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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:読書( 79 )

『奈良・大和を愛したあなたへ』

『奈良・大和を愛したあなたへ』東方出版  千田稔著

今年の1月に刊行されている。桜井図書館の新刊コーナーに並んでいたので、そそくさと借りました。何度も書店で「買おうかな」と悩んだ本でもある。
千田先生、図書館の借り読みですいません。しかし、先生は奈良県の図書館長されているんですから、許していただくということで。

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「奈良にゆかりの多彩な人たち その足跡に思いを寄せ、大和への愛惜を綴る」とある。

奈良で活躍した先人に千田稔さんが手紙を出すという設定である。
リストアップされている40名は、ほぼ明治時代の方々、そして歴史学だったり、文学者であったり。

ベルツ、ゴーランド、ブルーノ・タウト、アインシュタイン、バーナード・ショーなどの外国人も取り上げている。

いずれの手紙も唸らせられが、今の問題意識では、伊藤博文、与謝野晶子(『与謝野晶子と大和』」、直木三十五、宮本常一などが興味深かった。

「石上神宮の禁足地で太刀発見」と題した菅正友は特に面白い。

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「大宮司が禁足地を発掘するというのは大胆不敵な調査」。「前代未聞の発掘調査を敢行されたのは、水戸史学の考証的学的学風を持って歴史学に向かっておられたからであろう」と評価し、発見目録(明治7年㋇24日付け)によれば、「神剣一振や菅玉、勾玉、丸玉、鈴一個などで、神剣については実測図がつけられていました。」

「カムヤマトイワレビコの東征の折、タケミカヅチ命が高倉下に下したフツツノタマは石上神宮に鎮座している」と古事記に記されているフツツノミタマはこれと断定したのは菅正友だった。

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       6月30日、神剣渡御祭の日のお守り

「修史家(歴史家)が知っておくべきことは地理である。地形の高さ、低さ、険しいこと、なだらかなることを知っておかなければならない。土地の遠さ、近さ、東か、北かも知っておかねばならない。」(『修史家は地理を知らざる可からず』)

この言葉に歴史地理学を専攻する千田稔先生は激しく共感して、この書を結んでいる。

僕も同感である。

歴史家でなくても、なんでも関心を持つ野次馬であっても、「地理」は大切。地図から読み取れなければ、「現地に行け」である。

この本はおすすめしたい。買うなり、図書館で借りるなどして。
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鎮魂債祭の日に。夕闇が迫る。灯が入る。人はそれから集まってくる。



by koza5555 | 2018-04-04 21:13 | 読書 | Comments(0)

『土木技術の古代史』  青木敬

『土木技術の古代史』 (吉川弘文館) 青木 敬

古墳や仏教寺院・宮殿建築の発掘成果を土木技術の面から解明、技術の使われ方から古代の政治と暮らが解明される。

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はじめに古墳である。

古墳の製造技術を解明すると地域性、政治性、外交問題が復元できるとことである。


古墳の出現、ここからも土木技術が見えてくる。

弥生墳丘墓は墳丘周辺の土を盛り上げて作る。

古墳は巨大な墳丘のための採土、運搬、墳丘作製の技術レベルが上がる。


墳丘の作り方の工法で、東日本型、西日本型という差があるらしい。

東日本型は土を積み上げる。

これに比して西日本型は、まず土堤を築いて、内部に土を運びこむという差があるようだ。

本筋ではないが「前方後円墳は後円部を先に作る・・前方部を付け足すような構築順序がたしかにある」(吉田恵二先生 p26)などという考古学者の常識も紹介されていて、参考になる。


葺石の変遷もおもしろい。

古墳には木が茂っているが、もともとは石張り、葺石に覆われていたのが常態である。

るのがふつうである。

天皇陵が集中する佐紀盾列古墳群にも、葺石には発掘の成果があるのである。

それは市庭古墳(平城天皇陵)とウワナベ古墳である。市庭は古墳時代中期前半、ウワナベは中期後半とみられる。

市庭古墳は葺石の一重の基底石が並べられ、その上部に石が葺かれる。

ところがウワナベは基底石がなく、石は差し込まれるように置かれる。

「積み重ねる葺石」から、「埋め込む葺石」である。確実に市庭古墳がウワナベ古墳の前に作られた証拠である。

こんなところがとても興味深くて、面白い。

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土嚢や土の塊を敷きならべて、順々に積み上げるこ造成技術が紹介されていた。4世紀後半から始まるらしい。

