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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:桜井・初瀬( 63 )

除蝗祭

奈良まほろぼソムリエの会のHP7月の歳時記は小夫(桜井市)の除蝗祭を紹介した。

7月 小夫(おおぶ)の除蝗祭(じょこうさい)

小夫(桜井市東部の山中)の天神社は、7月22日に除蝗祭(じょこうさい)を執り行います。イナゴの害を取り除く祈祷が行われますが、その日は祭祀道具の虫干し、日干しで境内が満艦飾となります。田植えを終えると虫の害を心配し、風水害をおそれ、疫病の根絶を祈る行事が各地で行われます。(雑賀耕三郎)

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桜井文化叢書(2)に小夫(桜井市)の小夫の除蝗祭が紹介されている。

毎年722日の土用三郎の日に除蝗祭を行う.この祭りは苗を本田に植える稲に夏土用の季節に蝗の害することがある。蝗の害を除くために氏子が戸数毎に長い葉の付いた竹の葉さき(俗に一万度という)に五色の紙を結びつけ社頭に持ち寄り五穀成就を祈念する祭の一つである。これは当神社(桜井市大字小夫 天神社)の昔ながらの祭典である。

除蝗祭祈祷御神札

奉祈念皈命風天子稲病速除五穀成就(攸田毎に麻柄に挟みて立つるものとす)

奉御祈祷五穀成就就災除家内安全幸福延命祈所(戸毎の門口に貼付くるものとす)

以上は昭和36年(61年)の記録で、このすべてが続いているわけではない。

今では、各戸からの五色の紙を結びつけた竹竿の持ち寄りはなくなったが、境内には竹竿が立てられ、五色の吹き流しが立てられている。

座布団、法被が境内で天日干し。社務所の中では祭具の手入れも行われ、土用に入っての三日目(土用三郎)、豊作祈念の行事だが、暑さに負けないとか、曝涼の意味もあるように思われる。


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小夫の天神社。本殿脇の石灯籠は嘉暦の銘があり、14世紀のものである。

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けやきの巨樹もすごい。高さ30メートル、幹周り8.5メートルもあり、桜井市では一番の巨樹とされる。ここが元伊勢との伝承もあり、ぜひぜひのお参りをお勧めするが、車は必要である。

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by koza5555 | 2019-07-01 14:47 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

三谷の寝地蔵

小夫(桜井市上之郷 桜井市の東部の山間部・巻向から上がる道、初瀬から上がる道がある)に用があり山登りである。もちろん車だが。

久しぶりにもう一つ奥の寝地蔵に参ることにした。

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こんな掲示が出されている。

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全文を書き出してみると。
寝地蔵  花崗岩 摩崖仏     三谷(上之郷)小字 下の佛

鎌倉後期 延慶(えんぎょう)2年(1309年)

「願主 藺生(旧都祁村)庄住人裕 禅浄覚坊 延慶二年 己酉6月24日造之」


信仰

大昔から「三谷のネンドさん」という愛称にて親しまれてきた。特に腰痛に霊験があらたかだったので近在の人々の進行を集め今もお参りする人がたえない。


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参考 寝地蔵の右にいつの時代からかもう一体のお地蔵さんが立つておられる。「建武二年(1335年)乙亥 10月24日云々」とある。割れ残った摩崖に阿弥陀如来が追刻されたらしい。


伝説

昔大男あり、寝地蔵を起こそうとしたが駄目だった。最近まで其の力持ちの足跡が右の田一枚に大きなわらじの形として残っていたが、今は杉が植林されている。

三谷村 寝地蔵奉賛会」


車が必要です。小夫(小夫)から三谷へ上がるコース、案内看板がアチコリにあます。

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上之郷(小夫とか三谷とか)まで、上がると、田んぼはふさふさ、水は見えない。



by koza5555 | 2019-06-22 16:51 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

藤原京から阿騎野への道

6月に「桜井市をテーマに万葉集」のお話をする。

「桜井の事なら何でもよいよ」と鷹揚なリクエストだが、「ただし、みんなが知らないような話を」と言われるのである。そこで初瀬をテーマに話すことにした。

持統天皇6年(692年)、阿騎野をうたった柿本人麻呂の歌がある。

超有名歌である・・。

東(ひんがし)の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月 西渡(かたぶ)きぬ  巻1-48 

 

