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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:橿原・明日香( 44 )

繋 明日香村の大字に伝わるはなし

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多武峰、万葉展望台から明日香村に下るハイキングコースがある。その道を下ってくる。イノシシや鹿が人里に入らないようにと設置された防護柵を越えると上居(じょうご)の大字である。その道端に10体ほどのお地蔵さまが並べられている。


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いわれを知りたいと考えていたが、「繋 明日香村の大字に伝わるはなし」に解説されている。

上居の上には平尾という大字があり(大正時代に廃村)、このお地蔵さんの所は、平尾の大字の寺跡だったと書かれている。

「平尾の以前お寺のあったところに、周辺から出てきたお地蔵さんや、今では誰も通らなくなった細い山道の角々や辻に祀られていたお地蔵さんを集めて三か所で15体祀られている」。このお地蔵さんの写真を僕は持っていた。5年越の疑問が解けた・・・

大字飛鳥の「弥勒さん」も、とってもわかりやすい。弥勒さんのいわれの地元の伝承が示され、弥勒さんを川から救い上げたとされる旧暦の85日に祭をしていたが、平成30年からは9月の第二日曜日に変更したことなどが記されている。

明日香村の39の大字の大字名の成り

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立ち・歴史にはじまり、お地蔵さん、社寺、村の祭、歴史、「行ってはいけないところ、してはいけないと言われていること」などなどが調べられ、記録されている。いわば、明日香村の悉皆調査である。

明日香村文化協会の20名あまりの皆さんの10年がかりの労作で、その努力とその成果に感動した。平成311月に発行された。

明日香村を知ろうとしたら、この本は必携である。それは奈良を知る上でも大きな力となろう。

各図書館には置かれているが、非売本であるので、入手方法を書き足しておきます。

明日香村文化協会に入会すると、会員はこの本がいただけます。会費は一年で2000円、入会すると、この本が自動的に送られてくる。

明日香村文化協会の窓口は明日香村中央公民館で、直接、出向くか電話を架ける。

出向けば、窓口で入会手続きが完了。会費も払う(本がいただける)

遠方の方は、入会の申し込みを電話で行う、振り込み用紙が郵送されるとのことである。

明日香村中央公民館  電話0744543636

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by koza5555 | 2019-08-14 11:13 | 橿原・明日香 | Comments(0)

『上下する天文』

『上下する天文』・キトラ・高松塚古墳の謎   来村 多加史(阪南大学教授)


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              高松塚古墳(2019年7月20日)

まほろばソムリエの試験にチャレンジする人は、来村多加史さんの名前を一度は聞くだろう。商工会議所が開く検定試験講座の講師とか、一級の受験のための義務となる「体験学習プログラム」の講師をされる。

この来村先生が、このほど『上下する天文』と題して、キトラと高松塚の古墳壁画について上梓をされた。もともと、これに関する本は書かれているが、新たな情報や見解が蓄積されてゆく中で・・」、自説の中心は変える必要がないが、まあ、僕もその論に加わりたいという感じだろうか。

「谷を景観とするキトラ・高松塚古墳」と題して、古墳の立地などについてのまとめはある。とても理解しやすい図も載せられている。

そんな具合にこの本を解説するのは、僕の得手ではないので、ここから一気に結論まで飛んでみたい。

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キトラ天文図について、「第一は星の数が足りない。第二は選択の基準がわからない。第三は星座を辺消させている節がある。」とし、星座間のスペースの変更、星と星の間を等間隔に変更、黄道のずれも作者の故意ではないかなどと論証、「自由な変形」をしているとした。ところが、「一点だけ天文図としてのこだわりを感ずる部分がある」と述べ、天球における方位(緯度)を示す28宿の方位が正確に書かれていることを指摘される。

「天で起こる異変がどの地域の異変を示すものか」、この方位がいい加減にしてしまえば、天文図ではなくなる。キトラに描かれた星空は単なる夜空でなく、「天文図」であり、画家本人、リーダーの図案はそれを示している。

