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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:読書( 84 )

写真好きのための法律&マナー

何を撮ってはいけないか。何をSNSで発信してはいけないか。あるいは他人の写真を利用する引用のルールは決まっているのだろうか。

僕が問題になったわけではないが、身の回りで生まれちゃって‥苦慮している。



「関係ないわ」とお気楽に構えていても、思わぬ多額の請求がきたり、削除が求められたり、逆に自分の写真が使われていたりで愕然とすることも発生しているようである。

いわゆる盗撮とか、あるいは他人の写真を自分のものと発表するのは問題外だが、自分で撮った写真をSNSで発信したり、講演やガイドで写真、図面などを使う時の肖像権、著作権のことを考えてみた。

『写真好きのための法律&マナー』(朝日新聞出版)はそれを多くの実例を挙げて解説している。カメラマンだけじゃなく、ブログやフェイスブック、ツイッターなどの発信者はよくよく参考すべき事例が満載されている。

何を撮っていけないか。肖像権と著作権のことである(p4)。

撮影の可否は施設管理者が決める。撮影禁止の表示がない場合も注意が必要。

公道の撮影は自由、公道は国民の共有財産だから。公道からのカフェテラス、公道の看板、個人の住宅や私有地、神社仏閣の建物や樹木などは自由に撮れる。


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これは問題ないだろう

お祭は撮られることが前提だから撮影には問題がない、その他の行事にもとられることが前提となっている場合が多くて、撮影はできるが、それでも、それぞれの特性があるので主催者の意向をよく聞きながら考え場ならない。



さて、撮りました。一人でパソコンに落として楽しんで見ている分には問題がありませんが、それを公表しようとすると・・いろんな問題が出てくる。

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長谷寺のことを考えてみた。この写真に問題がないか・・・

何の問題もないと思っていたが、ある所から・・「長谷寺の許可は取ってますか」と指摘を受けた。こんな話である(p9、p15)。

調べてみると・・

公道から撮っている。建物を写すなという明示はされていないから問題がないが、著作権に関係するようである。法律を調べてみると・・

(公開の美術の著作物等の利用)。著作権法です。

第四十六条 美術の著作物で‥‥屋外の場所に恒常的に設置されているもの又は建築の著作物は、次に掲げる場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。

二 建築の著作物を建築により複製し、又はその複製物の譲渡により公衆に提供する場合

以上のような法律がありました。

問題はないのだが、但し、お寺や神社のような宗教施設をどう考えるか‥という問題もあり、トラブルを避けたいと考えるならば・・このケースはどうなんだろうということである。

「コピーを作って売るのはダメ」と商用を狭く考えるか、「お寺の写真を見たからもう行く必要なし」と営業妨害だとの主張もありうるし、「こんな寺院だから‥ぜひ行ってよ」と角度を変えてのお話もあるけど、これらは遠目(法律的)に見たら差は判らない。

宗教施設をどう考えるかとか、SNSであれば二次的・三次的な影響も考えねばならない。

肖像権の問題も複雑である。お祭りでも、着替えしている所とか、行事の中で支えたり、重さに耐える苦痛の写真が発表されたら、当事者はどう思うだろう・・・、そこで、「主観は千差万別ではあるものの、一般常識として容認できるかどうか」(p11)、おのずから線引きができるだろうとされている。

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これは肖像権に問題はない。しかし、撮った人は別で、例えば、何かメールかなんかで送ってきたなら、「載せてもよい?」と別のルールが必要になる。集団写真など、問題になりそうである。
長谷寺の中という問題はどうか。長谷寺の許可はいらないか。「ここで写真を撮ってください」と現場に明記、撮影グッズを長谷寺が用意している。SNSの発信を許可していますとは書かれていなかったが、これはクレームがつかんだろう。

写真や文献の引用の6条件というのも学ばせてもらった。無断使用と言われるのを避けるためのルール。これを最後に紹介しておきます。(p45

  1. 未公表の著作物は引用できない

  2. 自分の作品と明瞭な区別

  3. 自分の作品がメイン

  4. 引用する関連性

  5. 改変は禁止。トリミング、リライトはダメ。

  6. 出典の明記

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by koza5555 | 2018-09-14 11:24 | 読書 | Comments(0)

