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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:桜井・山の辺( 98 )

纒向遺跡とモモの種

纒向遺跡でモモの種が論争の的となっている。

纒向遺跡では大型建物の柱跡付近の土坑から様々な遺物に交じり2000個以上のモモの種が発掘されている。

このモモの年代が最新の技術で、分析をされている。今までも土器などからその古さは指摘されてきていたが、発掘されたモモそのものもの試験である。

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桜井纒向学研究センターは『研究紀要第6号』(330日付け発行)をめぐって記者発表している。

名古屋大学の中村俊夫名誉教授が纒向遺跡から出土の桃(モモ)の種を放射性炭素年代測定法で調査をしたという論文や、

同所の森暢郎研究員が動物の骨の発掘(183次調査)の論文を乗せたりしており、売り切れになるという具合で、この号は好評となった。

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その、モモの種について紹介する。

まずは検査の方法。放射性炭素年代測定法のことだ。

植物遺物には「放射性炭素原子14C」が含まれるが、これが規則的に壊れていき、5730年で半減となる。だから、きちんと調べれば、何年前の植物・・、それがわかる。

基準は1950年で、実はこの時期の水爆実験により、大量の14Cが大気に放出されたことからその後のデータは使用できなくなる。だから、1950年が原点となり、そこからビフォー1800年などという形で示される。

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分析結果。12個のモモの種  Momoと書いてある

名古屋大学が加速器質量分析計で調べてみると、モモの種の12個は平均で 1820 BPとなり、基準の1950年から1820年を引き算、誤差の補正をすると、西暦130年から230年の間であることが証明された。

卑弥呼は170年に生まれて、248年まで生きたとされているで、これは卑弥呼、邪馬台国と同時代である。

吉野ヶ里の高島忠平先生は、「分析に信用できない。また、たとえ時代が当たっていても邪馬台国論争とは別の話」(産経新聞615日付けを意訳)と言われているが、反論にはなっていない。

時期も時期だが、モモも種ももう一つ考えてみたい。

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓  2012年の本だ。

「卑弥呼の呪術と桃」がテーマだ。

平成21年 当時の大型建物群の柱跡が発見、平成22年、すぐ近くの土坑から2000個余りの桃の種が出土した。

卑弥呼の宮室説がある場所から、古代中国で呪術に用いられてきたモモの種が出土。

中国ではモモは仙果として、邪悪を避ける力があると信じられてきた。

モモの木で作った人形(桃人)を門に立てたり、モモの枝を門に挿したり、モモ板に呪文を書いたりした。

モモは不老長寿を願って、儀式参加者に食べさせた(菅谷文則)

『記紀』の国生み神話にも。イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂でモモの実を投げて窮地を脱する。

お伽話の「桃太郎」も、モモが鬼を退治する話。

出土したモモの種は、呪術に長けた巫女の存在を感じるさせる。

2000個のモモの採取は大仕事で、その桃は纒向遺跡付近でモモの林で採取された(花粉が大量に出る)と解析されている。モモが巫女の呪術の為に栽培されていた。


時期が大切。モモの種が肝心なんだ。卑弥呼の作法は、大和王権にも秘儀継がれた。

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by koza5555 | 2018-06-30 00:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

黒塚古墳・三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡

黒塚古墳。130メートルほどの前方後円墳、3世紀から4世紀のものである。

墳丘は、中世・近世に砦、お城として使われた歴史があり、改造が著しい。

竪穴石室は後円部の中心、南北にむけて設けられていた。石室に関わる施設では、前方部につながる鞍部から作業道(墓道)が発見されていて、葬送の儀式の入り口、石室を作るための作業通路として使われたらしい。


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盗掘や開発を逃れて、1997年、タイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。鎌倉時代の地震で石室の一部が崩落していたことが幸いであった。

これを復元した、展示館が設けられていている。古墳に登れて、石室模型が見れて、34面の鏡が見られる、県内では稀有の最良の勉強と楽しみの場所である。

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棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡が置かれていた。棺の中、一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。北枕の遺体の頭の上である。


