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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:橿原・明日香・御所・吉野( 75 )

夏越の大祓 村屋坐弥富都比賣神社

村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社を「ディスカバー!奈良」(毎日新聞奈良版)で紹介した。

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神社の主祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと・弥富都比賣)。「三穂津姫命は大国主命の后神として高天原(たかまがはら・天上の世界)から稲穂を持って降り、稲作を中津国(なかつこく・現実の世界)国に広めたとされる神である。

祭神で考えれば、大国主命を祀る大神神社とは夫婦の関係かと思われますし、また、天上の世界と現実の世界を稲作で結ぶ役割を果たした神だった。(神社の掲示から)

この神社の夏越の大祓式を拝観、拝見して大祓の要素をいくつか感じた。奈良盆地、数ある大祓式の中から、今回はこちらを紹介することにした。



心身清める夏越の大祓  村屋坐弥富都比賣神社

630日には「夏越の祓い」が各地の神社で行われます。猛暑を前にして、人々にたまった罪けがれを払い落とす神事です。

大和川に沿い、奈良盆地の中心に位置する田原本町の村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社の「夏越大祓式」を紹介します。

祭典は午後4時から始まります。参列者は茅の輪をくぐって結界が張られた神前に上がります。紙を切った人形(ひとがた)に息を吹きかけて厄災を移したり、カヤの葉や切り紙で罪けがれを払います。祭典が終わると茅の輪を外し、子供たちが人形、供え物と一緒に大和川岸に運び、川に流すのです。「大和川で刈ったカヤで茅の輪を作り、人のけがれをうつして、川に戻します。子供たちもそのお手伝いをいたします。神社の古来からの風習です」と守屋広尚宮司は語ります。(奈良まほろぼソムリエの会 理事 雑賀耕三郎)

 

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取り外された茅の輪は子供たちの手で大和川岸に

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最後は大和川に流される

村屋坐弥富都比賣神社には近鉄俵本駅下車、東へ徒歩40分。JR桜井線巻向駅下車、西へ徒歩30分。駐車場は大和川堤防沿い(神社の東南)などに整備されています。

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by koza5555 | 2018-06-21 05:28 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

花筏、嫁の涙、ウラバ、ツキノデキ

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葛城の道を歩いたら、・・ツアーの下見で高天彦神社と橋本院の間だけだが・・、珍しい花を見つけた。葉っぱの真ん中に蕾だか、実だかがわからない突起がついている

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植物なら「何でもこい」の太子町のYさんに聞いてみると、「花筏」とのこと。名前は「花の載った葉」を筏に見た形とのことである。

北海道に至るまで広く分布しているらしいが、何よりも驚いたのは、この葉っぱが食用にもなると聞いたのである。

そんなところを『大峰こぼれ話』で、元長崎大学教授の銭谷武平先生が紹介していた。ちなみに銭谷先生は、天川村洞川出身である

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「春先になると山菜取りが始まる。・・・・特に珍しいのが洞川方言ウラバである。乾燥したものは、黒い海藻のヒジキのようで、初めて見た人は、その元の姿を全く想像もつかないと思う。それを調理したものを食べていたが、その元が何であるかは全く知らなかった。」

「洞かわの食用ウラバというのは、つまりハナイカダの若葉を摘み取って、湯がいてからあくを取り、乾燥したものであることが分かった。」、とも記され、『大和本草』(貝原益軒)には、「ツキノデキ(ハナイカダのこと)は灌木なり。・・・食うべし、美味なり、冬は落つ」。

(『大峰こぼれ話 銭谷武平』)

これが花筏である。蕾かと思ったが、すでに花は終わり、実となった状態だった。

ハナイカダ(花筏、Helwingia japonica)はモチノキ目に属する落葉低木。別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)。北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴である。


花とは、本来は一つの枝の先端に生殖用の葉が集まったものであり、芽の出来る位置に作られる。従って通常は葉に花が付くことはない。この植物の場合、進化的には花序は葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈と癒合したためにこの形になったと考えられる。(ウィキペディア)



葉から花が咲く、実がなるものなら・・お葉つきイチョウがある。これは筏の形ではなく、葉の端っこに実がつく・・

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by koza5555 | 2018-06-08 22:23 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

葛城氏に関する古墳の数々

『古代豪族葛城氏と大古墳』、小笠原好彦著、吉川弘文館を読んだ見た。昨年(2017年)の9月の本である。

馬見古墳群の250基もの古墳をだれが築造したのか、それは葛城氏だけにより、築造され得たのだろうか、それが小笠原さんの問題意識である。この疑問を検証したい、そして最近の考古学の研究成果も含めて、あえて、被葬者の名を具体的に検討する(p5)

