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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:桜井市と安倍( 63 )

泥掛地蔵(桜井市橋本)の地蔵盆


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橋本のお地蔵さんは村はずれから300㍍も離れた山の中である。泥掛(どろかけ)地蔵の名、長屋王に関わる青木廃寺の跡地に置かれているという事で、ちょっと注目のお地蔵さんである。こちらの地蔵盆、今年もタイミングが合わずにお参りできなかった。

村が行う地蔵盆とお寺の行事の地蔵盆、両方を行われていることを、今まで知らなかった。

23日の2時から村の地蔵盆。さらに24日の2時からは法栄寺(桜井市橋本)のお寺(信者の)の行事である。23日に伺ったとき、「明日はお寺の地蔵盆。法華宗だから太鼓を叩きます」とお誘いを受けた。喜んで参ったが、時間を繰り上げたとのことで終わっていた。盛大なうちわ太鼓たたきの法要の写真は来年の楽しみである。

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橋本の泥掛地蔵、今では、三つのため池がつながる密林の中のお堂であるが、もともと、この地は10世紀初めに創建されたという青木寺の跡である。

お地蔵さんと並んで、青木廃寺の一切供養塔というのも立てられている。

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廃寺青木寺一切之供羪塔也  昭和六十二年七月二三日吉祥日 法栄寺建之

「創建当時の瓦が出土している。この寺は奈良時代の悲劇の宰相だった長屋王が、父高市皇子の冥福を祈って建てたと大脇潔氏(奈良国立文化財研究所 飛鳥藤原宮跡発掘調査部、現近畿大学文芸学部教授)が考証した。

創建当初の瓦は、平城京内の長屋王邸跡で集中的に出土した瓦と同笵である」(桜井市教育委員会)。

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「桜井風土記」(栢木喜一著)に、青木廃寺と泥掛地蔵の紹介がある。

「子供のできものの患部にあたる地蔵さんの身体の部分へ池の泥をぬり、泥のだんごを作り供えた。お礼参りにはほんものの餅と手ぬぐいを供えておく」と記される。


廃寺の事も詳しく説明されている。「『延喜六年造檀越高階茂生』(906年)と左書きした陽文(うきぼり)した宇瓦(のきかわら)は全国的にいっても珍重されているものだ。また鐙瓦(あぶみかわら=軒丸瓦のこと)で『大工和仁部貞行』との陰刻のものなども出ている。共に大和郡山市の水木直箭氏蔵。父君は水木要太郎翁は安倍小学校校歌の作詞者でもある。」

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by koza5555 | 2019-07-24 18:56 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

安倍文殊院渡海文殊菩薩像

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「桜井市の美しき仏に出会う旅」のお手伝いをした。

同志社大学の井上一稔先生のセミナーつき、同行しての案内で安倍文殊院と聖林寺を訪れる講演・ウォークである。最短距離を歩くと、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳とかがあり、「ここを話して」という依頼だった。

「やまとみちの会」(JR東海)の会員限定、現地の企画・実施はやまとびとツアーズだった。

安倍文殊院西古墳、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳をご案内したが・・それはさておいて、井上先生の渡海文殊騎士像の解説が素晴らしかった。

講義の一端を紹介しよう(ちなみに、僕は講義を2回、お聞きした。これはガイドの特権である 笑)

レジメもあるので、講義のあらまし書いてみよう。

崇敬寺 阿部倉梯麻呂が安倍寺を創建(7世紀後半・現在は国史跡安倍寺跡として保存)する。のちに300m東北の現在地に移転。山に囲まれたちょっとした平地、お墓を営むような場所。この地には文殊院東・西古墳があるところだった。

平安時代後期には、阿弥陀信仰の人々が活動し、現在地に別所が設けられた。お寺の出先であるが、ここで何をやるか。平地ではできない修行。それは往生極楽、阿弥陀さんのところに行く修行である。

