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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:橿原・明日香( 48 )

藤原宮跡のコスモス

奈良まほろぼソムリエの会のホームーページの10月の歳時記は「藤原宮とコスモス」とした。

10月 藤原宮跡のコスモス

藤原宮跡のお花畑が評判です。大和三山を背景に春は菜の花、夏はキバナコスモスやハナハス、そして秋には300万本のコスモスが咲き乱れます。透明な秋の光の中、風にそよぐピンクや紫のコスモスの美しさはたとえようもありません。宮跡の東には奈良文化財研究所の「藤原宮跡資料室」、西側には「橿原市藤原京資料室」が開かれ、藤原京と宮を理解できる豊富な資料が展示されています。いずれも料金は無料です。(雑賀耕三郎)


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         「かしはら探訪ナビ」より


およそ1300年前の持統天皇8年(694
年)125日、都は飛鳥の北西方向に広がる藤原の地へと遷った。

藤原京への遷都を計画したのは、統天皇の夫の天武天皇である。

律令国家を作るために心血を注いだ天武天皇は、中国に倣っての都の建設に着手する。

日本書紀によれば、

天武13年(684年)2月には、畿内と信濃に都の場所を選ぶ調査団を派遣している。

同年3月には天皇が京内を巡行、宮室に適当な場所を定めた。

持統天皇の4年(690年)冬10月に、高市皇子が百官と共に藤原の地を視察した。

持統5(691)10月に、新益京(あらましのみやこ)で地鎮の祭を行った。

和銅3310日(710413日)に元明天皇が平城宮に遷都するまで、持統・文武・元明の三代の宮室が置かれた。

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「春過ぎて夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山」(萬葉集 巻128)は、持統天皇が藤原宮から香久山を歌ったものとしてよく知られており、この地で歌われる萬葉歌も数多く知られている。

藤原京というが、藤原は香久山の西北、宮の東方にあたり、広大な藤原京から見ればごく一部であり、この宮を書紀は藤原京ではなく「新益京」と記した。

ただし、万葉集には「藤原の 大宮仕え 生(あ)れつくや 娘子(おとめ)がともは ともしきろか」(巻1-53)というように、「藤原の大宮」という言葉もあり、一筋縄ではいかない。

日本における宮城の画期をなした藤原京は、16年間という短期間でその使命を終えた。

「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きていなば 君があたりは 見えずかもあらむ」(巻1-78)と元明天皇が詠い、都は奈良に移される。

藤原京はその役割を終えた後、建物、柱や板は平城京に移築されることになった

大垣の軸となる7メートル余りの大きな柱があったが、1200本のすべてが抜かれて平城京に移築する。

全ての大垣、建物が平城京に移されて、新益の京は農地に変わっていった。古代の姿は、現在、奈良文化財研究所が継続的に発掘調査を進めており、新たな発見、検証を次々で、毎年のように現地説明会が開かれている。

こちらでは花を見て、宮の東側、奈良文化財研究所の「藤原宮跡資料室」と、西側の橿原市の「藤原京資料室」を見学するのが、お値打ちコースである。

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         奈良文化財研究所「藤原旧跡資料室」

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         背景は畝傍山


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         橿原市藤原京資料室の巨大模型に川、大極殿などを書き加えた



by koza5555 | 2019-09-27 16:56 | 橿原・明日香 | Comments(0)

キトラ古墳 白虎天文図公開は10月20日まで

キトラ古墳の壁画の実物が、921日から1020日まで拝見できる。白虎と天文図、足元の戎(十二支神)である。


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キトラ古墳の石室は全面に漆喰が塗られており、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武、さらに足元には十二支神、天井には天文図と日月が描かれていた。高松塚古墳の壁画には無かった(盗掘穴で破壊された?)朱雀も見事に残っていたことが特徴である。


キトラ古墳 白虎天文図公開は10月20日まで_a0237937_20430764.jpg

国宝にこちらが指定されていなかったが、このほど(令和元年723日)、キトラ古墳(明日香村阿部山)の壁画が国宝に指定された。今年の公開の参加者には、それを記念して「キトラ古墳壁画 国宝指定記念 作ってわかる!ミニチュア石室」という、ペーパークラフトがいただける。

先着一万人までとされているので、それなりに早めにお出かけください。

キトラ古墳 白虎天文図公開は10月20日まで_a0237937_20430211.jpg

ミニチュア、丁寧に作ってみた。子供のころ、プラモデルを造るといつも部品が余ったが、これは大丈夫だった()

