人気ブログランキング |
ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

カテゴリ:桜井・山の辺( 73 )

海石榴市

大地と空をつなぐ大樹は、今も古代も心の依り代である。


雄略天皇の泊瀬朝倉宮には槻の樹、飛鳥の宮には槻の木の広場。

古代の市も例外でなく餌香(えが)の市には橘、海石榴市には椿、おそらく石上の巷には楢の木(ならの石上から・・・)が植えられていた。


8
18日に東京の奈良まほろば館で聞いていただいた。さらにパワーアップして、25日には三輪恵比寿神社にて「萬葉集と山の辺の道」のお話しをする。とりあえず椿市から始めるが、書紀、万葉だと海石榴市(つばきち)と記される。江戸時代の国文学者、契沖は「つばきとざくろは花が似ている」と書いたが、どうも、これは「実が似ていた」であろう。

では、どこで、いつ、誰が取り交ぜてしまったのか。その「首謀者は隋の皇帝 煬帝じゃないか」(笑)なんて言う話なのである。

椿市と海石榴市。
山辺の道は桜井市金屋、三輪山の南の山すそから始まる。横大路があり、初瀬路があり、宇陀路があり、飛鳥に至る山田道がある。瀬戸内、難波につながる大和川もここら辺りが船運の限界になる。この巷、古代の大きな交易中心地から山の辺の道は始まる。

ここを椿市。古代には海石榴市(つばきち)と言われる。
椿市、この市には椿が植えられた。ところが書かれてみると海石榴市で、これはザクロの事である。これがわからない。
江戸時代の国文学者の契沖は、「椿と柘榴は花が似ているから」とかいうが、これも分からない。

推古天皇16年(西暦)夏4月、小野妹子は大唐から帰朝した。・・・大唐の使人裴世清と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫に至った。

6月15日、客たちは難波津に泊まる。飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。(この時、妹子は中国皇帝、煬帝の親書を百済で失ったと報告した。天皇は妹子を罰していけないと妹子の罪をゆるした)
秋8月3日、唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。

a0237937_20422760.jpg

仏教伝来、僧や仏像が到来したのもこの地と思われる。

a0237937_20422118.jpg

万葉集もご存じのとおりである。代表的な三歌を示してみよう。

海石榴市の 八十(やそ)の巷(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐(ひも)を 解()かまく惜しも (巻十一 2951)柿本人麻呂歌集

紫は 灰指すものぞ 海石榴市の 八十の街に 逢へる兒や誰  

作者未詳(巻十二 3101

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど  路行く人を 誰と知りてか 

作者未詳 (巻十二 3102)                                        

枕草紙(第14段)ならば。清少納言である   市はたつの市。つば市。大和にあまたある中に、長谷に詣づる人の、かならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり。おふさの市。しかまの市。あすかの市。

『大美和』の創刊100号記念特集号で、「いつから椿市を海石榴市と書くのか。なんで椿と柘榴は関係があるのか」、そんなことを調べた人が書いている。成城大学の名誉教授の上原和先生(故人)である。

石榴とはもともと ざくろのこと。隋の煬帝のころの『初学記』にあるという。


「海榴ひらきつきんと欲し、山桜開きて未だ飛はす」。

中国(隋)で詠まれた詩である。山桜は日本の花、この花が開花する前に落花する海榴とは椿の事で、これは日本の情景と判断された。
花の順は、あくまでも椿、山桜、柘榴である。
煬帝は世界から草木を集めたという事も有名で、現実に隋の時代に長安の皇帝の庭の風景とも思われる。


