉は格別に印象のつよいものだった」、そんな時代である。

その例として徒然草である。「増賀ひじりの言いけんように、名聞苦しく、仏のお教えにたがふらんとおぼゆる」として、増賀上人を絶対的境地に達した人、「まことの人」だったと兼好は紹介した。

増賀上人のエピソードを一つだけ紹介しておきたい。

増賀の師匠は良源である。毎年のように僧位を上げていき、行基以来の大僧正となり、比叡山の座主となった。

この良源が大僧正に任ぜられたときにお礼言上に参内する。おびただしい僧侶、従者を伴い行列を進めるが、そこに増賀が登場する。

疲れたあめうし(牝牛)の浅ましげなるに乗りて、鮭というものを太刀にはいて、御屋形口をうちけり。

屋形口とは牛車の乗り口で、そこに現れるのは警護の責任者を意味する。増賀は3000人いたという良源の一番目の弟子だった。

行列、見物人はどよめくが、増賀は再三にわたり、牛を乗り回したという。

「見るものあやしみおどらかぬはなかりけり」。

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それに対して「名聞こそ、くるしかりけれ」「かたいのみぞ(乞食の境遇こそ)たのしかりけれ」と増賀は謡った。

「悲しきかな わが師、悪道にはいりなむとす」。

これが増賀の道心である。

師の良源は、「名刹を求めぬ心は判った。但し威儀は正せ」というが、増賀はそれを受け入れることはなかった。

「いかでか、身をいたづらにせん」というのが増賀の考えであった。「投身、入海、身燈」という宗教的自殺をするものが多かった時代ではあるが、増賀は身体的な消滅を願ったわけではなかった。すべての衣服と財産を乞食に施して裸で歩いたり、山にこもったのである。増賀上人はいくつかの例外を除いて・・多武峰を出ることはなかった。山を出ることは増賀にとって、はなはだしい宗教的な堕落であった。

増賀上人の信念、信仰、道心は、その後多武峰にどんな形で引き継がれていったのか、関心と疑問は深まるばかりである。

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by koza5555 | 2019-01-13 07:42 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

飯盛塚(桜井市)の秋祭りの主役はお人形さん

10月に入ると多武峰の飯盛塚(桜井市)は秋祭りである。

頭屋が祭りの段取りを立てる。御幣を作ることと、「お人形さん」を毎年作るのである。御幣とお人形さんを神社に奉納した後は、村人の全員(17軒のほぼ全員)が神社の境内に集まり、トンドを囲んで歓談する。

この形が昨年から変わった。2軒しかない頭屋のうち、一軒が頭屋を続けられなくなったという。村の相談の結果、頭屋の仕事は村(区)で引き継ぐことになったのである。

第一は御幣を作ること、御幣は区長が神前で三回、振る。祭りの後は区の会所で、来年の祭りまで、一年間は祀られる。

第二はお人形さん作り。

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こんな形である。太い藁、細い藁を組み合わせながらぐるぐると巻きあげる。中心は竹筒とのこと。一番うえ、頭の上にはヒゲをつけるが・・これは「蛇のヒゲ」で作るとのこと。

形が整ったら、竹筒には餅をいっぱい詰め込む。

最後に衣をつけて、「お人形さん」は完成である。

お人形さんであり、とぐろを巻いた蛇‥みたいな感じでもある。



神社へのお渡りは、お人形さんのように抱っこして上がられる。

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村人がトンドの周りに、即席ベンチを並べて歓談である。

老いも若きも、男も女も、そして子供もたくさん集まってくる。

ゴーヤの炊いたのとか、黒豆が特に美味しかった。


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この頭屋を務めてこられた方、そしてそれを引き継いだ飯盛塚区はすごい・・