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「邪馬台国は纒向」というツアーで何度も訪れた。

そのツアーでは、「不思議な鉄パイフ遺物」を、「難升米が受け取ったとされる黄憧の可能性がある」などとガイドしてきたが、34枚の鏡についてはあまり語れてこなかった。ちょっと反省するのである。

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昨年に橿原考古学研究所が、「黒塚古墳のすべて」という展示会を行っている。

面白い図録も出ているし、三次元計測という技術を駆使した素晴らしい写真も出ていることが分かった。一つの鏡を測るのに、400万点を計測する(撮るのではなく)という技術らしい。

データベース化もすすみ、同范、同型鏡は一発で判明である。

そんな研究によると、どうも黒塚古墳の鏡はすべてが舶載鏡らしい。

今度のツアーは三角縁神獣鏡、大いに語ってみたい。

まずは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡のことである。

●直径が23センチ程度で大型

断面が三角形の縁

漢字を用いた銘文がある

神像と神獣が描かれる。西王母、東王父


発掘された角縁神獣鏡のことである。

まず、同范、同型鏡という言葉を紹介したい。

同范は同じ鋳型を何度も使う。同型は母型から何度も鋳型を作り、使用する。区別は鏡の傷(鋳出しの時)などからわかるようである。

日本には三角縁神獣鏡は140種類、380枚が発見された。黒塚古墳からは33枚出ているが、黒塚だけというのは3枚しかないとのことである。言い換えれば、ほとんどが流通版だという事である。

中国の鏡の始まり。中国鏡の文様は、もともとは装飾的な図柄が中心だったが、前漢時代(紀元前202年から5年まで)の終わりころに世界観、宗教観を示す図柄が現れる。図柄は四神や霊獣などであった。


後漢時代(25年~220年)には、神仙と霊獣を描かれた神獣鏡が登場する。

西王母などの人の姿の仙人が不老不死の象徴となってくる。

道教の強い影響が感じられ、鏡の所有者には福がもたらされると信じられた。

国内、とくに畿内で大量に埋蔵されたとみられる画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、これらの鏡の紋様をそのまま引き継いでいる舶載(中国産)、もしくは仿製(国産)の鏡である。

黒塚古墳の資料館では、たっぷりとこの図柄を楽しむことができる。

24号鏡と8号鏡を僕は注目してみたい。

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号鏡。名前は「三角縁天王日月・唐草紋帯四神四獣鏡」 


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この鏡の同范・同型鏡は全国に分布している。

 奈良 佐味田宝塚古墳

 京都 椿井大塚山古墳

 兵庫 吉島古墳1号墳

        2号墳

 滋賀 雪野山古墳

 静岡 赤門上古墳

 東京国立博物館

 直径は23.7センチ

 
 西王母、東王父を感じ取ってほしい。

8号鏡も人気者。三角縁神獣鏡龍虎画像鏡


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こちらは、二人の神人と二体の龍虎。とても大柄で見栄えが良い。

同范・同型なし。ここだけ、これだけオリジナル

平壌(北朝鮮)画紋帯同向神獣鏡(後漢代の後半)には、

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西王母、

東王父、

伯牙(はくが)琴の名手。事の調べで陰陽を調和させる。

黄帝(こうてい)。中国の神話では最高の帝王。巨悪な蚩尤(しゆう)を滅ばす。しゆう・・農耕の神か。人の体で頭に角、足にはヒズメ、81体の同じ形の兄弟がいる。

が描かれている。

これは、今回見れるものではないが、鏡を見るうえでの必須の

西王母がいて、東王父がいて、伯牙、黄帝がいる。

ここらあたりが見とれるだろうか。

クラブツーリズムのツアーの「古事記でたどる大和の旅」の「ヤマトタケル編」で、こんなことをお話ししたい。18日(水)は満席、21日(土)はアキがある。


by koza5555 | 2018-04-10 17:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