なんで椿が中国では柘榴とされたか・・・江戸時代の国文学者の契沖は「つばきは石榴(ざくら)の花に似て」と注釈したが、それは誤りで、花にではなく、実に似ているのである。椿は春に花が咲き、夏になって溜状の実をつける。ざくろも初夏には花が咲くが、中秋のころには大きな赤橙色の実をつける。

a0237937_20412677.jpg
a0237937_20412971.jpg

8世紀ころからは、日本でも、中国風に椿を海石榴と書かれる。

裴世清が三輪の椿市に到着するのは旧暦の83日(秋)、椿に実が数限りなく実り、これは椿、これは海石榴と喜んだのかもしれない。

8世紀からは椿が中国風に海石榴と表され、平安時代、清少納言のころには椿はつばきとなっている。

海石榴市と書かれた時代は、海石榴市は国の首都の入り口。

椿市と書かれた時代は、長谷への道、伊勢参宮への山に入る区切りの宿・市である。

つばきち(つばいち)の格が、平城遷都・長岡・平安遷都により、国から地方的なものに変わったいったとみるのが妥当だろう。






by koza5555 | 2019-08-21 20:58 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

えびす神道講座

えびす神道講座でお話しします。

825()13時から90分。

「三輪恵比須神社から観た万葉集と山の辺の道」

●三輪恵比須神社にて、参加費は1000円です。講演後はお茶のふるまいもあります。

●お申し込みは、恵比須神社(0744-42-6432)まで

a0237937_13205591.jpg

記録に残る最古の市場は、海石榴市(つばいち)。三輪山のふもとにあり、山辺道・初瀬街道・竹ノ内街道が交錯した交通の要衝だった。

何よりも大和川を通じて難波に通じ、それは中国、朝鮮への窓口ともなりうる場所だった。

推古16(608)、小野妹子とともに、裴世清は海石榴市に到着、80頭の飾り馬で迎えられたという記録も残されている。

この地に市の神として、三輪恵比寿神社がまつられている。

長くて深い歴史を持つ恵比寿神社で、えびす神道講座が行われている。

今回は、初めて外部講師としてお招きいただいた。

海石榴市と恵比寿神社、そして山の辺の道をきちんと考える講座とした。

ぜひともおいでください。

a0237937_13204637.jpg
a0237937_13205796.jpg
a0237937_13205215.jpg
a0237937_13204987.png


by koza5555 | 2019-08-19 13:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

立子塚古墳

『桜井の横穴式石室を訪ねて』という本がある。桜井市埋蔵文化財センターの発行である。

34基の横穴式石室古墳()が紹介されているが、その第一番目が立子塚古墳。景行天皇陵(渋谷向山古墳)の東の丘の上、渋谷村(天理市)の共同墓地に隣接していて、天理市との市境である。もっとも北側に位置しているから一番目に記されたと思うが・・

この古墳は探すのが難解、さらに超難解は石室に入ることである。


a0237937_21030250.jpg
     正面のミカン畑の上に円墳が残されている

「やまとびとツアーズ」で「古代史の聖地・桜井の古墳に入ろう」のツアーを案内しているが、ここに入れたら素晴らしいなあ・・でも、無理だよなあ・・という話である。

コースは柳本駅から黒塚古墳、崇神天皇陵とか・・長岳寺。そのあとにここ、立子塚古墳(見るだけ・・覗くだけ?)、穴師兵主神社に寄り、珠城山古墳、纒向駅なんだけど、「石室に入ろう」が「ウリ」なんだよね。

立子塚古墳。景行天皇陵の東側から柿畑を上がっていく。そのまま上って右手の林に入る。三叉路を超えて共同墓地の六地蔵が見えたら、立ち止まって、左を見る。そこらあたりの雑木にテープがつけられている。

a0237937_21031559.jpg

雑木林・・・竹林に入る。無茶苦茶な倒れ方である。わからなかったら頂上まで上がると、上から土の切込みがはっきり見える。これが羨道であるが、羨道の側石、天井石は抜き取られているのだ。


a0237937_21031804.jpg
こんな竹藪。これが羨道。

かき分け、踏み分けて入ると・・入り口は小さい。

しかも、邪魔するかの如く竹が一本・・


a0237937_21030572.jpg
これは無理だわ。ライトとカメラを下ろして・・・転げ落ちたら拾えないから・・・紐付きでしっかり下ろしたら・・こんな写真が撮れた・・。僕は見ていない(泣)


a0237937_21031125.jpg

入るのは、ずるずると行けそうだが、さて・・出てこれるだろうか・・(笑)