「天文への造詣があればこその自在変形が生み出した最高の天文絵画である」

高松塚天文図。こちらは屋根型ではなく箱型、方形の石室。「高松塚の28宿は形や星数だけは正規の天文図に近い。」「ただ、方形の枠に沿わしているため、星座の傾きは円形天文図とは食い違う。」

ちょっと論理は複雑だが、来村先生は、高松塚の天文図(天井)は傘蓋のイメージというのである。

それを証明したいと‥それが来村先生の結論である。

キトラ古墳の壁画は螺旋を描いて「昇天」という。被葬者が寝た状態で見れば、である。亡くなった人は見ないとか、棺の中からは見えないという事は言わない。生きてるように見る、という事は前提である。古代の葬送の基本である。



一方高松塚古墳の壁画は外に誘い出される構図、絵だというのである。「すべりだす」がイメージ。

ちょっと禁断だが、来村先生の絵・図を見てください。

「キトラ古墳には昇天の思い

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高松塚古墳には出行の思いをこめた画家の心理が読めた。

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キトラは天井を高くして昇天、高松塚は出行を重視して、すべてをその方向に。天井は下げた方が出行のイメージが強調できる。天文図は上下するのである。

こんな「メッセージに応じて天文を上下させたとすれば、画家は我々が想像する以上の知識人であり、アイデアマンである」。

1800円+税・・おすすめである。

おりしも、720日(土)から26日(

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金)まで、高松塚古墳壁画の修理作業室が公開されている。今年の目玉は西壁の女子群像・・初日の午前に見学してきた。僕が見たグループは4名。申込のホームページを見ても、けっこうすいている。一度も見たことがない方は、今回、ぜひどうぞ。料金は無料、駐車場も使える。

「高松塚古墳 修理」でネットの検索ができ、申し込みも完了する。

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by koza5555 | 2019-07-20 16:02 | 橿原・明日香 | Comments(0)

重陽の節供・節句

9月9日は重陽の節句。

伝統的な年中行事は中国の影響があるが、日本では稲作の区切りになる大事な日であったので、日本の生活文化に深く根付いている。

お正月、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節日には、神に供えるものが決まっていて、そこから「節供」(せっく、せつのそなえ)の言葉も生まれたとされる。

9月9日の重陽の節供、これは栗飯と菊酒と決まっているのである。

ちなみにお正月はたんに「お節料理」、3月3日は草餅、菱餅。5月5日はちまきや柏餅、7月7日はそうめん(索餅)で9月9日は栗と菊である。

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これが栗だが・・(汗)

節供が節句という文字に変わっていくのは、江戸時代からで・・神祭というよりは季節の区切りという面が強くなって供えから句に変わったとされる。

養老律令(奈良時代 720年)には節日は決められていて、元日、33日の上巳、55日の端午、77日の七夕、11月の大嘗の日が決められていた。

歴史は古いんだが、99日の重陽の日がない。

なぜか。この日は天武天皇の忌日だったからとのことである。律令国家の生みの親である天武天皇の忌日は、養老律令は重陽の「祭」は記さなかったとのことである。

参考までだが、皇統が天智天皇系に変わった平安時代には重陽の節供は国の行事に復活している。

天武天皇は西暦の673320日(天武天皇2227日)に即位。686101日(朱鳥元年99日)に崩御されたとされる。

天武天皇14924日(685年)に発病が記されており、翌年の朱鳥元年9月に崩御されている。

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重陽の節供でもあり、天武天皇の命日。いまの暦で計算するなら101日であるが、節供は旧暦の日をそのまま新暦に写して祝っているので・・・祝い、ともに思いを寄せることにした。

今日、桜井や明日香村辺りは午前中にハロが出現した。
太陽の周りの光の環で、うす雲の中の氷の結晶によって、太陽の光が屈折して現れる現象だそうです。
重陽の日に、天武天皇崩御にの日に、いいものをみました。
写真は桜井の我が家の屋根越に見た太陽そして、ハロ(光の環)。

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by koza5555 | 2018-09-09 16:44 | 橿原・明日香 | Comments(0)

