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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:天理・山の辺の道( 29 )

専行院と修陵餘潤之碑

毎日新聞、8月23日(木)のディスカバー奈良は「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)を書いた。

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全文は以下の通りである。

天理市柳本町の専行院(せんぎょういん)には、柳本織田藩の歴代の領主の墓碑と合わせて、「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)という自然石の大きな碑が立てられています。

専行院の東方には崇神天皇陵があり、陵をめぐる巨大な周濠を見ることができます。もともとは小さかった周濠を巨大な池に作り替えたのは幕末の織田藩の修陵の工事でした。織田藩は修陵の工事と合わせて、周濠の拡大により灌漑用水の拡大を図ったのです。

陵、周濠の改修により、多くの田に潤いの水が届けられることになりました。時を経て、水の恩を受けた農民が、田植えを終わった時期に専行院に集まり、織田藩の領主の法要を始めました。この法要は今も続いています。そして、陵を修理して水の潤いを受けたと記した「修陵餘潤之碑」を境内に立てて、感謝と喜びの気持ちを表しました。(奈良まほろぼソムリエの会副理事長 雑賀耕三郎)

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 専行院は天理市柳本町1474番地、JR桜井線柳本駅から徒歩で約10分である。 駅前から黒塚古墳、崇神天皇陵へ東に向かう道から見ると、右手、もう一筋南の路である。車で行くならば、駐車場は大きくて安心して停められる。

 

 この専行院で藩主祭という法要が、毎年7月の第二日曜日に行われている。

 柳本連合自治会の主催で、東京から織田藩の当主を招き、町内の主要団体が集まって法要を行う。

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専行院 松村順雅住職を導師として法要が行われる。

さらに「祭文(さいぶん)」を、森脇完一天理市柳本連合自治会長が読み上げた。

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祭文の要旨は以下のとおりだった。

本日、ここに旧柳本藩主織田信成公並びに織田家歴代のご尊霊を招き、専行院に祭壇を設け織田毅様、日高美智子様、天理市長並河健様をはじめ関係各位のご臨席をいただき、柳本町民、一同と共に頭を垂れて法要を営みます。

顧みすれば、初代織田尚長公の入部以来、織田家は歴代の藩政を担われました。

なかでも第12代 信成公は特に勤王の志厚く、かねてより崇神天皇陵の荒廃を憂い、嘆かれ、公儀の允許を得て 元治元年9月17日に、これの修補に着手され、

人夫57998

工費 銀598

並びに食料米等を支出し、親しく工事を督励して、翌年2月に、その竣成を遂げられました。

御陵の周囲には6町4反の土塁を巡らし、比をみない濠を作られました。古来柳本町は水利に乏しく、年々灌漑用水の枯渇に悩まされていましたが、山稜御修陵以来、貯水を利用して、耕作をすすめて、領民等しく蘇生の思いをいたし、水利の潤いを受けてきました。

今日、住民の生活様式は変革、農業経営の変貌など生活の在り方は変化しました。農業用水だけなく観光・景観など修補の益はますます大きくなっています。

慎みて霊前に向かい、住民を代表して感謝申し上げ、歴代御霊代のご冥福を祈念いたします。

平成3077   天理市柳本町自治連合会会長 森脇完一

崇神天皇陵をぜひ訪問していただきたい。その陵と周濠があなたの心を打つことは間違いない。そして、専行院を訪れて修陵餘潤之碑もぜひとも拝見していただきたいのである。

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by koza5555 | 2018-08-23 05:07 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

黒塚古墳・三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡

黒塚古墳。130メートルほどの前方後円墳、3世紀から4世紀のものである。

墳丘は、中世・近世に砦、お城として使われた歴史があり、改造が著しい。

竪穴石室は後円部の中心、南北にむけて設けられていた。石室に関わる施設では、前方部につながる鞍部から作業道(墓道)が発見されていて、葬送の儀式の入り口、石室を作るための作業通路として使われたらしい。


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盗掘や開発を逃れて、1997年、タイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。鎌倉時代の地震で石室の一部が崩落していたことが幸いであった。