飯盛塚には、藤原高光が葬られたとされる飯盛塚が残されていて、これが村の名前にもなった。

藤原高光は939年に生誕、比叡山に出家し、のちに多武峰に入り、多武峰上人と言われたとされる。994年に飯盛塚にて死去したとされる。

高光は歌人として有名だったが、多武峰にとっての最大の功績は、多武峰再興の祖といわれる増賀上人を勧誘したということである。また、『多武峰少将物語』を残した。

春すぎて散りはてにけり梅の花 ただ香ばかりぞ枝に残れる『拾遺集』

見ても又またも見まくのほしかりし 花の盛りは過ぎやしぬらむ『新古今集』

高光の墓地は村の東方の山地(飯盛塚の旧村社 杉山神社付近)に、五輪塔、宝篋印塔、廟塔が置かれている。

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宝篋印塔は天文元年(1532年)

廟塔は元文元年(1736年)

五輪塔は無銘だが最古とみられる。

飯盛塚の杉山神社旧社地辺り(飯盛塚字オミチ)は、高光の地縁の地であることは間違いない。


ちなみに、飯盛塚の地名伝承であるが、西行が関わっている。飯盛塚の東方の独立峰(杉山神社)が「飯を盛ったようす」と語ったことが初めとのこと・・。山の全貌は談山神社の大駐車場から見ることができる。

『桜井市史』、『談山神社 大化の改新1350年』(神社シリーズ)参照



by koza5555 | 2018-10-09 00:06 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

百市(もものいち)の住吉神社

桜井市の百市(もものいち)の住吉神社(百市字ハダ山)は10月の第一日曜日が「例祭」である。

午前8時に寺川沿いの集会場に村人が集まってくる。神饌などの準備を整えて、神社に向けて出発。神社までは800mほど、しかも登り道である。登山とまではいかないけど、しんどい。登山靴でないことを後悔するくらいの登りである。30分ほどで神社に到着した。皆さんにゆっくり歩いていただいたから助かったが、息絶え絶えである。この日は暑くて、汗でぐっしょりだった。

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神社の周辺には、そこそこの平地でが広がっている。空き地から見ると、村からは西、東は音羽連峰であるが、南北には道らしきものが残されている。

神社そのものは山にへばりつき、投げ入れ堂かという具合の景観である。本殿、拝殿、それぞれが立派である。

氏子が9軒、これで作り、維持してきた住吉神社である。その凄さに声も出ない。実は‥僕は‥ちょっとした祠‥みたいなものかと思っていたのである。

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ご祭神は住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)である。

今日の祭主は談山神社の長岡宮司である。開扉がある。祭主の「オー」という警蹕(けいひつ)にあわせて、ギイー、ギイーという扉の音が重なって、厳かに山中に住吉神が訪れる。

鳥居には榊と同じ感覚で、竹を立てる。この竹は村から持ち上げてきた竹であることがミソである。。

海のもの、野のもの、山のものの普通神饌であるが、海のものを除けば、供物は村人の心を込めた手作りである。


桜井市の百市(もものいち)。桜井市街から県道を多武峰に上がる沿道に百市の村がある。

村の標高は350mほどで・・・神社は450mほどの場所である。神社までの距離は800mほど

なんでこちらの神社は山の上なのか・・

秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思われるが、百市の友人によると、「村は山の上にあった。宇陀からの街道も大峠から針道、百市につながった。百市の手前には古井戸があった」と言われる。「村が山を下りた。神様に下りて頂かないうちに100年たった」とのことである。

神社の周辺に百市の村があり、それは街道でもあったと思われる。

倉橋から大峠を越えて宇陀に抜ける街道である。この道は、史実にたびたび出てくる道だろう。神武東征の男坂はともかく、仁徳天皇に追われて、隼別皇子が雌鳥皇女と共に曽爾に落ちていく街道である。

「梯立の 倉梯山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず」(はしだての くらはしやまは さがしけど いもとのぼれば さがしくもあらず)

幕末には天誅組の楠目清馬が落ち延びてきた道である。楠目清馬は東吉野から宇陀を抜けて大峠を経て、針道に落ちのびた。針道の辰巳家で一泊、武器を捨て農民の服で出発したと記録が残るが、その後、百市、音羽を経て倉橋村の山上、スズメ塚で討ち死にしている。

山を下りた村人、山に残った神様がテーマだった。


  

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こちらは倉橋のスズメ塚の楠目清馬(土佐)の墓地。津(藤堂)藩士に打ち取られた場所とされる