大治4年(1129年)没した永尋(えいじん)は安倍寺で丈六のお釈迦様と文殊様を建立する。今の文殊菩薩ができる前に文殊さんがいた。これが大切である。

永禄6年(1563年)21日に軍兵(松永勢か)の乱入放火により一山焼失、本堂のお釈迦様は焼け落ちたが、文殊堂の文殊・優塡王(インドの王)・仏陀波利三蔵・善財童子は救出された。

 天正8(1580)に蓮華座、獅子、最勝老人が再興される。

寛文5年(1655年)に文殊堂と礼堂が建立された。

文殊菩薩のことである。

文殊5尊、ルーツは中国の五台山にいきつく。平安時代の中頃、五台山の文殊さんに会いたいと中国にわたった東大寺のチョウネン(ちょう然)さんという人がいる。
この人が宋の皇帝に会い、五台山のお釈迦さんにも会えた。そのレプリカを作って、持ち帰った。それは嵯峨野の清涼寺のご本尊である。この像に版画が入っていた。それが獅子に乗った文殊。最勝老人と善財童子がいる。現代の文殊菩薩の原型である。

 「ちょう然」さんは五台山から文殊菩薩を持ち帰りたかった。ところが釈迦如来を持ち帰った。なぜか。
次は醍醐寺の文殊菩薩像。五尊になっていて、後ろに山が五つある。これが五台山で、ここにいる生身(しょうじん)の文殊さんがいる。

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『日本の美術』314 「文殊菩薩像」より

五台山に日本の僧はあこがれた。ちょう然さんだけでなく、奈良時代から日本の僧侶のあこがれの場所であった。宋が五台山信仰を利用した。イデオロギーと経済で。アジアで五台山へという流れを政治的に作り上げた。

安倍文殊院の文殊菩薩像の特徴。

文殊菩薩は宝冠をかぶる。五智の宝冠という。5つの智恵の宝冠。理知的な顔である。文殊菩薩は理知的なお顔でなければならない。極彩色の文様。五体とも施されており、体は黄金色。体は極彩色が本来の文殊さまの姿。

宋の時代の仏像の特徴がある。

胸からお腹にかけて。肩当があり、ベルトを締めて裳を付ける。宋の時代の特徴。

快慶の像としての特徴も鮮明。

唇の上が少し大きめ。この時代の快慶。

爪が長い。これも宋の時代の特徴。

側面、髪の毛をすき上げて、髻(もとどり)が大きい。

後ろから見ても、髪を巻き上げて、渦のように・・これが快慶の特徴である。

中に快慶が作ったという銘文があるが、作風から見ても快慶である。

極彩色の文様。五体とも施されている。

体は黄金色。体は極彩色が本来の文殊さまの姿。

持ち物は剣と経巻。

もともとは如意ですが、こちらは剣と経巻。文殊院の文殊さんは五台山を採用しているが、持ち物は違う。快慶の工夫がある。

密教の特徴である。西大寺も同じだが、こちらは安倍文殊院の影響を受けている。

○優填王 優填国の王様   表も裏も獣の皮で、力強い。

○善財童子 見上げて合掌。 先頭を歩く。先導者。横に巻いた髪の毛。中国の童子。

体の動きがある。後ろから見ると衣がなびいている。

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○須菩提(仏陀波利三蔵)