小笠原先生の論を見てみよう。

まずは建内宿禰である。小笠原さんは「建内宿禰は実在」と明瞭である。その墓は、巣山古墳(4世紀後半)だと断定される。

「モガリを正しく行わない玉田宿禰は允恭天皇に追われる。玉田は墓に逃げ隠れるが、允恭は見逃す。その墓は巣山古墳であり、巣山古墳は特別な古墳、特別な墓域ということではないか」(意訳)との論(p91)で、大和朝廷側も建内宿禰には敬意をはらっていたとのことである。

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上方、右側、周濠に囲まれた古墳が巣山古墳


主題である。
葛城襲津彦が葛城氏のすべての秘密のカギを握っていて、しかも、その葛城襲津彦は3名はいたと論じられる。葛城襲津彦とは、葛城氏の有力首長が世襲で名乗ったと言う意味だろう。

まず、葛城襲津彦は382年に実在したとみなされる。この時期に活躍した葛城襲津彦をBとする。

それ以前に朝鮮半島から技術工人を連れ帰ってきたのは葛城襲津彦Aである。秋津遺跡や南郷遺跡で4世紀後半以前に、朝鮮半島から工人らを連れ帰った可能性が高い。

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秋津遺跡の水田跡。これは弥生時代の水田で、今回は直接は関係ないが、葛城地域の隆盛を示すために写真を出した

さらに仁徳朝に女(娘)が皇后となった(磐之姫)襲津彦がいる。Bとは別人とされて、葛城襲津彦のCである。

仁徳天皇は倭の五王の讃とされている。「倭五王の讃」が宋に使いを派遣したのは421年、425年、430年と絶対年代で明確である。すると『百済記』のソツヒコ(382年)とは年に隔たりがありすぎる。(p63)小笠原先生の結論は「別人を考えるべき」となる。

僕もあれこれ計算してみると、磐之媛がBの女とすると、仁徳天皇の活躍した430年頃には50歳をはるかに超えてしまうため、葛城襲津彦Cの存在が必要である。

葛城襲津彦はAとBとCの3人。

古墳の編年に照らし合わせて、3人の葛城襲津彦の墓を推測したのがこの本の面白いところである。

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大和高田市の築山古墳が葛城襲津彦Aが埋葬されている。磐園陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城襲津彦Bが埋葬されているのは、御所市の室宮山古墳である。円筒埴輪列により墓域が囲まれ竪穴式石室、長持型石棺が置かれていた。こちらは4世紀末から5世紀初めにかけての首長墓とみられていて、小笠原論にピッタリである。

『百済記』に記された、382年に実在の葛城襲津彦が埋葬されていると推測される。

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磐之媛の父親とみる葛城襲津彦Cが埋葬されているのは馬見丘陵内の広陵町三吉の新木山(にきやま)古墳である。5世紀前半に築造されたとみられる。この新木山古墳も三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城地域の大型陵墓はすべてが葛城氏に関わる首長の墓域だったことは確からしい。

さらに付け加えるならば、小笠原さんは、以下の葛城氏関係者にも、この地域の古墳を定めている。

河合大塚山古墳は葦田宿禰

河合城山古墳は玉田宿禰

掖上灌子塚古墳は円大臣(つぶらのおおおみ)

屋敷山古墳は飯豊青皇女

明瞭に被葬者を特定されていて簡明だ。あれこれの考えはあるにしても、葛城地域の古墳歩きには大きな助言となるだろう。

最後に、馬見丘陵の古墳群の役割についても紹介されている。

「葛城氏と同一の墓域に、それぞれの氏族の古墳を築造することによって、葛城市との同族関係、あるいは擬制的同族関係を具現化したもの」とされる。

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馬見丘陵内の古墳。これも一つの代表的な古墳のナガレ山古墳。

葛城氏の衰退の後は、平群氏、波多氏、曽我氏、巨勢氏のそれぞれが本拠地に古墳を築造する。

4世紀、5世紀は馬見丘陵をぼいきに。葛城氏が衰退する6世紀以後は各地に・ということである(p184)。

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by koza5555 | 2018-05-22 14:03 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

