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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:天理・山の辺の道( 35 )

龍王山古墳群

龍王山古墳群に入ろう・「奈良県随一の古墳密集地帯を行く」というウォーキングを31日に案内する。やまとびとツアーズの企画だが、ありがたいことに定員はオーバーとなった。

龍王山、山頂近くにはタクシーで上がる。安易だが、時間と参加者の体力からみて妥当な設定である。

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龍王山古墳群。山すそ、西門さいもん)川の両岸を中心にした山中の古墳群。古墳(横穴石室含む)数は600基以上、発掘がすすめば総数は1000基を超え、日本最大の群集墳である。古墳の内訳は横穴式石室墳が300基。岩盤を穿って造られた横穴が300基とみられる。

標識がない。ここが新沢千塚古墳群(橿原市)、一須賀古墳群(太子町)、岩橋千塚古墳群(和歌山市)などと大きく違う。

『奈良県遺跡地図』第二分冊と、『龍王山古墳群』(橿原考古学研究所)をじっくり、眺めて案内の方向を考えた。

ポイントを絞って楽しんでいただくウォーキングである。頂上から下るのだから、遺跡地図96は初めに訪れる。だんだんと下がって、あれこれ見るのだが、「六地蔵周辺」を集中的に探索することとした。

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『遺跡地図』でいえば、310から347あたりである。


期待していた342番と340番に入ってみた。奥壁の石が無い。側壁の石も抜けている。これは作った時とは違う形であるから危険と感じた。
 そこで探してみると、素晴らしい石室があった。336番である。入り口が狭い。右片袖式の古墳である。持ち送りがきつく、それを上からシッカリ押さえつける形で大型の天井石小ぶりだが、むちゃくちゃ美人古墳だ。

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20基ほどの古墳に入ったり、覗いてみた。今日は感動する石室をたくさん拝見できた。


更に下って、横穴(おうけつ)墓を拝見する。龍王山古墳群には300以上の横穴墓が残されている。こちらは墳丘はなく、岩を穿って形を整える石室で、山中・山上の崖に掘られている。こんな感じかな。


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龍王山古墳群の築造時期は、6世紀中頃から7世紀末まで。横穴式石室墳径10㍍前後の円墳が多い。墳丘を持たない横穴墓(おうけつぼ)は横穴式石室墳より遅れて造られ、7世紀のものが多い。

古墳群の出土物とかである。権現堂古墳(巨勢谷)と同じ形式の石室がみられる。三里(平群)古墳と同時期の馬具。牧野古墳(広陵町)や二塚古墳(新庄)と同時期の須恵器が出土。環頭大刀、玉類、耳環、馬具、農工具などの副葬品、数多くの土器が出土している。

石室に使用される石は榛原石、地元の石などが複雑に混じる。尾根ごとに石工が違うか。

やはり、被葬者像は気になる。盆地東部に本拠地があった物部、保積、大倭、和邇、柿本などの諸豪族を被葬者とみる。

大和王権の中枢にかかわる巨大古墳が置かれる地域でもあり、その影響下の数多くの豪族の墓とみるとの論もある。古墳の数が莫大。盆地各地の古墳との類似、出土品の共通性から。

龍王山古墳群は松本清張が『火の路』で「死者の谷」と紹介した。

「踏査により確認できた古墳総数(その分布範囲は東西1キロ半、南北1キロ)は、横穴式石室墳及びその可能性あるもの279基、完存もしくは破壊されていてもそれとわかる横穴は292基、総数571基である。その他見落としのものを入れると600基前後と考えられる。その古墳群は数といい、立地条件といい『死者の谷』と呼ぶにふさわしい。」(「竜王山古墳群の問題」清水真一『古代学研究62』)を松本清張が『火の路』に転載して、広く世に知られた。

31日が楽しみである。



by koza5555 | 2020-02-14 22:46 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

菩提もと清酒祭

111日は正暦寺(奈良市菩提山町)にて「菩提もと清酒祭」が行われた。

「奈良県菩提酛による清酒製造研究会」(菩提研)が、室町時代(1400年代)、正暦寺で行われていたという「菩提もと(酒母)」の製造を復活・再現して、それを各酒蔵に持ち帰って清酒を作るという。