益田岩船(橿原市)と石の宝殿(兵庫県高砂市)

橿原市の白樫西集会所の奥から、200mくらい山を登ると益田岩船に到着できる。

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車であれば白樫町集会所の左の道を上がっていくと、何とか駐車場所は確保できそうである。車を降りてのぼり口に行く、そこから標高差は30mでさほどの山ではない。

念の為に申し上げておくと、今の時期(5月~11月くらいまで)は、猛烈なやぶ蚊の攻撃を受けるので虫よけスプレーが必須である。

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標高130mの場所に巨大な花崗岩の石造物で、益田岩船といわれている。

東西約11m、南北約8m、高さ約47mもあり、重さは約715トンとされる。

上部の平坦面には一辺が約1.6m、深さ約1.3mの方形の穴が彫られていることが特徴である。

益田池の碑を据えた台石、天文台、祭壇などといわれているが、今では横口式石槨の製作放棄のものと言う見解に僕は賛成である。

『大和名所図会』(秋里籬島著 寛政3年 1791年)にも、益田岩船として紹介されている。

文は「暮れ行く春のかたみには深山(みやま)の花のまた散りのこり、岩つつじ咲き乱れの眠れるをりふし、時鳥(ホトトギス)の初声におどろきけるも一興とやいわん」と、村人の遊びの場となっていることを紹介し、岩船は「益田池の碑の台座」であり、碑は高取城に取り込まれたとの言い伝えがあるとしている。(『奈良名所むかし案内』本渡章参照)

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兵庫県の高砂市の生石(おうしこ)神社を訪れるツアーを計画している。

神社のご神体は石の宝殿と呼ばれ、凝灰岩の岩山の中腹を削って作られた巨石である。水面に浮かんでいるようにも見えて、浮石ともいわれる。

2014年(平成26年)10月には、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡(いしのほうでんおよび たつやまいしさいせきいせき)」として、国の史跡に指定されている。

6.4m、奥行き7.2m、高さ5.7mで重さは500トンを越えるとみられる。

 誰が何のために作ったのか、なんでこの形で残されているのかが不明である。

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 『播磨國風土記』(713年ころ)の印南郡大國里條にある記述には、

「原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていわく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり」との記述があり、「弓削の大連」(物部守屋)が造ったとされている。横穴式石槨の施主が物部守屋、守屋の没落によって、放置されたと考える論に僕は惹かれる。

 大石であり、いずれも横穴式石槨の並び墓とみたい。明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)にその実例もある。

 益田の岩船と石の宝殿はいずれも大石で見るものはその迫力に圧倒されるが、完成度は相当違う。

 稜線近くの大石を削った益田の岩船。

 岩盤から削りだされた石の宝殿。完成度に差があることは明瞭である。



by koza5555 | 2018-08-10 15:03 | 橿原・明日香 | Comments(0)

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭

飛鳥坐(あすかにいます)神社 おんだ(田植)祭は 2月の第一日曜日。

この有名な行事、僕は初めてである。それなりに敬遠してきた(笑)。しかし、オンダを話そうと考えると、これは欠かせない。

祭祀と行事は午後2時からであるが、カメラポジションということもある。早めに行くことに。場所取り用に脚立も用意して万全である。

3時間前、午前11時に会場に到着するが、舞台前の最前列には脚立があり、立っている人もいて、もう入る余地がない。拝殿前の上段にかろうじて空き場所を見つけて脚立が置けた。