鎮魂祭(みたまふりのみまつり)石上神宮

1122日、新嘗祭の前夜に天理市の石上(いそのかみ)神宮で鎮魂祭(みたまふりのみまつり)が斎行された。

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鎮魂祭は午後5時から。修祓があり、初めに天神社の祭祀がおこなわれる(天神社は本殿・拝殿の向い側・出雲建雄神社の左手奥である)。祝詞では「みたまふりのみまつりを斎行する」ことの報告がされるところから見ると、この神を地主(産土 うぶすな)とされているのだろうか。

午後530分から御魂祭が斎行される。

「やない箱が神前」に出される・・・この箱が神事の中心で・・祭祀の後にはご本殿に収められる。饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天神から授かった天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)が収められているのだろう。

神事は浄暗の儀式である。事前に「スマホは厳禁。撮影だけでなく電源を切れ」と繰り返し放送される。

宮司、禰宜がやない箱の前で、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり」と十種の宝を読み上げる声、その合間にサラサラと鈴の音が鳴ることから、真榊が振られていると思われる。なにしろ・・闇の中である。

「もしいたむ(痛む)ところあらば、このとうのたから(十宝)をして、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たりと言うて、ふるべ(布留部) ゆらゆらと ふるべ。かくなさば まかるひと(死人)も生き返らん」

こんな呪文である。天神から授かった十種の宝を、順々に数えての「みたまふり」である。

式典後の宮司のあいさつでは、「鎮魂祭は魂を若返らせるお祭り、元気を取り戻すお祭りです。魂を鎮めるお祭りというのは誤解です。今日、力を取りもどした真榊により、皆様は一年、若返りました」と解説されました。

若い方の参加が目立ちました。さまざまな神社、さまざまな神事を拝見しましたが、石上神宮の御魂祭は若さで一番でした。

寒い・・防寒対策は万全に。お昼間に2万歩のウォーキングをしましたので、座るのが堪えました。

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拝殿は宮中の神嘉殿(新嘗祭を行う)が移されたもので、国宝である





by koza5555 | 2017-11-23 07:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

醸造安全祈願の酒まつり  毎日新聞奈良版

毎日新聞の奈良版(119日付け)、「ディスカバー奈良」大神神社の「醸造安全祈願の酒まつり」を紹介させていただいた。祭りは1114日である。

醸造祈願祭の前日、13日には「志るしの杉玉」の吊るし替え(大杉玉掛け替え)、祭礼当日には全国の銘酒が振舞われるという、とても楽しいお祭りである。

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奈良盆地のどこからでも仰ぎ見ることができる三輪山、このお山をご神体山とするのは大神神社です。数々のお祭りの中でも、参拝者の人気をとくに集めるのは、1114日の醸造安全祈願祭「酒まつり」です。

御ご祭神である大物主命の手助けにより美酒が醸造できたと古代から伝えられており、大神神社は酒造りの神として敬われるようになりました。神社は新酒が作り始められるこの時期に、酒まつりを行います。醸造の安全を祈り、参拝者には樽酒が振る舞われます。

 酒まつりに先立って、13日には拝殿・祈祷殿に吊るされた大杉玉の掛け替えがおこなわれます。重さは200㌕以上もあり、6人掛かりで運ばれます。大杉玉が掛け替えられ、酒まつりが終わると、新酒の印である「しるしの杉玉」は、全国の酒造会社と酒店の店先に吊るされます。

 さあ、いよいよおいしい新酒の季節が到来です。

(奈良まほろばソムリエの会理事 雑賀耕三郎)

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崇神天皇8年冬12月、今頃でしょうか。

崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだといいます。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

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全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。

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大和の一之宮は桜井市の大神神社。奈良盆地のどこからでも仰ぎ見られる三輪山、このお山をご神体山とするのが大神神社である。

大神神社はあれこれすごい。

一つは、神社の創始、神社の始めが、『古事記』・『日本書紀』に記されているということだろう。大神神社が祭る大物主命の由緒やお姿が、日本の歴史書にきちんと記されていて、少なくとも1400年前から確実に信仰されてきたということがわかる。

二つめは神の依り代としてお山を仰ぎ見る信仰が特徴的である。神社に通常みられるご神体は大神神社には置かれていない。それを安置するご本殿、これが大神神社にはないのである。