これを復元した、展示館が設けられていている。古墳に登れて、石室模型が見れて、34面の鏡が見られる、県内では稀有の最良の勉強と楽しみの場所である。

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棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡が置かれていた。棺の中、一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。北枕の遺体の頭の上である。


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「邪馬台国は纒向」というツアーで何度も訪れた。

そのツアーでは、「不思議な鉄パイフ遺物」を、「難升米が受け取ったとされる黄憧の可能性がある」などとガイドしてきたが、34枚の鏡についてはあまり語れてこなかった。ちょっと反省するのである。

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昨年に橿原考古学研究所が、「黒塚古墳のすべて」という展示会を行っている。

面白い図録も出ているし、三次元計測という技術を駆使した素晴らしい写真も出ていることが分かった。一つの鏡を測るのに、400万点を計測する(撮るのではなく)という技術らしい。

データベース化もすすみ、同范、同型鏡は一発で判明である。

そんな研究によると、どうも黒塚古墳の鏡はすべてが舶載鏡らしい。

今度のツアーは三角縁神獣鏡、大いに語ってみたい。

まずは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡のことである。

●直径が23センチ程度で大型

断面が三角形の縁

漢字を用いた銘文がある

神像と神獣が描かれる。西王母、東王父


発掘された角縁神獣鏡のことである。

まず、同范、同型鏡という言葉を紹介したい。

同范は同じ鋳型を何度も使う。同型は母型から何度も鋳型を作り、使用する。区別は鏡の傷(鋳出しの時)などからわかるようである。

日本には三角縁神獣鏡は140種類、380枚が発見された。黒塚古墳からは33枚出ているが、黒塚だけというのは3枚しかないとのことである。言い換えれば、ほとんどが流通版だという事である。

中国の鏡の始まり。中国鏡の文様は、もともとは装飾的な図柄が中心だったが、前漢時代(紀元前202年から5年まで)の終わりころに世界観、宗教観を示す図柄が現れる。図柄は四神や霊獣などであった。


後漢時代(25年~220年)には、神仙と霊獣を描かれた神獣鏡が登場する。

西王母などの人の姿の仙人が不老不死の象徴となってくる。

道教の強い影響が感じられ、鏡の所有者には福がもたらされると信じられた。

国内、とくに畿内で大量に埋蔵されたとみられる画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、これらの鏡の紋様をそのまま引き継いでいる舶載(中国産)、もしくは仿製(国産)の鏡である。

黒塚古墳の資料館では、たっぷりとこの図柄を楽しむことができる。

24号鏡と8号鏡を僕は注目してみたい。

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号鏡。名前は「三角縁天王日月・唐草紋帯四神四獣鏡」 


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この鏡の同范・同型鏡は全国に分布している。

 奈良 佐味田宝塚古墳

 京都 椿井大塚山古墳

 兵庫 吉島古墳1号墳

        2号墳

 滋賀 雪野山古墳

 静岡 赤門上古墳

 東京国立博物館

 直径は23.7センチ

 
 西王母、東王父を感じ取ってほしい。

8号鏡も人気者。三角縁神獣鏡龍虎画像鏡


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こちらは、二人の神人と二体の龍虎。とても大柄で見栄えが良い。

同范・同型なし。ここだけ、これだけオリジナル

平壌(北朝鮮)画紋帯同向神獣鏡(後漢代の後半)には、

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西王母、

東王父、

伯牙(はくが)琴の名手。事の調べで陰陽を調和させる。

黄帝(こうてい)。中国の神話では最高の帝王。巨悪な蚩尤(しゆう)を滅ばす。しゆう・・農耕の神か。人の体で頭に角、足にはヒズメ、81体の同じ形の兄弟がいる。

が描かれている。

これは、今回見れるものではないが、鏡を見るうえでの必須の

西王母がいて、東王父がいて、伯牙、黄帝がいる。

ここらあたりが見とれるだろうか。

クラブツーリズムのツアーの「古事記でたどる大和の旅」の「ヤマトタケル編」で、こんなことをお話ししたい。18日(水)は満席、21日(土)はアキがある。


by koza5555 | 2018-04-10 17:50 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