古墳から降りると素晴らしい三輪山が正面に。今は竹やぶで見えないが、古墳を作ったときはくっきりだっただろう。

a0237937_21025901.jpg

「築造時期については出土遺物も不明であるが、二段積みを指向していることや、切石技法を用いていないことなどの石室構造の様子から見て、7世紀前半頃と考えられる。」(桜井の横穴式石室を訪ねて)

a0237937_21034683.jpg


by koza5555 | 2019-02-26 21:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

纒向遺跡とモモの種

纒向遺跡でモモの種が論争の的となっている。

纒向遺跡では大型建物の柱跡付近の土坑から様々な遺物に交じり2000個以上のモモの種が発掘されている。

このモモの年代が最新の技術で、分析をされている。今までも土器などからその古さは指摘されてきていたが、発掘されたモモそのものもの試験である。

a0237937_00180038.jpg

桜井纒向学研究センターは『研究紀要第6号』(330日付け発行)をめぐって記者発表している。

名古屋大学の中村俊夫名誉教授が纒向遺跡から出土の桃(モモ)の種を放射性炭素年代測定法で調査をしたという論文や、

同所の森暢郎研究員が動物の骨の発掘(183次調査)の論文を乗せたりしており、売り切れになるという具合で、この号は好評となった。

a0237937_00175654.jpg

その、モモの種について紹介する。

まずは検査の方法。放射性炭素年代測定法のことだ。

植物遺物には「放射性炭素原子14C」が含まれるが、これが規則的に壊れていき、5730年で半減となる。だから、きちんと調べれば、何年前の植物・・、それがわかる。

基準は1950年で、実はこの時期の水爆実験により、大量の14Cが大気に放出されたことからその後のデータは使用できなくなる。だから、1950年が原点となり、そこからビフォー1800年などという形で示される。

a0237937_00181238.jpg
分析結果。12個のモモの種  Momoと書いてある

名古屋大学が加速器質量分析計で調べてみると、モモの種の12個は平均で 1820 BPとなり、基準の1950年から1820年を引き算、誤差の補正をすると、西暦130年から230年の間であることが証明された。

卑弥呼は170年に生まれて、248年まで生きたとされているで、これは卑弥呼、邪馬台国と同時代である。

吉野ヶ里の高島忠平先生は、「分析に信用できない。また、たとえ時代が当たっていても邪馬台国論争とは別の話」(産経新聞615日付けを意訳)と言われているが、反論にはなっていない。

時期も時期だが、モモも種ももう一つ考えてみたい。

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓  2012年の本だ。

「卑弥呼の呪術と桃」がテーマだ。

平成21年 当時の大型建物群の柱跡が発見、平成22年、すぐ近くの土坑から2000個余りの桃の種が出土した。

卑弥呼の宮室説がある場所から、古代中国で呪術に用いられてきたモモの種が出土。

中国ではモモは仙果として、邪悪を避ける力があると信じられてきた。

モモの木で作った人形(桃人)を門に立てたり、モモの枝を門に挿したり、モモ板に呪文を書いたりした。

モモは不老長寿を願って、儀式参加者に食べさせた(菅谷文則)

『記紀』の国生み神話にも。イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂でモモの実を投げて窮地を脱する。

お伽話の「桃太郎」も、モモが鬼を退治する話。

出土したモモの種は、呪術に長けた巫女の存在を感じるさせる。

2000個のモモの採取は大仕事で、その桃は纒向遺跡付近でモモの林で採取された(花粉が大量に出る)と解析されている。モモが巫女の呪術の為に栽培されていた。


時期が大切。モモの種が肝心なんだ。卑弥呼の作法は、大和王権にも秘儀継がれた。

a0237937_00180791.jpg
a0237937_00181721.jpg


by koza5555 | 2018-06-30 00:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