中秋の十五夜

八月(はづき)十五夜の花はススキである。またハギをはじめ秋の七草を飾る土地も多い。


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十五夜は月ごとにあるのだが、特に八月十五夜の月を賞する風習は、四季の移り変わりの中での「中秋」という好季節であることと、815日が「豊年祭」を営む日…日本の風土と生活の上に定着したものであった。秋の大切な折目だったのである。

この行事は今でも、旧暦で行われていて、9月十五夜がこれに当てられる。今年は924日が中秋の十五夜である。


中国では月の陰影をヒキガエルや兎と見て永遠の命をもたらす仙薬をつくといい、日本ではハレの日の餅をつくとみる。仙薬と餅・・これも不思議である。

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まずは、仙薬問題を考えてみる。

日本の神話では、月の神は「月読命」(つきよみのみこと)で、月の満ち欠けを読む(数える)神の意味がある。


イザナギは黄泉の国からイザナミに追われて地上に逃げ帰り、みそぎをする。左の眼からは天照大神、右の眼からは月読命、鼻を洗うとスサノオ命が生まれて、これを三貴人という。

天照大御神とスサノオ命は古事記・日本書紀では大活躍だが、月読命がとんと出てこない。


ところが萬葉集で、この月読神話が語られている。

「月読神話」の精髄は、月の満ち欠けを「蘇るもの、不死なるもの」とみることが土台である。

「月読の 持てる変若水(をちみず) い取り来て」(巻13-3245)とあり、この変若水(おちみず)は若返りの霊水とされている。月は満ちては欠け、欠けてはまた満ちるので、よみがえるもの、不死なるものとみられたようである。

「わが手本ま噛むと思わむますらをは 変水(おちみず)求め 白髪おいにけり」(巻4-627)」では、「私を妻にしたいならば、オチミズがいるのでは・・白髪でしょう、あなたは」と歌われるのである。


こんな風にみてくると、「月のウサギは不老長寿の仙薬をつく」という中国の思想はよく理解できた。

さて、中国のウサギの仙薬つきが日本では餅つきに変わるのが、これまたおもしろい。

日本の米作中心の農耕文化のもとで、中秋の名月、十五夜は秋祭、豊年の祭でもあり、庶民的に見れば、薬よりも餅つきだろうか。


月の満ち欠けに古代の人は若返りの可能性と力を感じた。月の満ち欠けは古代の人の希望であった。

僕もそんな年になった。今年の中秋の十五夜、924日は特別の思いで若返りを祈りたい。

以上は「節供の古典。花と生活文化の歴史」の「十五夜の古典」(雄山閣、桜井満著)の丸写しである。

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by koza5555 | 2018-09-02 08:55 | 読書 | Comments(0)

古代の醸造、酒造りのあれこれを

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓著。2012年。

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「卑弥呼の呪術と桃」については先日、書いたばかりだから、廣野さんが書いたテーマから、古代の醸造、酒造りのあれこれを考えてみたい。

先日、古事記をテーマに大神神社を案内した時、酒作りが話題になった。

「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒」である。古代の酒造りは人が米、味飯(うまいい)を噛むところから始まったとされる。

「未婚の女性が噛んだと聞くけど、大物主が噛んだ酒だろうか。大物主は女性だろうか」という質問だった。ソムリエの会の古事記ツウ、神様ツウの田原ガイドもタジタジとなった。

これを考えてみた。

お米を炊いて、それを噛んだコメ作りはあったようである。

しかし、それを古代の人も不潔感を感じていたという証拠がある。

乙女が噛んでも同じである。

「だから、神に噛ませる、神に醸ませる。それで不潔感を払拭」と、日本書紀の崇神条は書いたんではないだろうか」と、廣野卓先生が『卑弥呼は何を食べていたのか』で書かれている。

味飯(うまいい)を水に醸みなし 我が待ちし かひはかつてなし 直にしあらねば(巻16-3810

『大隅国風土記』である。ある家が米と水を用意して村に告げまわります。村の男女が集まってコメを噛んで酒槽に噛んで入れます。酒の香りがしてくると、また集まってそれを飲みます。これが口噛みの酒。噛んでペッである。

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しかし、やはり不潔という意識はある。現代人は無論のこと、古代の人も同じである。