土嚢や土の塊を列状に並べて積み重ね、間に土を入れながらという造成方法も紹介されている。これは5世紀以降で、5世紀の朝鮮半島の古墳、伽耶の古墳造成技術に類似するとされる。

この列状に土嚢や土の塊を積む技術が、日本で最初に使われたのが・・・藤井寺の津堂城山古墳の外堤とのことである。

大型古墳は4世紀後半に大和から河内(古市と百舌鳥古墳群)に移るとされるが、その初めの古墳と目されるのは津堂城山古墳と言わており、ここで使われたということである。

●しかしこの新技術はまず外堤で使われた。古墳本体ではなかった。その意味も考えなければならない。

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堤防のようなものを作りながら、そこへ土砂を運び込む古墳の作り方・・こんなことを考えるとため池造りなどの技術と古墳造りの技術が共通していることもわかるし、古代ヤマト王権はそんな技術者集団を擁して、領域を広げていったんだなあと・・

最後に寺院関係の紹介。

これはあれこれ読んでほしい。

僕には版築の技術が興味深かった。地域性、技術の歴史の考えると、当時の政治と外交が分るという分析である。

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by koza5555 | 2017-11-29 18:10 | 読書 | Comments(0)

古事記と小泉八雲

『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)。『神話と美術』(真住貴子著)が面白い。

神話の世界が絵画などに表現されるには、文字で記録した媒体が必要で、かつその内容が多くの人々に周知されていないと、作品として制作されません。

『古事記』『日本書紀』といった記紀神話は、歴史上、明治期に集中して描かれた。明治期から戦中にかけて、記紀が人々に広く知られたことを反映しています。

例えば、オロチ退治を、絵本の挿絵のように図示する作品が登場するのは明治期になってからです。それまでは神「話」ではなく、信仰の対象として「神」を表すた作品が存在します。

真住さんはその例として、松江の八重垣神社に伝わる重要文化財 <板絵著色神像  >を紹介している。スサノヲを描いた絵画の中では古い作例とのことである。

それは
平安時代の絵とのことで、服装が女性は十二単、男性は衣冠束帯姿、これは平安朝の風俗で描かれているのである。説明がなければ、スサノヲとクシナダヒメということがわからない。

20日に丹生川上神社にツアーで訪れるが、こちらに残されたイザナギ・イザナミのご神像(平安時代)も説明がなければ、イザナギ、どこさしてというしかないのである。

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丹生川上神社中社所蔵のご神像。大古事記展(2016年奈良県立博物館)の図録から拝借した。


明治になって、神像から神話をモチーフに描かられるようになり、イメージが変わる、表現方法が激変するのである。

明治政府は、天皇中心の国、天皇が国を統治する正当性を国民に教育するために力を入れた。そこで、活躍するのは記紀だった。公教育の中に持ち込まれ、記紀神話が図入りで教育された。

明治元年の神武天皇は、皮のマントを羽織、髪はザンバラ、装飾具を持たない。

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明治23年の神武天皇は、髪はミズラ、ネックレスといくつかのペンダント、直刀を持つ姿に変わっている。

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明治の初期に『前賢故実』(菊池容さい)で、神武天皇から後亀山天皇までの500人くらい忠臣を肖像画と略伝で紹介している。

その後に、東京博物館の学芸部長だった(のような役職)黒川真頼が、古墳などから発掘された装飾具などを紹介した。これにより、古墳時代の服装が明らかになっていくのである。それが早速絵に絵に取り入れられ、肖像画の姿も変えていった。



描かれた神話・描かれなかった神話という問題もある。
神武天皇、天の岩戸、ヤマトタケル、イザナギ・イザナミの国生み神話は書かれたが、大国主命など、出雲系の神話があまり書かれなかった。「この時代は、解説、神話は日本書記に基づいて書かれていた」。