インドのお坊さん。高い鼻、歯をむき出して異国のイメージ。興福寺の無著世親がイメージされる。

〇維摩居士(最勝老人(中国の仙人))に『仏頂尊勝陀羅尼経』を持ってきたかと問われ、もう一度インドとの間を往復。

安土桃山時代に再建(獅子・蓮華座・最勝老人)宗院作。1580年。

  1. 建仁3年(1203年)に作ったと書かれている。

重源と共に快慶が作った。名前が書いてある人が50人。

  1. 像内納入の『仏頂尊勝陀羅尼』に承久2年(1220年)の年紀の見える奥書がある。

「同法沙門慧敏(えびん)奉造立九尺文殊像 為籠其一字三礼書之願・・・」

2論ある。重源が中心になって作った説。慧敏が奉造したという説。

崇敬寺の文殊信仰は、安倍寺で丈六の文殊菩薩を建立した永尋(えいじん)にはじまる。

崇敬寺の文殊信仰は、文殊の姿を見て、大菩提心(仏の悟りを得ようとする心)を開発する願う内容である。

菩提心こそが極楽往生の大本であり、安倍別所で文殊像を作造する根拠となる。

文殊菩薩が作られた目的は、極楽往生するために、まず文殊菩薩像に会って、菩提心を開発して、その菩提心によって往生するためであったと考えられる。

井上先生の講義に合わせて、『日本の美術』314 「文殊菩薩像」を参照とした。

井上一稔先生の「聖林寺観音像とその周辺」『奈良学研究第十二号』(帝塚山大学)も、奈良の仏像のガイドには必読本である。

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長々とすいませんでした。



by koza5555 | 2019-06-20 11:13 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

メスリ山古墳

6月に「谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳の案内をせよ」との依頼がある。

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メスリ山古墳のはとても面白いが、現地でどう語るかは簡単ではない。橿原考古学研究所の博物館(現在は閉館中)に、しっかりした展示・・巨大な円筒埴輪、膨大な矢じりが並べられていたが・・現地にあるのは小山である。

メスリ山古墳の主要部分は桜井市高田にあり、後円部の一部は上の宮である。メスリ山に接する上の宮の垣内(かいと・小字ではない)の名前が・・これが「てんのう」という垣内名である。周りの人々が陵とみていた歴史もあるというのも一つの前提である。

昭和34年に奈良県によって発掘された。所在地は高田のメスリ、上の宮の東出という事で当時は、東出塚古墳(古墳・桜井市文化叢書)とか、鉢巻山古墳(葺石の並ぶさま)とも呼ばれていたようであるが、橿原考古学研究所の報告書は「メスリ山」で出されて、名称が確定する。


御破裂山の尾根の先端に築かれている。東西の軸線の前方後円墳で北方から見ると存在感が明瞭である。

全長250㍍、後円部径128㍍、前方部幅80㍍。後円部が三段で、全面に葺石が残るのが特徴である。四世紀半ばの古墳で、全国的に見ても14位の巨大古墳である。

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墳頂で、石室の天井石をみることができる。私有地で本来は許可が要るだろうけど、しっかりしたのぼり道ができていた。

さて、メスリ山古墳
●その大きさもさることながら巨大ハニワ

●古墳の斜面の全面に敷かれた葺石

●発見された埋蔵物

之らの状況から被葬者は大王級であることは間違いないとされている。

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まずはハニワの事。

後円部は三段で作られており、各段には円筒埴輪列が巡っている。さらに後円部、方形部とも最上段に密集していた。

円筒型の器台型の埴輪は高さ2.4㍍、径が1.3㍍で日本では最大である。

竪穴式石室を巨大埴輪が二重で取り囲む形で配置されたていた。

発見されたときから大きなものだと考えられていたが、奈良教育大学の学生だったの赤塚次郎(現在は愛知県埋蔵文化財センター調査課長)さんが、破片を整理して高さが2㍍を超えるものと判明した。さらに、欠けた部分を継ぎ足して復元に成功した。

桜井の陶芸教室で複製にチャレンジ、奈良芸術短期大学の学生も焼き上げている。

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これらの複製品は、橿原考古学研究所博物館(閉館中)と桜井市民会館ホールに展示されている。

葺石もすごい。ゴロゴロの川原石で、今でもたくさん残っている。三段の築造で葺石が巻いていたことから、鉢巻山とよばれていた・・・とか、「漬物石を拾いにいった」という話も聞いた。


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発掘された埋蔵物がすごい。未盗掘の副室があった。

後円部墳頂には竪穴式石室(主室)がほぼ南北方向に位置し、その東には副室がある。

石室は板石が積んで作られている。石室材は亀ノ瀬の安山岩とされ、その上に8枚の天井石が載せられている。この天井石は露出しており、現地で見ることができる。

すぐ東側、石室を取り囲む高坏型の埴輪の下の石室(副室)があり、大量の副葬品が埋められていた。副室は持ち送りの竪穴式石室で、こちらの天井石は小さい。この石室が未盗掘で、大量の遺物が出土した。玉杖、鉄製の弓、200本以上の槍先、236本の銅矢じりが納められていて、武器庫のようだといわれた。