スサノオ命の神話を思い出してほしい。穀物神オオゲツヒメが口から食物を出して饗応したので、スサノオ命は不潔だと怒ってオオゲツヒメを剣で斬っている。

この不潔感を払拭するために、未婚の乙女が噛んだり、村人全員で噛んだ。

さらに不潔感はぬぐい切れないので、「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒」として、「神様が噛んだ酒」だからと、不潔感を払拭した。

大物主は女性ではなく、男であるが・・神である‥というのが結論である。

神と酒の歴史では、大神神社の大物主が酒の関わりの大本である。

『崇神記』には、大田田根子を祭主として、高橋活日を掌酒(さかびと)に定めて、大物主神を祀らせてとしている。

「この神酒(みき)は、わが酒ならず、大物主の醸みし神酒 幾久 幾久」

これが縁起となって大神神社の祭神を酒神とする伝承が生まれる。神酒と書いてミワと訓するようになり、味酒(うまざけ)が三輪山の枕詞にもなる。

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ところがこの酒の神はスクナヒコ神が本来の神の可能性があるというのが、廣野卓先生の託宣である。

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      大阪市土修町の少彦名神社

大神神社は三輪山の奥津磐座を大物主神、中津磐座を大国主神、辺津磐座をスクナヒコナ神を祀っている。

スクナヒコナ神は大国主神に協力して、さまざまな生産技術を伝授し、豊葦原の中ッ国を築く産業神で、薬神が祀られている。

製薬業界にも崇められる。薬の町大坂の道修町では、少彦名神社の祭日(1223日)を「神農さん」と呼んで和漢の薬神が祀られる。酒より薬ということだが。

『仲哀記』によれば、少彦名神が酒の神である。

「この神酒は わが神酒ならず 酒の司(くしのかみ) 常世にいます 石立たす 小名御神の 神寿き(かみほき) 寿き狂ほし(ほきくるほし) 寿きもとほし 献り来し(まつりこし)神酒ぞ 乾さず食せ(あさずほせ) ささ 」

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竜田大社の例祭の祝詞(天武天皇(律令)の頃から行われている)に照らして考えてみよう。

神酒ならべ 和稲(にごしね)・荒稲(あらしね)に

山やまに住(す)む物ものは

毛(け)の和物(にこもの)・毛(け)の荒物(あらもの)

大野原(おほのはら)に生(お)ふる物は甘菜(あまな)・辛菜(からな)

青海原(あをみのはら)に住(す)む物ものは鰭(はた)の廣物(ひろもの)

談山神社の百味の御食で、和稲、荒稲を語っているが、

海の魚、鰭(はた)の廣物(ひろもの)を教えてもらった。鰭(ひれ)が大きいと廣物でタイとされ、鰭が小さいと鰭狭物‘(はたのさもの)で鯉という。

鰭はあまり違いがないが、体高で決めていたらしい。

神饌を考えると古代の食物にあたるらしい。日常的に、あるいは特別に食べているものが神饌として供えられていたからだ。

食べ物と酒のことでした。


by koza5555 | 2018-07-03 21:15 | 読書 | Comments(0)

語りだす奈良 118の物語   西山厚  

いま、古事記の音読をしている。おもしろい。
なぜ、こんなことを連休に初めたか。それは西山厚さんの本を読んで啓発されたのである。


毎日新聞の連載が本になった。この本の紹介は、アウトラインではなく、いくつかを抜粋した方が良いと考えた。

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こんな人いた!

どうしょうもない悪い世界に住んでいたとして・・どう生きたらいいだろうか。方法は三つである。それは

あきらめる。

別の世界に行く。それは浄土宗の法然の考え。

この世界を変える。これが貞慶の意見である。

奈良国立博物館で、10年くらい前に貞慶展をやられたとのこと。この貞慶を巡っての話である。
貞慶は鎌倉仏教の本流で、解脱上人・・

最後に住んだのが海住山寺、浄瑠璃寺に関連し、貞慶の関係者が造ったのが伝香寺の地蔵菩薩であり、それらの寺々からご仏像がおでましになったとのこと。(p108

古事記を読む

奈良国立博物館の「古事記の歩んできた道」・・・の準備を進めるうち、久しぶりに『古事記』の原文に触れたくなり、新潮日本古典集成(西宮一民さん耕注)で、全巻を声に出して読んでみた。いい!実にいい!『古事記』がこんなに魅力的な作品だったとは、今まで十分に認識していなかった。(p117