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もちろん異端児もいる。異端児の青木繁の業績は光る。海の幸の青木繁である。青木は古事記に基づいて絵を描いた。オオナムチとかヨモツヒラサカである。勝手の奈良の大古事記展には、『ヨモツヒラサカ』が出陳されていた。

神話は見る者のイメージが共通になっていないと、絵にも描かれないということで芸術性よりも啓もう的な絵がはびこる。そんな中だからこそ、青木繁の絵は際立ったのである。

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by koza5555 | 2017-09-06 17:30 | 読書 | Comments(0)

古事記完全講義

竹田恒泰著、『古事記完全講義』。学研である。500ページはあるんだけど、面白い。三日がかりだった。

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今日は、「稗田阿礼と太安万侶の最強ペア」のことを紹介したい。

こちらは、すべて型破りの古事記解説であるが、稗田阿礼と太安万侶の紹介は極めて興味深い。

お手本にしたい四方八方を丸くおさめる歴史書の書き方

公式の歴史書だから、各地方からのクレームがつくことは予想される。

「確かに出雲も、南九州も、熱田も大和も、みんな「ふむふむ」と大方納得する歴史書になったんです。

稗田阿礼も太安万侶も天才ですから、言葉一つひとつにものすごい神経を尖らせているんです。状況設定も非常に細かい、ありとあらゆるところが、これまでに書かれた着たあらゆる文言と文章が、国譲りの正当性を担保するような書き方になっているんです。そこまでして初めて、国を譲った側、譲られた側、両方が納得できる歴史書になっているわけです。

 やっぱり日本人って和の精神なんですね。「俺たちの正義を押し付ける」じゃなしに、どうしたらみんなが納得できるか、ということを探求して、こういうものをつくり上げてきた。これは、本当に天才の成せる作業だと思います。(p311)

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太安万侶・・いないという論もあったのだが、お墓が出て墓誌が出て・・・・

天孫降臨が見事である。神から人へのエピソードをきわめてクリアに示されている。

天下ったニニギノミコトは木花佐久夜ひめと結びつく。親が大山祇という設定がすごい。追わば国ツ神の代表である。

さらに、「姉の石長ひめを帰してしまって、そこから寿命が与えられた」となっている。寿命ができるということは、神から人への移行で、これもとても自然の流れとなっている。

さらに、その子供のホデリの命、山幸彦である。こちらは綿津見神の娘と結婚する。綿津見神は海神である。国ツ神である。

こちらから、ウカヤフキアエズノミコが生まれ、その子たちが五瀬命やカムヤマトイワレビコである。東征が始まるということだ。


神から人となり、山の神、海の神の娘たちと結びつくという展開は見事で、天照大神の神勅を前提としつつも、実質的な地上の支配の体制を築き上げていくのである。

稗田阿礼、太安万侶の構想力、文筆がさえわたるところである。

古事記は二人の天才の手により完成した。長く埋もれることとなったが、本居宣長によってその全貌が解明されるのである。


古事記完全講義(竹田恒泰著)は古事記のすごさと面白さを際立たせる素晴らしい講義となっている。

この本、僕には認めにくいところも多々あるが、それを差し引いても読むべき価値がドーンと上回った。ぜひ、お勧めしたい。

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by koza5555 | 2017-07-01 22:15 | 読書 | Comments(0)

『古建築を復元する』 山田寺に見ると・・・

建物の復元は各地の遺跡の大きな目玉である。
邪馬台国所在地論で言っても、吉野ケ里なら当時の建物を彷彿とさせる建物が林立している。一つ一つの建物はよく考察されて復元されているだろうが、時代を隔てた建物が直近に立ち並ぶのはいただけない。しかし、逆にその密集度が迫力をもって迫ってくる。

一方、纏向といえば、古墳は見学できるが、建物は埋め戻された空き地だけだ。桜井埋蔵文化財センターに行くと、ようやく模型を見ることができる。
遺跡の保存など、長い目で見ればどうかであるが、現実の「集客力」は確実に差がある。