鎮魂祭(みたまふりのみまつり)石上神宮

1122日、新嘗祭の前夜に天理市の石上(いそのかみ)神宮で鎮魂祭(みたまふりのみまつり)が斎行された。

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鎮魂祭は午後5時から。修祓があり、初めに天神社の祭祀がおこなわれる(天神社は本殿・拝殿の向い側・出雲建雄神社の左手奥である)。祝詞では「みたまふりのみまつりを斎行する」ことの報告がされるところから見ると、この神を地主(産土 うぶすな)とされているのだろうか。

午後530分から御魂祭が斎行される。

「やない箱が神前」に出される・・・この箱が神事の中心で・・祭祀の後にはご本殿に収められる。饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天神から授かった天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)が収められているのだろう。

神事は浄暗の儀式である。事前に「スマホは厳禁。撮影だけでなく電源を切れ」と繰り返し放送される。

宮司、禰宜がやない箱の前で、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり」と十種の宝を読み上げる声、その合間にサラサラと鈴の音が鳴ることから、真榊が振られていると思われる。なにしろ・・闇の中である。

「もしいたむ(痛む)ところあらば、このとうのたから(十宝)をして、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たりと言うて、ふるべ(布留部) ゆらゆらと ふるべ。かくなさば まかるひと(死人)も生き返らん」

こんな呪文である。天神から授かった十種の宝を、順々に数えての「みたまふり」である。

式典後の宮司のあいさつでは、「鎮魂祭は魂を若返らせるお祭り、元気を取り戻すお祭りです。魂を鎮めるお祭りというのは誤解です。今日、力を取りもどした真榊により、皆様は一年、若返りました」と解説されました。

若い方の参加が目立ちました。さまざまな神社、さまざまな神事を拝見しましたが、石上神宮の御魂祭は若さで一番でした。

寒い・・防寒対策は万全に。お昼間に2万歩のウォーキングをしましたので、座るのが堪えました。

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拝殿は宮中の神嘉殿(新嘗祭を行う)が移されたもので、国宝である





by koza5555 | 2017-11-23 07:32 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

修陵餘潤(よじゅん)の碑ー天皇陵の近代史

『天皇陵の近代史』。吉川弘文館から、外池昇著である。

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行燈山古墳ー崇神天皇陵  

「幕末から明治前期にかけての陵墓をめぐる動向について注目した」として、「文久の修陵をめぐる問題」と「明治政府の陵墓政策をめぐる問題」を解明したいとしている。

「皇室の祭祀体系の整備」の検討と合わせて、「地方の陵墓問題」の解明があり、「浄、穢の廟議」と「村落と陵墓」は引き込まれる。

陵墓は「浄か穢れ」かが問題とされている。

もともと荷前(のさき)使いは、「神事に似たり」(年中行事秘抄 858年)とされ、「浄」であるとされた。しかし、実質的には荷前使に赴いた貴族は正月行事に出仕できなかったりで「穢れ」という考えが続いてきていた。だから貴族は懈怠といって、荷前使を休んでしまう・・この使に立つと宮中の正月行事に出仕できなくなるのだから当然のサボタージュである。

明治元年の廟議には谷森義臣が出てくる。谷森の論は「本来的に神である天皇の陵が穢処であるはずがない」であり、その後は、それが貫かれている。

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陵墓に鳥居が立つ理由がわかるような気がする。

陵墓の発掘調査に宮内庁が反対する理由も、「墳墓だから」であり、さらに「神聖な場」だからということだろう。

こんな考えに立てば、考古学に基づく、治定、比定のやり直しなどは宮内庁は問題にもしないだろう。

良し悪しは別として、陵墓に対する宮内庁の考えがキチンと理解することができた。

村落と陵墓がとてもおもしろい。目からうろこがいっぱい落ちた。

一つは農地とか山林としての利用の問題

文久の修陵以前は、陵墓とされた古墳であっても後円部の墳頂だけが陵墓とされていた。だから古墳内の農地は普遍的な状態で、これは農民の勝手な耕作ではなく、年貢地となっていて、各藩の公的な耕地だったことが紹介されている。