「阿騎野だから桜井じゃない」という声も出そうだが、先立つ長歌があり、それにつづく短歌なのである。

ここに初瀬が出てくる。

「京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を」とあり、初瀬を通過している。

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藤原京から大宇陀に向かうならば、忍阪から女寄(みより)峠の国道166号線が現代の道だが、古代では初瀬街道を経て出雲から狛、笠間に抜ける峠道が使われていたようである。しかもこの道はつい最近まで実用的な道だった。後でも触れる野淵龍潜の『大和国古墳墓取り調べ書』に狛の村が出てくるが、いかにもこの村の絵は街道風だし、戦後になっても榛原町の笠間の中学生は朝倉中学(当時は現在の朝倉小学校にあった)に通ったとのことで、通る道はこの道である。

それで僕も、長谷寺駅から笠間まで歩いてみることにした。

初めは出雲の野見宿禰墓、その前身の古墳

次は狛の大石古墳

峠を越えて笠間の新陽明門院墓

最後に花山西塚・東塚古墳である

柿本人麻呂が確実に見たのは野見宿禰墓(古墳)と大石古墳である。

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野見宿禰墓。もともと古墳だったことは間違いない。狛・岩坂の谷の入り口にあり、この古墳群の盟主的古墳だった可能性を感じる。

鎌倉時代には長谷寺の支院が置かれ、その頃に五輪塔が建てられた。五輪塔は古墳が解体される明治の初めに出雲の十二柱神社に移された。

宿禰塚の周囲の田植えは直前である。あぜ道には石室に使われていたとみられる大小の岩が使われている。

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近鉄のガードを越える狛の村である。この道を上っていくと、左側に大石古墳が残されている。山口家の石垣の下に横穴石室の玄室の一部だけが保存されている。明治18年のころの状態は『大和国古墳墓取り調べ書』に記されていた。

狛村の中央に位置していた小字「弓場辻の古墳」と書かれており、宅地に古墳が取り込まれるときに石室が保存された。「地元の思い、自力で守られた古墳」である。

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狛の村を登りきると、「ひだりは嶽(だけ)」、「右は笠間」の道しるべがある。

盆地から見ると嶽山は外鎌山の後方に見え、大きな存在感である。長谷寺の舞台から見ると正面に見える大きな山である。

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さて・・・「真木立つ 荒山道」である。

振り返ると三輪山が見える

道は

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笠間に出た。「真木立つ荒山道」はこれだけだが・・歩かねばわからない話もあった。

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笠間の陵を拝見する。新陽明門院墓である。

南朝、後醍醐天皇を継いだ後村上天皇(97代)の中宮顕子の陵である。顕子は北畠親房の娘で、若くして天皇の

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もとを去り長谷寺で出家、その後、この地で亡くなったとのことである。

笠間に来るならば花山塚西古墳は必須かも。

石槨の左側には扉の軸穴があり、扉石は前に倒れている。この扉が持ち出されて小学校(朝倉村笠間小学校・現在は宇陀市で廃校)の沓脱石になっていたとことである。大正時代(1925年)には戻されている。

小学校の沓脱石に古墳の石を持ち出せるのだから、当時は笠間村の領地だったと思い浮かべることができる。

榛原の安田(ここも元磯城郡朝倉村)まで下がると嶽山古墳というすごい横穴古墳があり、石室の入室は不能だが、これもすごい古墳である。


やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷しかす 京を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根の 楚樹(しもと)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かきる 夕さりくれば み雪ふる

阿騎の大野に はたすすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしえ思ひて 巻1-45

阿騎の野に 宿る旅人 打ちなびき 眠()も寝らめやも 古(いにしえ)思ふに巻1-46

東(ひんがし)の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月 西渡(かたぶ)きぬ  巻1-48

         以上 『新訓万葉集』(佐々木信綱)による


by koza5555 | 2019-05-22 13:11 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ワカタケル大王と稲荷山古墳

