ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

カテゴリ:桜井・初瀬( 58 )

雄略天皇 稲荷山鉄剣と脇本遺跡

雄略天皇をクラブツーリズムの「第5回古事記ツアー」のテーマにした。

        

a0237937_10112546.jpg

まずは稲荷山古墳の鉄剣である。今更であるが、勉強しなおしてみた。

a0237937_10131936.jpg

鉄剣の銘文発見はインパクトがあった。

「東国だけでなく、九州も同じ雄略のとき、ヤマト王権のもとにちゃんとおさまっている光景なのです。これは倭王武の上表文の在来の明治以来の通説と全く同じであって、その点で、私は通説が支持されたと直感しました。しかも通説は文献だから間接的だけれど、実物で証明されたというのが、私の印象です」(p19  井上光貞)

稲荷山古墳(埼玉県)から鉄剣が出土。その内容が元興寺文化財研究所で解読されたのが1978年である。昭和の時代やなぁ・・・

a0237937_10112800.jpg


稲荷山古墳。埼玉県の川名さんにいただいた。丸墓山古墳から桜の時期に撮られたとのことである


表「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣」などと刻まれ、

裏「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」

a0237937_10113159.jpg

併せて、熊本県の江田山古墳の鉄剣も銘文の解明もすすんだ。

明治6年(1863年)に発見された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と推定されていたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、読みはワカタケル大王に確定した。

中国南朝の宋(420 -479年)の歴史は『宋書』に書かれているが、 その中の「宋書倭国伝」に倭国が記される。昇明2年(478年)の条には、倭王武が紹介されている。


 倭国の雄略天皇が宋に遣わした使節が携えた上表文に、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと)など)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」とされている。この内容が、「モノ」によって証明されたということである。


稲荷山古墳の鉄剣の銘文の「辛亥」(かのと しんがい)は西暦471年か531年。

宋書には478年という年号があり、ワカタケルの実在性、それも何時生きたか、活躍したかが疑いない形で明示されたのである。



ワカタケルは面白い。ワカタケルは刺激的である。

古事記や日本書紀がどう書いたか、エピソードはてんこ盛りである。

それに見合う形で宋書(中国)は雄略天皇を取り上げている。倭の五王のうち「武が雄略天皇」であるとすると、雄略天皇は絶対年代(西暦の)がわかる初めの天皇ということになる。

『日本霊異記』、『萬葉集』の冒頭は、これも雄略天皇なのである。

また、雄略天皇が生きた5世紀末、『記紀』が示している「朝倉の宮」あたりで、宮に匹敵する建物跡が発掘されている。脇本遺跡という。時期的、規模的に雄略天皇の宮跡とみることができる。

「シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本」(新潮社)。古い本だが、たくさんの勉強をすることができた。読書感想文にならないのだが、「実物で証明された」が結論である。

クラブツーリズムの「古事記でたどる大和の旅」はあと2回である。ぜひ、おいでください。
第5回は16日(土)と20日(水)「古代の英雄!略天皇」。
最終回の第6回は7月18日(水)、21日(土)で「古事記の女性たち その愛とたたかいから学ぶこと」である。




by koza5555 | 2018-06-14 10:21 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ワカタケル大王のツアー

クラブツーリズムの『古事記』で巡る大和の旅、第5回は「古代の英雄!雄略天皇」である。

616日(土)と20日(日)、2回の計画だが、いずれも出発が確定した。


a0237937_23411859.jpg

地元、朝倉郵便局(桜井市)の限定絵葉書、ワカタケル大王


雄略天皇、ワカタケル大王を奈良県でたどってみるのであるが、脇本遺跡(桜井市)とか、一言主神社(御所市森脇)は、誰が考えても必至、その上であれこれ工夫して一日コースを作り上げた。
面白くて、バスが入れて、ご飯を考えて、お土産が帰るところを考える。観光化されていない神社や史跡を回るから、トイレの確保も大切である。