「菩提研」には今西酒造(桜井市・三諸杉)、上田酒造(生駒市・嬉長)、葛城酒造(御所市・百楽門)、菊司醸造(生駒市・菊司)、北岡本店(吉野町・やたがらす)、倉本酒造(都祁吐山町・つげのひむろ)、八木酒造(高畑・升平)、油長酒造(御所市・鷹長)の8社が参加されている。


室町時代の酒造記、『御酒之日記』(ごしゅのにっき)にそって、清酒の酒母(しゅぼ)が作られる。

ちなみに正暦寺は「酒母」の製造免許を受けており、この免許を得ているお寺は奈良県では他にはないとのことである。


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11日に行われたのは、この「酒母」を作るための仕込みだった。


蒸米と麹とそやし水をタンクに投入する。


蒸米・・これは、地元のヒノヒカリとのことである。今日は盛大に蒸し上げる。300キログラムほどである。

麹は「菩提研」参加している酒蔵が、順番に準備するとのことである。今年は生駒市の上田酒造が用意したと聞ききました。

「そやし水」といわれる水が加えられる。この水が菩提もとのカナメらしい。

そやし水は3日ほど前(7日)に仕込みがある。生米(今日、蒸したお米)と水、少しのごはんに、「正暦寺乳酸菌」を混ぜ合わせるのである。そやし水作りに生米を使う事が特徴である。この工程を初度仕込みという

蒸米を4割、麹を2割、そやし水を4割の調合で発酵タンクに入れる。

蒸したお米を境内に広げて、手早く冷やして発酵のタンクに入れていく。

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仕込みを終えて境内、作業場の片付け、清掃をしてから、菩提酛の順調な発酵、育成を祈る正暦寺住職のお勤めがある。

御幣が立てられ、般若心経が唱えられる。ご真言は「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」で、正暦寺ご本尊(重要文化財)の薬師如来であるが、お酒の精に向かってとみると、‥いかにもお酒・・薬で、良い具合だろうか。

御幣が8本、各蔵元はこれを持ち帰る。


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順調にいけば、タンクで菩提酛(酒母)が育ち、「元分け」(持ち帰って清酒をつくる)は10日先(21日の朝9時ころから)の事という。

菩提酛は水、麹、蒸米が三度に亘って加えられて清酒となる。

水が異なり、米も異なることから、菩提酛と言っても、お酒の味はそれぞれである。

お酒の出来は、三月に大阪国税局鑑定官室、奈良県産業振興総合センター、菩提研のメンバーで評価、講評したのちに商品として売り出されるとのことである。

僧侶、各酒蔵などの菩提酛研究会のメンバーなど、そろっての記念写真の撮影である。

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正暦寺、冬はやはり、ナンテンだろう
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by koza5555 | 2020-01-11 20:39 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

さる祭り(天理市福住別所)

福住町別所(天理市)の「さる祭り」、今年は12月22日に行われた。


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婆羅門杉の下の坊


従来は12月23日の天皇誕生日の行事だったが、23日は今年からは祭日ではないことから、「今後はそのあたりの日曜日に実施」と変わったそうである。

福住町別所の「さる祭り」は、地区の男子が旧暦の11月の申の日(12月下旬)に集まり、山の神を山の祭祀場へ送る行事である。

もともとは中学生、小学生の男子の行事だった。大将・副将を決め、祭の準備、行事後の炊き込み御飯をつくる段取りまで、すべてを子供たちで差配して祭は行われていたとのことである。

今では少子化の下で、行事は自治会が中心となり、更に女子児童の参加も求めて行事は行われている。注目すべきところは、子どもの祭であるとの趣旨が通されていて、祭の大将、副将は今でも子どもで、大将は勝田君、副将は舛田君だった。

祭は下の坊(バラモン杉のあるお寺 ご本尊の十一面観音像は奈良県の指定文化財である)で準備する。午前8時くらいから、次々と軽トラックが集まってくる。子どもも一緒に集まる。