それから鳥居あたりに出てみると、もう翁と天狗がバシバシと人のお尻を叩いている。

先を裂いたササラと称する青竹である。

激しくたたく。ぶっ叩くという言葉以外にたとえようがない。

子どもを追い回す。

若い女性を叩く。

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若い男には容赦なく、力一杯だ。

僕も叩かれたが、若い男とは見てくれなかったようで、やさしい叩かれ方。

「叩くことにより厄が飛び散ると考えて」と宮司は解説する。なるほど、それなら強く叩かれるほど良いわけである。

まともにお尻を叩かれたときはさほどではないようであるが、腿に当たると、これは激痛である。

2時から祭祀。舞殿というんだろうか祭を行う場所と、拝殿・本殿の間に観客が入るという特殊な形である。

祭は本殿に向けて行うが、あたかも観客に向けて行われるような形でよく見ることができる。

神饌はコメ、豆、キビ。オンダに使う早苗(松葉)も供えられる。

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玉ぐし奉奠があり、撤饌、しばらく休憩である。

神事は二部制だった。

一部はオンダの所作。

二部が結婚の儀である。

一部は畔切り、マンガとお田植行事がすすみ、田植えは宮司が行い、終了後、早苗は天狗や翁、牛により客席に投げ入れられる。

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二部が結婚の儀である。

天狗とお多福は寄り添って登壇。

まずは天狗とお多福の婚礼の儀式が行われる。

お多福は山もりのご飯、「鼻つきめし」を宮司に給仕する。

天狗が股間に竹筒を構えて舞台を暴れまわる。

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それから「種付けの儀」となる。天狗がササラでお多福の尻を叩き、天狗とお多福の間で性交を模した所作が行われる。

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翁は「ふくの紙」を投げる(拭いた紙が投げられる。これは子宝に恵まれる福の紙である)

その後、お多福が天狗の尻を叩き、もう一度、性交を模した所作がある。初めはお多福が上に乗る。

なるほど、男女平等だ。

お多福が中心となり、「ふくの紙」を投げる。

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西日本、四大性神事とのこと。

他の3つのお祭りは、奈良県江包の網掛け祭り、愛知県三河(西尾市熱池)のてんてこ祭り 田縣神社(小牧市)豊年祭で、奈良と愛知とのことである。

ちなみに僕は愛知県に40年、奈良で12年なんだけど(笑)

飛鳥坐神社のおんだ神事、しょさは卑猥と言えば卑猥なんだけど、まあ、ユーモラスで楽しかった。

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by koza5555 | 2018-02-04 22:43 | 橿原・明日香 | Comments(0)

神武天皇に関わる陵、丸山にこだわって

「神武天皇の即位」をテーマのツアーを案内する。

橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵、等彌神社などを訪ねる。

そこで、神武天皇陵のことである。

幕末期には三か所が神武陵の候補に上がる。

それは

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」の四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。古事記にある神武天皇陵についての記述、そのままの文言である。

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その後の経過はどうなったか。

①の「今日神武陵」は、幕府の公認陵ということもあって推すものがなかった。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家として文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

もともと、本居宣長はこちらの丸山を推していた。

「四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東。うねび山よりは五六町もはなれて。丑寅のかたにあたれる田の中に。松一もと桜ひと本おひて。わづかに三四尺ばかりの高さなる。ちひさき塚のあるを。神武天皇の御陵と申つたへたり。さへどこれは。さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は。かしの尾上と古事記にあるを。こゝははるかに山をばはなれて。さいふべき所にもあらぬうへに」(菅笠日記)

結論はつけるのは孝明天皇。天皇の名で「御沙汰書」が出される。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。

その後、明治11年に、①の「今日神武陵」の四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定される。

問題は、「丸山も粗末にするな」の③である。

こちらを、奈良まほろばソムリエの会の木村三彦顧問の案内で見学してきた。神武天皇陵の一角にあるが、許可を求めることなく、立ち入ることはできるようである。

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参道というか‥、拝所目前の左への分かれ道・・石段がある。里道という感じである。

あとは道なりである。200メートルくらい。上り詰めていくと井戸がある。昔の洞村の共同井戸らしい。今も水は貯められている。

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丸山はその上である。

宮と刻まれた5本の石柱が置かれている。古墳のような様子は感じられない。

5本、踏み分け道はしっかりの残っていて・・人の出入りは多い様子である。

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神武天皇陵を正面に記念撮影。後列、真ん中が案内してくれた会の顧問の木村三彦さんである。