建物の復元は大切だ。そこで、そんな建物の復元・・という本が今年の3月に出ている。

『古建築を復元する‐‐過去と現在の架け橋』。奈良文化財研究所の海野聡さんが書かれた。

「古建築を知る」、「建物の痕跡を見る」と読みすすむと、「山田寺の衝撃」とあった。

1982年、突如として地面の下から「建物」が現れた。まさに直前までたっていたかのような姿が白日の下に晒されたのである。山田寺回廊の出土部分の発見までは、建築史は7世紀唯一の現存建物である法隆寺に依拠してきたが、この発見により常識が覆されたのである

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山田寺、東面回廊。薬剤処理を施されて

山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願による氏寺で、641年(舒明天皇13年)に寺地作成、643年(皇極天皇2年)金堂の建立、麻呂は謀反の疑いを受け死に至るが、685年(天武天皇14年)に金堂の丈六仏のご本尊の開眼供養が行われている。(上宮正徳法王帝説による)

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仏頭・飛鳥資料館にはレプリカが置かれている。写真撮影はできる

11世紀には回廊が倒壊、12世紀には金堂・塔・講堂が焼失した。

この東側の回廊が倒壊した状態のまま、土の下、さらにその瓦の下から出てきた・・出土したのである。
建築部材はすべて残っているという状態である。
柱は銅張り(エンタシス)があった。
組み物の特徴があった。
柱があり、その上に大斗、巻戸、肘木で平三斗(ひらみつど)で梁を支えるが、この形が法隆寺とは異なっていた。

法隆寺は柱と大斗の間に皿斗が入っている。奈良時代の建物には一般的には皿斗はなく、これは中世に中国から輸入(大仏様)されたもので、法隆寺は特殊な形を取っている(金堂・五重塔・中門にもついている)。

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これは僕が書いた 笑
山田寺には皿戸はない。

古い順にみれば、山田寺(なし)、法隆寺(あり)、薬師寺など(ない)、10世紀以降(あり)とのことである。
7世紀には日本の古建築の基礎ができていたことが示されたと海野聡先生は指摘するのである。
言い換えれば、法隆寺は別格という事だった。古代建築の代表、法隆寺はこの技術を、どう手に入れたか。興味は尽きない。

ほかにも平安神宮、第一次大極殿、朱雀門、四天王寺、登呂遺跡などが考察されている。
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『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』 著作 海野聡  吉川弘文館
by koza5555 | 2017-06-18 17:55 | 読書 | Comments(0)

氏神さまと鎮守さま

神社とはなに?談山神社の氏子総代だったり、町の役員として阿部八幡社の祭祀に日頃から関わりを持っていても、「神社とは何?」という決め手は、恥ずかしながら勉強不足。

そんなとき、「氏神さまと鎮守さま・・神社の民俗史」という本を、桜井市の図書館の新刊コーナーで見かけた。国立民俗博物館で仕事をされ、現在は國學院大学の教授の新谷尚紀さんが書かれている。
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「稲の民俗学」からはじまる。田んぼの造成と稲作作業が、日本の統治のシステムや文化に大きな力を果たしている。
① 稲作(水田の造営)にはとてつもない労働力が必要とされた。採集、狩猟、漁労という自然環境のシステムで生きてきた人に灌漑労働と稲作労働は過酷なものであり、強制力が必要だった。
② 古墳の築造は巨大なシステマティックな労働力の把握とその動員力が不可欠だった。水田稲作における動員力が、その背景にあってこその古墳築造と考えられる。東北(仙台市、山形市を結ぶ以北)に古墳がないのは古墳造営の強制力が働かなかったのも一因だ。ここには水田、稲作労働がなかった。
③ 祭は新嘗祭、大嘗祭、広瀬大忌神祭(ひろせのおおいみのかみまつり)と龍田風神祭。稲作に関わるもので、これらの祭りの整備と定例化が、天武朝により始まる。