地名学者の池田末則氏によれば、「百は谷間の滝のタギリ流れる所」と言い、川沿いの地名という見解も示されている。これはこれでよく考えるべきであるが、今日はこのまま、保留である。



by koza5555 | 2018-10-08 12:08 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓と談山神社の東殿

 「談」(かたらひ・談山神社社報)90号(8月15日発行、桜井市のすべての新聞に折り込み)では、「鏡女王忍阪墓で恋と愛を考えてみた」と題して、鏡女王の人生・・忍阪鏡女王墓を守る忍阪の生根会のことを書いてみた。

 談山神社の東殿は鏡女王(かがみのおおきみ)をご祭神として祀っている。

大和三銘段という正面の石段を登り、拝殿の手前を右手に入ると鏡女王を祀る東殿に至る。この東殿には「恋神社」と書かれた真っ赤なノボリがはためき、縁結びの神様として特別に華やぎのある社殿となっている。



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談山神社東殿の鏡女王祭。6月の第二日曜日

6月の第二日曜日は、この東殿で鏡女王祭が行われる。長岡千尋宮司は「秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそ益(ま)さめ 御思ひよりは」と、鏡王女の万葉歌を祝詞に織り込んでその霊を鎮める。さらに式典後のあいさつでは、「鎌足公は本殿に、正室の鏡女王は東殿にと、境内でご一緒にお祀りしている。これは神社の誇りである」とお話しをされた。

鏡女王忍阪墓

 古代の皇族の陵墓は平安時代の延喜式という書物にまとめられている。そこには「鏡女王、大和の式上郡押坂陵(舒明天皇陵のこと)域内東南」と書かれていて、

1、鏡女王墓は舒明天皇の陵内の東南にあることがわかった
2、鏡女王と舒明天皇の墓所は同じ地域内にあり、その結びつきの強さがわかった。そこから、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹との見方が生まれた。

この鏡女王墓は談山神社が所有している。そして草刈、清掃、枯れ木・枯れ枝の撤去などは忍阪の生根会(忍阪区老人会)が行っている。

生根会の東井義之会長にお話を聞いた。

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東井義之生根会長(忍阪老人会長)

「鏡女王墓の管理は生根会が行っています。5月に一年の初めの草刈を行い、折々に清掃を行います。また鏡女王祭の前日には、忍阪で墓前祭を生根会が行います」と語られる。

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今年の5月に行われた鏡女王墓の草刈と掃

祭や清掃だけではなく、忍阪のみなさんの陵墓への思い入れは熱いものがある。区から外鎌山にかけて舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が点在するが、これを総称して「三陵墓」と呼ぶ方がいた。中でも鏡女王墓は、親しみを込めて、「中の御陵さん」と呼ばれているようである。

万葉学者の犬養孝は、鏡女王墓は「草ぼうぼうに荒れていた」と、『万葉の旅』に記したが、現在は忍阪の生根会がしっかり管理をされているのである。

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忍阪生根会による 鏡女王忍阪墓前祭。談山神社の東殿の鏡女王祭の前日に行われる

藤原鎌足公と鏡女王のこと

鏡女王は天智天皇の后であった。その後、臣下の鎌足公の妻とされた。

先に述べたように鏡女王は舒明天皇の皇女の可能性が指摘されている。臣下との結婚は望むものではなかったようで、「私の名を惜しむ」と恨みの歌も残している。

しかし、共に日を過ごすうちに、鏡女王の鎌足に対する思いは変わっていたとみることができる。

それを興福寺の創建の歴史にみることができる。

鏡女王は夫、鎌足の病の平癒を祈って仏殿建立を発願する。鎌足は恐れ多いとそれを許さなかった。しかし、女王の強い願いに最後は押し切られて山階寺が建立されている。鏡女王が発願した山階寺はその後の興福寺となっていく。鎌足公と鏡女王の夫婦愛は興福寺の始まりの力となった。