醸造安全祈願の酒まつり  毎日新聞奈良版

毎日新聞の奈良版(119日付け)、「ディスカバー奈良」大神神社の「醸造安全祈願の酒まつり」を紹介させていただいた。祭りは1114日である。

醸造祈願祭の前日、13日には「志るしの杉玉」の吊るし替え(大杉玉掛け替え)、祭礼当日には全国の銘酒が振舞われるという、とても楽しいお祭りである。

a0237937_05023922.jpg

奈良盆地のどこからでも仰ぎ見ることができる三輪山、このお山をご神体山とするのは大神神社です。数々のお祭りの中でも、参拝者の人気をとくに集めるのは、1114日の醸造安全祈願祭「酒まつり」です。

御ご祭神である大物主命の手助けにより美酒が醸造できたと古代から伝えられており、大神神社は酒造りの神として敬われるようになりました。神社は新酒が作り始められるこの時期に、酒まつりを行います。醸造の安全を祈り、参拝者には樽酒が振る舞われます。

 酒まつりに先立って、13日には拝殿・祈祷殿に吊るされた大杉玉の掛け替えがおこなわれます。重さは200㌕以上もあり、6人掛かりで運ばれます。大杉玉が掛け替えられ、酒まつりが終わると、新酒の印である「しるしの杉玉」は、全国の酒造会社と酒店の店先に吊るされます。

 さあ、いよいよおいしい新酒の季節が到来です。

(奈良まほろばソムリエの会理事 雑賀耕三郎)

a0237937_05033118.jpg

崇神天皇8年冬12月、今頃でしょうか。

崇神天皇が三輪の大神を太田田根子に祭らしめた日に、高橋活日が神酒を捧げて詠んだといいます。

この神酒は わが神酒ならず  倭なす 大物主の 醸みし神酒  幾久  幾久

a0237937_05030851.jpg
全国の醸造元から届けられた数々の酒は壮観です。

a0237937_05022294.jpg




大和の一之宮は桜井市の大神神社。奈良盆地のどこからでも仰ぎ見られる三輪山、このお山をご神体山とするのが大神神社である。

大神神社はあれこれすごい。

一つは、神社の創始、神社の始めが、『古事記』・『日本書紀』に記されているということだろう。大神神社が祭る大物主命の由緒やお姿が、日本の歴史書にきちんと記されていて、少なくとも1400年前から確実に信仰されてきたということがわかる。

二つめは神の依り代としてお山を仰ぎ見る信仰が特徴的である。神社に通常みられるご神体は大神神社には置かれていない。それを安置するご本殿、これが大神神社にはないのである。

この大神神社の在り方は、「神様をあがめる元々の姿」ともいわれる。日本の神さまは、八百万(やおろず)の神々といい、山の神、海の神、衣食住の神々などの幾多の神々が敬まわれている。山にも海にも様々な物々が生命体となり、霊魂を持つという考えかたである。江戸時代に、本居宣長がこんなことを解明している。

お山をご神体として祀り、ご本殿を持たない大神神社は「古来の神の祀り方」をしているとみられる。日本の最古の神社としての歴史、神社の形が大神神社には残っている。

a0237937_05083216.jpg


by koza5555 | 2017-11-09 05:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

上ツ道・上街道を歩いてみよう

上つ道・上街道 (丹波市から桜井の札ノ辻まで)というテーマでお話をする。3年目に入ったエルトのカルチャーセンタ―、「おもしろ歴史講座」である。

エルトの改装で、このカルチャーもあと二回だけ。

今回は「上街道」、最終回は「山の辺の道」と決めている。

a0237937_19542822.jpg

9月1日(金)は、上街道、桜井の札ノ辻から話を始める。

桜井は中世から有数の交通の要衝地。全国的な経済人を輩出していることからお話を始めたい。

江戸の魚河岸は日本橋である。大正12年に築地に魚市場が移るまで、こちらが江戸と東京の魚市場だった。この魚市場は「和州桜井村の大和屋助五郎が魚商として市場を開いた(生け簀が人気に)」と『東京市史稿』に紹介されているのである。