参加者、役割の分担をするが、主としてはほぼ全員でひたすら縄をなう。縄の長さがポイントのようである。2時間ほど綯い続けて、出来上がった縄が巻かれ、笹竹にかける。


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 小学校4年生の勝田君もどんどん綯っていく

御幣、縄を持ち、山の祭祀場に出発する。掛け声は「せんざい、まんざい、ごくよう、あさめしくった、はらへった」で、意味は不明である。


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山の祭祀場では、祭壇を造り、周りを何重にも縄をかけまわす。


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最後に、付近の木の肌に、「2019.12.23  12回  勝田 舛田」と彫りこんで祭は終わりである。

「里山における水田農耕の守り神信仰であり貴重」として、天理市無形民俗文化財に指定されている。
村の集会場にはおいしい、炊き込みご飯が用意されており、そのおいしさに、図々しくもお替わりまでいただいた。

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by koza5555 | 2019-12-22 17:31 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

龍王山古墳群

龍王山古墳群(奈良県天理市)に来年(31日)、チャレンジします。


高い所まで(龍王山)、楽に上がり(タクシー)、それなりの険しき道を下って魅惑の龍王山古墳群を探索して、とびきりの美味しきランチをいただくという、夢のウォークを用意しました。やまとびとツアーズ、「古墳に入ろう」シリーズです。

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ウォーキングの紹介は以下の通りです。

3/1() 名物ガイドと天理龍王山古墳群に入ろう!~奈良県随一の古墳密集地帯をゆく~

古墳ファンの心をくすぐる、知る人ぞ知る群集墳

天理駅を午前9時。解散は柳本駅午後345分を予定しています。

今回の古墳に入ろう!シリーズの舞台は天理市。龍王山古墳群は600基とも1000基とも伝わる、古墳時代後期から終末期にかけて造営された県内最大規模の後期群集墳です。

本ツアーでは、天理駅からタクシーで龍王山山頂付近へ向かいます。そこから、龍王山古墳群を雑賀耕三郎氏のガイドで巡ります。山麓では崇神天皇陵や黒塚古墳などの大型古墳にも足を運びます。昼食は、大阪心斎橋の人気店が2017年に移転オープンされた、洋食katsuiにて黒毛和牛ロースの網焼きとエビフライのセットをお召し上がりいただきます。

※解説を聞きながらのウォークのため、比較的ゆっくりとしたペースですが、龍王山山頂付近から下りの道が続きます。どちらかと言えば健脚向けです。


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by koza5555 | 2019-11-30 16:30 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

長岳寺奥の院道と竜王山古墳群

「柳本の遺跡群、長く深い歴史の長岳寺、更に600基もの古墳が連なる竜王山群衆墳を回るコースを作ってみよう」と・・その下見をしてきた。

普通ならばJR柳本駅を出て、オカタ古墳(竜王山古墳群辺りは最大の前方後円墳・ホタテ貝式という論もある)を経て、龍王山古墳群を上る。

JR柳本駅、崇神天皇陵、オカタ古墳、竜王山古墳群を登りつめる。石仏を眺めながら、長岳寺、黒塚古墳展示館というコースである。

「きつそう。食事もどこで」が決まらず、工夫が必要である。


竜王山の群衆墳、これがすごい。

長岳寺から登って、石仏を撮ることができた。善教作風のお地蔵さまも見落とさない。

地蔵座像が浮き彫りにされている。「定和5(1349)218日 仏子行真」と刻銘されている。中山念仏寺にも、同じ年月、同じ大きさ、同じ作風の石仏があるとのことである。

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江戸時代に藤井庄(天理市だが東山中)の人が作ったという不動石仏もある。

目的の長岳寺奥の院に到着する。奥の院には建物はなく、谷川沿いに不動明王が屹立する。高さ2m、火炎光背をもつ。右手に剣を構え、左手は索を持つ。勧進碑があり、元徳2年(1330年)の年号と施主名が刻まれている。


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長岳寺、奥の院道(長岳寺登山道)にめぐる石仏はこれまでにして、めあての竜王山古墳群である。はじめに奥の院北側の横穴式石室である。奈良県遺跡地図の12c―96だろうか。

横穴式石室。使われた石は小さいが、ここに、ここまでかという感じ、胸が熱くなる古墳である。海抜460㍍、ふもとからの高低差は350㍍もある。


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南側の登山道を下る。横穴式石室は次々と現れる。入室できる古墳も数多い。