平成17年(2005年)に「メスリ山古墳出土品 一括」として重要文化財に指定された。

古墳本体としては昭和55年(1980年)に、国の史跡に指定されている。

メスリ山古墳の歴史の中での位置づけ

桜井茶臼山 → メスリ山 → 渋谷向山は同一系統(工人が同じか)という豊岡卓之(橿原考古学研究所)さんの編年をお聞きしたことがある。とても興味深い論で、その詳細は当時、20161月のブログで紹介している。興味があれば、「桜井茶臼山・メスリ山古墳と柄鏡型古墳」を見ていただきたい。

このツアーは東京方面のお客様対応の案内であるが、11月3日(先のことだなあ)に一般参加のウォークを計画しているので、また、その詳細は紹介いたします。



by koza5555 | 2019-03-19 10:59 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

コロコロ山古墳


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巨大埴輪で著名なメスリ山古墳の西北にコロコロ山古墳の横穴式石室が開口している。石室を覗くと天井石と側石の上部が欠けていることがわかる。掲示板があるが日焼けで消えてしまい読み取ることができないが、移築されたものと掲示されていたとのことである。

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30
年程前(平成元年)に阿部丘陵は、大規模な宅地開発(桜井市南部特定土地区画整理事業)によって風景が一変した。阿部丘陵とメスリ山古墳との間の丘、森林、田畑の土が動かされ宅地化が行われた。それに伴って桜井市により、埋蔵文化財の調査が行われた。

谷首古墳の周囲、上之宮遺跡(保存された)、中山古墳群(今はない)、中山大型建物跡(今はない),コロコロ山古墳(移築)などが調査された。
メスリ山古墳の北西にコロコロ山という小山があった。始めはメスリ山古墳の倍塚という見方で発掘がすすめられたが、横穴式石室が現れて時代が違うこと(メスリ山古墳は4世紀中ごろ・コロコロ山古墳は6世紀末)が判明した。



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奥壁は一石が残るが、本来は二段だったとみられる。玄室側壁は二段の横穴式石室である。築造は6世紀後半とされる。

もともとの墳形は一辺30㍍、高さ5㍍の方墳で南南東に開口する横穴式石室をもつ。石室は基底部分を残すのみだが、全長11㍍、玄室長5.4㍍、幅2.3㍍。


古墳築造後に追葬が行われた。初め玄室床に扁平な石が敷かれ、追葬は礫が敷かれ木棺が置かれた。数多くの釘が出ており、木棺が置かれていたとみられる。

東の端に小規模の横穴式石室も存在していた(現在は見ることができない)。


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一般的には蘇我系が方墳、物部系が円墳との仮説もあり、この地は古代豪族・阿倍氏の本貫地であり、当時の政治勢力の姿を示している。

奥壁近くからは頭骨が出土。金銅製蛇行刀子の発見が注目された。

桜井市教育委員会は現地保存を強く要求したが、組合側の強い要望で墳丘は土取りとなり、石室はその東側に移築、再建された。工事は飛鳥建設(佐野勝司社長)によって行われた。

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石室にはクサビ穴をあけられ、割られたり、割られる直前の石材が残されていた。玄室上部の側石、天井石は石材として抜き取られた。江戸時代の石工の仕事とみられる。抜き取られた石は、付近の谷首古墳の墳頂上の阿部八幡神社の石垣に使われた(石が同じ)。

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            阿部八幡神社の石垣


以上は「阿部丘陵遺跡群」(1989年 桜井市教育委員会)を参照した。

ちなみにこの本は「上之宮遺跡・谷首古墳周辺・メスリ山古墳周辺・中山古墳」などの発掘の報告がわかる得難い本だが・・・桜井市図書館や奈良県立情報館の蔵書にはないレア本である。桜井埋蔵文化財センターとか安倍殊院にはあることが分かったが・・図書館ではないし。

調べてみると県内の図書館では斑鳩町立図書館だけに、しかも二冊残されていた。禁帯出だがコピーはできる。

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by koza5555 | 2019-03-07 20:36 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

