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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:吉野( 27 )

東吉野のコアジサイ群落

東吉野と川上村を結ぶ川上街道という道がある。標高が1000㍍ほどの峠がある。「足ノ郷峠」というが、ここにコアジサイの群落がある。


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今が満開、6月いっぱいくらいだろうか。薄い青みがかかった白い花である。軸が赤くて、陽の当たり具合では、紫色に見えたりもする。

この街道は天誅組行軍の道でもあり、ここから東吉野村鷲家に攻め入り、終焉を迎えた。

以下は「東吉野村」の掲示を書き起こしました


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「峯越衆(おごししゅう)

 川上街道(東熊野街道支線)は、かつて東吉野と川上の交流を支えた重要な街道であった。菟田野や大宇陀の米が鷲家口(小川)を経由して川上村に運ばれた。川上村には東川辻越え、白屋辻越え、足ノ郷越えの3ルートがあって、東川・白屋・武木、井光への生活物資輸送路として利用された。また、正月や盆前には鷲家口に「市」がたってにぎわい、普段でも川上からの買い物客がこの街道を往来した。

昭和初期頃まで、鷲家口には「峯越衆」と呼ばれ生活物資の運搬を本業にする人たちがいた。服装は白襦袢に紺バッチ、夏は素足、冷え込みの時期には自家製の足袋にワラジ履きであった。荷物は米60㎏が通常で、他に酒、醤油、魚介類、陶器、針金、釘なども運んだ。

天誅組行軍の道

 文久3年(1863年)9月24日、天誅組は東熊野街道を北上して武木の庄屋大西家などで昼食の接待を受け、午後3時ごろ同地を出発した。彼らは、戦闘に耐えうる元気な隊士を先陣に、傷病の隊士を後陣にして足ノ郷峠を越えて東吉野に入ってきた。

 そぼ降る時雨の中、「五本桜」(現キリヤクボヘリーポート付近)まで来ると、百姓二人が火を焚いて待っていた。鷲家口の情勢を聞いたところ、前夜からここに来ていたので、その後の様子は知らないという。一行は二人を木にしばりつけて鷲家口突破の軍議を開いた。「本隊を2隊に分け、一隊は決死隊となって鷲家口に陣取る彦根勢を突破する。もう一隊は戦闘に上じて主将中山忠光卿を大阪の長州屋敷まで守護する」という作戦であった。小びょの隊士の多くは丹生川上神社方面に下り木津川、伊豆尾方面に向かった。隊士のほとんどは雄途空しく若い命を散らしたが、5年後に明治維新が成し遂げられた。」

そんな足ノ郷峠である。心して参られよ・・・

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東吉野の小川の「西善」。神武天皇東征をテーマにした厳へ最中と天誅組をテーマにした魁饅頭。どちらも好評だった。


by koza5555 | 2019-06-24 20:17 | 吉野 | Comments(0)

丹生川上神社と磐余彦命・・そして厳瓮

待っていた切手が届いた。

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大日本帝国郵便とあり、「紀元2600年」。「八紘一宇」、10銭である。5匹の魚がいて、壺の図柄がメインである。

紀元2600年は昭和15年、今から80年前の切手である。

紀元2600年は神武天皇が橿原で即位したと『日本書紀』に記される。

5匹の魚がいて壺という図である。

東吉野村の丹生川上神社中社を訪ねてみよう。境内の奥深くであるが、神武天皇に関わる聖蹟碑が建てられている。

表は

「神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑」

裏面は

「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)九月天下平定の為平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭られ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

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宇陀の高倉山にて磐余彦命(神武天皇)はヤソタケル、磯城兄を望見する。天神は磐余彦の夢に現れる。「天香久山の土にて平瓮(ひらか)と厳瓮(いつべ)を作り、祀れ」との託宣である。そこで椎津根彦(しいねつひこ)と弟猾(おとうかし)を老人、老婆に化けさせて天香具山へ派遣、埴土を持ちかえらせた。

「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが槇の葉が浮き流れれれば、吾はこの國を平定できるだろう」と酒を入れて厳瓮を丹生川に沈めて占った。