さて、ワカタケル大王まで来ると、残る史跡が具体的になってくるから、緊張もするし、面白さも広がり深まる。

ワカタケル、どういう人か。

従弟や遠縁の皇子・王をとにかく、殺し、焼いた。きわめて残酷であるが、ちょっと考えれば、大和王権と葛城氏族の激しい戦いもその中に透けて見えていて、歴史の一つの必然である。


極楽寺ヒビキ遺跡出土の柱穴から想定された屋敷の姿

a0237937_23414399.jpg

ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』に詳細に紹介されている。

それだけはなく、ワカタケルは中国の史書に紹介されている。宋などの史書に紹介されている倭国の5人の王のうち、武はワカタケルとされていて、それが西暦の479年ということである。絶対年代が明白な古墳時代の天皇である。

「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と上表してきたと、明瞭である。

さらにすごいのは、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣」(1978年)である。

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)


稲荷山古墳

a0237937_23413401.jpg

出土した鉄剣

a0237937_23412233.jpg

江田船山古墳の鉄剣もすごい。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と間推定されてきたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、ワカタケル大王に読みが確定した。

文字通り、東に西である。


さらに宮として、脇本遺跡が推定されている。2012年の現地見学会では、5世紀末の石垣、建物跡が発掘・紹介されていて、この遺跡5世紀末から、6世紀、7世紀に至るまで使われていたことが明白となった。

a0237937_23415487.jpg
これは脇本(桜井市)の春日神社。ここ辺りを掘ると、宮の跡が出てくるのでは・・と言われている。

古事記・日本書紀、中国の史書、鉄剣に刻まれたワカタケルの名、宮跡と推定される遺跡の存在がある。

a0237937_23460402.jpg

ていねいに資料を作り、ていねいに語れば、今度のツアー、このシリーズで最高の評価が得られると確信している。616日、20日は楽しみである。




by koza5555 | 2018-06-03 23:49 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

長谷寺、大観音大画軸大開帳

長谷寺と十一面観世音菩薩像の原寸大の大画軸が開帳されている。1646センチメートル、横が622センチメートル。画軸であるが重さも125kgあるという。

a0237937_22345615.jpg


軸がは正面に観音菩薩像が描かれ、向かって右には難陀龍王、左には右宝童子が描かれている。

「大きな御影は、室町時代・明応4年(1495年)に罹災した本尊の復興の為に、興福寺の南都絵法眼清賢が高野髪430枚を継いで設計図として描かれたことに由来します。江戸時代に入り、長谷寺本願院65世秀海上人は寛文5年(1665年)に大阪堺の篤信者より信施を受けて、日本最大のこの大画軸を仕立てた」(長谷寺配布資料)とされている。

長谷寺の十一面観世音菩薩は729年、沙弥徳道の指揮のもと稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)によって造仏されたとし、開眼供養の導師は行基(菩薩)とされている。この、十一面観世音菩薩像は、極めてたびたび、火災に伴い焼失を重ねている。

いずれも記録が残されているが、健保7年(1219年)の安阿弥、快慶の手による再建は画期的である。御頂仏まで三丈二尺三寸、1213センチメートルの現在の姿は、この時以来と思われる。


巨大な仏像は、平安時代の末ころからの寄せ木細工という彫法、彫刻ができて作れるようになった。外からはうかがい知れないが、
2本の心棒は下の台座に挿しこまれており、その上部に2本の心棒が前後に入れられ、頭部をささえており、また、この心棒に寄せ木が取り付けられている。

その後も罹災は度重なり、明応4年(1495年)11月、堺商人の大きな喜捨により復興成就。この時に興福寺の清賢による指図が作られたとされる(この図がその後、画軸となり今回公開されているもの)。