この大神神社の在り方は、「神様をあがめる元々の姿」ともいわれる。日本の神さまは、八百万(やおろず)の神々といい、山の神、海の神、衣食住の神々などの幾多の神々が敬まわれている。山にも海にも様々な物々が生命体となり、霊魂を持つという考えかたである。江戸時代に、本居宣長がこんなことを解明している。

お山をご神体として祀り、ご本殿を持たない大神神社は「古来の神の祀り方」をしているとみられる。日本の最古の神社としての歴史、神社の形が大神神社には残っている。

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by koza5555 | 2017-11-09 05:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

修陵餘潤(よじゅん)の碑ー天皇陵の近代史

『天皇陵の近代史』。吉川弘文館から、外池昇著である。

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行燈山古墳ー崇神天皇陵  

「幕末から明治前期にかけての陵墓をめぐる動向について注目した」として、「文久の修陵をめぐる問題」と「明治政府の陵墓政策をめぐる問題」を解明したいとしている。

「皇室の祭祀体系の整備」の検討と合わせて、「地方の陵墓問題」の解明があり、「浄、穢の廟議」と「村落と陵墓」は引き込まれる。

陵墓は「浄か穢れ」かが問題とされている。

もともと荷前(のさき)使いは、「神事に似たり」(年中行事秘抄 858年)とされ、「浄」であるとされた。しかし、実質的には荷前使に赴いた貴族は正月行事に出仕できなかったりで「穢れ」という考えが続いてきていた。だから貴族は懈怠といって、荷前使を休んでしまう・・この使に立つと宮中の正月行事に出仕できなくなるのだから当然のサボタージュである。

明治元年の廟議には谷森義臣が出てくる。谷森の論は「本来的に神である天皇の陵が穢処であるはずがない」であり、その後は、それが貫かれている。

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陵墓に鳥居が立つ理由がわかるような気がする。

陵墓の発掘調査に宮内庁が反対する理由も、「墳墓だから」であり、さらに「神聖な場」だからということだろう。

こんな考えに立てば、考古学に基づく、治定、比定のやり直しなどは宮内庁は問題にもしないだろう。

良し悪しは別として、陵墓に対する宮内庁の考えがキチンと理解することができた。

村落と陵墓がとてもおもしろい。目からうろこがいっぱい落ちた。

一つは農地とか山林としての利用の問題

文久の修陵以前は、陵墓とされた古墳であっても後円部の墳頂だけが陵墓とされていた。だから古墳内の農地は普遍的な状態で、これは農民の勝手な耕作ではなく、年貢地となっていて、各藩の公的な耕地だったことが紹介されている。

びっくりですね。明治以降、立ち入りが禁止となり、地元民は陵丁などでかかわりを持って行った。

しばらくは、雑木、落ち葉の清掃などでのかかわりがあるが、明治30年代には古墳墳丘の植栽の変化などから、地元民は古墳から遠ざけられていくことになった。

今一つは、ため池としての役割である。

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こちらは利用が締め出されるのではなく、用水としての価値が高まったということである。

古代から通して、水のない周濠は普通の状態とのことである。水があれば常に浸食を受けるのであるが、その証拠がない。空堀とのことである。

今のような周濠の姿は文久の修陵以降のことらしい。もともと雨水だけを貯めるのだから、その量は限られ、灌漑用水としての値打ちはない。

崇神天皇陵(柳本行灯山古墳)はその典型である。古市古墳群なら安閑天皇陵(羽曳野市)である。

崇神天皇陵の文久の修陵の普請、柳本の全村挙げて取り組んだとされる。農業用水の確保である。同古墳近くの専行院には明治29年(1896年)2月に建てられた「修陵餘潤(よじゅん)の碑があるが、これは周濠の普請完成を記念したものである。

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天皇陵古墳の歴史も、おもしろい

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by koza5555 | 2017-10-11 08:25 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

山の辺の道―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチ

10月の「大人学校」の参加を再度、募集いたします。

コース名は、山の辺の道黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」のランチをいただくグルメウォーク