安倍文殊院の文殊お会式

奈良まほろぼソムリエの会のHP、3月の歳時記は安倍文殊の文殊会式とした。

325日~26日、文殊お会式(えしき)で安倍文殊院(桜井市)の境内は賑わいます。本堂前には「智恵のお授け所」が設けられ、参拝者の頭に智恵袋を当てる加持祈祷が行われます。子供たちも智恵がたくさん授かれるように、この時ばかりは神妙に頭を下げます。

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文殊菩薩の法要と貧者や病者のための施しを行うのが「文殊会」、もともとはお寺の行事だったが、平安時代には朝廷が財政を負担したという記録も残されている。

会式の日にちもさまざまである。興福寺の文殊会は425日に行っているが、歴史をさかのぼると325日、425日であったり、7月に行うところもあるという具合で、それぞれの解釈によるものと思える。

安倍文殊院は325日、一山僧侶により大般若の転読大法要が厳修される。

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智恵のお餅まきは25日と26日、1630分から行われる。けっこうな大人の奪い合いで、ちょっと子供は怖いかもである。

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祈祷した餅米で作った「智恵の餅」が舞台からまかれるが、「貧者に施給するは、文殊菩薩を供養すること」との教えによれば、智恵の餅というより、貧者への施し(大げさ)ともいえるのでは。平安仏教でいえば、「会式」で貧者へ施しをするはもともとの行事。御供まき、御供ひろいを貧者への施しなどと言ったら、いまでは笑われるんだろうけど・・・

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「三人よれば文殊の智恵」。安倍文殊院の文殊菩薩像は、快慶作で獅子にまたがり、総高7メートルと文殊として日本最大。一度は拝観、お勧めする。干菓子付きの抹茶をセットにした拝観で700円。ツアー客は大満足される。



by koza5555 | 2019-02-25 20:29 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

磐余池の所在地は

奈良まほろばソムリエ検定は二級と一級、そしてソムリエ級である。

一年に一度の試験、一月の第二日曜日であるが、この試験で二級に合格すると一級の受験資格が得られる。

但し、もう一つ、体験学習プログラムという実地研修を受けることが条件で20余りのコースが用意されているが、そのうちの1コースを僕が案内している。

「安倍文殊院と磐余の道をゆく」というコースで、『奈良まほろばソムリエ検定公式テキスト』に掲載されている史跡、社寺を中心にウォーキングで解説する。参加者は二級を受かったばかりの新人で、こちらもフレッシュにガイドをすることに心がける。

そんなことを考えていた時、『飛鳥・藤原の宮都を語る』を見つけた。吉川弘文館で、著者は飛鳥村教育委員会の相原嘉之文化財保護課長である。

『飛鳥遊訪マガジンVol162』に連載されたものとの事である。



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吉備池廃寺(百済大寺)について、その成り立ちの解明が面白い。百済大寺と百済宮は日本書紀を見れば、セットである。640年、舒明天皇の時代である。なんでこの時期に宮が飛鳥を離れたかである。592年に豊浦宮、630年には飛鳥岡本宮である。

大豪族の蘇我との確執、一線を引くという狙いがあったとみられる。

宮は西国の民、寺は東国の民を仕丁に当てるとあり、豪族の力に頼らなかった。


磐余池問題がさらに興味深い。

「敏達天皇は百済大井宮を営み、敏達4年には譯語田(おさだ)幸玉宮(さきたまのみや)に遷りました。百済大井宮・・・桜井市吉備周辺に推定される・・・譯語田幸玉宮は、桜井市戒重であり・・・大津皇子の訳語田(おさだ)舎も近辺に推定されます。」(p66

「和田萃氏は「磐余」の範囲は・・・倉橋あたりから東光寺山、戒重の幸玉橋、耳成山、香久山を結んだ広範囲に考えられている」

「そのうえで、(池尻の)池跡は磐余池とされていますが、ここは磐余と言えるのだろうか。

池の北東700mには、「百済大寺」と考えられる吉備池廃寺があります。つまり池跡の北方は「百済」と呼ばれていた。同じ場所を磐余とか百済とか呼ぶわけはない」(p72)という論証である。