傘堂 當麻のレンゾ

當麻寺から二上山に登ろうとすると、當麻山口神社の鳥居に差し掛かるあたり、右側を見ると番傘を立てたような不思議なお堂を見ることができる。傘堂と言われる。

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「この堂は本多侯の菩提の為に恩顧の臣が立てたものである。軒の瓦の面に本と書かれれているのはその証拠。柱の上の方に扉があり開けると位牌があり、また北には添え柱、間に横木が渡されて鐘をかけ、朝晩はこれをつき、旧恩を忘れない(西国三十三カ所名所図会)

この傘堂の法要は9月の第1日曜日であるが、それとは別に5月14日にも法要が行われるとのこと、出かけてみた。


傘堂に置かれていた案内文。とても明快である
二上山の東麓、當麻山口神社の鳥居の北側に、真柱一本のみで宝形造りの瓦屋根を支える総ケヤキ作りの風変りな建物があります。小振りながら、重厚な風格を備え、他に類例のほとんどない珍しい建築遺構です。

その形容から、一般に『傘堂』と呼ばれていますが、江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主の本多政勝の没後、その菩提を弔うために延宝2(1674)年に建立した「影堂」(えいどう)「位牌堂」であることが、棟札やその他の資料から判ります。もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の君臣関係にあったことが推測されます。

『傘堂』は、統家らが開いた大池(傘堂すぐ西側の溜池)により、益を被った付近の新在家、今在家、染野の三地区の人々によって、その後も守り続けられています。特異な建立の経緯にも関わこらず、毀誉褒貶されることもなく、300年以上もひっそりと歴史の流れの中に佇んできました。

また、いつの頃からか、真柱の周囲を身体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、514日の當麻連座(れんぞ)には大勢の人々が『傘堂』を訪れます。民俗、建築双方から注目されるとともに、柳沢家に至るまでの初期郡山藩にかかわる数少ない遺構としても貴重な存在です。 傘堂に置かれる説明書の本文

五色幕が張られた傘堂に参詣される女性

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真柱の上部の扉の中には阿弥陀如来が祀られている。5月14日と9月の法要の時だけお戻りになるようだった。


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お参りにおいでになられた方、真柱を背にして手を合わせられた。真柱の周囲を体を接しながら回る・・・背中をつけて回るんだね。

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これが大池。この池の恩を忘れず、三か村(新在家、今在家、染野)で、この位牌堂を祀ってきた。
さらにその上には、真の大津皇子墓とされる鳥谷口古墳が
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by koza5555 | 2018-05-14 15:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

大坂山口神社(穴虫と逢坂)

履中天皇と言えば、僕の住む「桜井の成り立ち」に欠かせない大先輩・・じゃないだろうか。

磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)で即位、磐余池を作った。磐余市磯池で舟遊びをしているとき桜の花びらが飛んできたなどという話が記紀に記されている。

この履中天皇、即位前にイザホワケ(仁徳天皇皇子)と名乗っていたころ、弟の住吉仲皇子の反逆に合って大変な苦労をするのである。

難波を逃げ出し、石上神宮に向かう。河内飛鳥の山の入り口で、少女に「敵がいない当麻道を行きなさい」と助言され、竜田山方面に向かう。

山間を出たところ、「数里のところ」に「仲皇子に通じた直吾子籠(やまとあたいあごこ)が兵を備えていた」。その場所は「攪食の栗林(かきはみのくるす)」という。

この「攪食の栗林とはどこ」、「それは大坂の辺りなんだ」との論を最近、読んだ(『悲劇の皇子たち』青垣出版社)。


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大坂と言えば、大坂山口神社、崇神天王の時代(崇神9年春3月)に、「天皇の夢の中に、神人があらわれて教えた。赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀れ、また黒の盾を8本、黒の矛を8本で、大坂の神を祀れ」で、疾病は平いだという大坂である。

さらに、箸墓古墳の築造にあたっては、「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んだ」とされ「おほさかにつぎのぼれる いしむらを たごしにこせば こしがてんかも」という歌まで乗せられている、その大坂である。

それで、念願の大坂山口神社、拝観してきた。

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大坂山口神社(穴虫)

祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)である。

式内社(しきだいしゃ)大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座(ちんざ)されます。

本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺()きで、文化十三年(一八一六)の再建とされますが、寛永ニ年(一六二五)以来の棟札(むねふだ)が残されています。それには、背後の山の石巌(せきがん)を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺(ぎおんぐうじ)とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(一七四四)の再建になります。また、平成元年三月に秋の大祭には宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。境内には石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。

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とあり、さかんに境内で相撲が行われていたことがわかる。

また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組があり、二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。              