びっくりですね。明治以降、立ち入りが禁止となり、地元民は陵丁などでかかわりを持って行った。

しばらくは、雑木、落ち葉の清掃などでのかかわりがあるが、明治30年代には古墳墳丘の植栽の変化などから、地元民は古墳から遠ざけられていくことになった。

今一つは、ため池としての役割である。

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こちらは利用が締め出されるのではなく、用水としての価値が高まったということである。

古代から通して、水のない周濠は普通の状態とのことである。水があれば常に浸食を受けるのであるが、その証拠がない。空堀とのことである。

今のような周濠の姿は文久の修陵以降のことらしい。もともと雨水だけを貯めるのだから、その量は限られ、灌漑用水としての値打ちはない。

崇神天皇陵(柳本行灯山古墳)はその典型である。古市古墳群なら安閑天皇陵(羽曳野市)である。

崇神天皇陵の文久の修陵の普請、柳本の全村挙げて取り組んだとされる。農業用水の確保である。同古墳近くの専行院には明治29年(1896年)2月に建てられた「修陵餘潤(よじゅん)の碑があるが、これは周濠の普請完成を記念したものである。

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天皇陵古墳の歴史も、おもしろい

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by koza5555 | 2017-10-11 08:25 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

山の辺の道―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチ

10月の「大人学校」の参加を再度、募集いたします。

コース名は、山の辺の道黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチをいただくグルメウォーク

「洋食Katui」のお弁当をいただくウォーキングを計画しましたが、予定した参加人数の申し込みありませんでした。それで、コースは変えずに、「洋食Katui」のお弁当をやめて、ランチをいただくことにしました。料金も値下げいたしました。なにか、魅力度がそうとうアップいたしました。おいでになりませんか。

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「洋食Katui

日時は平成29年10月25日 ()。

行程はJRまほろば線柳本駅黒塚古墳見学崇神天皇陵昼食(洋食Katuiのランチ)長岳寺 →景行天皇陵 →神籬(ひもろぎ)→穴師坐兵主神社(相撲神社)→珠城山古墳→巻向駅

集  合:JRまほろば線 柳本駅改札口前 午前10時

解  散:JRまほろば線巻向駅

参 加 費:1,200円(拝観料350円、資料代他経費・講師料など)

食事はレストラン(洋食Katsui 山の辺の道を予定。各自払いで、ランチは1500円です)

持 参 品:飲み物・帽子・雨具をお持ちください。*歩きやすい靴でおいでください。

そ の 他:小雨は決行ですが、コース変更をする場合もあります。                   

歩行距離は約6km程度です。急坂はありません。

申し込みは 「大人の学校」の溝口博巳090-8986-8844、もしくは雜賀耕三郎、090-5069-8382

申し込みの締め切りは、平成29年10月18日(水)です。

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黒塚古墳
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景行天皇陵から大和三山をのぞむ
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これぞ、山の辺の道。三輪山を望む。額田王の歌碑も




by koza5555 | 2017-10-01 19:30 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当―

大人の学校、今秋は「雜賀の歴史ウォーク」を開催する。毎月、第四水曜日を目安に3回の実施である。

今秋の計画・行先は

★1025日(水)山の辺の道 黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

★1122日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えるー

★1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験に―

今回は山の辺の道を集中的に取り上げ、その間に奈良盆地の対角線の平群谷を案内することとした。

要綱は以下のとおりで、お申し込みは「大人の学校」だが、今日はとりあえず僕のメッセンジャー にお願いします。

今日、紹介するのは

1025日(水)山の辺の道 ―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

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「山の辺の道いいとこどり」と題して、山の辺の道を歩きたい。崇神天皇陵や神籬(ひもろぎ)、相撲神社を訪ねて、初期ヤマト政権のふるさとを訪ねる。山の辺の道に新しくオープンした「洋食Katsui」のお弁当をいただくグルメウォーキングである。