これは僕も、ずーと思っていた疑問で、磐余の話をしていると、なんか、説明しがたい違和感をかんじてきていた。

併せて若櫻神社も問題となる。

『延喜式』によれば、若櫻神社は城上郡にあるとされ、池ノ内の稚櫻神社は十市郡に

属していて、合わない。

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こんな地図が示されていた。『飛鳥遊訪マガジンVol162』より。

「磐余」の範囲は、上ツ道の東、横大路の南、寺川の西にあたる安倍山・東光寺山を中心とした地域で、その中で考える。

「安倍山(磐余山)のすぐ北西にある地域です。ここは横大路から100m程南に位置しますが、上ツ道に東接する場所(現在のヤマトー桜井南店あたり)です。ここに「西池田」「東池田」「南池田」などの地名があり、南側には「君殿」もあり」(p77)とされ、王宮の名も残るといわれる。

そうか、そうすると磐余池・・我が家の隣だなあ・・である。


ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ巻三(416)揮毫 中河幹子

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うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む

巻二(165)揮毫  小倉遊亀


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吉備池は今は金魚池・・これ・何に見えます?
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安倍文殊院、渡海文殊菩薩はよく理解していただく・・・





by koza5555 | 2018-10-31 17:23 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

『日本の道教遺跡を歩く』(朝日選書)

『日本の道教遺跡を歩く』(朝日選書)

福永光司、千田稔、高橋徹()である。後書きが1989年で、古い本であるが、2003年に朝日選書に集録されている。

「陰陽道・修験道のルーツもここにあった」がサブタイトルである。


陰陽道と言えば、奈良辺りなら、我が家の近所の安倍文殊院。
文殊院が「安部清明の天文観測所」という高台から、ちょっと西の空を見に行ってきた


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道教の入門書でもあり、日本の宗教施設、行事になかに道教がいかに生きているか、貫かれているかが解明されている。

一つは「道教とは何か」を中国の歴史を探ってみる・・である。

いま一つは、「日本における道教とは」である。日本に持ち込まれなかったとされるのが学会の常識らしいが、朝廷の儀式でも民間の習俗にも、道教の影響が色濃く残ることが証明されている。

まず、二つの書が繰り返し引用されるから紹介しておく。

『淮南子』(えなんじ)。前漢の武帝の頃に編纂された(紀元前150年頃か)思想書。日本へはかなり古い時代から入った。『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき」の大本もこちらである。

『抱朴子』(ほうぼくし)という本が道教の土台である。葛洪という人が、東晋の建武元年(317年)に書き上げた。

道教は仙の時代が第一番目。「神仙」をお祭りして、神仙の持っている不老不死の薬をもらう。神仙が下りてくるという山や川でお祭りをする。斉明天皇(皇極天皇の重祚)の時代は、この影響を受けている。

第二番目は「仙道」の時代。これが抱朴子の時代で医薬、丹薬を活用する道教である。

道教の薬には本草薬と石薬があるとのことである。房中術というのもあるそうである。「労損」、スタミナの消耗を図り、不老長寿を全うするという考えである。

「労損」・・なるほどである。

三番目は「洞真」。仙道から道教への時代である。56世紀には完成しる。遣隋使、遣唐使が持ち込んでくるのは、ここら辺りとみられる。

輪廻などの仏教の概念も取り入れ、仏教との習合も図られる。

こうして、あらゆる時代を通して、道教は日本にも持ち込まれてきたとのことである。


皇極天皇の、稲渕の雨乞いの四方拝、飛鳥時代の石造の文化、北極星(太一神 たいいっしん)を敬う皇室行事などもすべて道教の影響がみられるとのことである。

ちなみに鎌倉時代の神道書には「道教の最高神の太一神は天御中主命と同一」と記されているのとのことである。

『続日本後紀』(832年)には仁明天皇の即位の大嘗会が記されている。

豊楽殿で催された宴楽には悠紀と主基の標が立てられ、前者には庭の鳳凰を止まらせ、日輪と月輪の形、天老と麒麟の像がしつらえ、後者には西王母が舜に世界地図を捧げる像、西王母秘蔵の仙桃を盗む童子の像および鳳凰、麒麟などの像が配された」。