椎根津彦が下流の魚見岩で望見して、流れる魚をみる。

イツベを沈めた丹生川は丹生川上神社の夢淵で、高見・四郷・日裏の三川が合流するところである。

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厳瓮と5匹の鮎、これは天皇の即位を祝って、近衛が万歳三唱をするとき振り上げる「万歳幡」に描かれる絵柄である。この絵柄は神武天皇の由来だったのである。

万歳幡を見たことはないが、・・・こんなものではないだろうか・・

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この切手、あちこちで自慢し與・・こんな風にセロファンでまいて、持ち手を付けて(笑)

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八紘一宇が気になる方も多いだろう。

神武天皇が橿原で即位する前に、「未開の民は残っているが道理が通る世界となった。国を授けていただいた天照大神、高皇産霊神の恩,ニニギノミコトの正しき心を広めたい」として、「六合を兼ねて都を開き、八紘をおおいて一宇とする。いいではないか」と語る。

「国中の心を一つにして都を開き、天の下を掩(おお)いて、一つの家とすることは、また良いことではないか」(宇治谷)が八紘一宇の意味だろう。

ただし、「1940年(昭和15年)8月に、第二次近衛内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく。建国)の大精神に基」づくと述べ」(ウィキペディア)、戦争目的、政治スローガンとして使われたことから、僕にはちょっと使いにくい言葉ではある。

最後に‥東吉野村の西善(お菓子屋さん・東吉野村の中心地にお店が)は、このイツベの最中を製造・販売している。僕はたくさん、売りました…

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by koza5555 | 2019-05-14 23:48 | 吉野 | Comments(0)

陀々堂の鬼はしり

奈良県の重要無形民俗文化財の指定は7件。

指定順ではなく、年の初めから見てみると一番は「陀々堂の鬼はしり」(19951226日 五條市 念佛寺鬼はしり保存会)である。

念佛寺、修正会の結願として毎年1月14日に行われる。

五條市の念仏寺で開催される。

14日の午後4時から、昼の鬼はしりが始まる。これは無灯火だが、鬼はしりと同じ所作が行われる。続いて子供鬼走りである。

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その後、御供まきも行われる。

鬼はしりは夜間だが、初めて行かれるなら昼の鬼はしりもおすすめである。

午後9時,鬼走りの行者は迎えの小たいまつに続いて入堂する。

父鬼は赤、母鬼は青、子鬼は茶の麻の衣装である。手や足にはカンジョーリという紙縄で衣服を縛る。

鐘を合図に、須弥壇の裏をカタン,カタンと樫の棒(板)でたたく音が響く。乱声乱打(らんじょうらんだ・・こちらでは「らんせい」と言われていた)である。

はじめに火天(カッテ)役による「火伏の行(ひぶせのぎょう)」。桶にはめ込まれた大きなたいまつを空に向かって水の字を書く。最後にそれを天井高く差し上げた。

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鬼走りが始まる。たいまつは佐役(スケ)が持ち上げる。斧を持った赤鬼がともに現れ、スケから松明を受け取る。

片腕,片膝でたいまつを受け取った赤鬼は,天空に向かって斧を構えて静止し,火の粉を振りまきながら正面戸口に歩を進める。

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続いて青鬼。さらに茶鬼である。そろって静止した後は順次下がって、堂内を阿弥陀如来を廻る形で周回して、あらためて右手から登場する。こうして堂内を三周して、行は終わりである。

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残されたお面の裏には文明18年(1486年)の文字が残されていることや、安永2年(1773年)の村鑑明細帳には、現在と同じ所作が記されているとのことで、行事の歴史の裏付けもあるのである。

道路事情が劇的改善で、奈良盆地から五條へはとても早くなった。五條西インターチェンジから降りて、一キロもいかない上野公園の駐車場が公的駐車場で、こちらからはマイクロバスのピストン運行である。お昼過ぎから完全に終了するまで随時に運行されていて、とても便利である。混雑するお寺の駐車場に入る必要はない。地図を参照。

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奈良県下で、国が指定した重要無形民俗文化財は以下のとおりである。

題目立
春日若宮おん祭の神事芸能
十津川の大踊
陀々堂の鬼はしり
奈良豆比古神社の翁舞
吉野の樽丸製作技術
江包・大西の御綱(以上、指定順)

大和の神々』(奈良新聞社1996年)参照




by koza5555 | 2018-01-15 14:43 | 吉野 | Comments(0)