さらに天文5年(1536年)6月に兵火にかかり焼亡。二年後の天文7年に造仏、こちらが現在の観世音菩薩像である。

画軸は1495年。菩薩像は1538年ということである。

ぜひとも、拝見していただきたい。この会期は531日までで、大講堂で展示されている。
a0237937_22385681.jpg

拝観料とは別に
500円(合計1000円)が必要だが、普段、拝見できない大講堂に入堂することができる。



今回は撮影も許可ということで、撮影用のグッズも用意されているという破格の対応で、これが楽しみである。

a0237937_22342393.jpg

◆十一面観世音菩薩の罹災(火事)、再建の歴史は、「豊山前史」(永島福太郎著、昭和37年)、「長谷寺の仏教芸術」(豊山春秋5 平成2年)などに詳しい。


a0237937_22341968.jpg

a0237937_22350055.jpg


by koza5555 | 2018-03-31 22:41 | 桜井・初瀬 | Comments(2)

五輪塔と 出雲の野見宿禰五輪塔

またまた、出雲の話題である。


a0237937_22033250.jpg
出雲には広々とした段々畑が

出雲の十二柱神社には野見宿禰を祀るという五輪塔が残されている。

a0237937_22082422.jpg

「南300mの出雲の塔ノ本に所在していたのを明治20年(1887年)、神社の手洗石の場所に移し、昭和30年に現在地に再移転した」とし、「長谷寺僧が弥勒仏下生の地を想定して造建したが、願主は20体の梵字仏に意匠を凝らしていて特殊な信仰をあらわすものと思われる。大きな岩から手造りした雅趣ある造作に風格がる。野見宿禰の墓という伝えは出雲に結び付いたものである」(桜井市史上p916


この石塔、「五輪四面に単独梵字仏20体をあらわす日本で唯一つの珍しい古塔」と太田古朴は『大和の石仏』で記している。


「一番下から

地輪(方形)は四天王。

水輪(円形)は金剛界四仏。

火輪(笠石)は薬師仏と釈迦、十一面観音と地蔵で

風輪(受花)は不動、弥勒、一字金輪、文殊

空輪(宝珠)は両界大日如来、観音、南面は宝篋印塔」との記述である。

a0237937_22041377.jpg
以上は『桜井市史』

「日本で唯一」とはただ事ではない。「普通の五輪塔とは何が違うのか」である。


五輪塔は『大日経』などに示される密教の思想の影響が強くて、下から「地(ア )、水(バ )、火(ラ)、風(カ )、空(キャ )」の梵字による五大種子(種字 しゅじ)が刻まれる。

a0237937_22064450.jpg
下から読むと、アビラオンケン(ソワカ)で、これは大日如来のご真言である。

五輪塔は、地・水・火・風・空で、宇宙と大地を司る大日如来と一体化を目指す塔だった。

こんな風に見ると、出雲の五輪塔との差が、なるほど、なるほど理解できた。出雲の五輪塔は大日如来の御真言ではないのである。


一方、この大日如来の梵字は出雲ではいつでも見ることができる。
出雲には庚申塔華の行事がある。庚申の日、願人は「奉 青面金剛童子 村内無事 家内安全、五穀豊穣、如意吉祥 修」と刻んだ樫の木を持ち寄り、僧侶に梵字の記入を受けてから法要が始まる。

a0237937_22031679.jpg

この樫の木の記されるのが大日如来のご真言、五大種字である。

a0237937_22032539.jpg
出雲の庚申塔華


出雲の五輪塔には、向きが違うとか、刻み間違いがあるなどの飛び切りの裏ネタもあるが、それはそれで触れ方が難しいし、その具体的な姿が示せれなくては反感が出るだけである。


a0237937_22180372.jpg

こんなダルマ落としみたいなブロックを作って、倒したり、回したりして考えている。


出雲の講演会。「出雲と初瀬谷  記紀万葉と今」は、出雲の十二柱神社境内、出雲農村集落センターにおいて、210日(土)午後130分からである。ぜひ、おいでください。参加費は無料です。



by koza5555 | 2018-01-26 22:23 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

ダンノダイラ(桜井市出雲)