併せて高松塚壁画修理作業室も9月21日から27日(金)まで公開されている。「何度も行きました」と言われるでしょうけど、「キトラ古墳壁 国宝指定記念」の高松塚のミニチュア石室(ペーパークラフト)がいただける。こちらは期間が短いから・・併せて・・急いで

キトラ古墳、高松塚古墳の壁画についての詳細は最近、僕もブログで書いています。来村多加史著の「上下する天文」の感想文である。併せてお読みください。



by koza5555 | 2019-09-21 20:44 | 橿原・明日香 | Comments(0)

飛鳥(大字)の弥勒法要

9月の第一日曜日、午後2時から明日香村岡の弥勒堂にて、「弥勒法要」が行われた。

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強烈な陽ざし、猛暑のなか、飛鳥寺の僧侶の読経の中、参加された来賓、村民など30名あまりが様々な願いをミロクさんにお願いをする。

もともとは旧暦の85日の行事だったが、昨年(平成30年)から9月の第一日曜日に日程を変更されている。


弥勒堂の前の表示

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弥勒石

この「弥勒石」は、真神原の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が細工されているだけである。

 弥勒石を拝むと下半身の病気が治るといういい伝えがあり、今も地元や周辺の人々の信仰を集めるとともに、「ミロクさん」と呼ばれている。

 毎日旧暦8月5日に飛鳥大字がお祭を行っています。

                   明日香村大字岡です

掲示されている由緒と別に、今では足の仏さんと言われるようになり、わらじの奉納が行われている。

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ミロク石は「飛鳥川の十流から流れて来たとも、近くの飛鳥京苑池のものとも、また、現在は百㍍程上流になっている木の葉堰の石であるとも言われている」。「弥勒石が川から引き上げられたとされる旧暦の8月5日」、(『繋――明日香村の大字に伝わるはなし』)に飛鳥の大字により法要が行われる。飛鳥川下流の飛騨(橿原市)の村からも参列がある。

ミロク石は岡の大字に所在するが、この祭りにはあくまでも飛鳥の大寺の主宰で、岡は来賓としての参列する。



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「あすか夢の楽市」から県道124号線をセブンイレブン(亀石ちかく)の方向にむかい、飛鳥川を渡る橋の手前の左手を見ると小さなお堂が見れる。川沿いの側道ができており、どんな靴でも軽く入れる。

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今年、撮った初めてのヒガンバナ

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by koza5555 | 2019-09-08 21:50 | 橿原・明日香 | Comments(0)

八木の愛宕祭


八木の愛宕祭に行ってきた。

今日は三輪恵比須神社の「えびす神道セミナー」でお話をさせていただきまして、講座は一段落。食事をしようと八木に出ると、にぎやかなお祭に遭遇(笑)、愛宕祭であった。八木の愛宕祭は曜日に関係なく823日・24日・25日。

町内のあちこちに愛宕神社祠が設置される。町屋の土間、玄関脇、空き地などに様々な工夫をして設置される。

それは合計で38ヶ所、祭の実行委員会のテーブル(晩成小学校グランド)には、その設置場所の地図が置かれていた。

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それとは別に「立山(造り山)」

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が作られている。

「畝傍駅」(八木まち創り会)、「月に向かうドラえもん」(関西大学)「(牛乳パックで作る)古墳と埴輪の立山」「チコちゃんに叱られる」などを拝見した・・・・

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お供えで不思議なものを見た。

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ズイキが軸にしてするめと昆布をかんぴょうで縛り、ミニトマト、唐辛子、ピーマン、ニンジン、ナス、レモンを串刺しにしたお供えって、見たことあります?

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愛宕信仰は、「火防(ひぶせ)」の神としての愛宕さん、敬神の団体としての「愛宕講」の祭りが、町ぐるみの祭として根付いたものと思われる。「八木」がとくに盛んと聞いていたので、今日は拝見できてよかった。

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この下駄は何だろう?
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by koza5555 | 2019-08-25 23:22 | 橿原・明日香 | Comments(0)

繋 明日香村の大字に伝わるはなし

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多武峰、万葉展望台から明日香村に下るハイキングコースがある。その道を下ってくる。イノシシや鹿が人里に入らないようにと設置された防護柵を越えると上居(じょうご)の大字である。その道端に10体ほどのお地蔵さまが並べられている。


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いわれを知りたいと考えていたが、「繋 明日香村の大字に伝わるはなし」に解説されている。