神社の発生と祭祀の始まりを連動させるのが新谷先生の論である。その歴史が、そのまま生かされたりするのも、神社と祭祀の特徴である。
祭祀の歴史である。順番に・・・
① 磐座(いわくら)祭祀
② 禁足地祭祀
③ 祭地への神籬(ひもろぎ)設置
④ 祭地への臨時的な社殿配置 
⑤ 常設の宮殿設営
磐座祭祀、禁足地祭祀という段階があって、それは、4世紀後半の三輪山祭祀遺跡や、4世紀後半からの遺跡が残る沖ノ島遺跡に示される。いまでも、磐坐があり、禁足地がある、その遺跡もある。
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大神神社の大鳥居

大神神社は地元だから、いつも注目しているが、沖ノ島の重要性に改めて勉強する。
4世紀、大和王権の力が巨大となり、博多湾(西新町 にしじん)を経由しない海路として、沖ノ島ルートが整備されたと読んだばかりである(海の向こうから見た倭国 講談社現代新書 高田寛太著)。
海路の新設と沖ノ島祭祀の遺跡の始まりが接近していて、「なぜ、沖ノ島に」という疑問が氷解する。
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沖ノ島あたりをめぐる歴史


三番目である。いまの神社の姿は、神道の歴史に関わりがあると新谷先生は説かれる。
磐座、禁足地、神籬、社殿という祭祀の歴史が神社には、混ぜ合わされた姿となっている。そう言われれば、それは心当たりがある。祭祀の歴史は過去の事じゃなく、いまの姿でもある。それは神社だけではなく、村や神社に民俗としても、伝承されている。

あわせて、日本の信仰動向の解明もある。日本の信仰の土台は土着と招来されたものが混淆している。
① 古代日本の神々への神話的信仰
② 中国から伝承された陰陽五行や道教の教え
③ インドで生まれ、中国で醸成された仏教信仰
新谷先生は、「三本混じりの奔流」があり、それを土台にして日本で独自に育った神仏(山岳信仰、神仏混淆の神々)が考えられるが、現代は、それをすべて取り込んで信仰の姿があると解説される。
日本の信仰状態は、この歴史を引き継いでいる。
ここが大事であるが、引き継ぎ方は融合ではなく、それぞれの特徴も生かされているとの解明がある。
結論的にいえば、形や中味がまじりあうのではなく、「たとえていえば、あくまでもミックスサラダの状態であり、ミックスジュースではないとのことである。

混淆しながらも基本的要素をしっかり保持、それが日本の神祇信仰の特徴で、神社祭祀の特徴である。
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こちらは阿部八幡神社

なるほどでした。
「宮座の形成と運営」という項目で、「大柳生の氏神祭祀」、「奈良豆比古神社」を取り上げていて、ルポルタージュとしても学ぶものが多い。
by koza5555 | 2017-06-08 13:03 | 読書 | Comments(0)

古墳時代の終焉

先日、古墳の始まりということをブログに書いた。
「倭国大乱」という弥生時代後期の2世紀後半の争乱を収めて、邪馬台国の成立、古墳時代が始まるという見方が順当である。
倭国が平和となってはじめて、戦には役に立たない大規模な古墳の造成が始まるのである。

古墳時代の始まりは書いたが、今日は古墳の終末、古墳はどんな形でなくなるかを考えたみたい。
7世紀後半、壬申の乱(672年)以降には豪族の古墳は急速に作られなくなる。
その後は大王家の八角形墳などが作られるが、8世紀にかけてそれも消滅する。

古墳の造成の停止、古墳時代の終焉というのも一気に来るわけでもない。
まずは6世紀末から7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されるところから古墳の終末が始まるとされる。
見瀬丸山古墳(欽明天皇の陵か?)や今城塚古墳(継体天皇陵)は前方後円墳の最期を飾る大型古墳と言われる。

同じ時代か、さらにさらに下がる前方後円墳が桜井にあることを知った。
前方後円墳の最後に近い、あるいは最後のグループといえるような古墳である。
こうぜ一号墳という。桜井中学校の真北、浅古である。これが6世紀末の古墳とされる。