「これは道教の世界だろ」というのが、この書の結論である。

それ以外では、鎮宅霊符、宵待ち講、鬼やらいなどの民間習俗もルーツは道教からである。

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阿部文殊院の赤い札、これも道教その者だろう

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by koza5555 | 2018-03-25 22:44 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

谷(桜井市)の綱かけ

12月23日は、桜井市谷の綱かけ行事が行われた。
昭和19年の『和州祭礼記』(辻本好孝著)には、写真入りで紹介されている。
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谷の氏神様である磐余若桜神社で15メートルほどの綱を綯う。この綱作りは若桜神社の境内で行うが、事前に作られていて、23日は綱かけと神事だけである。

9時くらいから古い綱を外す。
さっそく綱掛が始まる。谷は市街化がすすんだ地域で、「どうしてここが綱掛け場?」とも思えるが、古くはここが村の入り口だった。参加されている最長老が「谷本町は28軒、純粋な農村だった」と言われるが、その雰囲気はあまりない。

頭部が三つに分かれた龍頭があり、それは東のエノキに取り付けられる。西には樹木は無く綱掛け用のポールが建てられている。
エノキに取り付けられた龍頭はアキの方向、来年は南南東に向けられる。

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ちなみにご幣は北向きで谷本町という村から見ると下流向きである。
「邪気に対してはツナ、エノキに取り付けられた龍頭が農神を迎える」と、説明される。

もともと谷の村、特に谷本町(若桜神社周辺の家々)で綱掛行事が行われてきたが、平成に入ってからは「大昭会」(大正・昭和世代で)という講のようなものを設立、そのうちの若手を「二期会」と称して未来に続く組織づくりをされている。
綱を作るのは大昭会と二期会、ツナを掛けるのは谷本町という分担である。
玉串奉奠を見ていると、谷区長、谷本町総代、磐余若桜神社総代、大昭会、二期会の代表の5人だった。
神事、行事が継続できる体制ができている。

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宮司は等彌神社の佐藤宮司である

祭典の最後には、神職を先頭に土地の神、ツナの神をたたえて参列者全員が祭祀場(道路であるが)を三周するという所作がある。
ツナの下を出て、ツナの下から入る、これを黙々と3回である。祭のあとに、たき火の廻りを「ええと、かいと」、「ええと、かいと」と唱えられながら回る儀式を八咫烏神社(宇陀市」の秋祭りで拝見して衝撃を受けたことがあるが、同じ形の行事である。何か、古式に則っているのだろうか。

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先日、東京で勧請綱を講演した時、「それにしても奈良って、本当にすぐそこに神様がいるんだなあ……と思ったりしました」という感想をいただいたが、僕も今日、それを感じた。
谷の綱かけ行事、毎年12月23日、午前10時(9時くらいには来てほしい)からである。
by koza5555 | 2017-12-23 21:54 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

山田寺跡

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山田寺の遺跡の草はきれいに刈られている。山田の大字の区長さんに聞いたら、「国に頼まれて刈っている。一年に何度も刈るよ」と言われた。「平らなところも多いので、四輪の芝刈り機も買った」とのことである。
それを小学校の孫が聞いて、「遺跡を守るために、みんなががんばっているんだ」と山田寺の遺跡を壁新聞に書くことを思いついた。

山田寺の跡地からは五重塔と金堂の跡が発掘されている。金銅の風招(大きな鈴)や鴟尾(しび)が発見されている。

さらにその後の調査で、回廊が土に埋もれた昔のままの状態で残っていることが分かり、古代建築の貴重な資料となった。

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東回廊は屋根付きの廊下で、87mもあり、中央には扉口もあった。この一部が東から西に向かって倒れ、土の下に埋まっていた。このため部材の保存状態はとても良かった。部材は柱、連子(れんじ)、大斗などが、完全に近い状態で発見された。日本で一番古い建物の姿がわかる世紀の大発見である。