上居の上には平尾という大字があり(大正時代に廃村)、このお地蔵さんの所は、平尾の大字の寺跡だったと書かれている。

「平尾の以前お寺のあったところに、周辺から出てきたお地蔵さんや、今では誰も通らなくなった細い山道の角々や辻に祀られていたお地蔵さんを集めて三か所で15体祀られている」。このお地蔵さんの写真を僕は持っていた。5年越の疑問が解けた・・・

大字飛鳥の「弥勒さん」も、とってもわかりやすい。弥勒さんのいわれの地元の伝承が示され、弥勒さんを川から救い上げたとされる旧暦の85日に祭をしていたが、平成30年からは9月の第二日曜日に変更したことなどが記されている。

明日香村の39の大字の大字名の成り

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立ち・歴史にはじまり、お地蔵さん、社寺、村の祭、歴史、「行ってはいけないところ、してはいけないと言われていること」などなどが調べられ、記録されている。いわば、明日香村の悉皆調査である。

明日香村文化協会の20名あまりの皆さんの10年がかりの労作で、その努力とその成果に感動した。平成311月に発行された。

明日香村を知ろうとしたら、この本は必携である。それは奈良を知る上でも大きな力となろう。

各図書館には置かれているが、非売本であるので、入手方法を書き足しておきます。

明日香村文化協会に入会すると、会員はこの本がいただけます。会費は一年で2000円、入会すると、この本が自動的に送られてくる。

明日香村文化協会の窓口は明日香村中央公民館で、直接、出向くか電話を架ける。

出向けば、窓口で入会手続きが完了。会費も払う(本がいただける)

遠方の方は、入会の申し込みを電話で行う、振り込み用紙が郵送されるとのことである。

明日香村中央公民館  電話0744543636

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by koza5555 | 2019-08-14 11:13 | 橿原・明日香 | Comments(0)

『上下する天文』

『上下する天文』・キトラ・高松塚古墳の謎   来村 多加史(阪南大学教授)


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              高松塚古墳(2019年7月20日)

まほろばソムリエの試験にチャレンジする人は、来村多加史さんの名前を一度は聞くだろう。商工会議所が開く検定試験講座の講師とか、一級の受験のための義務となる「体験学習プログラム」の講師をされる。

この来村先生が、このほど『上下する天文』と題して、キトラと高松塚の古墳壁画について上梓をされた。もともと、これに関する本は書かれているが、新たな情報や見解が蓄積されてゆく中で・・」、自説の中心は変える必要がないが、まあ、僕もその論に加わりたいという感じだろうか。

「谷を景観とするキトラ・高松塚古墳」と題して、古墳の立地などについてのまとめはある。とても理解しやすい図も載せられている。

そんな具合にこの本を解説するのは、僕の得手ではないので、ここから一気に結論まで飛んでみたい。

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キトラ天文図について、「第一は星の数が足りない。第二は選択の基準がわからない。第三は星座を辺消させている節がある。」とし、星座間のスペースの変更、星と星の間を等間隔に変更、黄道のずれも作者の故意ではないかなどと論証、「自由な変形」をしているとした。ところが、「一点だけ天文図としてのこだわりを感ずる部分がある」と述べ、天球における方位(緯度)を示す28宿の方位が正確に書かれていることを指摘される。

「天で起こる異変がどの地域の異変を示すものか」、この方位がいい加減にしてしまえば、天文図ではなくなる。キトラに描かれた星空は単なる夜空でなく、「天文図」であり、画家本人、リーダーの図案はそれを示している。

「天文への造詣があればこその自在変形が生み出した最高の天文絵画である」

高松塚天文図。こちらは屋根型ではなく箱型、方形の石室。「高松塚の28宿は形や星数だけは正規の天文図に近い。」「ただ、方形の枠に沿わしているため、星座の傾きは円形天文図とは食い違う。」

ちょっと論理は複雑だが、来村先生は、高松塚の天文図(天井)は傘蓋のイメージというのである。

それを証明したいと‥それが来村先生の結論である。

キトラ古墳の壁画は螺旋を描いて「昇天」という。被葬者が寝た状態で見れば、である。亡くなった人は見ないとか、棺の中からは見えないという事は言わない。生きてるように見る、という事は前提である。古代の葬送の基本である。



一方高松塚古墳の壁画は外に誘い出される構図、絵だというのである。「すべりだす」がイメージ。

ちょっと禁断だが、来村先生の絵・図を見てください。

「キトラ古墳には昇天の思い

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高松塚古墳には出行の思いをこめた画家の心理が読めた。

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キトラは天井を高くして昇天、高松塚は出行を重視して、すべてをその方向に。天井は下げた方が出行のイメージが強調できる。天文図は上下するのである。