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御陵印ももらってきた。「神武天皇畝傍山東北陵」印

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畝傍陵墓監区事務所

御陵印というものがある。神武天皇陵の敷地に置かれている「畝傍陵墓監区事務所」で、推すことができる。神武天皇陵印だけではなく、奈良県の歴代天皇陵の30陵の御陵印が置かれている。

「丸山、粗末にできんなあ」である。


by koza5555 | 2017-11-11 10:28 | 橿原・明日香 | Comments(0)

幕末に成った神武天皇陵

「神武天皇の即位」というツアーである。

実在性はともかく、神武天皇のゆかりの地が残されている。

これを勉強して、組み立てて案内する。これはガイドのだいご味である。

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神武天皇陵

『天皇陵の誕生』(祥伝社新書 外池昇)が適切な解説本か。

「第二章 蒲生君平が求めたもの――『山稜史』を読み直す」・・これが面白いが、今日はここをスルーして、「三章 幕末に成った神武天皇陵――聖域に群がる人びと」を紹介したい。

神武天皇は初代の天皇である。その陵であれば、はるか太古の時代に成ったもののはずである。だが私は、本章のタイトルに「幕末に成った神武天皇陵と書いた」。太古の時代のはずの神武天皇陵が「幕末に成った」とは、いったいどういうことなのだろうか。

初代が神武天皇である。…今日積極的に取り上げられる機会が少ないというのは、ご承知の通り、今日では実在した人物とは考えられていないからである。

実在したとは考えられていないのではあるが、『古事記』にも『日本書紀』にも、その所在地について、具体的な記述がある。

『古事記』  「畝火山北方白檮尾上」

『日本書紀』 「畝傍山東北(うしとら)陵」


そして、

幕末期には神武陵は三か所。『聖蹟図志』に示されていて、

①「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」と四条村の塚。

②「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。

③「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。日本書紀にある神武天皇陵についての記述のままの文言である。

時は幕末、文久の修陵というさなかである。

②の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家して文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。

③の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した。

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   丸山はこちらである。「御陵又丸山」と今も記されている

①の四条村の塚は、幕府の公認陵ということもあり、推すものがなかったという。

この論争の結論はつけたのは孝明天皇。「御沙汰書」が出された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった。



明治11年には、四条村の塚は第二代綏靖天皇陵として治定されている。

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これが綏靖天皇陵


文久の修陵の当時は、神武天皇陵としての陵域が確定されたことがよくわかった。


文久山稜図  荒蕪

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文久山稜図  成功

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神武天皇陵御陵真景(明治34年 奥野陣七による)では、以上の二つの塚が示されていたが、

神武天皇畝傍山東北陵の図(大正15年)では、方墳、中心に円墳が一つとなった。


以上のような解説をしても、「なぜ、この地に三カ所の神武天皇陵の候補地ができたのか?」、言い換えれば、古事記・日本書紀は、この地になぜ初代天皇の陵を考えたのかという疑問は残るだろう。

古事記・日本書紀が準備された時期には、「藤原京の近くに初代天皇陵を求めた」という論を展開する学者もいるのである。

前橿考研の今尾文明さんなどは、それを解明して「都市陵墓」としての神武陵などという論も書かれている(『明日香風』122号 平成24年1月号)。説得力のある論で、これはこれとして又の機会に紹介したい。

「神武即位」をテーマにしたツアーは12月6日(水)に、予定している。


by koza5555 | 2017-07-31 14:02 | 橿原・明日香 | Comments(0)

栢森の綱掛神事 稲渕も少し

あけましておめでとうございます。

今年の一番はツナカケ神事。
今年は1月11日に「栢森(明日香村)の綱掛神事」が行われた。

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飛鳥川に掛けられた栢森の女綱

「綱掛神事は、栢森と稲渕両大字に伝わる神事で、毎年正月11日に行われる。カンジョ掛神事ともいう。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押し止め、住民を守護するための神事といわれている。
 栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行うことである。福石(陰物ともいう。)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛け渡す。一方、飛鳥川下流の稲渕大字の神事は神式で行うことが特徴で、「男綱」を飛鳥川に掛け渡しをする。  (明日香村大字栢森です)
 こんな掲示版が栢森の綱掛け場に設置されていた。