左手(南側)の杉林にいかにも古墳という土饅頭がある。登山道を外れて杉林に入って、南側からの覗き込んでみると、いずれも石室が残されている。

誰が、何を考えて、これだけの古墳を作り続けたのか‥圧倒される。

石槨と思われる後期も後期の古墳もある。

石室は古い時代の方が大きく、時代が下がるにつれて小型かする。石槨墳とみられる石室も見られた。

この古墳群は横穴式石室墳と横穴が混じって作られたことが特徴で、遺物からみると石室が作らなくなる7世紀にも横穴では追葬が行われていたとみられる。

今回も堰堤の南側辺りにあるはずの3号墳は発見できず。

オカタ塚古墳を経て、渋谷に下りた。

オカタ塚古墳は、全長55㍍の帆立貝式古墳(方形の張り出しは北東)との論もあるが、航空地図からは南西に方形の張り出しを持つ長さが120㍍の前方後円墳とみるのが妥当と思われる。古墳時代後期の、最終段階の前方後円墳である。

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by koza5555 | 2019-11-10 21:37 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

塚穴山古墳と石舞台


塚穴山古墳(天理市杣之内古墳群)は西山古墳の北側に接している円墳である。土取り工事中に発見され、そのまま天理高校の敷地内で保全されている。墳丘は崩されており、また石室は中世以来の度重なる破壊により、天井石の全てと壁の上部の積み石のほとんどが失われている。



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古墳の大きさと石室の大きさに特徴がある。墳丘は直径63mの円墳、周濠と周りを囲む堤防あり、すべてを含めると直径が112mである。


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石舞台は径が51mであるから、こちらの大きさが理解できる。

南方の西山古墳に食い込む形で作られているのが異様である。

石室は花崗岩の巨石で作られており、全長は17m、玄室は7m×3mの広さがあり、玄室の左側(東側)の巨石は幅6m、高さが3,3mもあり、一枚で玄室を構成するほどである。


●石舞台の玄室には奥壁・側壁に沿って、コの字型の排水溝が付けられていた。同様の溝は塚穴山古墳にも残されていること、

●羨道の石積みは、どちらも奥の方は縦長、手前側は横向きに置かれており、製作の意思の共通性が見られる。

●積み石の加工状態は石舞台が素朴、塚穴山のほうが洗練されており、石舞台が先行しているとみられた。

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被葬者は物部連家の有力者とみられる。物部守屋は687年に蘇我との戦いに負け、滅ぶが、物部の本家の布留の地には、この古墳が作れるような独自の物部が力を有していたということである。

古墳は天理高校の敷地内にあり、見学するときは天理高校の事務室に連絡を取る必要がある。

とにかくでかい、物部は蘇我物部戦争を経た後でも、これだけの古墳を造る力を残していた事にも驚く。

天理のイチョウ並木も色づきかけている。この秋の天理散策のコースにはぜひ、付け加たい塚穴山古墳である。

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『天理参考館』第3号 塚穴山古墳発掘中間報告(竹谷俊夫著)参照


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柿もたわわに実っていた


by koza5555 | 2019-10-09 23:59 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

専行院と修陵餘潤之碑

毎日新聞、8月23日(木)のディスカバー奈良は「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)を書いた。

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全文は以下の通りである。

天理市柳本町の専行院(せんぎょういん)には、柳本織田藩の歴代の領主の墓碑と合わせて、「修陵餘潤之碑」(しゅうりょうよじゅんのひ)という自然石の大きな碑が立てられています。

専行院の東方には崇神天皇陵があり、陵をめぐる巨大な周濠を見ることができます。もともとは小さかった周濠を巨大な池に作り替えたのは幕末の織田藩の修陵の工事でした。織田藩は修陵の工事と合わせて、周濠の拡大により灌漑用水の拡大を図ったのです。

陵、周濠の改修により、多くの田に潤いの水が届けられることになりました。時を経て、水の恩を受けた農民が、田植えを終わった時期に専行院に集まり、織田藩の領主の法要を始めました。この法要は今も続いています。そして、陵を修理して水の潤いを受けたと記した「修陵餘潤之碑」を境内に立てて、感謝と喜びの気持ちを表しました。(奈良まほろぼソムリエの会副理事長 雑賀耕三郎)