トリップアドバイザーが、「日本の人気の古墳トップ10」を発表している。2010年~2015年にかけて、旅行者の口コミ投稿を集計して算出したという。ベストファイブは

  1. 石舞台古墳(奈良県)

  2. 西都原古墳群(宮崎県)

  3. 五色塚古墳(兵庫県)

  4. さきたま古墳(埼玉県)

  5. 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)(大阪府)

である。いろいろな異論もあると思うが投稿数などで決められるだろうから、おもしろさ、展示の整備方法、公共交通機関や駐車場などの行きやすさなどが総合的に関係して、こんな順位なんだろうか。

このうち、「西都原」と「さきたま古墳群」に僕は訪れていなかった。

いま、ワカタケル(雄略天皇)を考えている僕は、とりあえず、さきたま(埼玉)古墳というか、なかでも稲荷山古墳を訪れなくてはならない。しかも展示施設には稲荷山鉄剣が常時展示されているとのことである。一月に東京の奈良まほろば館の講演当番となったので、そのあとに訪れてみた。

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    さきたま古墳群稲荷山古墳

上野から高崎線。一時間ほどで行田である。一日、4本のコミュニティバスが出ているが、時間が合わなかった。それで往きがタクシー、帰りはバスということとなった。参考までにタクシーは2200円程度、バスは150円である。ちなみに古墳群には大きな駐車場があり、特別なイベントでなければ駐車は問題がない。

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「さきたま古墳公園」には、9つの大きな古墳が残されている。


墳丘に登れる古墳は稲荷山古墳と丸墓古墳、墳丘には登れないが石室が復元されて当時の埋葬状態が見学できるのは将軍山古墳である。

まずは、稲荷山古墳から発見された鉄剣が展示されている博物館に入る。古墳群から出土した遺物が展示されている。稲荷山古墳から出土の遺物の金錯銘鉄剣は、この博物館で常に展示されている。ボランティアガイドは「どこにも貸し出さない、出陳はない」と断定される。大事にされているのだ。

1968
年に出土、金錯銘鉄剣のほか、画文帯神獣鏡や勾玉(まがたま)など一括して国宝に指定されている。


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「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)

この稲荷山鉄剣の解読からを経て、江田船山古墳の鉄剣も併せて解明された。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣の「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)、または水歯別命(古事記)と推定されてきたが、稲荷山古墳の鉄剣銘により、読みが、ワカタケル大王と確定した。


ワカタケルの時代に大和王権の支配(影響力)が関東平野まで、西は熊本に至るまで広がっていたことが確実となった。

ワカタケルは宋書で記される「武」(大泊瀬幼武尊)とみられる。この雄略天皇が宋に送った上表文には、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと))を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と、宋の昇明2年(478年)の条に記されていて、西暦年代で確定された古代の英雄である。

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ワカタケルの宮は桜井市の初瀬朝倉宮。奈良盆地から東への出口であり、いまはコンビニとなっている駐車場の下に、ワカタケル大王の時代(5世紀)の柱穴、石垣が残されている(第18次調査。2012年)。山側、東北に春日神社の社叢が見えるが、そこらあたりにたたずむと、ワカタケルの歩いた道、ワカタケルの見た景色である。
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ワカタケルの時代には梅はなかったか。
脇本・黒崎辺りの長谷川沿いには美しい梅の花があちこちに。





by koza5555 | 2019-03-11 14:12 | 桜井・初瀬 | Comments(2)

雄略天皇 稲荷山鉄剣と脇本遺跡

雄略天皇をクラブツーリズムの「第5回古事記ツアー」のテーマにした。

        

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まずは稲荷山古墳の鉄剣である。今更であるが、勉強しなおしてみた。

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鉄剣の銘文発見はインパクトがあった。

「東国だけでなく、九州も同じ雄略のとき、ヤマト王権のもとにちゃんとおさまっている光景なのです。これは倭王武の上表文の在来の明治以来の通説と全く同じであって、その点で、私は通説が支持されたと直感しました。しかも通説は文献だから間接的だけれど、実物で証明されたというのが、私の印象です」(p19  井上光貞)