十津川 小原の大踊り

13日は十津川の大踊り。朝から十津川に入り、谷瀬の吊り橋、玉置神社、玉置山登山、果無(はてなし)を見学して、夕方から小原の盆踊りがおこなわれる第一小学校を訪れてきた。

小原の盆踊りは午後8時から12時まで。桜井からは2時間30分以上かかる。最後まで拝見して、帰れば午前3時・・

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十津川の大踊りは、1974年(昭和49年)に「無形の民俗文化財」の指定を受けた。

十津川は村々で盆踊りがおこなわれているが、小原地区、武蔵地区、西川地区の大踊りが指定されている。

曜日に関係なく、13日は小原、14日は武蔵、15日は西川である。

ヤグラには音頭取り、音は締め太鼓だけで、調子を取っていくようである。

今年も木曽節で始まる。十津川の盆踊りはほとんどが扇子踊りであるが、これは手踊り。

その後は串本節とかの民謡をもとにした「馬鹿踊り」、お杉口説、たばこ口説、天誅おどりなどの「口説き」の踊りが続けらる。

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これは天誅おどり。天誅組に絡んだ十津川の物語。少女のお話である。二人で向かい合った珍しい踊り。男女のことか、あるいは切り違えの姿か

10時、過ぎに「次は大踊り」と告げられ休憩に。

ヤグラに向かって太鼓を持ち、ばちを持った男たち。その後ろには女性が扇をもって並び、竹笹の吊り灯篭が4本(白赤緑の3色の紙を切った美しいもの)並ぶ。

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初めはゆったりと足踏みするような踊りである。「元歌」といわれる。

太鼓うちは、白・赤・緑の房の付いたバチで抱えた締め太鼓をたたく。


後半はヤグラの周りが一転する。太鼓は太鼓持ちがもち、激しく太鼓が叩かれる。

踊り子はヤグラを取り囲み、頭上で扇を振り、灯篭もちが外周を走り回る。

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民謡や口説きの時とは、ガラッと異なる激しい乱舞である。

これが大踊り、これが無形文化財に指定されている。

風流踊りの流れを引くといわれる。美しい大きな灯篭を作り、みんなが飾り立て、激しく太鼓をたたき、音頭取りもここぞとばかりに歌い上げていく。

素晴らしいの一言に尽きる。糸井神社のなもで踊りの絵馬を見たばかりだが、あの絵が彩色されて、音付きの動画に代わったとみても、言い過ぎではないだろう。

近世、盆地内で廃れた風流踊りは、こんな形で十津川に残っているんだろうなと感動する。


盆踊りは大踊りの後、数曲を踊って、最後はお決まりの「伊勢音頭」で、終了した。

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小原盆踊り、8月になると奇数日に練習、7日盆は休んで8日にからは毎日練習、12日に休んで13日に開催という日程とのこと。

今日、15日は武蔵、明日の16日は西川で開催される。

実施の主体はそれぞれ、小原踊保存会、武蔵踊保存会、西川大踊保存会となっている。

朝から十津川を訪れた。はじめは谷瀬

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谷瀬の吊り橋。高さ54m、長さ297m。

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世界文化遺産、中辺路・・果無の集落
「雲を踏み嵐を攀て御熊野の果無し山の果も見しかな」『 南山踏雲録』伴林光平である



by koza5555 | 2017-08-14 14:48 | 吉野 | Comments(0)

修験者の道 大淀町

大淀町に用があった。相談は早めに終わったので、大淀町を探索してみた。

吉野の入り口として大淀の役割は大きくなるばかりである。それは産業であり、医療であり、文化の継承である。今日はそんな難しい話ではなく、少し楽しく大淀の街道をか考えてみた。

大淀には、吉野川に沿っての東西の道があり、飛鳥から芋峠を越えてくる南北の道が知られているが、巨勢から入る修験者の道も良く知られている。今日は、これを歩いてきた(車で)。

修験者の道、吉野口から入ると、まずは今木(いまき)である。泉徳寺に接した蔵王権現堂。レリーフの蔵王権現が祀られているが、仁王門の金剛力士像がすごい。阿形、吽形で一対をなす3mほどの木像である。山門を守る金剛力士像は吉野郡では金峯山寺蔵王堂とこちらだけとのことである。
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ちなみにこちらの泉徳寺の門前には、高野山 役行者 一の行場と石碑が建てられていた。