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下から見たら、こんな感じだ


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号墳には二つの横穴式石室。これは東石室入り口


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これが西石室。規模はこちらが大きい。


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石室に入ると

壬申の乱(672年)以降、天武天皇の王権が確立したのちは、有力豪族の古墳は消滅する。単に墓・・ということである。たとえば宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓・・舎人といえでも壬申の乱の有数な将軍だが、古墳ではなく、墓地である。

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榛原八滝、稲佐山の麓。文祢麻呂墓

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同じころの明日香村の飛鳥の天武・持統天皇陵とされる野口王墓


古墳は作られなくなっていく。
古墳がつくられなくなる過程は、新しい大王を中心とする集権的な古代国家の形成過程に対応するのである。


古墳の終末の過程として、まず六世紀末葉ないし7世紀初頭に前方後円墳の造営が停止されます。それもたんに前方後円墳の造営が停止されるだけではなくて、それまで前方後円墳を作っていた有力な政治的支配者層の大部分が大型古墳をつくらなくなるのが推古朝ぐらいのできごとです。推古朝ごろに古墳の造営に関するきわめて強い規制がまず出されて、多くの有力な豪族が大規模な古墳をつくらなくなります。ただ。それでもなお地方の国造という位置につけられたような限られた有力な豪族層は大型の方墳や円墳を作りつづけますし、畿内の有力豪族層も前方後円墳に替えて大型の方墳や円墳をつくります。
 7世紀の中葉になると、即位した大王に限って八角墳をつくりだしますが、その背後には大王の地位を一般の豪族から超越した存在にしようという強い政治的な意図が認められます
(『古墳時代の考古学』白石 P271)
by koza5555 | 2016-12-19 21:01 | 読書 | Comments(0)

継体天皇と阿蘇ピンク石

継体天皇の真の陵とされる今城塚古墳に関わって阿蘇ピンク石が発見されたと報道されている。
「石橋の材料  実は継体天皇の石棺  高槻古墳から破片流出」という記事が、11月11日に各紙(産経新聞、奈良新聞など)に報道されている。長さ110センチのピンク石、石橋で使われていたが付近の寺跡に置かれていたとのことだった。
「この石棺は無かったのではないか、破片しか出てこないじゃないか」と聞いたことがあるが、逆転の見事な発見である。

阿蘇ピンク石、これを考えてみた。
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東乗鞍古墳の阿蘇ピンク石石棺(今年の3月に撮影。今は石室に入れない状態である)

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奈良新聞11月11日付


継体天皇の石棺。
天理の東乗鞍古墳に阿蘇ピンク石。
桜井にはあちこちにある。
北の方から言うと慶運寺(箸中)の石棺仏。慶運寺古墳に置かれていたのだろうか。
三輪の金屋の石仏の縁の下にも見事な家型石棺の蓋石がある。
浅古の兜冢のピンク石のくりぬき式の家型石棺

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金屋の石仏の縁の下

『古墳時代の考古学』(白石太一郎司会の討論会 1998年)にその解明があった。
竜山石の長持形石棺は葛城氏の影響下につくられて、葛城氏の没落と共に消滅していくのだという倉敷考古館の間壁さんたちの研究があります。ところがその竜山石製長持石棺を用いなくなった段階ぐらいから、近畿で家形石棺がつくられ始めますので、その間のつなぎはどうも阿蘇石製石棺なのです。極端にいえば、葛城氏が大王家支えていた段階は竜山石で、葛城氏が没落すると同時に阿蘇の石がはいっているとすると、大王墓にもひょっとしたら阿蘇石が使われているのではないかということも考えられます。葛城氏にかわって胎動してくる大伴・物部氏など、大王を支える人たちの古墳がある桜井市や天理市にピンク石石棺がはいっているということも、付随した問題としてあるのではないでしょうか。(高木恭二 熊本学園大学講師 1998年当時)

大王家と大伴はこのピンク石石棺を作った宇土の地と、この地方の豪族を、とても重視していていたとの論である。

ピンク石の宇土半島の近くには菊水町、現在の和水(なごみ)j町がある。あの江田船山古墳の地で、5世紀末の遺物で文字が書かれた鉄刀が出た町である。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣と合わせてワカタケルの文字が刻まれていた刀である。
中央で作ったか、地元で作られたかの論はあるようだが、中央直結の地であったことは十分示されている。