日曜美術館

琴は特別な楽器である。琴を弾く人物埴輪がたくさん見つかっているが、それは神さまに向かって弾いている。琴は神と人をつなぐ楽器、日本人は琴を特別視していた。

琴は絃の下に柱(じ)を立てる。これを琴柱(ことじ)という。琴柱がないと美しい音が出ない.絃の下で美しい音を支える琴柱。私の母の名前である(p230

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天理参考館で拝見した琴。ブラジル移民が慰めの為に琴とかを作った。ちなみに琴は、雅楽で使われる楽器の中では最古から使われたものと言える

談山能

安時代に円仁という比叡山の僧が唐に渡り、常行三昧を伝えた。常行三昧は不眠不休で念仏を唱えながら、本尊の阿弥陀如来像の周りを歩み続ける厳しい修行でそれを行う場所が常行堂である。(談山神社の儀式殿、前は権殿)

お寺では大きな法会のあとに、僧侶によってさまざまな芸能が演じられることがあった。これを延年という。多武峰の常行堂はその代表例のひとつで、正月の修正会のあとには、「翁」をはじめとする66番の猿楽が演じられたらしい。

お堂の後ろの入り口を後戸という。後戸から入ったところの空間には、東大寺法華堂のように、執金剛神像のように、本尊を護る神や、何か特別の力を持つ神仏が祀られた。

多武峰の常行堂の後戸には摩多羅神(またらじん)が祀られていた。摩多羅神は円仁が帰国する船の中に現れた神で、常行三昧に入った僧を守護してくれる存在かと思われるが、

談山神社の常行堂、その後戸の天井の裏の小部屋には「摩多羅神」と墨書された箱が置かれており、中には大ぶりな翁の面が入っていた。

平成23年(2011年)、観世流宗家の観世清和さんが、権殿(現在の儀式殿)において、この面を用いて能「翁」を奉納した。(p345



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談山神社の常行三枚堂。現在は儀式殿に呼ばれている

くっつく

正倉院展に聖武天皇のベッドが展示された。展示されたのはひとつだけだが、正倉院には同じ大きさのベッドがもう一つある。ふたつをくっつけて聖武天皇がおひとりでのびのび寝ておられたのか、ふたつをくっつけて、聖武天皇と光明皇后が仲よく休んでおられたのか。

・・・

ところで、聖武天皇の御陵と光明皇后の御陵はくっついている。地図で見ると,二つの御陵は完全に合体しており、よくみると、合体した姿はハート形だ!(p310

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ハート形かな?

奈良が好きになる。聖武天皇・光明皇后が好きになる。仏教のことを考えたくなる。

そして、こんなわけで、古事記の音読を始めたのである。


by koza5555 | 2018-05-02 20:46 | 読書 | Comments(0)

天皇と民の大嘗祭

来年の今日、今上天皇は退位され、翌日の51日には新たな天皇陛下が即位されることになる。

201951日は即位の儀式が行われるが、「神器」献上は先に行わることが原則であることから見ると、430日に「神器」献上が行われるとみられる。

今日は、その後の大嘗祭のことである。

『天皇と民の大嘗祭』」(展転社・高森明勅)を読んでみた。実は、いくつか読んだ見たが、これが一番・・良い。

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先帝から皇位を譲られた時の大嘗祭は、その即位が7月以前の時はその年の11月、8月以降なら翌年の11月に行われる。

この例から見ると、来年は即位があり、大嘗祭も11月に行われるが通例である。

スケジュールは以下のとおりである。

4月に悠紀(東日本)・主基(西日本)の「国」、「郡」が卜定される。大嘗祭の神事に用いる稲をどこで作るか、という決定である。田植えの時期が関係するから、その前には決まっていなければならない。

大嘗祭の行事所が任命される。行事所は悠紀・主基、それぞれに置かれる。

8月には大祓の使い、天神地祇に幣帛を奉る使いが出される。畿内に一人、七道に一人づつで8名である。

9月には由加(ゆか)物使を紀伊(和歌山)、淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)の三国につかわす。