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 専行院は天理市柳本町1474番地、JR桜井線柳本駅から徒歩で約10分である。 駅前から黒塚古墳、崇神天皇陵へ東に向かう道から見ると、右手、もう一筋南の路である。車で行くならば、駐車場は大きくて安心して停められる。

 

 この専行院で藩主祭という法要が、毎年7月の第二日曜日に行われている。

 柳本連合自治会の主催で、東京から織田藩の当主を招き、町内の主要団体が集まって法要を行う。

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専行院 松村順雅住職を導師として法要が行われる。

さらに「祭文(さいぶん)」を、森脇完一天理市柳本連合自治会長が読み上げた。

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祭文の要旨は以下のとおりだった。

本日、ここに旧柳本藩主織田信成公並びに織田家歴代のご尊霊を招き、専行院に祭壇を設け織田毅様、日高美智子様、天理市長並河健様をはじめ関係各位のご臨席をいただき、柳本町民、一同と共に頭を垂れて法要を営みます。

顧みすれば、初代織田尚長公の入部以来、織田家は歴代の藩政を担われました。

なかでも第12代 信成公は特に勤王の志厚く、かねてより崇神天皇陵の荒廃を憂い、嘆かれ、公儀の允許を得て 元治元年9月17日に、これの修補に着手され、

人夫57998

工費 銀598

並びに食料米等を支出し、親しく工事を督励して、翌年2月に、その竣成を遂げられました。

御陵の周囲には6町4反の土塁を巡らし、比をみない濠を作られました。古来柳本町は水利に乏しく、年々灌漑用水の枯渇に悩まされていましたが、山稜御修陵以来、貯水を利用して、耕作をすすめて、領民等しく蘇生の思いをいたし、水利の潤いを受けてきました。

今日、住民の生活様式は変革、農業経営の変貌など生活の在り方は変化しました。農業用水だけなく観光・景観など修補の益はますます大きくなっています。

慎みて霊前に向かい、住民を代表して感謝申し上げ、歴代御霊代のご冥福を祈念いたします。

平成3077   天理市柳本町自治連合会会長 森脇完一

崇神天皇陵をぜひ訪問していただきたい。その陵と周濠があなたの心を打つことは間違いない。そして、専行院を訪れて修陵餘潤之碑もぜひとも拝見していただきたいのである。

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by koza5555 | 2018-08-23 05:07 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

黒塚古墳・三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡

黒塚古墳。130メートルほどの前方後円墳、3世紀から4世紀のものである。

墳丘は、中世・近世に砦、お城として使われた歴史があり、改造が著しい。

竪穴石室は後円部の中心、南北にむけて設けられていた。石室に関わる施設では、前方部につながる鞍部から作業道(墓道)が発見されていて、葬送の儀式の入り口、石室を作るための作業通路として使われたらしい。


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盗掘や開発を逃れて、1997年、タイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。鎌倉時代の地震で石室の一部が崩落していたことが幸いであった。

これを復元した、展示館が設けられていている。古墳に登れて、石室模型が見れて、34面の鏡が見られる、県内では稀有の最良の勉強と楽しみの場所である。

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棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡が置かれていた。棺の中、一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。北枕の遺体の頭の上である。


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「邪馬台国は纒向」というツアーで何度も訪れた。

そのツアーでは、「不思議な鉄パイフ遺物」を、「難升米が受け取ったとされる黄憧の可能性がある」などとガイドしてきたが、34枚の鏡についてはあまり語れてこなかった。ちょっと反省するのである。

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昨年に橿原考古学研究所が、「黒塚古墳のすべて」という展示会を行っている。

面白い図録も出ているし、三次元計測という技術を駆使した素晴らしい写真も出ていることが分かった。一つの鏡を測るのに、400万点を計測する(撮るのではなく)という技術らしい。