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式内社大坂山口神社は、実はもう一カ所残されている。

逢坂の集落におかれ、近鉄大阪線を挟んだ北側にあたる。こちらは伊勢街道に面しているという。

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本殿が奈良県の指定文化財である。三間社流造、檜皮葺で江戸時代のものであるが、細部には室町時代の建築様式があるとのことである。

御神像が十一体、平安時代から江戸時代にかけての8体の狛犬(木造含む)が残されているとのことである。

うーん、魅力的、ツアーで行きたいけど。

例えば、崇神天皇陵、大神神社、墨坂神社、大坂山口神社なんかを回ればおもしろそうである。



by koza5555 | 2018-04-17 21:31 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

忍海郎女、亦の名は飯豊(いいとよ)王

『古事記』でたどる大和の旅(クラブツーリズム関西・テーマのある旅)は、今年度は2月から7月まで、各月2回で12回のシリーズである。
最終回、7月の日程とテーマを決めた。
「『古事記』の女性たち。その愛と戦いから学ぶこと」である。
磐之媛命、卑弥呼、外通王、飯豊王を取り上げた。

忍海には、
飯豊王が「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされる角刺宮跡
飯豊天皇が葬られたとされる「飯豊天皇埴口丘陵」が残されている。

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清寧天皇(第22代)と忍海郎女、亦の名は飯豊(いいとよ)王のことである。

『古事記』、清寧天皇は「御子、白髪大倭根子命、いわれのミカクリ宮に坐しまして、天の下治らしめき。この天皇、皇后無く、また御子も無かりき。故、御名代として白髪部を定めたまひき。故、天皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王無かりき。ここに日嗣知らしめす王を問うに、市辺の忍歯別王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき」。


飯豊王は天皇として数えられていないが、天皇の仕事をしていると、『古事記』、『日本書紀』は記している。

さらに陵は「飯豊天皇陵』と明示されている。


ここらあたりの機微を語りたいのである。


また、『日本書紀』、顕宗天皇即位前紀には、「市辺押磐御子と荑媛(はえひめ)の間に顕宗、仁賢の妹して飯豊女王が生まれ、亦の名を忍海部女王であると記している。姉ではないかとの異論も示されている。

飯豊女王は顕宗、仁賢の叔母か、姉か妹か・・・である。

 


雄略天皇の死後(5世紀末)に即位した清寧天皇が跡継ぎを残さないまま死去する。それを引き継いだのが飯豊皇女である。

「臨朝秉政」(みかどのまつりごと)を行ったとされ、これは天皇に即位したという伝承である。

「自ら忍海飯豊青尊(おしみのいいどよのあおのみこと)と名乗りたまう。ときのうたつくるひと、歌詠みしていわく

 倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮」

葛城磐之媛(仁徳天皇后)が平城山で歌詠みしたという

「倭を過ぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり」に類似するのはなぜだろうか。

忍海角刺は彼女の宮殿の上、もしくは入り口に邪悪なものを退ける鹿角を飾っていたことによるとされる。

そういえば、多武峰のある村の入り口に鹿角が掛けられていたことを見たことがある。あれもそんな意味で掛けられていたのだろうか。

さらに、日本書紀には不思議な、かつすごいことが書かれている。

「角刺宮にてマグワイしたのだが、格別に大したことは無かったので、二度としなかった」(ここに夫あると記されているが詳らかではない)と記されている。

即位の時点では配偶者は無く、子もいない。古代女性が即位後は独身を保つ、皇位継承者を作らないということだった。卑弥呼の「夫壻(ふせい)無く」は、大和王権にも引き継がれている。シャーマンもしくは中継ぎの女帝だったとされる飯豊女王の限界性をしめしたものではないかと、「女帝と譲位の古代史」(文春新書・水谷千秋)で水谷千秋が指摘している。

4世紀頃までは、倭・大和には卑弥呼をはじめ力を持った多数の女王、女首長がいた。

しかし高群逸枝(女性史研究家・娘時代、四国八十八カ寺巡礼のすばらしい道中記 -娘巡礼記― も記した)が描いたような 古代母系社会史は存在せず、「女王・女首長は、例外ではないがあくまでも中継ぎであった」(例えば清家章)という結論が示されている。

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「遅れてきた卑弥呼」ともいうべき、飯豊皇女は葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)に葬られている。

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by koza5555 | 2018-03-30 22:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭は 2月の第一日曜日。