出雲(桜井)には出雲人形、十二柱神社の五輪塔があり、長岳寺石工僧 善教の作とされるお地蔵さん(知福寺)など、興味深いものをあれこれ書いてきたが、今までに書いてないのは「ダンノダイラ」である。


ダンノダイラ、出雲から北の山を見上げる。三輪山から長谷山にかけての稜線のすぐ下に大きな平たん地があり、磐座があり、古代の生活と祭祀の遺跡が残されている場所である。



ここはちょっと避けてきたのであるが、出雲を語ろうとすると避けて通れないわけで・・・登ってきた。

ルートは二カ所。出雲の集落から歩いて登る方法がメインルート。健康的である。標高差は350mである。

あと一つは巻の内から車で奥不動院まで車で上がる方法である。道はちょっとすごい。会うことはほとんどないが、対向車があれば大変である。

今日は車で上がった。

奥不動院の駐車場に停める。

a0237937_21254693.jpg

奥不動院を抜けてそのまま三輪山から長谷山への稜線まで登る。稜線に上がったら左へ。ダンノダイラの看板はある。30mほどで二又に。右へ進む。そのまま200mくらいでダンノダイラに到着。

大きな平たん地。杉林である。右側はクヌギ林。「クヌギの林は山肌を崩さない」と、このクヌギの山主の西野さんは言われていた。

a0237937_21205066.jpg

初めに磐座に。

三段に分かれている。

a0237937_21200322.jpg

これが一段目。

a0237937_21191112.jpg

これは三段目である。

幅は5m以上。土の埋もれたところは判らないが、三段、全体の高さは15mくらいはあるだろうか。


素晴らしいの一語だ。

サークルストーンもある。

平たん地の真ん中あたりに割れ目。こんな頂上近くだが、水が今日も流れていて、しっかり浸食されていた。

a0237937_21202573.jpg


a0237937_21212549.jpg

出雲村に残されてきた古い絵図には「段ノダイラ」とされている。


大昔の出雲村は”ダンノダイラ”にあった

明治の初め頃まで、毎年、年に一度、村中の者が『ダンノダイラ』へ行って、昔の祖先を偲んで、そこで弁当を食べたり、相撲をしたりして、一日中遊んだもんだー(村の山登りの行事は、嶽山でこれとは別)

それからその『ダンノダイラ』の東の方に、大きい岩があって、それを拝んだソーナ

出雲の氏神さんは本殿はなく、出雲村から真北の方向にある大岩――その岩を拝んだソーナ。年寄りからよく聞かされたモンだ
西脇翁からの聞き取り
    『大和出雲の新発見』(栄長増文著)より

出雲にとって、ダンノダイラは心の故郷というべきものなんだろう。



by koza5555 | 2018-01-20 21:29 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

出雲城跡 桜井市


26日(土)に出雲(桜井市)で講演する。出雲区の「相撲開祖 野見宿禰顕彰会」の主催である。

a0237937_22232060.jpg

十二柱神社、狛犬を支える力士像

初めに出雲城の縄張り図を見てほしい。城の前面からはとても坂がきつくて無理。尾根から下がってくる形(北から南へ)で城跡に入る。

a0237937_22214063.jpg
a0237937_22253960.jpg


出雲の方に出雲の話をしようという無謀な企みである。ネタ作りに苦労しているのである。


そこで今日は、戦国の時代の出雲城跡にチャレンジ。ところが、行く方法がわからない。そこで先々代の出雲区長の西野さんと、先代の門脇区長に頼んで探索してきた。

十二柱神社から白河(しらが)へ行く、峠越しの道がある。出雲区の共同墓地をすぎて、ダンノダイラと白河への分岐点から、右の檜林にはいる。両人とも長くつ、草刈鎌で道を作りながらヒノキ林を進んでいく。