今木がから車坂峠を上り詰めると(今は国道から500メートル以上の厳しい坂道を登る)石塚遺跡である。修験者たちが小石を一つ一つ持ち寄ったという伝承である。
石塚もツタが絡まり、青草が生い茂って、石塚には見えないけど・・・・
石を貼り付けたのではなく、石を積み上げたものらしい。
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吉野川沿いの鈴ヶ森行者堂。元の大淀病院の南にあたる。こちらの行場は石塚遺跡から移転してきたと言われた。6月1日は下渕行者講の護摩供養。解禁となる鮎の供養もするとのことで準備中だった。
こんなポスターで、「大峯登山一之行場」とあった。
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最後の柳の渡し・・・こちらも一之行場というか、靡(なびき)の最後、75番の靡とされる。
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一之行場があちこちにあったが、大淀は吉野川を前にして、「さあ、修行だよ」の場だからこそのことで、それぞれがそれぞれのいわれで、一番の資格があるんだろうとおもえる。
天工の具合で斜視は撮れなかったが、金峯山寺はあちこちから見えるのである。

最後に世尊寺跡(比曾寺)を訪れる。みやま大山レンゲ、季節的にはギリギリだったが、素晴らしい花をみることができた。八経ヶ岳、遠くになりにけるで、ここで楽しめた。
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大淀町の発行する、「歴史;文化遺産」、これは役立ちます。

by koza5555 | 2017-06-01 22:26 | 吉野 | Comments(0)

浄見原神社 国栖と国栖奏

国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。
早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し、朗々とした歌翁の声とともに、舞翁の振る鈴の音が冷えきった空気にこだまして、参拝の 人たちの胸に古代の息吹をよみがえらせてくれます。(吉野町HPより)

今年は、今日が旧の正月十四日、天武天皇を祭祀する浄見原神社において、国栖奏が執り行われた。

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舞翁の舞、「正月 エンエイ」の囃し言葉に合わせて、静かだが、軽やかな舞である

神官の先導に従って参進の笛を奏しながら舞殿に進み、まず楽器を神前に供え、一同十二人は着座し、神官の祝詞奏上に続いて一歌二歌を奏します。次に神饌台から楽器を下げて笛にあわせて三歌を唱和し、舞に移る。舞は舞翁が鈴と榊を持ち、歌翁の一人が(エンエイ)と囃し正月より十二月まで舞納め、四歌を奏して、最後に氏子と奉賛者の名前を読み上げ(御巡楽――おじゅんらくという)、素朴ながらも典雅な舞楽は終わります。(国栖奏保存会パンフレットより)


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舞翁、歌翁に続いて笛翁の参進


御巡楽では、奉賛者一人一人の名の読み上げに合わせて、間に「エンエイ」の唱和がある。エンエイとは遠栄(ウィキペディア)とも、延栄(『大和の祭りと芸能』)とも紹介されているが、長く栄よという意味だろう。

神社入り口に奉賛者の受付があり、僕も申し込み、名前を紹介していただいた。
最後の方で、「さいがこうざぶろう・・エンエイー・・・シャンシャン」で、とても幸せな気分に、思わず頭を下がる。

新撰は特殊である。
栗、一夜酒、うぐい、根せり、赤ガエルの特殊神饌が供えられる。壬申の乱の前、吉野に身を隠した大海人皇子(天武天皇)に捧げたものを模したものであろうか。
楽器が供えられるのもきわめて特殊で、そのいわれを知りたいものである。

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国栖奏の始まる前頃に吉野は激しい雪。またまたタイヤチェーンを巻く羽目に。この雪にも関わらず、参列者、参観者は多数。前には出れず


橿原神宮でも4月3日に奉納されるとのことである。国栖奏と久米舞でちょっとした話ができないやろうか・・・・
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by koza5555 | 2017-02-10 18:24 | 吉野 | Comments(0)

惣谷狂言と篠原踊り

1月25日に五條市大塔の惣谷は狂言を、篠原は踊りをそれぞれ氏神に奉納する。

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惣谷狂言、8曲のうちの一曲、かなぼうし。2017年1月25日