さて、東殿は恋神社、縁結びの神として祀られている。

鏡女王の鎌足公への思い入れが深まる歴史、そして、その女王を大きく包み込んでいく鎌足公の力強さが読み取れる歴史がある。

恋を求める若者を引き付ける力がある東殿だが、同時に鎌足公と鏡女王の熟年の夫婦愛を学ぶ、夫婦のあり方も強く考えさせられる、そんな東殿ともいうべきだろう。

 談山神社の東殿、忍阪の鏡女王墓をぜひとも訪ねてみよう。

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by koza5555 | 2018-08-14 21:52 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓前祭

69日、忍阪区(桜井市)生根会(忍阪区老人会 会長 東井さん)は、鏡女王墓前祭を斎行した。

談山神社の長岡宮司以下神社関係者が祭祀を執り行った。

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鏡女王忍阪墓は、談山神社が管理しており、日常的には忍坂の生根会が樹木の管理、草刈などの墓域の清掃を奉仕されている。墓前祭を実施するのも生根会である。

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こうした行事、管理とは別に忍阪の陵墓に対する区民の思い入れはすごい。

外鎌山の南麓には、西から東へ舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が鎮まる。

忍阪のみなさんは、これを総称して、「三陵墓」と呼び、敬愛しながらも親し気な付き合いである。

宮内庁が管理しない鏡女王墓は、とくに「中の御陵さん」と呼び、大切にしているのである。


舒明天皇陵、大伴皇女墓は宮内庁の書陵部が管理する。畝傍監区、忍阪部といい、周辺の陵墓と合わせて、日常的に補修とか草刈が行われる。


しかし、鏡女王墓は別である。陵墓を繋ぐ野の道もだれも草刈はしないのである。


万葉の旅で、犬養孝が鏡女王墓を語っている。こんなくだりがあるのである。

戦後ま近のこと、お隣の舒明天皇陵はきれいに掃き清められているのに、このお墓は草ぼうぼうに荒れていた。見れば、談山神社保存会の所有になっている。私はしばらくお待ちください。草を抜いてみたが、とうていおいつくことではない。
(『万葉の旅上』犬養孝)

こんなことから始まったわけでないだろうが、この管理を現在は忍阪生根会が行っているのである。


最後に鏡女王のことである。
まずは興福寺。鏡女王の藤原鎌足への思いが凝縮して興福寺は始まった。

天智天皇8年(669年)、鎌足が重病の時、婦人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、ついには婦人の願いが叶えられたという。仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置されたと伝えられる。これが「山階寺」と称されて、興福寺の起源 と興福寺はHPに記している。

鏡大王(鏡王女―萬葉集、鏡姫王―日本書紀)の願いが凝縮して興福寺が創設された。

鎌足、鏡の夫婦愛が興福寺の出発ということで、僕もちょっと、びっくりである。

忍阪と言えば舒明天皇陵。いわゆる段ノ塚古墳である。


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日本初の八角形墳といわれ、被葬者は舒明天皇(第34代天皇、天智・天武天皇の父)。

「鏡女王、在 大和国城上郡押坂陵(舒明天皇陵)域内東南 無 守戸」(『延喜式諸陵』)と記され、
以上から・・・

鏡王女の墓は忍阪に存在すること。

それから、舒明天皇の陵域で祀られた鏡王女は王族と見て間違いないだろう。陵墓の姿からは、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹とみる説が有力と思われる。(『日本書紀』小学館)という論説も見られる。

鏡女王は天武天皇12年(683年)75日に亡くなった。
7
4日、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊いたまう。

75日、鏡姫王薨りぬ。


この日に準じて、談山神社は6月第二日曜日に鏡女王祭、その前日に忍阪生根会は墓前祭を行うのである。


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忍阪、鏡嬢王墓前の谷川〜〜



by koza5555 | 2018-06-09 21:46 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