データベース化もすすみ、同范、同型鏡は一発で判明である。

そんな研究によると、どうも黒塚古墳の鏡はすべてが舶載鏡らしい。

今度のツアーは三角縁神獣鏡、大いに語ってみたい。

まずは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡のことである。

●直径が23センチ程度で大型

断面が三角形の縁

漢字を用いた銘文がある

神像と神獣が描かれる。西王母、東王父


発掘された角縁神獣鏡のことである。

まず、同范、同型鏡という言葉を紹介したい。

同范は同じ鋳型を何度も使う。同型は母型から何度も鋳型を作り、使用する。区別は鏡の傷(鋳出しの時)などからわかるようである。

日本には三角縁神獣鏡は140種類、380枚が発見された。黒塚古墳からは33枚出ているが、黒塚だけというのは3枚しかないとのことである。言い換えれば、ほとんどが流通版だという事である。

中国の鏡の始まり。中国鏡の文様は、もともとは装飾的な図柄が中心だったが、前漢時代(紀元前202年から5年まで)の終わりころに世界観、宗教観を示す図柄が現れる。図柄は四神や霊獣などであった。


後漢時代(25年~220年)には、神仙と霊獣を描かれた神獣鏡が登場する。

西王母などの人の姿の仙人が不老不死の象徴となってくる。

道教の強い影響が感じられ、鏡の所有者には福がもたらされると信じられた。

国内、とくに畿内で大量に埋蔵されたとみられる画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、これらの鏡の紋様をそのまま引き継いでいる舶載(中国産)、もしくは仿製(国産)の鏡である。

黒塚古墳の資料館では、たっぷりとこの図柄を楽しむことができる。

24号鏡と8号鏡を僕は注目してみたい。

24
号鏡。名前は「三角縁天王日月・唐草紋帯四神四獣鏡」 


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この鏡の同范・同型鏡は全国に分布している。

 奈良 佐味田宝塚古墳

 京都 椿井大塚山古墳

 兵庫 吉島古墳1号墳

        2号墳

 滋賀 雪野山古墳

 静岡 赤門上古墳

 東京国立博物館

 直径は23.7センチ

 
 西王母、東王父を感じ取ってほしい。

8号鏡も人気者。三角縁神獣鏡龍虎画像鏡


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こちらは、二人の神人と二体の龍虎。とても大柄で見栄えが良い。

同范・同型なし。ここだけ、これだけオリジナル

平壌(北朝鮮)画紋帯同向神獣鏡(後漢代の後半)には、

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西王母、

東王父、

伯牙(はくが)琴の名手。事の調べで陰陽を調和させる。

黄帝(こうてい)。中国の神話では最高の帝王。巨悪な蚩尤(しゆう)を滅ばす。しゆう・・農耕の神か。人の体で頭に角、足にはヒズメ、81体の同じ形の兄弟がいる。

が描かれている。

これは、今回見れるものではないが、鏡を見るうえでの必須の

西王母がいて、東王父がいて、伯牙、黄帝がいる。

ここらあたりが見とれるだろうか。

クラブツーリズムのツアーの「古事記でたどる大和の旅」の「ヤマトタケル編」で、こんなことをお話ししたい。18日(水)は満席、21日(土)はアキがある。


by koza5555 | 2018-04-10 17:50 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

鎮魂祭(みたまふりのみまつり)石上神宮

1122日、新嘗祭の前夜に天理市の石上(いそのかみ)神宮で鎮魂祭(みたまふりのみまつり)が斎行された。

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鎮魂祭は午後5時から。修祓があり、初めに天神社の祭祀がおこなわれる(天神社は本殿・拝殿の向い側・出雲建雄神社の左手奥である)。祝詞では「みたまふりのみまつりを斎行する」ことの報告がされるところから見ると、この神を地主(産土 うぶすな)とされているのだろうか。

午後530分から御魂祭が斎行される。

「やない箱が神前」に出される・・・この箱が神事の中心で・・祭祀の後にはご本殿に収められる。饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天神から授かった天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)が収められているのだろう。

神事は浄暗の儀式である。事前に「スマホは厳禁。撮影だけでなく電源を切れ」と繰り返し放送される。

宮司、禰宜がやない箱の前で、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり」と十種の宝を読み上げる声、その合間にサラサラと鈴の音が鳴ることから、真榊が振られていると思われる。なにしろ・・闇の中である。

「もしいたむ(痛む)ところあらば、このとうのたから(十宝)をして、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たりと言うて、ふるべ(布留部) ゆらゆらと ふるべ。かくなさば まかるひと(死人)も生き返らん」