「洋食Katui」のお弁当をいただくウォーキングを計画しましたが、予定した参加人数の申し込みありませんでした。それで、コースは変えずに、「洋食Katui」のお弁当をやめて、ランチをいただくことにしました。料金も値下げいたしました。なにか、魅力度がそうとうアップいたしました。おいでになりませんか。

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「洋食Katui

日時は平成29年10月25日 ()。

行程はJRまほろば線柳本駅黒塚古墳見学崇神天皇陵昼食(洋食Katuiのランチ)長岳寺 →景行天皇陵 →神籬(ひもろぎ)→穴師坐兵主神社(相撲神社)→珠城山古墳→巻向駅

集  合:JRまほろば線 柳本駅改札口前 午前10時

解  散:JRまほろば線巻向駅

参 加 費:1,200円(拝観料350円、資料代他経費・講師料など)

食事はレストラン(洋食Katsui 山の辺の道を予定。各自払いで、ランチは1500円です)

持 参 品:飲み物・帽子・雨具をお持ちください。*歩きやすい靴でおいでください。

そ の 他:小雨は決行ですが、コース変更をする場合もあります。                   

歩行距離は約6km程度です。急坂はありません。

申し込みは 「大人の学校」の溝口博巳090-8986-8844、もしくは雜賀耕三郎、090-5069-8382

申し込みの締め切りは、平成29年10月18日(水)です。

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黒塚古墳
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景行天皇陵から大和三山をのぞむ
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これぞ、山の辺の道。三輪山を望む。額田王の歌碑も




by koza5555 | 2017-10-01 19:30 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

上ツ道・上街道を歩いてみよう

上つ道・上街道 (丹波市から桜井の札ノ辻まで)というテーマでお話をする。3年目に入ったエルトのカルチャーセンタ―、「おもしろ歴史講座」である。

エルトの改装で、このカルチャーもあと二回だけ。

今回は「上街道」、最終回は「山の辺の道」と決めている。

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9月1日(金)は、上街道、桜井の札ノ辻から話を始める。

桜井は中世から有数の交通の要衝地。全国的な経済人を輩出していることからお話を始めたい。

江戸の魚河岸は日本橋である。大正12年に築地に魚市場が移るまで、こちらが江戸と東京の魚市場だった。この魚市場は「和州桜井村の大和屋助五郎が魚商として市場を開いた(生け簀が人気に)」と『東京市史稿』に紹介されているのである。

「種々活鯛場を設け、広くこの地方(静岡県)の魚類を引き受け、売りさばきしが、ついで問屋の業を営む者を増やし、ついに本船町横店安針町に市場を開くに至り・・」で、これが元和2年(1616年のこと)とのことである。大阪夏の陣の直後である。


さらに同じころに江戸に入った桜井の車力がおり、その4代後の子孫が、江戸の豪商、奈良屋茂左衛門(もざえもん)。(?~1714)であるとされている。紀伊国屋文左衛門と張り合った豪商である。

太和屋助五郎は魚、奈良屋茂左衛門は材木、桜井が生んだ、痛快な偉人だろう。

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     桜井の札ノ辻跡、魚市場跡でもある

んな話から始めて、

桜井市札ノ辻、粟殿、三輪恵比須神社、三輪宿、桜井埋蔵文化財センター、芝村の織田藩、箸中と箸墓古墳、五智堂、大和神社のちゃんちゃん祭り、朝日観音と隔夜僧、青板橋と丹波市の市座神社などをお話しする。

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   長岳寺五智堂 。昔は板が張られており、旅人が休めたようである。

確実に楽しんでいただける。おいでいただきたい。

午後7時から、桜井市の駅前、南都銀行の二階のエルトにて。参加希望の方はメール、メッセンジャーで、直接ご連絡お願いします。

  メールアドレスは   kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

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    こんなお話もいたします。芝村ですもの、織田藩です。


by koza5555 | 2017-08-10 20:11 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当―