八講祭

3月の第一日曜日は談山神社の氏子が集まって八講祭が行われる。

氏子といっても阿部あたりの氏子は関係がなく、多武峰の本来の郷中の大字の祭である。


今年は倉橋が担当だった。倉橋と倉橋出屋敷(赤坂天王山辺りをいう)がご奉仕された。

来年は多武峰(八井内・飯盛塚、)、次が下居(針道・鹿路)、横柿、今井谷。生田、浅古、下という順番で、8年に一度、回ってくる。


当番の大字から1老から5老と名付けられる5人の長老が選ばれる。村の役員はピシッと全員が礼服を着用する。

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神社の神廟拝所で斎行される。

はじめに、長老の手により、中央に鎌足公、右に定慧、左に不比等を描いた掛け軸が掛けら

れる。その間、謡曲「尾上の松」が謡われる。

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つづいて、脇立画が掛けられる。寒山拾得(かんざんじっとく)である。その間、謡曲「四海波」が謡われる。

献饌があり、祝詞の奏上である。

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そのあと、一老により、「談山権現講式」という、始祖の栄誉を称える祭文が読み上げられ、「南無談山大明神」の神号が10回、奉唱される。

撤饌、脇立、神影を下ろして祭は終わる。

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この鎌足公の御神影は、一年で、30分だけ公開されるのである。

以上、『桜井風土記』(栢木喜一)に詳細が記されている。

さらに栢木さんは、「八講とは八ヶ大字で営むからだといっているが、これはおそらく法華八講から来たものだろう」とも指摘している。

「民間でかくもていねいな行事が長く続けられてきたことがありがたい」…これが栢木さんの結論である。

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付論するが、

もともとは倉橋の金福寺(崇峻天皇陵の東)の八講堂で行われが、今は談山神社の神廟拝所で執り行われる。8年に一度の当番では村々では進行も忘れてしまっていて、現在は、神社の神職にノウハウが蓄積されている状態となっている。

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by koza5555 | 2018-03-04 21:37 | 桜井・多武峰 | Comments(1)

多武峰の参詣道と町石の道

談山神社の社報、第89号が発行された。本日、2月15日、桜井市の全紙の折り込みに入っている。
「談」の会の会員には、順次発送される。
僕は二面、一ページをいただいている。今回は「多武峰の参詣道と町石の道」をまとめてみた。
ずっと書きたいなと考えていたテーマで、それなりに納得のいくものが書けた。
紹介してみよう。

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一の鳥居から談山神社に至るまで一町ごとに、およそ100メートルを区切りにして町石が置かれている。呼び方は「ちょうせき」とも「ちょういし」とも言われている。

今回は、この町石に迫ってみた。

浅古の一の鳥居の脇には初町と刻まれた石塔があり、談山神社の入り口の摩尼輪塔(まにりんとう)の脇には第52町と刻まれた同型の石が立てられている。52基は順番に配置されていたことは明らかである。仏教では悟りに達するのには52の段階、修業が必要とされているが、それに対応して52基の町石が配置されているのである。修行は信心から始まり、念心、精進心というように進み、52番目の妙覚位は悟りを開いた境地とされている。

町石もこれにならい、一基ごとに「信心位 初町」、「念心位 二町」、と刻まれ、最後の52町石は「第五十二 妙覚位」とされている。町石を辿りながら参詣すれば、おのずから仏の境地に到達できるという道しるべとなっている。

桜井市史(昭和47年)に、この町石が紹介されている。また、12年ほど前に奈良国立博物館の研究紀要で『多武峰の町石』が取り上げられ、元興寺文化財研究所が県道拡幅工事に伴う調査を実施、『多武峰町石調査報告書』を、昨年に発表している。

町石には、40年前(桜井市史)、12年前(奈良国立博物館)、現在(元興寺文化財研究所)の資料があるわけで、これを比べてみると変遷は手に取るようにわかる。今日はそこらあたりを考えてみることにした。

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52基の町石は32本が現存している。町石には「承応3年(1654年)」の年号が刻まれていて、360年前のものであることは明確であるまた町石と対となっている摩尼輪塔はさらに古いもので、乾元二年(一三〇三年)、鎌倉時代の製作であることも判明している。
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摩尼輪塔は鎌倉時代、町石は江戸時代に作られた。作られた時期は大きく違うが、もともとは石製の摩尼輪塔と木製の卒塔婆という組み合わせとの論もあり、この卒塔婆を石製で修理したのが江戸時代だとのことである。
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屋形橋と東門の短い距離のところに第46町、第19町、それから第47町とあわせて3基おかれている。第19町は持ち込まれたものであるが、桜井市史によれば40年前は北音羽にあるとされている。12年前にはすでにこの位置に移動されたとされている。「どんな経過で移設したのか」と尋ねて回った。すると、「ここにあった。トラックに当てられ折れていた。道路拡張の時に置くところが無くなり神社が引き取っていった」とのお話を聞くことができた。「移設してから20年は経つよ」とのことである。