a0237937_22215917.jpg

150mほど南にすすむと初めの堀切。しっかり形が残っている。期待が高まる。

二つ目の堀切は深い。幅8m、深さが4mほどある様子である。

a0237937_22221555.jpg

ここを越えると、これが曲輪。最高点とのことである。標高は183m。村からの比高は60mである。

さらに堀切を渡ると平たんな空き地。400平米ほどで、これが主郭。背中に土塁を背負っていて、左右の前方には帯曲輪を設けている。

a0237937_22222879.jpg

まともに砦の姿、お城の姿が残っているのである。

400年以上も前の遺構である。新たな堀切、新たな曲輪を見るごとに感動の連続だった。

城跡は檜の林にあるが、これは50年ほど前に植林されたもので、もともとはクヌギの林だったとのこと。常緑樹の方が土壌は崩れれやすいとのこと、クヌギの林だったことが城跡に保存に力になったとのことである。

個人の持ち山である。所有者の意向を無視することはできないが、これは皆さんに見てもらいたいと思う。

共同墓地から城跡をのぞむ。一番高いところが曲輪、右が主郭、その先の山はダケである。

a0237937_22224475.jpg

帰り道、十二柱神社の狛犬を支える力士像をパチリ。

a0237937_22230451.jpg


元桜井市の教育委員化に在職された金松さんが詳細な報告を出されている。城の縄張図も金松さんの資料による。

出雲城

 桜井市出雲字城山に所在する。標高183m、比高60m、出雲集落北東の尾根先端付近に立地する。眼下に伊勢街道、西側には白河集落に続く山道がある。 

 主郭は47m×25mを測る。北端には高さ3,5mの櫓台状の土塁が設けられ、東西に傾斜している。西辺は北辺土塁から続く高さ約0,6mの土塁ラインが設けられ、南西端で東に折れる。東辺には土塁がみられない。主郭東側と西側には帯曲輪を排している。

主郭南西端は二重堀切で城域を画す。そして、主郭北側は三重の断面薬研状の堀切で城域を画す。堀切の規模は北からそれぞれ幅約9m・深さ約4m、幅約8m・深さ約3m、幅約9m・深さ約3mを測る。北から2・3本目の堀切間は曲輪となっている。

出雲城周辺の動向として注目できるのは、永禄3年(156011月、当時大和支配を進めようとしていた松永久秀方による、初瀬・宇陀攻めである。すなわち、1118日に(『細川両家記』)。この、軍地的緊張が出雲白築城の契機となった可能性が想定されよう。

築城主体としては、当地との関係を持つとされる国人慈恩寺氏などの在地勢力ではなく、より広域な勢力を想定するのが妥当でいえよう。(『出雲区における講座資料から』金松誠 三木市教育員会)


by koza5555 | 2018-01-19 22:33 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

「桜井の古墳」桜井東ふれあいセンター  

「桜井東ふれあいセンター」(初瀬寺駅の付近)で、4月18日(火)午後7時から、「桜井の古墳」をお話しいたします。


こちらのセンターは毎月、「地域ふれあいセミナー」を開催していますが、2017年度の第一回目に僕を選んでいただいた。「わかりやすい解説で楽しいお話し」だからと、毎年、呼んでいただいている。

今回は、桜井の古墳を丹念にたどりながら、「古墳を作った人」、「作らせた人」、「その時代に思いを寄せる」、こんなお話をしようと考えた。

これは桜井じゃないけど…奈良の野神古墳。今度のテーマで「阿蘇ピンク石」を取り上げるが、そのうちの一つである。大安寺の近くで・・・京終とか、大安寺に行かれたら、ぜひ、どうぞとおすすめしたい。
a0237937_8454260.jpg
奈良市京終の野神古墳、石棺

a0237937_8473988.jpg
掲示もじっくりみてほしい
a0237937_8511517.jpg
いまは、こんな街中だ。先は高円山


今回は、僕が見学してきた桜井を中心にした(天理や奈良もすこし)古墳を、丹念に紹介する。
ポイントは立地とか、形とか、横穴石室であれば作り方とか、そして、今回は石にもこだわった。
たとえば阿蘇ピンク石である。浅古の兜冢古墳は有名だが・・・・
a0237937_8542719.jpg