由加物とは、アワビ、あゆ、たにし、ウニなどの魚介類や蒜英根(ひるのはなね)漬物や橘子などである。たてまつるものが決められているとのことである。

9月には悠紀・主基で抜穂を行い、斎田の稲が到着する。

10月からみそぎが始まり大嘗祭は始まっていく。

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大嘗祭が始まると天皇は先に悠紀殿に入られる。

ここで奈良県が関係、宮内省の役員に率いられた吉野の国栖らが朝堂院に参入し、大嘗宮の南門の外の庭上にて古風(ふるぶり)を奏上する。つづいて悠紀地方の歌人が・・・

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天皇が高御座におつきになる、いわば直来ともいえる豊明節会(とよのあけのせつえ)でも、吉野の国栖が歌笛を奏することから始まり、そのあと久米舞などが奏じられるとのことである。


高森明勅さんは、悠紀・主基の国郡からの献上は「豪族たちの服属のシンボル化されたもの」とする。

由加物を献上する紀伊、淡路、阿波の三国は重要である。これらの国は悠紀・主基とはちがい、すべての大嘗祭に献上する。非耕作民(漁民)の奉仕は歴史が深いとされる。

須恵器をたてまつるのは、河内、和泉、尾張、三河、備前の五ヶ国である。

そして、国栖・隼人、悠紀・主基の民の国風(くにぶり)の奉仕も注目すべきであるとされる。「海・山の民が天皇のお側近くまで参上して奉仕を行う。それによって平素は見えにくくなっている天皇統治の全体性と根源性を浮かび上がらせる効果がある」とのことである。

悠紀・主基殿を取り片づけると豊明節会(とよのあかりのせつえ)で、天皇は高御座におつきなる。ここでも吉野の国栖の歌舞は初めに奉られる。


大嘗祭、全体は「民とのつながり」で進められる。

高森明勅さんは、大嘗祭の成立、大嘗祭の行事の中身を詳細に展開して、天皇の民との大きなつながりを丹念にたどり、日本の国の在り方を検討している。

大嘗祭を研究する文献は、あれこれ見ているが、民の戸の関わりを焦点にした高森さんの炉は共感が持てる。いま、大嘗祭が興味深く、そして、おもしろい。ここでとどまめず、さらに勉強してみたい。


by koza5555 | 2018-04-30 23:29 | 読書 | Comments(0)

『奈良・大和を愛したあなたへ』

『奈良・大和を愛したあなたへ』東方出版  千田稔著

今年の1月に刊行されている。桜井図書館の新刊コーナーに並んでいたので、そそくさと借りました。何度も書店で「買おうかな」と悩んだ本でもある。
千田先生、図書館の借り読みですいません。しかし、先生は奈良県の図書館長されているんですから、許していただくということで。

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「奈良にゆかりの多彩な人たち その足跡に思いを寄せ、大和への愛惜を綴る」とある。

奈良で活躍した先人に千田稔さんが手紙を出すという設定である。
リストアップされている40名は、ほぼ明治時代の方々、そして歴史学だったり、文学者であったり。

ベルツ、ゴーランド、ブルーノ・タウト、アインシュタイン、バーナード・ショーなどの外国人も取り上げている。

いずれの手紙も唸らせられが、今の問題意識では、伊藤博文、与謝野晶子(『与謝野晶子と大和』」、直木三十五、宮本常一などが興味深かった。

「石上神宮の禁足地で太刀発見」と題した菅正友は特に面白い。

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「大宮司が禁足地を発掘するというのは大胆不敵な調査」。「前代未聞の発掘調査を敢行されたのは、水戸史学の考証的学的学風を持って歴史学に向かっておられたからであろう」と評価し、発見目録(明治7年㋇24日付け)によれば、「神剣一振や菅玉、勾玉、丸玉、鈴一個などで、神剣については実測図がつけられていました。」

「カムヤマトイワレビコの東征の折、タケミカヅチ命が高倉下に下したフツツノタマは石上神宮に鎮座している」と古事記に記されているフツツノミタマはこれと断定したのは菅正友だった。

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       6月30日、神剣渡御祭の日のお守り

「修史家(歴史家)が知っておくべきことは地理である。地形の高さ、低さ、険しいこと、なだらかなることを知っておかなければならない。土地の遠さ、近さ、東か、北かも知っておかねばならない。」(『修史家は地理を知らざる可からず』)