下区の大字内に置かれている第6町石に特別に注目したい。現在は完形ですくっと立っている。ところが12年前の調査では横倒しとなっていて、ワイヤーが掛けられ、いかにもどこからか引き上げてきた様子である。40年前の桜井市史によると、これは「亡失」となっている。江戸時代に立てられたものが40年前には無くて、12年前は横倒し、現在は立っているということである。この経過を下(しも)の前の区長さんにお聞きした。「昭和25年のジェーン台風で流されたと聞いている。川底から拾い上げた。それを平成22年に立て直した。再建の式典もおこなった」と言われるのである。

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江戸時代の初めから村人、旅人を見守ってきた町石、これはすごいが、同時にこれを守ってきた、そして今も大事にしている地域の人もすごいなということである。


一基、一基、よく見ていただきたい。文字が判読できるものもあちこちに残されている。
多武峰の町石は奈良県の指定文化財に、町石と対とみられる摩尼輪塔(まにりんとう)は、国の重要文化財に指定されている。

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ありがとうございました。

by koza5555 | 2018-02-14 23:17 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社 一日ウォーク

談山神社だけを一日かけて、ご案内するツアーを「やまとびとツアーズ」で、企画した。紅葉が始まる10月29日(日)である。

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「マイカーでもバスでも参加しやすいでしょう」で、今回は談山神社のバス駐車場(ふく屋前)に集合である。


 神社を徹底してご案内する。歴史と現在をつなぐお話をしたい。

 御破裂山にも今回は登ることとする。

明治維新の時、神仏分離のさいには「妙楽寺をこちらに残そう」ならと検討された、念誦窟(ねずき)にも訪れる。

やまとびとツアーズの募集パンフレットの紹介は以下の通りである。

◆「古くから国家の不祥事があると鳴動するという“御破裂山”」観阿弥・世阿弥の本拠地で、能楽の起こりと深い関わりを持つ“権殿”」「妙楽寺時代の僧侶が眠る墓所“念誦窟(ねずき)”

談山神社には、大化の改新談合の地・・・だけではない、複雑で深い歴史があります。本ツアーでは、奈良まほろばソムリエの会理事であり談山神社氏子総代も務める、雜賀耕三郎氏に1日じっくりと境内をご案内いただきます。そして、特別に日本唯一の木造十三重塔の初層開扉や正式参拝もしていただきます。

 今回はあえて談山神社のみで一日を過ごしていただく事で、より深い新たな大人旅をご提案いたします。

◆スケジュール

10:15 談山神社駐車場 出発 --- うすずみ桜 --- 入山 --- 東殿(恋神社) --- 三天稲荷神社 --- 拝殿(正式参拝) --- 十 三重塔(初層特別開扉) --- 総社拝殿 --- 神廟拝所 --- 1215社務 所(昼食) --- かたらい山、御破裂山 登拝 --- 念誦窟(ねずき)増賀 上人墓--- 西大門跡 --- 1515 解散予定

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◆ご旅行代金は

お一人様 5,980

(講師料、拝観料、軽食代、保険料、消費税込)

◆歩行距離

2km

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私がご案内いたします。ぜひ、おいでください。
申し込みは やまとびとツアーズ 0744 43 8205 まで



by koza5555 | 2017-07-18 21:43 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

談山神社と談山雅楽会

談山神社の社報は『談』(かたらひ)である。桜井市の全域での新聞折り込みと「談の会」(崇敬会)会員に郵送で配布される。
この社報の2ページ目が僕の担当で、7月15日号は、談山神社の神事に奉仕される「談山雅楽会」を紹介した。