「種々活鯛場を設け、広くこの地方(静岡県)の魚類を引き受け、売りさばきしが、ついで問屋の業を営む者を増やし、ついに本船町横店安針町に市場を開くに至り・・」で、これが元和2年(1616年のこと)とのことである。大阪夏の陣の直後である。


さらに同じころに江戸に入った桜井の車力がおり、その4代後の子孫が、江戸の豪商、奈良屋茂左衛門(もざえもん)。(?~1714)であるとされている。紀伊国屋文左衛門と張り合った豪商である。

太和屋助五郎は魚、奈良屋茂左衛門は材木、桜井が生んだ、痛快な偉人だろう。

a0237937_19552053.jpg
     桜井の札ノ辻跡、魚市場跡でもある

んな話から始めて、

桜井市札ノ辻、粟殿、三輪恵比須神社、三輪宿、桜井埋蔵文化財センター、芝村の織田藩、箸中と箸墓古墳、五智堂、大和神社のちゃんちゃん祭り、朝日観音と隔夜僧、青板橋と丹波市の市座神社などをお話しする。

a0237937_19520986.jpg
   長岳寺五智堂 。昔は板が張られており、旅人が休めたようである。

確実に楽しんでいただける。おいでいただきたい。

午後7時から、桜井市の駅前、南都銀行の二階のエルトにて。参加希望の方はメール、メッセンジャーで、直接ご連絡お願いします。

  メールアドレスは   kozaburo@cg8.so-net.ne.jp

a0237937_20015859.jpg
    こんなお話もいたします。芝村ですもの、織田藩です。


by koza5555 | 2017-08-10 20:11 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

大神神社と「夏越し茅の輪」

大神神社に夏越しの茅の輪が架けられた。夏至の日からだろう。79日まで置かれる。

青々した杉、松、榊が掲げられた茅の輪をくぐってきた。

a0237937_14291247.jpg

「杉、松、榊の三木は神霊の宿り給う霊木である」と記されていたが、「なにゆえ茅の輪」

というのも知りたいものである。

これが、「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」島田裕巳著 双葉社に記されていた。

「このみわの明神は、社もなく、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」と奥義抄(平安時代の歌学書)にあるとされる。

大神神社には、本殿も拝殿もない時代があり、その時代には、山を、そしてその岩を依り代として祀る時代があったと、これはみんなの共通認識だが、その祭りには「茅の輪を岩の上に置きて」祀ったとあるのである。

茅の輪は夏越しの祓にとどまらず、神を祀る基本的な姿であった模様である。

心してくぐらせていただいた。

「神社にもお寺にも行くのか」は、神社のこと、お寺との関係のことが極めて端的に示されている。今年の423日刊行であるので新刊書だが、僕は桜井市図書館でお世話になった。

a0237937_14300256.jpg

神社の古来の姿が解明されている。


今日は社殿のお話だけ紹介しよう。

出雲神社榜示図というのが残されている。出雲大社ではない出雲神社で、京都の亀岡市にいまも鎮まる。鎌倉時代の榜示図が残されている。領域を示す図であるが、ここには山があり鳥居が一本たっているだけだった。現在はこの鳥居のあたりには社殿が建てられている。

鎌倉時代には社殿がなかったことを意味している。

a0237937_14284801.jpg

大神神社の場合も詳しく紹介。大神神社は今も、拝殿はあるがご本殿はない。この拝殿は徳川家綱(四代目)が造営、1664年のことである。

歴史を見ると、1317年には、拝殿の修理という記録があるらしい。

1226年には、当社古来無宝殿。唯三個鳥居あるのみ」と記される(大三輪鎮座次第)。三つ鳥居のことである。

ここに、奥義抄(平安時代の歌学書)の紹介があり、「このみわの明神は、社もなて、祭の日は、茅の輪をみつくりて、いはのうへにおきて、それをまつる也」とある。

大神神社では、平安時代までは、鳥居もなく、(茅の輪をかかげた)岩のところで祭祀がおこなわれていて、鎌倉時代までには三ツ鳥居が建てられるようになり、拝殿は室町時代にならないと建てられなかったということになります。 (p65)