稲荷山古墳(埼玉県)から鉄剣が出土。その内容が元興寺文化財研究所で解読されたのが1978年である。昭和の時代やなぁ・・・

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稲荷山古墳。埼玉県の川名さんにいただいた。丸墓山古墳から桜の時期に撮られたとのことである


表「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣」などと刻まれ、

裏「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」

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併せて、熊本県の江田山古墳の鉄剣も銘文の解明もすすんだ。

明治6年(1863年)に発見された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と推定されていたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、読みはワカタケル大王に確定した。

中国南朝の宋(420 -479年)の歴史は『宋書』に書かれているが、 その中の「宋書倭国伝」に倭国が記される。昇明2年(478年)の条には、倭王武が紹介されている。


 倭国の雄略天皇が宋に遣わした使節が携えた上表文に、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと)など)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」とされている。この内容が、「モノ」によって証明されたということである。


稲荷山古墳の鉄剣の銘文の「辛亥」(かのと しんがい)は西暦471年か531年。

宋書には478年という年号があり、ワカタケルの実在性、それも何時生きたか、活躍したかが疑いない形で明示されたのである。



ワカタケルは面白い。ワカタケルは刺激的である。

古事記や日本書紀がどう書いたか、エピソードはてんこ盛りである。

それに見合う形で宋書(中国)は雄略天皇を取り上げている。倭の五王のうち「武が雄略天皇」であるとすると、雄略天皇は絶対年代(西暦の)がわかる初めの天皇ということになる。

『日本霊異記』、『萬葉集』の冒頭は、これも雄略天皇なのである。

また、雄略天皇が生きた5世紀末、『記紀』が示している「朝倉の宮」あたりで、宮に匹敵する建物跡が発掘されている。脇本遺跡という。時期的、規模的に雄略天皇の宮跡とみることができる。

「シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本」(新潮社)。古い本だが、たくさんの勉強をすることができた。読書感想文にならないのだが、「実物で証明された」が結論である。

クラブツーリズムの「古事記でたどる大和の旅」はあと2回である。ぜひ、おいでください。
第5回は16日(土)と20日(水)「古代の英雄!略天皇」。
最終回の第6回は7月18日(水)、21日(土)で「古事記の女性たち その愛とたたかいから学ぶこと」である。




by koza5555 | 2018-06-14 10:21 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ワカタケル大王のツアー

クラブツーリズムの『古事記』で巡る大和の旅、第5回は「古代の英雄!雄略天皇」である。

616日(土)と20日(日)、2回の計画だが、いずれも出発が確定した。


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地元、朝倉郵便局(桜井市)の限定絵葉書、ワカタケル大王


雄略天皇、ワカタケル大王を奈良県でたどってみるのであるが、脇本遺跡(桜井市)とか、一言主神社(御所市森脇)は、誰が考えても必至、その上であれこれ工夫して一日コースを作り上げた。
面白くて、バスが入れて、ご飯を考えて、お土産が帰るところを考える。観光化されていない神社や史跡を回るから、トイレの確保も大切である。

さて、ワカタケル大王まで来ると、残る史跡が具体的になってくるから、緊張もするし、面白さも広がり深まる。

ワカタケル、どういう人か。

従弟や遠縁の皇子・王をとにかく、殺し、焼いた。きわめて残酷であるが、ちょっと考えれば、大和王権と葛城氏族の激しい戦いもその中に透けて見えていて、歴史の一つの必然である。


極楽寺ヒビキ遺跡出土の柱穴から想定された屋敷の姿

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ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』に詳細に紹介されている。

それだけはなく、ワカタケルは中国の史書に紹介されている。宋などの史書に紹介されている倭国の5人の王のうち、武はワカタケルとされていて、それが西暦の479年ということである。絶対年代が明白な古墳時代の天皇である。

「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と上表してきたと、明瞭である。

さらにすごいのは、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣」(1978年)である。

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)


稲荷山古墳

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出土した鉄剣

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江田船山古墳の鉄剣もすごい。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と間推定されてきたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、ワカタケル大王に読みが確定した。