この言葉に歴史地理学を専攻する千田稔先生は激しく共感して、この書を結んでいる。

僕も同感である。

歴史家でなくても、なんでも関心を持つ野次馬であっても、「地理」は大切。地図から読み取れなければ、「現地に行け」である。

この本はおすすめしたい。買うなり、図書館で借りるなどして。
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鎮魂債祭の日に。夕闇が迫る。灯が入る。人はそれから集まってくる。



by koza5555 | 2018-04-04 21:13 | 読書 | Comments(0)

『土木技術の古代史』  青木敬

『土木技術の古代史』 (吉川弘文館) 青木 敬

古墳や仏教寺院・宮殿建築の発掘成果を土木技術の面から解明、技術の使われ方から古代の政治と暮らが解明される。

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はじめに古墳である。

古墳の製造技術を解明すると地域性、政治性、外交問題が復元できるとことである。


古墳の出現、ここからも土木技術が見えてくる。

弥生墳丘墓は墳丘周辺の土を盛り上げて作る。

古墳は巨大な墳丘のための採土、運搬、墳丘作製の技術レベルが上がる。


墳丘の作り方の工法で、東日本型、西日本型という差があるらしい。

東日本型は土を積み上げる。

これに比して西日本型は、まず土堤を築いて、内部に土を運びこむという差があるようだ。

本筋ではないが「前方後円墳は後円部を先に作る・・前方部を付け足すような構築順序がたしかにある」(吉田恵二先生 p26)などという考古学者の常識も紹介されていて、参考になる。


葺石の変遷もおもしろい。

古墳には木が茂っているが、もともとは石張り、葺石に覆われていたのが常態である。

るのがふつうである。

天皇陵が集中する佐紀盾列古墳群にも、葺石には発掘の成果があるのである。

それは市庭古墳(平城天皇陵)とウワナベ古墳である。市庭は古墳時代中期前半、ウワナベは中期後半とみられる。

市庭古墳は葺石の一重の基底石が並べられ、その上部に石が葺かれる。

ところがウワナベは基底石がなく、石は差し込まれるように置かれる。

「積み重ねる葺石」から、「埋め込む葺石」である。確実に市庭古墳がウワナベ古墳の前に作られた証拠である。

こんなところがとても興味深くて、面白い。

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土嚢や土の塊を敷きならべて、順々に積み上げるこ造成技術が紹介されていた。4世紀後半から始まるらしい。

土嚢や土の塊を列状に並べて積み重ね、間に土を入れながらという造成方法も紹介されている。これは5世紀以降で、5世紀の朝鮮半島の古墳、伽耶の古墳造成技術に類似するとされる。

この列状に土嚢や土の塊を積む技術が、日本で最初に使われたのが・・・藤井寺の津堂城山古墳の外堤とのことである。

大型古墳は4世紀後半に大和から河内(古市と百舌鳥古墳群)に移るとされるが、その初めの古墳と目されるのは津堂城山古墳と言わており、ここで使われたということである。

●しかしこの新技術はまず外堤で使われた。古墳本体ではなかった。その意味も考えなければならない。

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堤防のようなものを作りながら、そこへ土砂を運び込む古墳の作り方・・こんなことを考えるとため池造りなどの技術と古墳造りの技術が共通していることもわかるし、古代ヤマト王権はそんな技術者集団を擁して、領域を広げていったんだなあと・・

最後に寺院関係の紹介。

これはあれこれ読んでほしい。

僕には版築の技術が興味深かった。地域性、技術の歴史の考えると、当時の政治と外交が分るという分析である。

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by koza5555 | 2017-11-29 18:10 | 読書 | Comments(0)

古事記と小泉八雲

『古事記と小泉八雲』(かまくら春秋社)。『神話と美術』(真住貴子著)が面白い。

神話の世界が絵画などに表現されるには、文字で記録した媒体が必要で、かつその内容が多くの人々に周知されていないと、作品として制作されません。

『古事記』『日本書紀』といった記紀神話は、歴史上、明治期に集中して描かれた。明治期から戦中にかけて、記紀が人々に広く知られたことを反映しています。

例えば、オロチ退治を、絵本の挿絵のように図示する作品が登場するのは明治期になってからです。それまでは神「話」ではなく、信仰の対象として「神」を表すた作品が存在します。