有明海沿岸は交易や外交に活躍した土地でもあった。
日本書紀によると百済に使えた日羅という人が出てきますが、これは火葦北国造(ひのあしのくにのみやっこ)の子どもです。葦北というのは八代の近くですね。 (白石)

こんな解説もあり、5世紀の有明海沿岸の力が浮き彫りにされている。
阿蘇ピンク石は、葛城から大伴への権力移行期の石棺で、外交戦略にたけた大伴と有明海沿岸のピンク石の石棺を作りだしていた諸豪族の力が結びついた特別な時代の産物だということだが、いかがだろうか。

政権の安定に伴い、二上山石の家形石棺、竜山石の家形石棺などが大王家、しょごうぞくの石棺の軸になっていくのであるけど。

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これは兜塚古墳、石棺
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by koza5555 | 2016-12-17 23:27 | 読書 | Comments(0)

『未盗掘古墳と天皇陵古墳』

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桜井茶臼山古墳。こちらは未盗掘古墳じゃないけど、僕の古墳、お宝画像だ

未盗掘問題を論ずるためには、発掘とは何か、盗掘とは何が違うかを明らかにしなければならない。

考古学者が行う発掘の最大の目的は、遺物を掘りだすことではなく、遺物と遺構の関係を情報を入手することだ。
…これに対して盗掘は、このような情報に何の注意を払うことなく、もちろん記録を行うこともなく、それを暴力的にこわして遺物だけを取る行為にすぎない。
情報はその、その遺構を作って遺物を置いた過去の人々の行為を読み取るための、唯一無二の鍵となる。
(p18)

松木先生は、二つの未盗掘古墳の発掘を手掛けた。考古学者としては幸運な方というべきでしょうか。
一つは大阪大学当時の雪野山古墳。安土城跡の近くらしい。
今一つは、松木さんが中心となって岡山大学が発掘した勝負砂(しょうぶざこ)古墳である。
いずれも詳細な説明があるが今日は省く。

この発掘の経験と合わせて、発掘が中止された古墳の紹介がある。
羽曳野市の峰ヶ塚古墳の例である。
盗掘穴がある古墳だったが、掘りすすめると多くの副葬品が残された石室に至った。
遺物のなかでは魚佩(ぎょはい)といわれる(二匹の魚を腹側で向かい合せた形の金具、ベルトや刀の垂れ飾りか)が注目された。
藤の木古墳などの6世紀後半の古墳からは出土する。しかしこの古墳は5世紀後半で100年の差がある。その解明が待たれたが、「これほどまでの貴重な古墳の調査は、拙速を避けて未来にゆだねるべきだという判断が勝」ち、埋め戻されてしまった。
年代の差も不明、さらには竪穴式か横穴式かも不明である。

大王墓群のただなかにあって、それが竪穴式から横穴式へと移り変わっていくターニングポイントをなす古墳として、未盗掘ではないけれど、副葬品の残り具合も十分で、はかりしれない歴史的価値をを持っている峯ヶ塚。発掘中止崖冢として正しかったか、誤っていたいたかはだれにもわからない。・・・だが、それを解き明かす営みが、未来に向けての保存という理由のもとに、中途のままペンディングになっていること惜しむ声は少くない  (p211)

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最近入った横穴式石室。桜井の越塚古墳。石棺の器台が残っていた。

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これも最近入った桜井市のこうぜ一号墳西石室。ここは準ほふく前進である


日本の古墳に墓主の名前が入らないことの解説がありよく理解できた。
墓の主の名前がそこに残されていた事例は、日本の古墳にはない。だが中国には古くからそういう風習があった。神から墓地を買い取る「買地券」として、墓主の名を石に刻んだりすることはその典型
この風習は朝鮮半島までは伝わったが、日本には及ばなかった。
「誰それのが眠る墓」という意識よりも、巨同体のまつりの場として長の墳墓を築くという宗教的土俗性に遅くまでおおわれていた日本列島の古墳には伝わる由もなかった。