宗教学者の見解だが、激しく僕は共感したい。

大神神社にとどまらず、各地の神社で夏越の祓では、茅の輪くぐりがおこなわれるが、

これは大神神社からのしきたりということであり、

元々は人が通るものでなく、供え物であったり、神と人との仕切りの意味があったりしたものと思われる。

考えてみれば、鳥居も同じで三ツ鳥居や出雲神社(亀岡)の出雲神社などの例をみても、神域と人の世界の仕切りともいえるのであり、鳥居を抜けると神域であり、茅の輪をくぐるとやはり神域ということだろうか。

a0237937_14292819.jpg
鳥居も茅の輪も心を正して入らせていただくことにしなければ。


by koza5555 | 2017-06-23 14:32 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

桜井市立埋蔵文化財センター

毎日新聞の奈良版、木曜日の「ディスカバー奈良」は奈良まほろばソムリエの会が執筆している。執筆者を募ったところ、20名以上の方が手を挙げた。今週の当番は僕。「桜井市立埋蔵文化財センター」をとりあげた。地元ネタである。

「奈良時代や飛鳥時代のさまざまな遺跡を見学しました。もう一つ前の時代の遺跡を見たくなりまして桜井市にまいりました」と、埋蔵文化財センター前で東京から来られた方が話してくれました。

町じゅうが歴史博物館という桜井市。市内のあちこちで発掘された遺物がここに集められ、弥生時代の銅鐸、纒向遺跡から発見されたさまざまな遺物、古墳時代の埴輪などが、歴史の順に体系的に展示されています。
中でも、纏向遺跡で発見された邪馬台国時代の建物の柱跡にもとづき復元された大型建物の模型展示からは、邪馬台国の時代、日本の王権の幕開けを身近に 感じることができます。

古墳時代の盾持人物埴輪も目を引きます。盾を持った最古の人物埴輪として注目されていますが、なによりこの微笑みには誰もが引き込まれます。
こちらの展示室で古代の風景、古代の暮らしを楽しんでみませんか。
a0237937_5562397.jpg
メインを盾持ち埴輪にした


常設展は旧石器時代から飛鳥・奈良時代までが見学できる。桜井市から出土した資料だけで、日本の歴史を理解することが出来るわけで、これは桜井市民は自慢すべきである。
纒向遺跡コーナー、三輪祭祀のコーナーもあり、埴輪のコーナーもある。

纒向遺跡コーナーでは、尾張、北陸、中国、九州に至るまでの各地から運ばれてきた土器が展示されおり、この遺跡の全国的な中枢の役割が理解できるのである。
a0237937_5573311.jpg
纒向・発掘された大型建物の柱穴から復原された模型

埴輪の展示も充実している。盾持ち人埴輪の笑顔は特別である。2011年2月26日に「茅原大墓古墳」の現地見学会が開かれた。今度の記事は、あの時の感動をそのままの気持ちで書いたものである。

速報展は10月1日(日)まで開催されている。
大藤原京関連遺跡では上ノ庄から、弥生時代前期のほぼ完形な土器が出ているし、三輪遺跡では中世の池状の遺跡などが報告されている。
これはすでにブログに書いた。50センチ下の桜井 桜井埋蔵文化財センター

町じゅうが博物館の桜井、そのまん中の博物館が桜井市立埋蔵文化財センターだ。ぜひとも、おいでください。
歴史の認識が深まるにつれ、この展示室では次々と新たな発見をすることが出来る。場所はJR万葉まほろば線(桜井線)・三輪駅から徒歩10分、大鳥居の足元である。
a0237937_60211.jpg

by koza5555 | 2017-06-15 06:09 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