こんな「メッセージに応じて天文を上下させたとすれば、画家は我々が想像する以上の知識人であり、アイデアマンである」。

1800円+税・・おすすめである。

おりしも、720日(土)から26日(

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金)まで、高松塚古墳壁画の修理作業室が公開されている。今年の目玉は西壁の女子群像・・初日の午前に見学してきた。僕が見たグループは4名。申込のホームページを見ても、けっこうすいている。一度も見たことがない方は、今回、ぜひどうぞ。料金は無料、駐車場も使える。

「高松塚古墳 修理」でネットの検索ができ、申し込みも完了する。

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by koza5555 | 2019-07-20 16:02 | 橿原・明日香 | Comments(0)

重陽の節供・節句

9月9日は重陽の節句。

伝統的な年中行事は中国の影響があるが、日本では稲作の区切りになる大事な日であったので、日本の生活文化に深く根付いている。

お正月、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節日には、神に供えるものが決まっていて、そこから「節供」(せっく、せつのそなえ)の言葉も生まれたとされる。

9月9日の重陽の節供、これは栗飯と菊酒と決まっているのである。

ちなみにお正月はたんに「お節料理」、3月3日は草餅、菱餅。5月5日はちまきや柏餅、7月7日はそうめん(索餅)で9月9日は栗と菊である。

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これが栗だが・・(汗)

節供が節句という文字に変わっていくのは、江戸時代からで・・神祭というよりは季節の区切りという面が強くなって供えから句に変わったとされる。

養老律令(奈良時代 720年)には節日は決められていて、元日、33日の上巳、55日の端午、77日の七夕、11月の大嘗の日が決められていた。

歴史は古いんだが、99日の重陽の日がない。

なぜか。この日は天武天皇の忌日だったからとのことである。律令国家の生みの親である天武天皇の忌日は、養老律令は重陽の「祭」は記さなかったとのことである。

参考までだが、皇統が天智天皇系に変わった平安時代には重陽の節供は国の行事に復活している。

天武天皇は西暦の673320日(天武天皇2227日)に即位。686101日(朱鳥元年99日)に崩御されたとされる。

天武天皇14924日(685年)に発病が記されており、翌年の朱鳥元年9月に崩御されている。

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重陽の節供でもあり、天武天皇の命日。いまの暦で計算するなら101日であるが、節供は旧暦の日をそのまま新暦に写して祝っているので・・・祝い、ともに思いを寄せることにした。

今日、桜井や明日香村辺りは午前中にハロが出現した。
太陽の周りの光の環で、うす雲の中の氷の結晶によって、太陽の光が屈折して現れる現象だそうです。
重陽の日に、天武天皇崩御にの日に、いいものをみました。
写真は桜井の我が家の屋根越に見た太陽そして、ハロ(光の環)。

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by koza5555 | 2018-09-09 16:44 | 橿原・明日香 | Comments(0)

益田岩船(橿原市)と石の宝殿(兵庫県高砂市)

橿原市の白樫西集会所の奥から、200mくらい山を登ると益田岩船に到着できる。

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車であれば白樫町集会所の左の道を上がっていくと、何とか駐車場所は確保できそうである。車を降りてのぼり口に行く、そこから標高差は30mでさほどの山ではない。

念の為に申し上げておくと、今の時期(5月~11月くらいまで)は、猛烈なやぶ蚊の攻撃を受けるので虫よけスプレーが必須である。

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標高130mの場所に巨大な花崗岩の石造物で、益田岩船といわれている。

東西約11m、南北約8m、高さ約47mもあり、重さは約715トンとされる。

上部の平坦面には一辺が約1.6m、深さ約1.3mの方形の穴が彫られていることが特徴である。

益田池の碑を据えた台石、天文台、祭壇などといわれているが、今では横口式石槨の製作放棄のものと言う見解に僕は賛成である。

『大和名所図会』(秋里籬島著 寛政3年 1791年)にも、益田岩船として紹介されている。

文は「暮れ行く春のかたみには深山(みやま)の花のまた散りのこり、岩つつじ咲き乱れの眠れるをりふし、時鳥(ホトトギス)の初声におどろきけるも一興とやいわん」と、村人の遊びの場となっていることを紹介し、岩船は「益田池の碑の台座」であり、碑は高取城に取り込まれたとの言い伝えがあるとしている。(『奈良名所むかし案内』本渡章参照)