談山神社の四季折々の神事には、雅楽の伴奏が欠かせない。

神事の始めは神職の参進(入場)である。この参進に合わせて厳かな雅楽の伴奏が行われる。神事がすすみご本殿の開扉となる。ここではしめやかに笙(しょう)が奏でられる。献饌、玉串奉奠、撤饌、閉扉、退下と進行に合わせて雅楽の演奏は続く。談山神社では、この雅楽を談山雅楽会がほうしする。

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「神事にあたり雅楽会の奏者がまず入場、整列して着席します。参列者のみなさんは、私たちの姿を見て、坐り直されたり、姿勢を正されたりするのです。始まるなという緊張感を共有できます。神職が参進、そこで演奏を始めます」と、談山雅楽会の松本永二郎代表が語られる。松本さんは「神さまは音楽が好きなんです。神様に喜んでいただきながら、神事の進行を支えるのが雅楽です」と、雅楽会の役割も説明される。


この談山雅楽会は平成7年に結成された。「雅楽を習いましょう。演奏しませんか」と談山神社が呼びかけて同好者が集まった。談山雅楽会としての形を整えて20年以上も神事の雅楽奉仕を務め、演奏力の向上のために練習を続けてきたのである。


笙を吹く久保順子さんは結成当時からの会員である。久保さんに雅楽への思いをお聞きすると、「何も知らずに雅楽を始めました。子供のころから親しんだ談山神社が、雅楽の奉仕者を求めていると知り応募しました。20年以上、笙を吹いてまいりました」と神社への思いを語っていただき、「みんなで雅楽の練習を重ねて、神さまの前に並んで一心に奉納の演奏をするのが好きなのです」と話される。

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       練習風景である

その言葉を受けて、松本代表は「談山神社は雅楽演奏の最高のロケーションです。ご本殿前の演奏があります。いつでも心が引き締まります。神幸祭と春・秋の蹴鞠祭での道楽(みちがく・歩きながらの演奏)もやりがいがあります。屋外ですから力一杯吹いても、音は空に散って行きます。力を込めて吹く、息は苦しいがやりがいのあるすばらしい経験です」と語られた。
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          松本永二郎 談山雅楽会代表

神廟拝所での雅楽奉仕は観音講祭だけである。江戸時代まではお寺の講堂として使われてきた神廟拝所の音響効果は抜群で、そのうえ、ここにはとっておきの壁画が描かれているのだ。上部欄間の壁画には笙(しょう)、鼓(つづみ)・太鼓などで天女が雅楽を演奏し、舞う姿が描かれている。こちらの神事では、雅楽会が演奏して音を出し、壁画の天女奏楽図も無音の演奏をするのです。「ここだけ、この日だけ」の感動を味わうことができるのである。


観音講祭は毎年、6月の第四日曜日、今年は終えたばかりだが、来年はぜひ訪れていただきたい。

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神廟拝所、壁画

もともと談山神社(妙楽寺)は能楽が生まれ育った場所とされる。中世から近世にかけての多武峰の猿楽(現在の能楽のこと)は、大和四座(金春・金剛・観世・宝生)が一堂に参勤する盛大なものだった。こちらでは毎年、新演目が披露され、これが猿楽の発展に寄与したとされている。

談山神社は音楽と芸が溶け合った芸能の地で、こんな場所で生また談山雅楽会、その演奏と活動に期待を寄せて、注目してゆきたい。

談山雅楽会が奉仕する談山神社の祭祀は以下のとおりである。

1月  福禄寿大祭  雅楽始め

4月  神幸祭と蹴鞠祭

6月  観音講と鏡大王祭

8月  献灯祭

10月  嘉吉祭

11月  蹴鞠祭と新嘗祭

神社外では三輪戎神社(初えびす)、等彌神社(大学ゆり祭)、與喜天満神社(初瀬まつり)、妙顕寺(大阪府)に奉仕している。

申し込みにもとづき各種団体、施設、学校、社寺などへの出張演奏も行う。

雅楽会は入会を、常時受け付けている。参加条件はなく、会費は無料。練習は原則第2・第4土曜日の午後、談山神社境内で行う。

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by koza5555 | 2017-07-16 05:50 | 桜井・多武峰 | Comments(0)