大人の学校、今秋は「雜賀の歴史ウォーク」を開催する。毎月、第四水曜日を目安に3回の実施である。

今秋の計画・行先は

★1025日(水)山の辺の道 黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

★1122日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えるー

★1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験に―

今回は山の辺の道を集中的に取り上げ、その間に奈良盆地の対角線の平群谷を案内することとした。

要綱は以下のとおりで、お申し込みは「大人の学校」だが、今日はとりあえず僕のメッセンジャー にお願いします。

今日、紹介するのは

1025日(水)山の辺の道 ―黒塚古墳と長岳寺。話題の「洋食Katsui」の特製お弁当

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「山の辺の道いいとこどり」と題して、山の辺の道を歩きたい。崇神天皇陵や神籬(ひもろぎ)、相撲神社を訪ねて、初期ヤマト政権のふるさとを訪ねる。山の辺の道に新しくオープンした「洋食Katsui」のお弁当をいただくグルメウォーキングである。

「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠そふべしや」(額田王)を歌いながら、三輪山を仰ぎ見て歩くウォーク、ぜひおいでいただきたい。

■行き先 山の辺の道 柳本から巻向へ

■実施日 平成27年10月25日(水)雨天決行

■集合時間 午前10時 

■集合場所  JRまほろば線 柳本駅改札口前

■コース(歩く距離 6km程度)

柳本駅  黒塚古墳 → 崇神天皇陵 → 昼食(洋食Katsuiのお弁当) → 長岳寺  → 神籬(ひもろぎ)→ 穴師坐兵主神社(相撲神社) → 珠城山古墳 巻向駅解散

高低差はほとんどありませんが、未舗装路を歩きますので、歩きやすい靴でおいでください。

■参加費 3200円 拝観料(350円) 食事代(2000円) 資料代他経費・講師料(850円)

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   洋食の勝井のお弁当を


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22日(水)平群のロマン 鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー

倭建命(やまとたける)が「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と歌った平群。

平群谷は古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地である。さらに、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されていて、今は穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみるウォークである。平群谷の紅葉も満喫したい。

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   烏土塚古墳

1213日(水)纒向遺跡と三輪そうめん ―あなたもの三輪そうめんの手延べ体験を―

12月は「大神神社と三輪そうめん」にご案内いたします。そうめんは奈良が発祥の地、その中でもそうめん作りをリードしてきた本家本元の「山本」で、そうめん延し体験と美味しいそうめんを味わっていただきます。

食事後は箸墓古墳と纒向遺跡をご案内いたします。

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そうめん手延べ体験・・自分で手延べした生そうめん、お持ち帰り



by koza5555 | 2017-07-20 15:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

大神神社と「夏越し茅の輪」

大神神社に夏越しの茅の輪が架けられた。夏至の日からだろう。79日まで置かれる。

青々した杉、松、榊が掲げられた茅の輪をくぐってきた。

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「杉、松、榊の三木は神霊の宿り給う霊木である」と記されていたが、「なにゆえ茅の輪」

というのも知りたいものである。

これが、「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」島田裕巳著 双葉社に記されていた。

「このみわの明神は、社もなく、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」と奥義抄(平安時代の歌学書)にあるとされる。

大神神社には、本殿も拝殿もない時代があり、その時代には、山を、そしてその岩を依り代として祀る時代があったと、これはみんなの共通認識だが、その祭りには「茅の輪を岩の上に置きて」祀ったとあるのである。

茅の輪は夏越しの祓にとどまらず、神を祀る基本的な姿であった模様である。

心してくぐらせていただいた。

「神社にもお寺にも行くのか」は、神社のこと、お寺との関係のことが極めて端的に示されている。今年の423日刊行であるので新刊書だが、僕は桜井市図書館でお世話になった。

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神社の古来の姿が解明されている。


今日は社殿のお話だけ紹介しよう。

出雲神社榜示図というのが残されている。出雲大社ではない出雲神社で、京都の亀岡市にいまも鎮まる。鎌倉時代の榜示図が残されている。領域を示す図であるが、ここには山があり鳥居が一本たっているだけだった。現在はこの鳥居のあたりには社殿が建てられている。

鎌倉時代には社殿がなかったことを意味している。

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大神神社の場合も詳しく紹介。大神神社は今も、拝殿はあるがご本殿はない。この拝殿は徳川家綱(四代目)が造営、1664年のことである。