こんな呪文である。天神から授かった十種の宝を、順々に数えての「みたまふり」である。

式典後の宮司のあいさつでは、「鎮魂祭は魂を若返らせるお祭り、元気を取り戻すお祭りです。魂を鎮めるお祭りというのは誤解です。今日、力を取りもどした真榊により、皆様は一年、若返りました」と解説されました。

若い方の参加が目立ちました。さまざまな神社、さまざまな神事を拝見しましたが、石上神宮の御魂祭は若さで一番でした。

寒い・・防寒対策は万全に。お昼間に2万歩のウォーキングをしましたので、座るのが堪えました。

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拝殿は宮中の神嘉殿(新嘗祭を行う)が移されたもので、国宝である





by koza5555 | 2017-11-23 07:32 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)

修陵餘潤(よじゅん)の碑ー天皇陵の近代史

『天皇陵の近代史』。吉川弘文館から、外池昇著である。

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行燈山古墳ー崇神天皇陵  

「幕末から明治前期にかけての陵墓をめぐる動向について注目した」として、「文久の修陵をめぐる問題」と「明治政府の陵墓政策をめぐる問題」を解明したいとしている。

「皇室の祭祀体系の整備」の検討と合わせて、「地方の陵墓問題」の解明があり、「浄、穢の廟議」と「村落と陵墓」は引き込まれる。

陵墓は「浄か穢れ」かが問題とされている。

もともと荷前(のさき)使いは、「神事に似たり」(年中行事秘抄 858年)とされ、「浄」であるとされた。しかし、実質的には荷前使に赴いた貴族は正月行事に出仕できなかったりで「穢れ」という考えが続いてきていた。だから貴族は懈怠といって、荷前使を休んでしまう・・この使に立つと宮中の正月行事に出仕できなくなるのだから当然のサボタージュである。

明治元年の廟議には谷森義臣が出てくる。谷森の論は「本来的に神である天皇の陵が穢処であるはずがない」であり、その後は、それが貫かれている。

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陵墓に鳥居が立つ理由がわかるような気がする。

陵墓の発掘調査に宮内庁が反対する理由も、「墳墓だから」であり、さらに「神聖な場」だからということだろう。

こんな考えに立てば、考古学に基づく、治定、比定のやり直しなどは宮内庁は問題にもしないだろう。

良し悪しは別として、陵墓に対する宮内庁の考えがキチンと理解することができた。

村落と陵墓がとてもおもしろい。目からうろこがいっぱい落ちた。

一つは農地とか山林としての利用の問題

文久の修陵以前は、陵墓とされた古墳であっても後円部の墳頂だけが陵墓とされていた。だから古墳内の農地は普遍的な状態で、これは農民の勝手な耕作ではなく、年貢地となっていて、各藩の公的な耕地だったことが紹介されている。

びっくりですね。明治以降、立ち入りが禁止となり、地元民は陵丁などでかかわりを持って行った。

しばらくは、雑木、落ち葉の清掃などでのかかわりがあるが、明治30年代には古墳墳丘の植栽の変化などから、地元民は古墳から遠ざけられていくことになった。

今一つは、ため池としての役割である。

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こちらは利用が締め出されるのではなく、用水としての価値が高まったということである。

古代から通して、水のない周濠は普通の状態とのことである。水があれば常に浸食を受けるのであるが、その証拠がない。空堀とのことである。

今のような周濠の姿は文久の修陵以降のことらしい。もともと雨水だけを貯めるのだから、その量は限られ、灌漑用水としての値打ちはない。

崇神天皇陵(柳本行灯山古墳)はその典型である。古市古墳群なら安閑天皇陵(羽曳野市)である。

崇神天皇陵の文久の修陵の普請、柳本の全村挙げて取り組んだとされる。農業用水の確保である。同古墳近くの専行院には明治29年(1896年)2月に建てられた「修陵餘潤(よじゅん)の碑があるが、これは周濠の普請完成を記念したものである。

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天皇陵古墳の歴史も、おもしろい

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by koza5555 | 2017-10-11 08:25 | 天理・山の辺の道 | Comments(0)