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兵庫県の高砂市の生石(おうしこ)神社を訪れるツアーを計画している。

神社のご神体は石の宝殿と呼ばれ、凝灰岩の岩山の中腹を削って作られた巨石である。水面に浮かんでいるようにも見えて、浮石ともいわれる。

2014年(平成26年)10月には、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡(いしのほうでんおよび たつやまいしさいせきいせき)」として、国の史跡に指定されている。

6.4m、奥行き7.2m、高さ5.7mで重さは500トンを越えるとみられる。

 誰が何のために作ったのか、なんでこの形で残されているのかが不明である。

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 『播磨國風土記』(713年ころ)の印南郡大國里條にある記述には、

「原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていわく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり」との記述があり、「弓削の大連」(物部守屋)が造ったとされている。横穴式石槨の施主が物部守屋、守屋の没落によって、放置されたと考える論に僕は惹かれる。

 大石であり、いずれも横穴式石槨の並び墓とみたい。明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)にその実例もある。

 益田の岩船と石の宝殿はいずれも大石で見るものはその迫力に圧倒されるが、完成度は相当違う。

 稜線近くの大石を削った益田の岩船。

 岩盤から削りだされた石の宝殿。完成度に差があることは明瞭である。



by koza5555 | 2018-08-10 15:03 | 橿原・明日香 | Comments(0)

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭は 2月の第一日曜日。

この有名な行事、僕は初めてである。それなりに敬遠してきた(笑)。しかし、オンダを話そうと考えると、これは欠かせない。

祭祀と行事は午後2時からであるが、カメラポジションということもある。早めに行くことに。場所取り用に脚立も用意して万全である。

3時間前、午前11時に会場に到着するが、舞台前の最前列には脚立があり、立っている人もいて、もう入る余地がない。拝殿前の上段にかろうじて空き場所を見つけて脚立が置けた。

それから鳥居あたりに出てみると、もう翁と天狗がバシバシと人のお尻を叩いている。

先を裂いたササラと称する青竹である。

激しくたたく。ぶっ叩くという言葉以外にたとえようがない。

子どもを追い回す。

若い女性を叩く。

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若い男には容赦なく、力一杯だ。

僕も叩かれたが、若い男とは見てくれなかったようで、やさしい叩かれ方。

「叩くことにより厄が飛び散ると考えて」と宮司は解説する。なるほど、それなら強く叩かれるほど良いわけである。

まともにお尻を叩かれたときはさほどではないようであるが、腿に当たると、これは激痛である。

2時から祭祀。舞殿というんだろうか祭を行う場所と、拝殿・本殿の間に観客が入るという特殊な形である。

祭は本殿に向けて行うが、あたかも観客に向けて行われるような形でよく見ることができる。

神饌はコメ、豆、キビ。オンダに使う早苗(松葉)も供えられる。

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玉ぐし奉奠があり、撤饌、しばらく休憩である。

神事は二部制だった。

一部はオンダの所作。

二部が結婚の儀である。

一部は畔切り、マンガとお田植行事がすすみ、田植えは宮司が行い、終了後、早苗は天狗や翁、牛により客席に投げ入れられる。

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二部が結婚の儀である。

天狗とお多福は寄り添って登壇。

まずは天狗とお多福の婚礼の儀式が行われる。

お多福は山もりのご飯、「鼻つきめし」を宮司に給仕する。

天狗が股間に竹筒を構えて舞台を暴れまわる。

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それから「種付けの儀」となる。天狗がササラでお多福の尻を叩き、天狗とお多福の間で性交を模した所作が行われる。

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翁は「ふくの紙」を投げる(拭いた紙が投げられる。これは子宝に恵まれる福の紙である)

その後、お多福が天狗の尻を叩き、もう一度、性交を模した所作がある。初めはお多福が上に乗る。

なるほど、男女平等だ。

お多福が中心となり、「ふくの紙」を投げる。

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西日本、四大性神事とのこと。

他の3つのお祭りは、奈良県江包の網掛け祭り、愛知県三河(西尾市熱池)のてんてこ祭り 田縣神社(小牧市)豊年祭で、奈良と愛知とのことである。

ちなみに僕は愛知県に40年、奈良で12年なんだけど(笑)

飛鳥坐神社のおんだ神事、しょさは卑猥と言えば卑猥なんだけど、まあ、ユーモラスで楽しかった。

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by koza5555 | 2018-02-04 22:43 | 橿原・明日香 | Comments(0)

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香 | Comments(0)