50cm下の桜井  桜井市埋蔵文化財センター

桜井市埋蔵文化財センターの「50センチ下の桜井」は23回目。4月19日から10月1日(日)までの予定である。

a0237937_2382215.jpg


a0237937_2351351.jpg
桜井市埋蔵文化財センター

さっそく拝見してきた。
「今回の速報展では、平成28年度におこなわれた発掘調査の成果を紹介します。昨年度は12件の調査を行い、大藤原京関連遺跡では弥生時代前期の土坑よりほぼ完形の土器が、三輪遺跡では中世の池状の遺構が確認されるなど、桜井市の歴史を読み解く上で重要な発見がありました。このように50cm下に広がる桜井市の新たな発見を速報として皆さんにお届けします。」(埋蔵文化財センター展示解説書より)

「大藤原京関連遺跡」が僕には興味深かった。場所は桜井ジャスコのすぐ西、上之庄である。この発掘の現場は、僕が夜のウォーキングでいつも通っているあぜ道沿いだったことから、「何が出たのか」と関心があった。
a0237937_23142042.jpg
こんな場所である

a0237937_23101228.jpg
  
発掘されたのは、弥生時代中期のほぼ完形の土器(土坑から)とか、弥生時代前期の多数の土器が発見されたのである。

弥生時代の上之庄の集落はすごかった。こんな時期、形の上之庄の集落は、西方の坪井・大福遺跡に連なる遺跡だろうか。
良く考えると、坪井・大福遺跡に先行する遺跡にも思えて、興味深いところである。

桜井市は大藤原京の東五条条間路推定値として、道路を見つけかったのだが・・・それはそれで、この土器も弥生時代後期の素晴らしい発見だぅった。


大福遺跡から発掘された銅鐸、纒向遺跡から出た大型建物、茅原大墓古墳から出た盾持埴輪に象徴される貴重な発見、発掘物も健在、展示されている。
a0237937_23131639.jpg

by koza5555 | 2017-05-03 23:29 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

三輪の初えびす

毎日新聞の奈良版で今年から「ディスカバー!奈良」という連載が始まった。毎週、木曜日の朝刊である。奈良まほろばソムリエの会がこの連載を担当する。昨年から執筆者会議なども開きながら準備してきており、新年から順調な滑り出しとなった。
今日がその3回目、僕の番になったので、手始めに三輪の初えびすを紹介することにした。

a0237937_13141245.jpg
御湯の神事

文章は300字、これでは行事の紹介で終わりである。三輪の初えびす全体の紹介はムリだから、7日の「御湯の神事」を軸に取り上げた。背景とか、使われる釜とかはかってブログで紹介させていただいたことがあるが、今回はそれも割愛である。

三輪恵比須神社は、2月5日~7日「初えびす」を執り行います。万葉集でも歌われた古代の市場、海石榴市(つばいち)の伝統を引き継ぐ土地柄でもあり、大きなにぎわいとなります。
最終日の7日、午後2時から行われる御湯(みゆ)の神事が見逃せません。八つの大釜で湯を煮えたぎらせます。巫女はそれぞれの釜に米、塩、神酒を入れ笹の葉に浸して参列者に降りかけます。この飛び散る湯滴を受けると無病息災、商売繁盛につながるとされ、参列者は身を乗り出してこの湯滴を受けるのです。
三輪素麺の相場を占い、それを報告するという神事も行われます。三輪の町を練り歩く華やかな「鯛引き行列」も祭を盛り上げます。(奈良まほろばソムリエの会 理事・雑賀耕三郎)
メモ JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から徒歩5分。 近鉄桜井駅下車(バス便あり)


a0237937_13151993.jpg
タイ引き行事の巨大タイ

a0237937_13162186.jpg
今年の行事のポスター。ぜひ、おいでください。

a0237937_13172343.jpg

by koza5555 | 2017-01-26 13:19 | 桜井・山の辺 | Comments(0)