阿蘇ピンク石。桜井と天理には特殊に多い。この石の産地は始めは二上山とみられ多らしい。「二上山ピンク石」と言われたりした時期もあると知った。1991年、九州の宇土半島の石がピンク石と分り、阿蘇ピンク石と言われるようになったとのことである。
僕などは、深く考えることもなく、赤っぽい石棺を見ても、「水銀朱を塗ってあるんだろうか」・・くらいだったが(笑)。

こんなことを究明したのは倉敷の真壁忠彦さん。『石棺から古墳時代を考える―型と材質が表す勢力分布―』という本がある。あちこちの古墳で使われたピンク石の産地は熊本県の宇土半島だと証明された。


三輪にもピンク石の石棺石が残されている。
有名なのは箸中の慶運寺の石棺仏。金屋の石仏堂の床下のピンク石もおもしおろい。山の辺の道の金屋の石仏は石棺の蓋(泥岩)に釈迦如来と阿弥陀如来が彫られていて有名である。重文指定で評価も高いが、そのお堂の床下にも、石棺の残されていて…それが阿蘇ピンク石。
a0237937_935191.jpg
床下もみて

そのまま、石室の中に残されているのは、東乗鞍古墳 (天理市杣之内町)で、くり抜式家形の石棺が残されている。

奈良にもある。野神古墳というが、これは佐紀盾列古墳群じゃなく、大安寺の近くの南京終である。
高槻の今城塚古墳歴史館に展示されている、見つけてきたばかりの石棺の残石・・・・も昨年、報道されたばかりである。
阿蘇ピンク石ばかり、辿ってもなかなかjのものである。

a0237937_98142.jpg

看板通り、わかりやすく、楽しくおもしろい、こんなお話である。
入場は無料で、30名ほどの会場。残席はわずかだが、おいでになりませんか。
突然でも対応できますが、資料の印刷もありますので、お電話をいただけると助かります。
連絡先は0744-47-7026(東ふれあいセンター)まで
by koza5555 | 2017-04-13 09:17 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

上之郷 小夫の綱掛祭

12月と2月は小夫(桜井市上之郷)の綱掛祭である。
長谷寺から針のインターに抜ける県道を通るとき、この綱が目に入る。

a0237937_22383382.jpg
出来上がった綱を参道ころがし

12月4日(日)、午後1時からこの祭が執り行われた。
綱かけは桜井市でも各地で行われるが、シーズン入りという言葉を使ってよければ、小夫の綱掛は、綱掛シーズンの初めの祭である。今年は上之郷の三谷が3日に行われたと聞いたが、その規模、本格さでは小夫に敵わない。

午後1時に「当番となった垣内」のすべてのお家から、一人ワラ三把を持って集まってくる。
「当番となった垣内」も解説が必要である。小夫には4垣内(桑・上・馬場・東という)あり、一年ごとに祭当屋が回ってくる。この綱かけは「先廻り」といい、来年の当屋垣内の初めの仕事である。平たく言えば4年に一回当屋が回ってくる、そのまえに綱掛祭も回ってくるのである。。4年に一回だから、初めは作業のすすめかたに議論百出である。忘れたこともままありである。

a0237937_22411221.jpg

25メートルほどの大綱がなわれる。それと合わせて100メートル以上の細縄がつけられる。

a0237937_22414256.jpg

すだれを4枚。実は綱掛は3カ所になるので合わせて12枚。

a0237937_22421791.jpg

すだれの間は、こんなものがぶら下げられる。合わせて9本である。

お祓いを受けた後は、縄掛けに。
青竹の筒笛をブーブーと吹き鳴らす。単なる青竹、しかし、音はほら貝、顔負けである。

a0237937_22451328.jpg


a0237937_22461880.jpg
綱掛は村の入り口の山と墓地の榧の樹の間に渡される。


a0237937_22472151.jpg
これは県道の綱


a0237937_2248338.jpg
これは初瀬川の上に掛けられた綱



小夫の綱は悪霊、疾病を絶対に村に入れないという毅然とした綱で、①川ずじ ②旧道、③新道である県道に至るまで、張り巡らすことが特徴だった。


小夫の綱掛は一年に2回である。同じ垣内が取り組み、12月のすだれは松、2月は榊と違えるのが特徴である。
by koza5555 | 2016-12-04 23:00 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