文字通り、東に西である。


さらに宮として、脇本遺跡が推定されている。2012年の現地見学会では、5世紀末の石垣、建物跡が発掘・紹介されていて、この遺跡5世紀末から、6世紀、7世紀に至るまで使われていたことが明白となった。

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これは脇本(桜井市)の春日神社。ここ辺りを掘ると、宮の跡が出てくるのでは・・と言われている。

古事記・日本書紀、中国の史書、鉄剣に刻まれたワカタケルの名、宮跡と推定される遺跡の存在がある。

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ていねいに資料を作り、ていねいに語れば、今度のツアー、このシリーズで最高の評価が得られると確信している。616日、20日は楽しみである。




by koza5555 | 2018-06-03 23:49 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

長谷寺、大観音大画軸大開帳

長谷寺と十一面観世音菩薩像の原寸大の大画軸が開帳されている。1646センチメートル、横が622センチメートル。画軸であるが重さも125kgあるという。

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軸がは正面に観音菩薩像が描かれ、向かって右には難陀龍王、左には右宝童子が描かれている。

「大きな御影は、室町時代・明応4年(1495年)に罹災した本尊の復興の為に、興福寺の南都絵法眼清賢が高野髪430枚を継いで設計図として描かれたことに由来します。江戸時代に入り、長谷寺本願院65世秀海上人は寛文5年(1665年)に大阪堺の篤信者より信施を受けて、日本最大のこの大画軸を仕立てた」(長谷寺配布資料)とされている。

長谷寺の十一面観世音菩薩は729年、沙弥徳道の指揮のもと稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)によって造仏されたとし、開眼供養の導師は行基(菩薩)とされている。この、十一面観世音菩薩像は、極めてたびたび、火災に伴い焼失を重ねている。

いずれも記録が残されているが、健保7年(1219年)の安阿弥、快慶の手による再建は画期的である。御頂仏まで三丈二尺三寸、1213センチメートルの現在の姿は、この時以来と思われる。


巨大な仏像は、平安時代の末ころからの寄せ木細工という彫法、彫刻ができて作れるようになった。外からはうかがい知れないが、
2本の心棒は下の台座に挿しこまれており、その上部に2本の心棒が前後に入れられ、頭部をささえており、また、この心棒に寄せ木が取り付けられている。

その後も罹災は度重なり、明応4年(1495年)11月、堺商人の大きな喜捨により復興成就。この時に興福寺の清賢による指図が作られたとされる(この図がその後、画軸となり今回公開されているもの)。

さらに天文5年(1536年)6月に兵火にかかり焼亡。二年後の天文7年に造仏、こちらが現在の観世音菩薩像である。

画軸は1495年。菩薩像は1538年ということである。

ぜひとも、拝見していただきたい。この会期は531日までで、大講堂で展示されている。
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拝観料とは別に
500円(合計1000円)が必要だが、普段、拝見できない大講堂に入堂することができる。



今回は撮影も許可ということで、撮影用のグッズも用意されているという破格の対応で、これが楽しみである。

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◆十一面観世音菩薩の罹災(火事)、再建の歴史は、「豊山前史」(永島福太郎著、昭和37年)、「長谷寺の仏教芸術」(豊山春秋5 平成2年)などに詳しい。


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by koza5555 | 2018-03-31 22:41 | 桜井・初瀬 | Comments(2)

五輪塔と 出雲の野見宿禰五輪塔

またまた、出雲の話題である。


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出雲には広々とした段々畑が

出雲の十二柱神社には野見宿禰を祀るという五輪塔が残されている。

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「南300mの出雲の塔ノ本に所在していたのを明治20年(1887年)、神社の手洗石の場所に移し、昭和30年に現在地に再移転した」とし、「長谷寺僧が弥勒仏下生の地を想定して造建したが、願主は20体の梵字仏に意匠を凝らしていて特殊な信仰をあらわすものと思われる。大きな岩から手造りした雅趣ある造作に風格がる。野見宿禰の墓という伝えは出雲に結び付いたものである」(桜井市史上p916