真住さんはその例として、松江の八重垣神社に伝わる重要文化財 <板絵著色神像  >を紹介している。スサノヲを描いた絵画の中では古い作例とのことである。

それは
平安時代の絵とのことで、服装が女性は十二単、男性は衣冠束帯姿、これは平安朝の風俗で描かれているのである。説明がなければ、スサノヲとクシナダヒメということがわからない。

20日に丹生川上神社にツアーで訪れるが、こちらに残されたイザナギ・イザナミのご神像(平安時代)も説明がなければ、イザナギ、どこさしてというしかないのである。

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丹生川上神社中社所蔵のご神像。大古事記展(2016年奈良県立博物館)の図録から拝借した。


明治になって、神像から神話をモチーフに描かられるようになり、イメージが変わる、表現方法が激変するのである。

明治政府は、天皇中心の国、天皇が国を統治する正当性を国民に教育するために力を入れた。そこで、活躍するのは記紀だった。公教育の中に持ち込まれ、記紀神話が図入りで教育された。

明治元年の神武天皇は、皮のマントを羽織、髪はザンバラ、装飾具を持たない。

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明治23年の神武天皇は、髪はミズラ、ネックレスといくつかのペンダント、直刀を持つ姿に変わっている。

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明治の初期に『前賢故実』(菊池容さい)で、神武天皇から後亀山天皇までの500人くらい忠臣を肖像画と略伝で紹介している。

その後に、東京博物館の学芸部長だった(のような役職)黒川真頼が、古墳などから発掘された装飾具などを紹介した。これにより、古墳時代の服装が明らかになっていくのである。それが早速絵に絵に取り入れられ、肖像画の姿も変えていった。



描かれた神話・描かれなかった神話という問題もある。
神武天皇、天の岩戸、ヤマトタケル、イザナギ・イザナミの国生み神話は書かれたが、大国主命など、出雲系の神話があまり書かれなかった。「この時代は、解説、神話は日本書記に基づいて書かれていた」。

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もちろん異端児もいる。異端児の青木繁の業績は光る。海の幸の青木繁である。青木は古事記に基づいて絵を描いた。オオナムチとかヨモツヒラサカである。勝手の奈良の大古事記展には、『ヨモツヒラサカ』が出陳されていた。

神話は見る者のイメージが共通になっていないと、絵にも描かれないということで芸術性よりも啓もう的な絵がはびこる。そんな中だからこそ、青木繁の絵は際立ったのである。

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by koza5555 | 2017-09-06 17:30 | 読書 | Comments(0)

古事記完全講義

竹田恒泰著、『古事記完全講義』。学研である。500ページはあるんだけど、面白い。三日がかりだった。

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今日は、「稗田阿礼と太安万侶の最強ペア」のことを紹介したい。

こちらは、すべて型破りの古事記解説であるが、稗田阿礼と太安万侶の紹介は極めて興味深い。

お手本にしたい四方八方を丸くおさめる歴史書の書き方

公式の歴史書だから、各地方からのクレームがつくことは予想される。

「確かに出雲も、南九州も、熱田も大和も、みんな「ふむふむ」と大方納得する歴史書になったんです。

稗田阿礼も太安万侶も天才ですから、言葉一つひとつにものすごい神経を尖らせているんです。状況設定も非常に細かい、ありとあらゆるところが、これまでに書かれた着たあらゆる文言と文章が、国譲りの正当性を担保するような書き方になっているんです。そこまでして初めて、国を譲った側、譲られた側、両方が納得できる歴史書になっているわけです。

 やっぱり日本人って和の精神なんですね。「俺たちの正義を押し付ける」じゃなしに、どうしたらみんなが納得できるか、ということを探求して、こういうものをつくり上げてきた。これは、本当に天才の成せる作業だと思います。(p311)

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太安万侶・・いないという論もあったのだが、お墓が出て墓誌が出て・・・・

天孫降臨が見事である。神から人へのエピソードをきわめてクリアに示されている。

天下ったニニギノミコトは木花佐久夜ひめと結びつく。親が大山祇という設定がすごい。追わば国ツ神の代表である。

さらに、「姉の石長ひめを帰してしまって、そこから寿命が与えられた」となっている。寿命ができるということは、神から人への移行で、これもとても自然の流れとなっている。