「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠そふべしや」(額田王)を歌いながら、三輪山を仰ぎ見て歩くウォーク、ぜひおいでいただきたい。

■行き先 山の辺の道 柳本から巻向へ

■実施日 平成27年10月25日(水)雨天決行

■集合時間 午前10時 

■集合場所  JRまほろば線 柳本駅改札口前

■コース(歩く距離 6km程度)

柳本駅  黒塚古墳 → 崇神天皇陵 → 昼食(洋食Katsuiのお弁当) → 長岳寺  → 神籬(ひもろぎ)→ 穴師坐兵主神社(相撲神社) → 珠城山古墳 巻向駅解散

高低差はほとんどありませんが、未舗装路を歩きますので、歩きやすい靴でおいでください。

■参加費 3200円 拝観料(350円) 食事代(2000円) 資料代他経費・講師料(850円)

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   洋食の勝井のお弁当を


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22日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー

倭建命(やまとたける)が「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と歌った平群。

平群谷は古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地である。さらに、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されていて、今は穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみるウォークである。平群谷の紅葉も満喫したい。

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   烏土塚古墳

1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験を―

12月は「大神神社と三輪そうめん」にご案内いたします。そうめんは奈良が発祥の地、その中でもそうめん作りをリードしてきた本家本元の「山本」で、そうめん延し体験と美味しいそうめんを味わっていただきます。

食事後は箸墓古墳と纒向遺跡をご案内いたします。

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そうめん手延べ体験・・自分で手延べした生そうめん、お持ち帰り



by koza5555 | 2017-07-20 15:50 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

石上神宮のご例祭(ふるまつり)

10月15日(土)は石上神宮のご例祭。祭は10月1日の榜示浚から始まる。

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お旅所、田町(たちょう)の榜示立

10月15日、まつりの日に石上神宮へお客様をお連れすることになった。「お祭りの日に神社」、良さそうに見えてこれがなかなかのクセモノである。
お祭りを楽しみながら、そして巻き込まれないようにである。


石上神宮のご例祭である。
平安時代、白河天皇の永保元年(1081年)に勅使が御参向(ごさんこう)となり、走馬十列(そうまじゅうれつ)を奉納された故事に始まるとされる。渡御は大和の秋祭の中でも随一という壮麗さで、「ふるまつり」とも「田村渡り」とも称された。
① 御旅所の田町(たちょう)より、稚児が騎馬にて御幣を奉持して社参(午前8時半)。
② 午前10時から昇殿、献饌、普通神饌と合わせて稚児より荷前(穂のついたままの稲株)が奉じられ、幣帛が奉じられる。
③ 祝詞奏上、氏子献幣使祭詞奏上、舞楽、玉串拝礼があり、稚児に御幣が授与されて祭典は終了する。
④御魂代を御ほうれん(神輿)に遷御する。
⑤ 午後一時からお渡り。田村町までの4キロを渡御する。

この祭りに先立って、10月1日に執り行われる榜示浚神事が神社の性格を表し興味深い。
榜示とは中世荘園の成立の折、四至榜示を明記したとされる。そこに杭を打ち、石を置いたとのことで、それが今も地名として残る例も見られる。(たとえば生駒市高山)
祭祀に当たり、境内に榜示杭を立てる場合(鳥居もその一つか)と、石上神宮のように広く氏子地域に立てる場合もその役割は変わらない。
石上神宮の場合は、北郷、南郷で八カ所。中ツ道まで領域として、南西は備前橋(神社から8キロほど離れている)に立てるのである。

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備前橋の榜示立て
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ちなみに北郷は ①石上市神社、②岩上神社、③八釼神社(田井庄町)。④三十八神社(南六条)
南郷は ①春日神社(内馬場町) ②神明神社(川原城町) ③備前町南端、④田町、厳島神社となっている。(以上は石上大神の祭祀と信仰  白井伊佐牟著参照)

こんなことを話しながら、それから石上神宮の神剣のことを話しながら、ツアーを行う。
それにしても、さすがに軍事氏族の物部が奉じた神社である。神話に出てくる主要な刀が勢ぞろいだ。
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これが僕が考えた石上神宮の神剣の数々