22日(日)ころから全国的に激しい寒波、吉野もその例をまぬかれず相当な積雪となった。
惣谷や篠原に入るには国道168号を経て、宇井から県道に入る。道が思いやられたが、今年の僕のテーマは「吉野の祭り」。これは外すわけにはいかないのである。

篠原踊り、惣谷狂言というが、もともとは両村とも踊りがあり間に狂言という形だったらしい。それがいまでは篠原は踊り、惣谷は狂言が残るということである。

25日は、惣谷狂言を見学した。県道に沿って登ると集落の上に天神社がある。この境内、舞台は拝殿というか、そんなところを開け放ち、カーテンを吊る。舞台の飾りは注連縄と「餅花」である

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注連縄と餅花


五条市のHPによれば
奈良県の無形民俗文化財に指定されている「惣谷狂言」は、古くから惣谷地区で正月の神事初めに氏神の天神社と円満寺の境内で奉納のために行なわれてきました。以前は篠原踊りと同様の踊りも奉納されてきましたが、現在は狂言のみが天神社に奉納されています。
惣谷狂言は明治40年頃から演じられなくなり、大正天皇即位の大典で大正4年に演じられて以来途絶えていましたが、大塔村史編纂を機に復活の気運が高まり、昭和33年に復活されました。以来保存会によって「鬼狂言」「狐つり」「舟漕ぎ」「万才」「壺負い」「鳥さし」「鐘引き」「かなぼうし」の8曲が伝えられており、毎年この内の1~2曲が1月25日に天神社で奉納されています。


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こんなパンフレットも配られた。惣谷の村の自前である


今年は「かなぼうし」が演じられた。
かなぼうしとはかわいい子という意味らしいが、かわいい子は出てこない。
和尚さんに寺を譲られた小坊主が村人にとんちんかんな対応をくりかえし、和尚さんが叱り飛ばすという筋書きである。かといって小坊主は、和尚さんの弱点もしっかり見ている、これがオチでもある。
せりふだけ・・・ことさらな演技はしないが味はある。

惣谷、たかだが10軒あまりの村である。この小さな村に在住する5名の方が演じられていた。

たき火に当たりながらの話ではあったが、「惣谷狂言と篠原踊りを一緒に演じられないか」などという話もされていた。「2回はできない」とか「隔年で順番に場所を替えて」とか、「それだったら神さまへの奉納ではなくなり、意味が変わる」などと意見が交わされていた。

惣谷でも継続にはそれなりの困難さがつきまとう。「よその応援を得るような延命はダメ。できなくなったら終りでよい」と言い切る人もいたりしていた。

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惣谷狂言の日程は午後一時から天神社の神事。その後、着替えなどの支度があり1時50分ほどから8分間くらい演じられた。
その後、するめとお酒の直会、さらには餅まきである。僕も福をたくさんいただいた。

さて、篠原踊りは・・?
篠原踊りは雪のため今年は中止となった。「踊り手が上がってこれない」とのことだった。これはこれで、こんなこともあるだろう。

こんな雪だった・・・・写真は・・・・

篠原踊り、惣谷狂言は奈良県指定無形民俗文化財に指定されている。

途中で撮った賀名生の皇居跡。堀家である
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by koza5555 | 2017-01-25 22:22 | 吉野 | Comments(0)

十津川

9月の末に十津川にドライブ。同行は中国のサルルちゃんとその友達。

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谷瀬の吊橋

サルルは二年ほど前から室生寺や長谷寺、さらに宇太水分神社などを案内してきた国際的(?)な友人。にサルルは日本語は達者なんである。

6月頃に「9月の末、十津川に行けますか?」とメールが入った。
僕の日程上の安全パイは月曜日、「9月28日なら」と約束ができあがった。民生委員の研修旅行と重なりかけたりその後のも紆余曲折はあったが、何とか折り合いが付いて十津川行きが実現した。

行程は
桜井駅に午前7時集合。天辻に9時、谷瀬の吊り橋に10時。谷瀬は40分くらいみて、十津川の道の駅で昼食、果無で小辺路を見て、歩いて、最後は玉置神社の拝観とした。
帰りはずっと北上、下市経由で橿原神宮前駅にて午後7時に解散という計画である。
車は僕が用意した。

十津川村は紀伊半島の中央にあり、山岳の重なり合う都会とは隔離された山村。平安時代(1172年)には、遠津川(とつがわ)と書かれたという。 今も昔も十津川は遠かった。