この石塔、「五輪四面に単独梵字仏20体をあらわす日本で唯一つの珍しい古塔」と太田古朴は『大和の石仏』で記している。


「一番下から

地輪(方形)は四天王。

水輪(円形)は金剛界四仏。

火輪(笠石)は薬師仏と釈迦、十一面観音と地蔵で

風輪(受花)は不動、弥勒、一字金輪、文殊

空輪(宝珠)は両界大日如来、観音、南面は宝篋印塔」との記述である。

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以上は『桜井市史』

「日本で唯一」とはただ事ではない。「普通の五輪塔とは何が違うのか」である。


五輪塔は『大日経』などに示される密教の思想の影響が強くて、下から「地(ア )、水(バ )、火(ラ)、風(カ )、空(キャ )」の梵字による五大種子(種字 しゅじ)が刻まれる。

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下から読むと、アビラオンケン(ソワカ)で、これは大日如来のご真言である。

五輪塔は、地・水・火・風・空で、宇宙と大地を司る大日如来と一体化を目指す塔だった。

こんな風に見ると、出雲の五輪塔との差が、なるほど、なるほど理解できた。出雲の五輪塔は大日如来の御真言ではないのである。


一方、この大日如来の梵字は出雲ではいつでも見ることができる。
出雲には庚申塔華の行事がある。庚申の日、願人は「奉 青面金剛童子 村内無事 家内安全、五穀豊穣、如意吉祥 修」と刻んだ樫の木を持ち寄り、僧侶に梵字の記入を受けてから法要が始まる。

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この樫の木の記されるのが大日如来のご真言、五大種字である。

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出雲の庚申塔華


出雲の五輪塔には、向きが違うとか、刻み間違いがあるなどの飛び切りの裏ネタもあるが、それはそれで触れ方が難しいし、その具体的な姿が示せれなくては反感が出るだけである。


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こんなダルマ落としみたいなブロックを作って、倒したり、回したりして考えている。


出雲の講演会。「出雲と初瀬谷  記紀万葉と今」は、出雲の十二柱神社境内、出雲農村集落センターにおいて、210日(土)午後130分からである。ぜひ、おいでください。参加費は無料です。



by koza5555 | 2018-01-26 22:23 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ダンノダイラ(桜井市出雲)


出雲(桜井)には出雲人形、十二柱神社の五輪塔があり、長岳寺石工僧 善教の作とされるお地蔵さん(知福寺)など、興味深いものをあれこれ書いてきたが、今までに書いてないのは「ダンノダイラ」である。


ダンノダイラ、出雲から北の山を見上げる。三輪山から長谷山にかけての稜線のすぐ下に大きな平たん地があり、磐座があり、古代の生活と祭祀の遺跡が残されている場所である。



ここはちょっと避けてきたのであるが、出雲を語ろうとすると避けて通れないわけで・・・登ってきた。

ルートは二カ所。出雲の集落から歩いて登る方法がメインルート。健康的である。標高差は350mである。

あと一つは巻の内から車で奥不動院まで車で上がる方法である。道はちょっとすごい。会うことはほとんどないが、対向車があれば大変である。

今日は車で上がった。

奥不動院の駐車場に停める。

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奥不動院を抜けてそのまま三輪山から長谷山への稜線まで登る。稜線に上がったら左へ。ダンノダイラの看板はある。30mほどで二又に。右へ進む。そのまま200mくらいでダンノダイラに到着。

大きな平たん地。杉林である。右側はクヌギ林。「クヌギの林は山肌を崩さない」と、このクヌギの山主の西野さんは言われていた。

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初めに磐座に。

三段に分かれている。

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これが一段目。

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これは三段目である。

幅は5m以上。土の埋もれたところは判らないが、三段、全体の高さは15mくらいはあるだろうか。


素晴らしいの一語だ。

サークルストーンもある。

平たん地の真ん中あたりに割れ目。こんな頂上近くだが、水が今日も流れていて、しっかり浸食されていた。

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出雲村に残されてきた古い絵図には「段ノダイラ」とされている。


大昔の出雲村は”ダンノダイラ”にあった

明治の初め頃まで、毎年、年に一度、村中の者が『ダンノダイラ』へ行って、昔の祖先を偲んで、そこで弁当を食べたり、相撲をしたりして、一日中遊んだもんだー(村の山登りの行事は、嶽山でこれとは別)