長谷寺と蜻蛉日記

8月に「初瀬・長谷寺」をテーマに講演することにした。
まだ先だし、やり慣れたところだが、パワーアップしたいと思った。

長谷寺は、源氏物語や蜻蛉(かげろう)日記に取り上げられていることを紹介してきたが、この蜻蛉日記の取り上げられ方が、きちんと話せてこなかった。
a0237937_182566.jpg
桜、今年の長谷寺

そんなとき、ブックオフで108円で買った、田辺聖子の「蜻蛉日記をご一緒に」が本箱の隅に放置されていた。「長谷寺には確か二回きている」とむさぼり読んだが、ちょっと当てが違った。初瀬詣でのことが具体的に書かれているわけではないのである。

そこで、さっそく「日本古典文学全集」を桜井市の図書館で借りてきて、長谷寺のくだりを読み直してみた。

初瀬詣、椿市(つばいち)がポイントであることはよく分った。「椿市までは無事に来た」とか、「椿市に着いて、例のように、あれこれ支度を整えて出立するころには、日もすっかり暮れてしまった」、「椿市に帰って、精進落としなどと人々は言っているようだが」などと記されており、椿市が長谷詣での起点になっていたことが、きちん紹介されている。

あの有名な二本(ふたもと)の杉のことが紹介されていることにも注目した。
「はつせ川古川のへに二本ある杉 年をへてまたもあひ見ん二本ある杉」(古今和歌集 1009) 

坏(つき)や鍋を据えた乞食などに気を取られて、すがすがしい気分になれなかったと記している。
また、御堂に籠っている間(庶民の間に座っている・・あの礼堂であろうか)、眠ることもできず、それほどみじめそうでない盲人が人に聞かれていることを知るか知らずか大声でお祈りしている、それを聞くにつれ、涙がこばれたなどと記しており、お堂の情景が手に取るように見えるのである。

二回目の長谷詣では、「物音を立てずに通らなければならない森の前」のことが記されている。これは初瀬山口神社の前と思われると注に記されている。「祭神 手力雄命(たじからのおのみこと)が人の声を奪ったという伝承に従う」という意味らしい。
初瀬柳原に初瀬坐山口神社を遥拝する「伏し拝み」の場があり、毎晩、いまも献灯が行われているところである。1000年前から、あれは特別な場だったんだ・・と感銘。そんなことから決められた場だったんだ。

a0237937_184534.jpg
初瀬柳原、伏し拝み

さて、蜻蛉日記、肝心の作者である。藤原道綱の母としかわからない。
田辺聖子は、蜻蛉日記が源氏物語にも大きな影響を与えたと分析する。

「年月はたっていくけれど、思うようにならぬ身の上を嘆き続ける・・あるかなきかの思いに沈む、かげろうのようなはかない女の日記ということになるだろう」と、日記を書き、その名を「蜻蛉日記」として世の残した、ものすごい女性の生きざまであり、巨大な遺産というべきである。
何をいまさらということだが、僕の感想である。

田辺聖子は、すれ違いとか女性と男性の求め方の違いとかにも触れながら、「普遍的な男と女のあり方が論じられており、人類の夢が語られる」と評価する。今でもさまざま教訓的だが、読者の人生キャリアによって蜻蛉日記は響き方もさまざま違うと締めくくる。
「蜻蛉日記をそれぞれ受け止めてみよう」だろうか。

最後に百人一首から
嘆きつつ 独り寝る夜のあくる間は いかに久しきものとかはしる(右大将道綱の母)
a0237937_1843461.jpg

by koza5555 | 2016-04-06 19:41 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