稲渕と柏森のオツナカケである。
行事は古くて(300年前の)1751年の「古跡略考」でも、カンジョウの松とかカンジョ橋というのが記されており、オツナカケが行われていたことが判る。

日時は正月11日である。稲渕と柏森、初仕事、クワハジメの行う。
今年は稲渕はどんな具合か、9日(成人の日)に実施、栢森は古式に従い11日の実施だった。
    
稲渕は9日、三つ編み方式で80メートルの綱を綯った。その後に陽物(男性器をかたどったもの)を作り、ご幣を取り付けて綱に固定、綱は檜と柿の木に間に張られた。
陽物が川の中心にまっすぐ立つことが大事なようであるが、これがなかなか難しく、毎年苦労されている様子である。

柏森は11日の午後、大字の農作物出荷所に集合する。宮役と三グループの宮座(のようなもの)から当番が参加する。黙々と80メートルの綱を綯う。桜井の山村のオツナカケのような掛け声はなく、卑猥な戯言などもなく黙々と綯われていく。

併せて、陰物(玉ねぎのようなもの)も作られる。女性をかたどったものだがリアルには作らない。柏森の龍福寺の住職が供養を行う。

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綱打ち場


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出来上がった陰物


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綱打ち場から500メートルほどは、僧侶を先頭に綱掛け場に移動


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福石での仏事。般若心経を唱えられる


栢森のご幣は上流に向かっている。ご幣の向きは綱の道きりの意図が示されていると思うが、・・これはどうしたことだろうか。

『飛鳥の祭りと伝承』(古典と民俗学叢書)で上野誠が面白い論を述べていた。
稲渕と栢森の境目には「飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめみこと)」が鎮座、稲渕、栢森、入谷、畑の人々が守る社であり、稲渕川水系の村々を統合する社でもあるという。
この社の前に南淵(なぶち)があり、大イデ(取水口)があり、この社ではかっては名も出踊りが踊られ、オンダが行われていたという。
オツナはこの祭、このミヤヤマを守るものとの見解とみることもできる、これが上野誠論である。

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こんな地図も書いてみた

皇極天皇が雨乞いをした飛鳥川上の神奈備の神の場とされており由緒は古い。「元飛鳥」との論もあり飛鳥坐神社の元の姿ともいう場でもある。

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神社の門前の飛鳥川。タギツであり、大イデも

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190段ほどのキツイ石段を登ると拝殿。拝殿の横に回るとお山がご本殿のような祀られ方である

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陰陽の石も境内に。石は倒れていたが

稲渕と柏の森の男女の勧請綱は、会うことが無く、結びつくことも無い。
それぞれ場で、それぞれの役割を果たすことを村人に期待されている。
by koza5555 | 2017-01-12 19:37 | 橿原・明日香 | Comments(0)

9月は稲淵でかかしウォーク

大人の学校、9月は明日香村、案山子ウォーク。
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このかかし、今年のジャンボは真田信繁(幸村)である。7月24日に立ち上げられた

奈良県では日本棚田百選に選ばれたのは明日香村稲渕の棚田だけ。
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稲穂の垂れる棚田、彼岸花が見ごろを迎える頃の案山子コンテストが楽しめる。
午後は初めに石舞台を訪れ、さらに不思議な石造物や飛鳥駅周辺の古墳を辿る。
明日香・飛鳥を隅々まで楽しむ9月の歴史散歩、お誘いします。
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こちらは昨年のかかし

行程は9月23日(金)午前10時、飛鳥駅の改札口前に集合。
歩く距離は約8km程度で、飛鳥駅(タクシー利用)→稲渕 → 石舞台古墳 昼食 → 亀石、鬼の雪隠、吉備姫王墓などを見学したのちに飛鳥駅にて解散
費用は1000円、タクシー代は各自払いで500円程度。