それからその『ダンノダイラ』の東の方に、大きい岩があって、それを拝んだソーナ

出雲の氏神さんは本殿はなく、出雲村から真北の方向にある大岩――その岩を拝んだソーナ。年寄りからよく聞かされたモンだ
西脇翁からの聞き取り
    『大和出雲の新発見』(栄長増文著)より

出雲にとって、ダンノダイラは心の故郷というべきものなんだろう。



by koza5555 | 2018-01-20 21:29 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

出雲城跡 桜井市


26日(土)に出雲(桜井市)で講演する。出雲区の「相撲開祖 野見宿禰顕彰会」の主催である。

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十二柱神社、狛犬を支える力士像

初めに出雲城の縄張り図を見てほしい。城の前面からはとても坂がきつくて無理。尾根から下がってくる形(北から南へ)で城跡に入る。

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出雲の方に出雲の話をしようという無謀な企みである。ネタ作りに苦労しているのである。


そこで今日は、戦国の時代の出雲城跡にチャレンジ。ところが、行く方法がわからない。そこで先々代の出雲区長の西野さんと、先代の門脇区長に頼んで探索してきた。

十二柱神社から白河(しらが)へ行く、峠越しの道がある。出雲区の共同墓地をすぎて、ダンノダイラと白河への分岐点から、右の檜林にはいる。両人とも長くつ、草刈鎌で道を作りながらヒノキ林を進んでいく。

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150mほど南にすすむと初めの堀切。しっかり形が残っている。期待が高まる。

二つ目の堀切は深い。幅8m、深さが4mほどある様子である。

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ここを越えると、これが曲輪。最高点とのことである。標高は183m。村からの比高は60mである。

さらに堀切を渡ると平たんな空き地。400平米ほどで、これが主郭。背中に土塁を背負っていて、左右の前方には帯曲輪を設けている。

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まともに砦の姿、お城の姿が残っているのである。

400年以上も前の遺構である。新たな堀切、新たな曲輪を見るごとに感動の連続だった。

城跡は檜の林にあるが、これは50年ほど前に植林されたもので、もともとはクヌギの林だったとのこと。常緑樹の方が土壌は崩れれやすいとのこと、クヌギの林だったことが城跡に保存に力になったとのことである。

個人の持ち山である。所有者の意向を無視することはできないが、これは皆さんに見てもらいたいと思う。

共同墓地から城跡をのぞむ。一番高いところが曲輪、右が主郭、その先の山はダケである。

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帰り道、十二柱神社の狛犬を支える力士像をパチリ。

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元桜井市の教育委員化に在職された金松さんが詳細な報告を出されている。城の縄張図も金松さんの資料による。

出雲城

 桜井市出雲字城山に所在する。標高183m、比高60m、出雲集落北東の尾根先端付近に立地する。眼下に伊勢街道、西側には白河集落に続く山道がある。 

 主郭は47m×25mを測る。北端には高さ3,5mの櫓台状の土塁が設けられ、東西に傾斜している。西辺は北辺土塁から続く高さ約0,6mの土塁ラインが設けられ、南西端で東に折れる。東辺には土塁がみられない。主郭東側と西側には帯曲輪を排している。

主郭南西端は二重堀切で城域を画す。そして、主郭北側は三重の断面薬研状の堀切で城域を画す。堀切の規模は北からそれぞれ幅約9m・深さ約4m、幅約8m・深さ約3m、幅約9m・深さ約3mを測る。北から2・3本目の堀切間は曲輪となっている。

出雲城周辺の動向として注目できるのは、永禄3年(156011月、当時大和支配を進めようとしていた松永久秀方による、初瀬・宇陀攻めである。すなわち、1118日に(『細川両家記』)。この、軍地的緊張が出雲白築城の契機となった可能性が想定されよう。

築城主体としては、当地との関係を持つとされる国人慈恩寺氏などの在地勢力ではなく、より広域な勢力を想定するのが妥当でいえよう。(『出雲区における講座資料から』金松誠 三木市教育員会)


by koza5555 | 2018-01-19 22:33 | 桜井・初瀬 | Comments(0)