さらに、その子供のホデリの命、山幸彦である。こちらは綿津見神の娘と結婚する。綿津見神は海神である。国ツ神である。

こちらから、ウカヤフキアエズノミコが生まれ、その子たちが五瀬命やカムヤマトイワレビコである。東征が始まるということだ。


神から人となり、山の神、海の神の娘たちと結びつくという展開は見事で、天照大神の神勅を前提としつつも、実質的な地上の支配の体制を築き上げていくのである。

稗田阿礼、太安万侶の構想力、文筆がさえわたるところである。

古事記は二人の天才の手により完成した。長く埋もれることとなったが、本居宣長によってその全貌が解明されるのである。


古事記完全講義(竹田恒泰著)は古事記のすごさと面白さを際立たせる素晴らしい講義となっている。

この本、僕には認めにくいところも多々あるが、それを差し引いても読むべき価値がドーンと上回った。ぜひ、お勧めしたい。

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by koza5555 | 2017-07-01 22:15 | 読書 | Comments(0)

『古建築を復元する』 山田寺に見ると・・・

建物の復元は各地の遺跡の大きな目玉である。
邪馬台国所在地論で言っても、吉野ケ里なら当時の建物を彷彿とさせる建物が林立している。一つ一つの建物はよく考察されて復元されているだろうが、時代を隔てた建物が直近に立ち並ぶのはいただけない。しかし、逆にその密集度が迫力をもって迫ってくる。

一方、纏向といえば、古墳は見学できるが、建物は埋め戻された空き地だけだ。桜井埋蔵文化財センターに行くと、ようやく模型を見ることができる。
遺跡の保存など、長い目で見ればどうかであるが、現実の「集客力」は確実に差がある。

建物の復元は大切だ。そこで、そんな建物の復元・・という本が今年の3月に出ている。

『古建築を復元する‐‐過去と現在の架け橋』。奈良文化財研究所の海野聡さんが書かれた。

「古建築を知る」、「建物の痕跡を見る」と読みすすむと、「山田寺の衝撃」とあった。

1982年、突如として地面の下から「建物」が現れた。まさに直前までたっていたかのような姿が白日の下に晒されたのである。山田寺回廊の出土部分の発見までは、建築史は7世紀唯一の現存建物である法隆寺に依拠してきたが、この発見により常識が覆されたのである

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山田寺、東面回廊。薬剤処理を施されて

山田寺は蘇我山田石川麻呂の発願による氏寺で、641年(舒明天皇13年)に寺地作成、643年(皇極天皇2年)金堂の建立、麻呂は謀反の疑いを受け死に至るが、685年(天武天皇14年)に金堂の丈六仏のご本尊の開眼供養が行われている。(上宮正徳法王帝説による)

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仏頭・飛鳥資料館にはレプリカが置かれている。写真撮影はできる

11世紀には回廊が倒壊、12世紀には金堂・塔・講堂が焼失した。

この東側の回廊が倒壊した状態のまま、土の下、さらにその瓦の下から出てきた・・出土したのである。
建築部材はすべて残っているという状態である。
柱は銅張り(エンタシス)があった。
組み物の特徴があった。
柱があり、その上に大斗、巻戸、肘木で平三斗(ひらみつど)で梁を支えるが、この形が法隆寺とは異なっていた。

法隆寺は柱と大斗の間に皿斗が入っている。奈良時代の建物には一般的には皿斗はなく、これは中世に中国から輸入(大仏様)されたもので、法隆寺は特殊な形を取っている(金堂・五重塔・中門にもついている)。

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これは僕が書いた 笑
山田寺には皿戸はない。

古い順にみれば、山田寺(なし)、法隆寺(あり)、薬師寺など(ない)、10世紀以降(あり)とのことである。
7世紀には日本の古建築の基礎ができていたことが示されたと海野聡先生は指摘するのである。
言い換えれば、法隆寺は別格という事だった。古代建築の代表、法隆寺はこの技術を、どう手に入れたか。興味は尽きない。

ほかにも平安神宮、第一次大極殿、朱雀門、四天王寺、登呂遺跡などが考察されている。
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『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』 著作 海野聡  吉川弘文館
by koza5555 | 2017-06-18 17:55 | 読書 | Comments(0)