さらに10月は山の辺の道、11月は浄瑠璃寺・岩船寺に当尾を案内する。

10月  山の辺の道  邪馬台国の残照、相撲発祥の地を訪ねる
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■10月26日(水)
集合 午前10時   JRまほろば線 柳本駅
解散 午後 3時ころ 纏向駅
■コース(歩く距離 6km程度)
JRまほろば線柳本駅 → 黒塚古墳 → 崇神天皇陵 → 昼食(天理トレイルセンター)→ 長岳寺
→ 穴師坐兵主神社(相撲神社)→ 珠城山古墳 → JRまほろば線巻向駅解散
■参加費 1100円(長岳寺拝観料 350円、学校経費、資料代などで750円)。


そして、11月。 錦秋の当尾。浄瑠璃寺と岩船寺(食事付)である。
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■11月30日(水)
集合時間午前9時15分 
集合場所   JR奈良駅改札前(JRで来られる方は改札口の中で受け付けを行います)
■コース(歩く距離約6km、下りの道です)
JR奈良駅(集合9:15)→ 9:37 JR乗車~加茂駅着9:51 路線バス → 岩船寺 → 昼食(岩船寺門前「静」→ 石仏巡り → 浄瑠璃寺 → 浄瑠璃寺バス発 → 近鉄奈良駅 → JR奈良駅
■参加費(昼食付)2100円(食事代650円、岩船寺拝観料400円、浄瑠璃寺拝観料300円、大人の学校と資料代750円)          
※奈良~加茂(JR)240円 加茂~岩船寺(バス)300円 浄瑠璃寺~奈良駅(バス)570円、各自払いです。
by koza5555 | 2016-07-25 21:24 | 橿原・明日香 | Comments(0)

奈良文化財研究所 瀬田遺跡(弥生時代の陸橋がある墳丘)

5月15日、奈良文化財研究所は「藤原京右京九条二・三坊、瀬田遺跡の調査」の現地見学会を実施した。

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場所は本薬師寺の南東100メートル位の所。現地を出たところから西方をのぞむ

今回の調査では、藤原京の西二坊大路や坪内道路、坪内に計画的に配置された大型掘立柱建物群などを検出し、藤原京の宅地利用に関する新たな知見を追加しました。
また、弥生時代末期の周溝墳墓群を確認し、陸橋をもつ大型円形周溝墓の存在が明らかとなったことで、弥生時代墳丘墓の発展過程の解明に寄与する成果を上げることができました。
  会場配布の奈文研のパンフから

本薬師寺の門前ともいえる場所になるわけで、この地での大型敷地の建物群は貴重ということだろう。
とはいっても、参加者のお目当ては、弥生時代の「瀬田遺跡」。こちらから弥生時代後期の円形周溝墓が発掘されたことである。周溝からでた土器によれば2世紀の築造とみて間違いないようだ。


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会場の状況

円墳は19メートル。6メートル位の周溝に囲まれているが、こちらの特徴は南側に周溝を埋める(横切る)形で台形の陸橋が設けられていることである。
周溝も含めると径で31メートルという。

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円形周溝墓の概念図

前方後円墳の原型と考えられる弥生時代末期(2世紀中ごろ〜後半)の円形周溝墓(陸橋がることが重要視された)ということである。
纏向遺跡の石塚古墳(奈文研の資料による)に先立ち、その原型が発掘されたということである。
石野博信氏は「前方後円墳の先がけのような姿で、纒向遺跡の前方後円墳が誕生する直前の大和盆地の姿を解明する資料にもなる」とされた。

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弥生時代の末期の円形周溝墓の図。陸橋のある形は大阪、四国では数多く出ているが、奈良県では初めてと解説があった。下の大きいのが纒向石塚古墳、右上の青い墳丘図が今回の周溝墓


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周溝をくっきり見ることができる

墳丘は藤原京の造成時に削り取られており、残念ながら埋葬視閲も不明である。
ポリテクセンターの改築工事に先立って発掘された遺跡であり、調査のあとは埋められると聞いた。

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弥生時代の遺物・土器

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付近から石包丁も出土した



by koza5555 | 2016-05-16 20:40 | 橿原・明日香 | Comments(0)