初瀬観光ガイド

初瀬で観光ガイドを始めようと、坂本さんががんばっている。

初瀬の町おこしで頑張っている坂本さんから相談を受けた。
「初瀬の町が元気になるような観光ガイドの運動をやってみたい」、「そのために助言とガイドの養成をしてほしい」との相談である。

それから、コースを相談したり、「初瀬の見せかた」みたいなことをあれこれ話し合ってきた。

坂本さんの考えるガイドは有料ガイドである。
そして、「初瀬のお店で使えるクーポン付のチケットを買ってもらう」という考え方に特徴がある。金額を決めているわけではないが、「ガイドの謝礼は500円いただくのだが、そのうち300円は初瀬で使える金券」、こんな仕組みが目標である。

夢はいろいろと広がるが、頼んでよかったというコースの設定とガイドの養成がまずは肝心である。

その養成講座、第一回目を12月20日におこなった。
a0237937_2116780.jpg

これは長谷山口坐神社の解説

柳原太鼓台蔵前に出雲、白河や初瀬の町の方が10人ほど集まった。
長谷寺と初瀬の町を知り尽くしている方々ばかりで、しかも三社権現の綱かけや興喜天満宮の秋祭で実際に活躍している方々ばかりである。
またほぼ全員が、長谷寺や初瀬の町を勉強してきた「初瀬歴史研究会」のメンバーで、勉強はしたが、ガイドの経験は無いのである。


そして、初瀬をみなさんは全部・・・知っているのである。
だから、何を話して、何を捨てるか、その見極めが大事と思える。


①長谷寺と初瀬の町をセットで案内する。
②初瀬の町は近世をテーマに考える。菅笠日記(本居宣長)を軸に組み立てができる。

みなさん、知っていることが多すぎて、歴史上の事柄の見解の相違もあちこちにある。
初瀬には山口坐神社が鎮座する。長谷山口坐神社は延喜式祝詞で幣帛が立てられた神社だ、それはみんなが一致できる。

しかし、この地が「元伊勢」となると簡単ではない。
倭姫命は「磯城の厳橿の本に鎮め坐(ま)せて祀る」(垂仁紀一に曰く)としているが、この厳橿は地名ではなく神霊の依り代となる神木(ケヤキか?)との見方が一般的、しかし初瀬はこれを地名と考えて、元伊勢はこの地と考えているのである。
こういう場合の説明の仕方を研究しなければならないと解説する。
ところが、「元伊勢、厳樫は初瀬のあっちにある、こっちにある」という声(これは僕にも予想外だった)がでてきて、大騒ぎ・・・みなさん、よく知っているし、ものすごい郷土愛・・すごいです。


長谷寺です。登廊を登り、どこで休むか、どこで何を話すかのタイミングを考えていただく。

「歴史に残る長谷寺の3人」が糸口である。

一人目は長谷寺を創建したという僧、道明。法華説相図に書かれている。本長谷寺と言う形で長谷寺は守っている。

二人目は十一面観世音菩薩尾を祀った徳道上人である。

三人目は現在の豊山長谷寺の形を作り上げた専誉僧正。中興の祖である。

順々にめぐり、専誉僧正、豊臣秀長(大納言)の五輪塔までお詣り、練習ツアーを終える。
a0237937_21191846.jpg

さすがにみなさん秀長公の五輪塔はご存知、だがここまで来たのは30年ぶりの方も・・・・・

2月14日(日)ダダ押しの日に、「長谷観光ガイド」のデビューである。
「地元のガイドで初瀬と長谷寺を楽しみ、ダダ押しを見学しよう」というツアーである。
午後1時、柳原太鼓台前集合・出発、初瀬の町の良いとこを見て、長谷寺を案内する。
練習ツアーですので無料、長谷寺の入山料(500円)は必要です。
ぜひぜひ、おいでください。僕も全行程、同行します。
by koza5555 | 2015-12-21 21:49 | 桜井・初瀬 | Comments(1)