このパネルで・・で、どんなふうに語るか。
いずれにしても、物部おそるべし・・かな
by koza5555 | 2016-10-12 22:03 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

国のはじまり、大和の中の大和を歩く(天理市南部の古代と近世の歴史)10月26日(水)

10月の「大人の学校」(代表 溝口博己)の企画は天理市南部にこだわった歴史ウォークにした。
天理駅東口の集合は午前10時で長柄駅を3時すぎに解散する。

ツアーのテーマは西山古墳
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はじめに丹波市。旧山添郡のダウンタウン。こちらの市座神社を拝観、そのまま西山古墳、峯塚古墳、石上神宮まで東上する。午後は内山永久寺跡、夜都岐神社、竹之内環濠集落、大和神社という行程である。いつものように「ウォーキングは早めの昼食」を心がけているから、お弁当は石上神宮である。

丹波市のとっておきのテーマは青石橋。
地元ではこの橋を「あお」と呼んでいたとのことである。もともとは古墳由来の青い石板が敷かれていたことからそう呼ばれた。
この板が市座神社に置かれている。それは見学できるのだが、説明版では青板がもう一枚、民家に残っているとのことであるが・・・先日、その場所を教えてくれた方がいた。さらに「天理大学の近江先生のお話しでは、石棺の蓋ではなく西山古墳の立石」とも。
これはすごい。市座神社と西山古墳が道として話としてつながった。

石上神宮では、神剣の数々を考える。
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夜都岐神社が格別の面白い。拝殿の藁ぶき屋根の葺き直しもすごいが春日大社との関連を考えたい。
この神社と春日大社は特別の関係がある。「蓮の御供え」という神饌を毎年春日大社に献供、春日大社からは神殿、鳥居が下げられるのが例となっていた。江戸時代までのことである。
どの本にも、また境内の掲示にも「蓮の御供え」は記されているのだが、この「蓮の御供え」とは、何かが判らない。
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葺き替えられた夜都岐神社

さらに大和神社、おくの深い「ちゃんちゃん祭り」も語ってみよう。来年の4月1日のちゃんちゃん祭り、絶対に大和神社を訪れたくなる秘話もある。
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山の辺の道(国のはじまり、大和の中の大和を歩く)
■10月26日(水)
集合 午前10時  JR(近鉄) 天理駅東口
解散 午後3時ころ JR長柄駅
■コース(歩く距離 8km程度)
JR(近鉄)天理駅東口 → 丹波市 → 西山古墳 → 昼食(石上神宮)→ 内山永久寺跡
 → 西乗鞍古墳 → 夜都伎神社 → 竹之内環濠集落 → 大和神社 → 長柄駅(解散)
■参加費 800円(学校経費、資料代など)
■持ち物:弁当・飲み物・雨具・歩きやすい履物で

■ お申込み・お問い合わせは
このブログのコメント欄(カギコメでも)か

「大人の学校」代表溝口博己さんまで
hiromi-03.30@kym.biglobe.ne.jp
090-8986-8844   FAX  0743-53-2769でお申込みください

by koza5555 | 2016-09-22 10:14 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

丹波市の青石橋…青石は現存

天理の丹波市にすごいものが残されていた。

一つは市の跡。
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今、一つは市坐神社に置かれた「青石」
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燈籠もすごい。1830年制である。おかけ接待所と掘り込まれている。
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天理のアーケードから丹波市にむかう旧道(上街道)をすすむと布留川にさしかかる。
小さな川、小さな橋であるが、ダム放水時の警報の出し方などの掲示がしっかりとされており、上流にはダムがあることがよく判る。
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この橋のことは、伊勢街道ぶらりぶらり(林憲次さん)でも紹介されており、近くの「お婆さんに橋の名前を尋ねてみると、一人から『あお橋』という答えが返ってきた。『あお』とは『青』なのかとさらに尋ねたみたがわからなかった」とのことである。