この有名な行事、僕は初めてである。それなりに敬遠してきた(笑)。しかし、オンダを話そうと考えると、これは欠かせない。

祭祀と行事は午後2時からであるが、カメラポジションということもある。早めに行くことに。場所取り用に脚立も用意して万全である。

3時間前、午前11時に会場に到着するが、舞台前の最前列には脚立があり、立っている人もいて、もう入る余地がない。拝殿前の上段にかろうじて空き場所を見つけて脚立が置けた。

それから鳥居あたりに出てみると、もう翁と天狗がバシバシと人のお尻を叩いている。

先を裂いたササラと称する青竹である。

激しくたたく。ぶっ叩くという言葉以外にたとえようがない。

子どもを追い回す。

若い女性を叩く。

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若い男には容赦なく、力一杯だ。

僕も叩かれたが、若い男とは見てくれなかったようで、やさしい叩かれ方。

「叩くことにより厄が飛び散ると考えて」と宮司は解説する。なるほど、それなら強く叩かれるほど良いわけである。

まともにお尻を叩かれたときはさほどではないようであるが、腿に当たると、これは激痛である。

2時から祭祀。舞殿というんだろうか祭を行う場所と、拝殿・本殿の間に観客が入るという特殊な形である。

祭は本殿に向けて行うが、あたかも観客に向けて行われるような形でよく見ることができる。

神饌はコメ、豆、キビ。オンダに使う早苗(松葉)も供えられる。

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玉ぐし奉奠があり、撤饌、しばらく休憩である。

神事は二部制だった。

一部はオンダの所作。

二部が結婚の儀である。

一部は畔切り、マンガとお田植行事がすすみ、田植えは宮司が行い、終了後、早苗は天狗や翁、牛により客席に投げ入れられる。

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二部が結婚の儀である。

天狗とお多福は寄り添って登壇。

まずは天狗とお多福の婚礼の儀式が行われる。

お多福は山もりのご飯、「鼻つきめし」を宮司に給仕する。

天狗が股間に竹筒を構えて舞台を暴れまわる。

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それから「種付けの儀」となる。天狗がササラでお多福の尻を叩き、天狗とお多福の間で性交を模した所作が行われる。

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翁は「ふくの紙」を投げる(拭いた紙が投げられる。これは子宝に恵まれる福の紙である)

その後、お多福が天狗の尻を叩き、もう一度、性交を模した所作がある。初めはお多福が上に乗る。

なるほど、男女平等だ。

お多福が中心となり、「ふくの紙」を投げる。

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西日本、四大性神事とのこと。

他の3つのお祭りは、奈良県江包の網掛け祭り、愛知県三河(西尾市熱池)のてんてこ祭り 田縣神社(小牧市)豊年祭で、奈良と愛知とのことである。

ちなみに僕は愛知県に40年、奈良で12年なんだけど(笑)

飛鳥坐神社のおんだ神事、しょさは卑猥と言えば卑猥なんだけど、まあ、ユーモラスで楽しかった。

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by koza5555 | 2018-02-04 22:43 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

陀々堂の鬼はしり

奈良県の重要無形民俗文化財の指定は7件。

指定順ではなく、年の初めから見てみると一番は「陀々堂の鬼はしり」(19951226日 五條市 念佛寺鬼はしり保存会)である。

念佛寺、修正会の結願として毎年1月14日に行われる。

五條市の念仏寺で開催される。

14日の午後4時から、昼の鬼はしりが始まる。これは無灯火だが、鬼はしりと同じ所作が行われる。続いて子供鬼走りである。

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その後、御供まきも行われる。

鬼はしりは夜間だが、初めて行かれるなら昼の鬼はしりもおすすめである。

午後9時,鬼走りの行者は迎えの小たいまつに続いて入堂する。

父鬼は赤、母鬼は青、子鬼は茶の麻の衣装である。手や足にはカンジョーリという紙縄で衣服を縛る。

鐘を合図に、須弥壇の裏をカタン,カタンと樫の棒(板)でたたく音が響く。乱声乱打(らんじょうらんだ・・こちらでは「らんせい」と言われていた)である。

はじめに火天(カッテ)役による「火伏の行(ひぶせのぎょう)」。桶にはめ込まれた大きなたいまつを空に向かって水の字を書く。最後にそれを天井高く差し上げた。

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鬼走りが始まる。たいまつは佐役(スケ)が持ち上げる。斧を持った赤鬼がともに現れ、スケから松明を受け取る。