歴史を見ると、1317年には、拝殿の修理という記録があるらしい。

1226年には、当社古来無宝殿。唯三個鳥居あるのみ」と記される(大三輪鎮座次第)。三つ鳥居のことである。

ここに、奥義抄(平安時代の歌学書)の紹介があり、「このみわの明神は、社もなて、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」とある。

大神神社では、平安時代までは、鳥居もなく、(茅の輪をかかげた)岩のところで祭祀がおこなわれていて、鎌倉時代までには三ツ鳥居が建てられるようになり、拝殿は室町時代にならないと建てられなかったということになります。 (p65)

宗教学者の見解だが、激しく僕は共感したい。

大神神社にとどまらず、各地の神社で夏越の祓では、茅の輪くぐりがおこなわれるが、

これは大神神社からのしきたりということであり、

元々は人が通るものでなく、供え物であったり、神と人との仕切りの意味があったりしたものと思われる。

考えてみれば、鳥居も同じで三ツ鳥居や出雲神社(亀岡)の出雲神社などの例をみても、神域と人の世界の仕切りともいえるのであり、鳥居を抜けると神域であり、茅の輪をくぐるとやはり神域ということだろうか。

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鳥居も茅の輪も心を正して入らせていただくことにしなければ。


by koza5555 | 2017-06-23 14:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

桜井市立埋蔵文化財センター

毎日新聞の奈良版、木曜日の「ディスカバー奈良」は奈良まほろばソムリエの会が執筆している。執筆者を募ったところ、20名以上の方が手を挙げた。今週の当番は僕。「桜井市立埋蔵文化財センター」をとりあげた。地元ネタである。

「奈良時代や飛鳥時代のさまざまな遺跡を見学しました。もう一つ前の時代の遺跡を見たくなりまして桜井市にまいりました」と、埋蔵文化財センター前で東京から来られた方が話してくれました。

町じゅうが歴史博物館という桜井市。市内のあちこちで発掘された遺物がここに集められ、弥生時代の銅鐸、纒向遺跡から発見されたさまざまな遺物、古墳時代の埴輪などが、歴史の順に体系的に展示されています。
中でも、纏向遺跡で発見された邪馬台国時代の建物の柱跡にもとづき復元された大型建物の模型展示からは、邪馬台国の時代、日本の王権の幕開けを身近に 感じることができます。

古墳時代の盾持人物埴輪も目を引きます。盾を持った最古の人物埴輪として注目されていますが、なによりこの微笑みには誰もが引き込まれます。
こちらの展示室で古代の風景、古代の暮らしを楽しんでみませんか。
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メインを盾持ち埴輪にした


常設展は旧石器時代から飛鳥・奈良時代までが見学できる。桜井市から出土した資料だけで、日本の歴史を理解することが出来るわけで、これは桜井市民は自慢すべきである。
纒向遺跡コーナー、三輪祭祀のコーナーもあり、埴輪のコーナーもある。

纒向遺跡コーナーでは、尾張、北陸、中国、九州に至るまでの各地から運ばれてきた土器が展示されおり、この遺跡の全国的な中枢の役割が理解できるのである。
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纒向・発掘された大型建物の柱穴から復原された模型

埴輪の展示も充実している。盾持ち人埴輪の笑顔は特別である。2011年2月26日に「茅原大墓古墳」の現地見学会が開かれた。今度の記事は、あの時の感動をそのままの気持ちで書いたものである。

速報展は10月1日(日)まで開催されている。
大藤原京関連遺跡では上ノ庄から、弥生時代前期のほぼ完形な土器が出ているし、三輪遺跡では中世の池状の遺跡などが報告されている。
これはすでにブログに書いた。50センチ下の桜井 桜井埋蔵文化財センター

町じゅうが博物館の桜井、そのまん中の博物館が桜井市立埋蔵文化財センターだ。ぜひとも、おいでください。
歴史の認識が深まるにつれ、この展示室では次々と新たな発見をすることが出来る。場所はJR万葉まほろば線(桜井線)・三輪駅から徒歩10分、大鳥居の足元である。
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by koza5555 | 2017-06-15 06:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)