丹波市の市座神社の境内には素晴らしい青い石板が展示されていた。掲示は長いが全文を紹介する。

青石橋の由来
 上街道の布留川南流に架せる橋にして大なる青石を以てす。故にその名を得たり、石棺の蓋である。青石はその両側に添え石をつけて縦に掛けられていたが、明治40年前後に橋がかけかえられ、不要なった青石は百メートルばかり南のこの神社境内に移された。

青石には一方の端近くに二つの穴がある。地元では「馬が踏み抜いたあとだ」などと言う言い伝えも残っているが、おそらく運搬用の綱を通すための穴だろう。
面白いのはその穴のあけ方で、一方が口径30センチもあるのに、裏側では10センチくらい、ちょうど漏斗形に穴があけられている。こうした穴のあけ方は古墳時代に石や玉によくみられるものだという。

ここより東へ700メートルに西山古墳、同じく鑵子山古墳があるが、それらの古墳から運び出されたものか数知れぬらぬは、定かではありません。

このような穴のあいた板石は、近くの民家にも残っているらしい。

通り昔、小高い墳丘の上で大和国原を見下ろしていたたであろう青石は、何百年かの後、布留川の流れの上に箸として、その身を横たえ数知れぬ人馬に奉仕した、石であります。

                                   丹波市町    



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上街道は丹波市で道幅が二倍になった場所が残っている。屋根があり川は暗渠に。ここが市で、さらに市座神社が残されている。


市座神社に200年以上前の常夜灯が残されている。
南 太神宮 西 常夜灯 北 天保元年庚寅(かのえとら)(1830年)
東 おかけ接待所
木の加減で写真が撮りにくいが、この「おかけ接待所」の写真が撮りたかったのである。


天理の歴史を語る上で上街道は欠かせない。この丹波市を13日の奈良の布陣講座で紹介、10月の大人の学校ツアーでは、訪れてしっかり語ってみよう。
by koza5555 | 2016-09-06 23:09 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

石上神宮。神主、忌火(いんび)

石上神宮の勉強をしている。
10月のことだが、石上、大神というツアーを引き受けた。
軽めに考えていたが、募集要項を見て、あわくった。レベルが高いのである。

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石上神宮。この入口は現代にできたもの

まずは、石上神宮の元禰宜、白井伊佐牟(いさむ)さんの『石上大神の祭祀と信仰』が面白しそうである。

この本、「忌火職」から始まる。
石上神宮は長官職を神主とも忌火とも呼ばれたとされる。神主としての斎戒の要は、「忌火飯食忌慎」とされ、浄化されるため浄火、それによってかしがれる飯を食することが求められた。
「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊きする」、これが忌火である。
さらに清浄を保つために「社の境内から出ない」ことが求められた。

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この境内だけの生涯かあ・・・僕にはできんなあ


これは石上にとどまらず出雲大社、三輪社、近江国三上社(祝など)などにも忌火の職号があり、他人と同火せず、常に清浄を求める生活が続けられたという。

お聞きしたところだが、石上神宮には忌火という制度は残されていないとのことではあるが。

「火鑽(ひきり)によって得た神聖な火にて煮炊き」という枠には当たらないが、神に伝えるということでは、様々な連想が成り立つ。

當屋が一年間の潔斎、祭の前夜からの儀式で絶食で神がかりに至るという美保神社(出雲)の祭とか、
百日行という厳しい潔斎を行う出羽三山の冬の峰の松聖の神への仕えかたなど・・・
今も残る長期の潔斎を経ての祭を取りおこなう神主の姿は、どの神社でも共通して行われていたと理解することができるのである。


時代は遡るが、あとは持衰(じさい)のことである。
魏志倭人伝は、航海の安全を祈る神主、持衰を紹介している。

「其の行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわち)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

忌火は持衰か、あるいは持衰の末裔が忌火とみるのか。
でも、航海に持衰が必要ならば、王権の神祭りにも忌火は置かれていたとみるべきだろうか

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最後も石上神宮・本殿も拝殿も

by koza5555 | 2016-08-04 00:27 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)