片腕,片膝でたいまつを受け取った赤鬼は,天空に向かって斧を構えて静止し,火の粉を振りまきながら正面戸口に歩を進める。

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続いて青鬼。さらに茶鬼である。そろって静止した後は順次下がって、堂内を阿弥陀如来を廻る形で周回して、あらためて右手から登場する。こうして堂内を三周して、行は終わりである。

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残されたお面の裏には文明18年(1486年)の文字が残されていることや、安永2年(1773年)の村鑑明細帳には、現在と同じ所作が記されているとのことで、行事の歴史の裏付けもあるのである。

道路事情が劇的改善で、奈良盆地から五條へはとても早くなった。五條西インターチェンジから降りて、一キロもいかない上野公園の駐車場が公的駐車場で、こちらからはマイクロバスのピストン運行である。お昼過ぎから完全に終了するまで随時に運行されていて、とても便利である。混雑するお寺の駐車場に入る必要はない。地図を参照。

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奈良県下で、国が指定した重要無形民俗文化財は以下のとおりである。

題目立
春日若宮おん祭の神事芸能
十津川の大踊
陀々堂の鬼はしり
奈良豆比古神社の翁舞
吉野の樽丸製作技術
江包・大西の御綱(以上、指定順)

大和の神々』(奈良新聞社1996年)参照




by koza5555 | 2018-01-15 14:43 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

十津川 小原の大踊り

13日は十津川の大踊り。朝から十津川に入り、谷瀬の吊り橋、玉置神社、玉置山登山、果無(はてなし)を見学して、夕方から小原の盆踊りがおこなわれる第一小学校を訪れてきた。

小原の盆踊りは午後8時から12時まで。桜井からは2時間30分以上かかる。最後まで拝見して、帰れば午前3時・・

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十津川の大踊りは、1974年(昭和49年)に「無形の民俗文化財」の指定を受けた。

十津川は村々で盆踊りがおこなわれているが、小原地区、武蔵地区、西川地区の大踊りが指定されている。

曜日に関係なく、13日は小原、14日は武蔵、15日は西川である。

ヤグラには音頭取り、音は締め太鼓だけで、調子を取っていくようである。

今年も木曽節で始まる。十津川の盆踊りはほとんどが扇子踊りであるが、これは手踊り。

その後は串本節とかの民謡をもとにした「馬鹿踊り」、お杉口説、たばこ口説、天誅おどりなどの「口説き」の踊りが続けらる。

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これは天誅おどり。天誅組に絡んだ十津川の物語。少女のお話である。二人で向かい合った珍しい踊り。男女のことか、あるいは切り違えの姿か

10時、過ぎに「次は大踊り」と告げられ休憩に。

ヤグラに向かって太鼓を持ち、ばちを持った男たち。その後ろには女性が扇をもって並び、竹笹の吊り灯篭が4本(白赤緑の3色の紙を切った美しいもの)並ぶ。

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初めはゆったりと足踏みするような踊りである。「元歌」といわれる。

太鼓うちは、白・赤・緑の房の付いたバチで抱えた締め太鼓をたたく。


後半はヤグラの周りが一転する。太鼓は太鼓持ちがもち、激しく太鼓が叩かれる。

踊り子はヤグラを取り囲み、頭上で扇を振り、灯篭もちが外周を走り回る。

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民謡や口説きの時とは、ガラッと異なる激しい乱舞である。

これが大踊り、これが無形文化財に指定されている。

風流踊りの流れを引くといわれる。美しい大きな灯篭を作り、みんなが飾り立て、激しく太鼓をたたき、音頭取りもここぞとばかりに歌い上げていく。

素晴らしいの一言に尽きる。糸井神社のなもで踊りの絵馬を見たばかりだが、あの絵が彩色されて、音付きの動画に代わったとみても、言い過ぎではないだろう。

近世、盆地内で廃れた風流踊りは、こんな形で十津川に残っているんだろうなと感動する。


盆踊りは大踊りの後、数曲を踊って、最後はお決まりの「伊勢音頭」で、終了した。

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小原盆踊り、8月になると奇数日に練習、7日盆は休んで8日にからは毎日練習、12日に休んで13日に開催という日程とのこと。

今日、15日は武蔵、明日の16日は西川で開催される。

実施の主体はそれぞれ、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川大踊保存会となっている。

朝から十津川を訪れた。はじめは谷瀬

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谷瀬の吊り橋。高さ54m、長さ297m。

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世界文化遺産、中辺路・・果無の集落
「雲を踏み嵐を攀て御熊野の果無し山の果も見しかな」『 南山踏雲録』伴林光平である



by koza5555 | 2017-08-14 14:48 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)