山田寺の建物の配置は南から、南大門、五重塔、金堂、講堂となっている。そして五重塔と金堂は回廊というものに守られている。講堂は回廊の北側で回廊の外にある。

そして
金堂の中には丈六の仏像が祀られていた。白鳳時代に作られた、この仏像は奈良の興福寺に移されて、その後火事で体が溶けてしまった。残った頭部は布に包まれて500年もお堂の下に保管されていた。それが近代に発見されて、いまは国宝になって大事にされている。
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飛鳥資料館にもそのレプリカが展示されている。

山田寺は大化の改新に参加した石川麻呂が建て始めた寺院である。このころ各豪族がさかんに立てはじめ氏寺という寺院である。石川麻呂は曽我入鹿のいとこだが、曽我入鹿を殺害したクーデターに加わり、右大臣委任ぜられたが、その後、反乱の疑いが晴れ、皇室の援助で造営が続けられ、7世紀後半に完成したている。


こんなことを小学生のユキト君が一所懸命書いている。僕は遠くから見学するだけだ。
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最後の付録に山田の村で見かけたかんぴょう干し・・おいしいだろうなあ
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by koza5555 | 2017-08-08 15:34 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

阿部八幡神社で伐採…樫の木が5本くらい切られてしまう

阿部区の氏神は八幡神社。元々は山の中、そして谷首古墳の墳頂に鎮座する。

檜などの針葉樹、樫などの常緑樹が茂り、阿部文珠院の南側、鎮守の森としてひときわ目立つ大きな森として威容を誇ってきた。

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阿部の村から見ると東の山の奥にあったのであるが、この20年ですっかり様変わりである。僕が神社に奉仕することになってからの6年の間でも、宅地化、都市化の進行が激しくて大きな鎮守の森が・・問題となってきている。

6年前に10本くらい切った。南側が中心だった。本殿の周りの桜なども、佐藤宮司の「ふさわしくない」との指摘で処分した。

クレーンが入り、森林組合が入るという伐採、だけど売れるような木はなく阿部連合区の負担である。

その後、北側、東側が問題となった。落ち葉、枝落ち出が問題で、倒れたりの危険も木もできる。立ち枯れの木もある。

週明けから本格的な伐採となり・・・神様に伐採の報告、作業の安全祈願祭を斎行することとなった。

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わが社の宮司は神職一級の佐藤さんである。

祝詞を聞きながら考えた。

大山祇の神と大神に伐採を報告された。「やむを得ないんだ」という祝詞である。いわば国ツ神に報告された。

今回も10本ほどの伐採だが、ほとんどは樫の木である。

四季を通じて常に緑葉を保っている樫の木。次々と葉が出て、更新する樫の木は、尽きることのない生命の泉というニュアンスである。

古事記にヤマトタケルの辞世の歌がある。「倭は国のまほろば」であるが、さらに「命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群の山のくま白梼(かし)が葉を 髺頭に刺せ その子」である。

さらに神武天皇は「辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した」とある。

畝傍山のふもとには樫の木が多かったのかな、なんて気楽に考えていてはいけない。

樫の木のように、常に、永遠の力・・・の場所、宮ということなんだろう。

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阿部八幡神社の臨時祭祀は拝殿での祭りを終えた後、境内の周囲を一周(周囲が一周できるようになってしまったのである)して、要所、要所で祈りの儀式。

「紙と大麻」を宮司が「さゆうさ」(左右左)でまき、5人ほどの役員がお米、酒、塩を 左右左である。

山の神、血の神に鎮まっていただき、足の曲がり、手の曲がりなきよう祈って、阿部八幡神社の伐採は7月3日からである。

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大きな木を切るのである。しかし、切り倒すというやり方ではなくクレーンで吊りながらの伐採。だから葺石とかハニワなどは掘り起こされないようだろうけど、あったら、拾っておこうかな(笑)、桜井市の埋文などには連絡は必要ないのだろうかなあ。




by koza5555 | 2017-07-01 14:36 | 桜井市と安倍 | Comments(0)