村を流れる十津川はV字形の谷をなして南に流れて太平洋にそそぐ。
十津川(玉置神社)には「枕状溶岩(まくらじょうようがん)」がある。深い海の底から噴き出した玄武岩質マグマが固まったできたもので、今の紀伊半島は南から押し上げられ、隆起してできあがったことが示されている。

「大和十津川ご赦免(しゃめん)どころ 年貢要らずのつくり取り」と江戸時代の民謡に詠われたように、税金がないことが有名だが、コメができるほどの水田(平地)がなかったというのが実態でもある。そして村では今も米の自給ができない。

谷瀬の吊り橋、長さが300m、高さが54mあり、歩行者用の吊り橋としては日本一の長さである。1954年に800万円かけて架橋した。谷瀬の村人が一軒あたり30万円を出しあってされる。
八木から出る奈良交通の特急バスもこちらは20分のトイレ休憩があり、吊橋の入り口までは散策できる。

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谷瀬の吊り橋。時間をゆっくりとった

果無の集落まで行ってきた。小辺路を見て、歩いてみたかった。
「大峯奥駈道」と「小辺路」(こへち)は「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産(ユネスコ)に登録(2004年7月)されている。
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世界遺産の巡礼路は二カ所だけで、
一つはピレネー山脈を越えてフランスからスペインへの「サンティアゴ巡礼道」。
一つは「紀伊山地の霊場と参詣道」となっている。

玉置神社(たまきじんじゃ)は、玉置山の山頂直下に位置し、大峯奥駈道の中継ポイント(なびきという)の一つである。

玉置神社の社務所は江戸時代末期、神仏混淆であった玉置神社の別当寺であった高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、神仏分離後は社務所・台所および参籠所として使用されている。

この社務所内部が杉一枚板の板戸及び板壁60枚余で仕切られ、この全ての襖に幕末の狩野派の絵師である法橋橘保春らの筆による、松・牡丹・孔雀・鸚鵡・鶴などを題材とした花鳥図が描かれている。

社務所内は前回までは撮影ができたが、今回からは撮影禁止となっていた。
拝観は解説つきで、おもしろいお話も聞いたが、聞き質さなければならないほどの話もあり驚いた。

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大杉の巨樹群は奈良県の天然記念物。温暖多雨の気候と土壌に恵まれ、樹齢3000年と言われる神代(じんだい)杉や、常立(とこたち)杉、磐余(いわれ)杉などの杉の巨樹林が残されている。
社務所上の常立杉が激しく傷んでいた。今年の夏の風とのことである。

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最後はホッコリ十津川温泉の足湯
42度はありそうというアツアツで、疲れがとれる。

中國からの観光客十津川に突入で、皆さんも冬が来る前に、ぜひぜひお出かけくださいと・・おすすめしたい。
by koza5555 | 2015-10-11 05:56 | 吉野 | Comments(0)

吉野の桜はシロヤマザクラ

明日は吉野の桜である。

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金峯神社、参道右手の一本桜。今年も立派に咲いていた。

参加者はおよそ30名、電車で吉野駅前に集合する。
黒門、銅の鳥居、ひょうたろう、蔵王堂という順路である。
ひょうたろうの柿の葉寿司は予約済みだが、行程の関係で往路で受け取る。

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銅の鳥居前のひょうたろう

勝手神社前の坂本屋で昼食である。
座敷を借りた。ご主人は「桜はないよ」と言われるが、それは承知済みで雨とかトイレとかの対策の貸座敷である。今後の参考のために、こちらは一人300円で割安である。眺望は素晴らしい。柿の葉寿司などもこちらで求めることができる。

食事を済ませて、竹林院付近のマイクロバス乗り場に並ぶ。待ちを一時間半ほど覚悟している。意見も出るだろうが、出足がゆったりの今回は、この方法がベストだった。
金峯神社前の駐車場に着き、西行庵まで歩く。

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これが奥千本のシロヤマザクラ(昨日、4月16日である)である。昨年と比べても3日くらい早いかも。

ツアーの工夫はここからである。
自信のない方は再びバスを待って山を降りる。40分待ちの20分で竹林院である。
歩いて降りる方法も考えている。吉野水分神社、花矢倉と寄りながら、一時間余りで下ろうと考えている。