また、百済と日本の強固なつながりも触れている。
523年に亡くなった百済の武寧王の棺はコウヤマキだったことが判った。コウヤマキははモンスーンの卓越する日本でしか育たないもので、この棺の材料は日本から運ばれたものである。(p45)
西暦500年に対馬海峡を渡っていく巨大なコウヤマキ。古墳時代の英知と力は素晴らしいものである。


『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦(岡山大学教授) 小学館
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何を発掘したか、ではなく、発掘の考えかたを考えさせられる面白い本だった。
僕は図書館で借りたが、まだ3年ほど前の本である。
by koza5555 | 2016-12-08 14:26 | 読書 | Comments(0)

『古代大和へ、考古学の旅人』  石野博信

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今朝の箸墓古墳。古墳時代の始まりはこの古墳からか

一月のおもしろ歴史講座(桜井駅前エルトの第4会議室・1月6日(金))のテーマは「桜井の古墳」である。どんなお話になるか、まだジタバタしている。

古墳時代ということを考えてみた。弥生時代のあと、古墳が盛んにつくられた古代のことである。大和を中心にして日本がまとまった、その時代である。同じような前方後円墳が全国で作られる。飛鳥・藤原、平城京の時代に古墳は終わりを告げる。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)を読んでみた。
きっとおもしろい観点があると信じて読んだが、やはり石野先生は裏切らない。
「古墳時代は戦争のない時代」と言われる。

弥生時代の高地性集落という問題がある。邪馬台国論でもさんざん考えてきた。
さらに弥生時代は、九州も畿内にも大規模な、そして無数の環濠集落が生まれた。吉野ケ里のような厳しく深い環濠、100メートルにも及ぶ大幅な水濠(いく筋もの溝に分かれていた)が置かれた鍵・唐古のような形である。

「高地性集落というように呼んでおります。そういう村が盛んに作られるのが弥生時代の中頃から終わり頃です。その辺と環濠集落の動きというのは当然関係があるだろうと思います。環濠集落というのはやはり敵が襲ってくる時に備えて村を濠で囲んでしまう。山の高い所の村も敵が襲ってくるのに、備えて中世の逃げ城のように山の方へ村をつくる。」
「この高地性集落が盛んに作られるのは弥生時代中期の後半で、瀬戸内海の要所要所へ作られていきます。弥生時代の後期になると近畿地方大阪とか奈良を中心とする地域にたくさんできます。近畿地方では弥生時代後期が終わって・・・バッタリと高地性集落が無くなります。私は世の中が平和になったんだと、そして墓作りにエネルギーが集中できる時代になったんだと思っています」
(p125)

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奈良盆地の高地性集落と主要な遺跡(p71)


「環濠集落」も解説、評価がきわめて端的である。
「弥生時代でも日本列島に米づくりが入ってきた時期の村の遺跡が、福岡空港のある板付にありますが、その遺跡も大きな掘がめぐらされています。きんき地方でも、大阪でも、奈良でも、そういう村はたくさん残っています。ですから、弥生時代の村が掘で囲まれているというのはごく当たり前のことです。ただし、日本の歴史の中では、そういう村があるのは弥生と、鎌倉、室町時代から戦国時代にかけての二つの時期だけです。村を全部溝で囲まなければいけないほど、この二つの時代は戦争がはげしかったと言えると思います」(p154)

古墳が全国で作られていく時代は、この時代を経てからのことなのである、古墳の形、副葬品、祭祀のことなど古墳は話題は多いが、その前提は戦争のない時代だったということがある。
こんな社会の成立に、邪馬台国がその触媒になったかもしれないと僕は考えるのである。


古墳時代はすごい。
平和な日本があって古墳ありき。
そして保守的にならずに、古墳の築造の思想と技術はめまぐるしく向上・前進していく時代でもあった。

「古墳時代、戦争のない社会、すごいわ」、こんな思いを理解していただけるようなお話しにしたいものである。

『古代大和へ、考古学の旅人』(雄山閣・石野博信)
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by koza5555 | 2016-12-03 10:04 | 読書 | Comments(0)