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16日の吉野水分神社

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花矢倉からの眺望、蔵王堂


竹林院まで下りたら、中千本バス乗り場から吉野まではバスで向かう。
このバスが不思議と空いているのである。


「まず若芽が出て、後に花が咲く、赤芽・茶芽・黄眼・緑の色と白い花の色がマッチした美しさは例えようがない美しさである。吉野の桜はそんな、白山桜である」。

奥千本は16日くらいが満開だろうが、花も芽吹きも共に楽しめるわけで、いわば「粘り強い」。楽しんでいただけること確実である。

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上千本の葉桜。16日

吉野山の桜、誰が植えたかを語りたい。南朝をたたえ懐かしむお話である。  
伝承では、吉野の「桜山」形成の起源は、「2説ありとされ、一は天武天皇の勅裁とし、一は役小角の植樹となす」とされている。
後醍醐天皇の御陵守護の南朝の武士が植え始めたという論も有力である。
それは、南北朝の統一以降、南朝の遺臣が地下人(じげにん)として吉野に留まり、如意輪寺の桜植樹を行い、さらに地下衆の経済的手段となり、寄進という宗教的名目も付加した(中岡清一氏の吉野名所誌)との論も捨てがたい。

ひょうたろうのお寿司も楽しみである。

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「二日目が一番おいしい」が柿の葉寿司のひょうたろう。
熊野の鯖を浜塩にして、「しょっかろう(塩辛ろう)」にして、薄く切り、ご飯に載せて柿の葉で包んだものが「柿の葉ずし」である。 すし桶に入れ、重石をして2~3日、サバの塩気や旨味がご飯の甘みと馴染むころ、まろやかで優しい味となる。そんな柿の葉寿司を参加者分、予約している。

準備は着々である。天気も良さそうで、明るく楽しく吉野の桜、案内できそうである。
by koza5555 | 2015-04-17 16:05 | 吉野 | Comments(0)

吉野山と西行庵 白山桜 

吉野山の花は白山桜である。

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「花の風景」。千田稔さんである。
上田正昭先生の編著の「吉野―悠久の風景」に、千田稔の「花の風景」が入っている。

「西行にとって吉野の桜とは」、これが解説されている。

まず、「古来、桜の木は聖なる木としてあがめられた」として、
「蔵王権現は桜の木で彫られたという伝承」、
「木花之佐久夜(このはなさくや)ひめの、『木花』は桜の木のこと」、
「宮の名前に桜という言葉(履中)が使われた」などをあげて、「桜は聖なるものと信じられていた」が、冒頭である。

歌で言えば、吉野の桜は万葉集にはなく、やはり西行からである。
西行がいつ吉野山で過ごしたか、それは不明だが、たびたびこの地に庵を構えたことは明らかで、「吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花散りなばと 人や待つらむ」である。
西行は吉野山を共にあり、40首もの歌を詠んでいる。

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西行庵

千田稔は、まずは前登志夫を引くのであるが、前登志夫は「西行の桜への異様な執着」と表現し、「西行の桜の歌は、美しくのどやかな雅の趣向ではなく、むしろ息苦しい魔をはらんでいる」とさえ言われ、注目を集めた。


西行の吉野の桜への思いれは、「これは西行の心のなかにある文学者としての資質そのものではないか」と断じ、前登志夫に激しく共感をするのである。

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吉野の桜である。
「まず若芽が出て、後に花が咲く、赤芽・茶芽・黄芽・緑の色と白い花の色がマッチした美しさは例えようがない美しさである。吉野の桜はそんな、白山桜である」(宮坂)。

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苔清水

芭蕉は西行の「とくとくと落つる岩間の若清水 汲み干すまでもなきすまひかな」の歌を、歌枕に「露とくとく 心みに浮世すすがばや」と詠っている。

吉野山は歌の山で、万葉集、古今集・古今和歌集をはじめとする勅撰集に600首くらい掲載され、桜の歌も多い。

さて、吉野山への花見も吉野参りという。それは花見と共に蔵王堂への参詣を欠かさなかったからとのことである。「桜も見れた、さあ帰ろう」という具合にはいかなくて、トコトン吉野の桜、拝見する予定である。
by koza5555 | 2015-03-17 00:56 | 吉野 | Comments(0)