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奈良・桜井の歴史と社会

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カテゴリ:奈良市( 59 )

喜光寺 四天王像が「さとがえり」

木造四天王像が「さとがえり」されていると聞き、喜光寺(きこうじ)を拝観した。

本堂の撮影は自由、SNSでもぜひ紹介してくださいとのことである。こちらで四天王が拝観できるのは92日(月)までである。

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四天王は持ち物こそ、すべて失っているが、力強さが感じられる。腕の張りをひときわ感ずる。

大仏殿を作る際のひな型として、本堂が建てられ「試みの大仏殿」とよばれる。 行基菩薩はこの寺で入寂した。

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ちょうど蓮も見ごろを迎えたと聞き、奈良に所要もあり、今日は喜光寺に寄らせていただいた。


こちらには、會津八一の歌碑が建立されている。

ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかへりつつ(會津八一)

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會津八一は大正10年と11年の秋に喜光寺(菅原寺)を訪れている。一人来て、荒廃した寺を目の当たりにし、悲しさに心がうちひしがれてこの歌を詠んだ。

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南大門も再建された。境内の整備もすすみ、また、この寺では、毎週のように法話が開催されている。開かれた寺として発信力は旺盛で、その意欲に感動する。

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by koza5555 | 2019-07-03 22:56 | 奈良市 | Comments(0)

添御縣坐神社

62日(日)に「平群の古墳」を訪ねるウォーキングを募集している。大和人ツアーズだが、こちらに長屋王墓・吉備内親王墓が置かれている。

長屋王とか万葉集をボヤ~と考えていたら、「添御縣坐神社(そうみあがたにいますじんじゃ)には藤棚があるよ」という声が聞こえてきた。

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こちらには長屋王の歌碑がある。

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長屋王(ながやのおおきみ)、馬を寧楽(なら)山に駐めて作る歌二首

佐保(さほ)過ぎて寧楽の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は 妹(いも)を目離(めか)れず相見(あひみ)しめとそ (巻3-300)

添御縣坐神社は平城山を越える歌姫街道、しばらく行けば京都府というところに置かれている。

こちらは平城宮からはあまりにも近く、ここでいいかなとも思うが、検証の上での歌碑建立だろう。

峠を越えるにあたり、幣を奉って安全を祈る。道中の安全を「妻にまた会えるように」という言葉に込める・・

長屋王の憤死は万葉集にも残されている

「神龜六年己巳(729年)、左大臣長屋王(ながやのおほきみ)死を賜ひし後、倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)が作った歌」

大君の命畏み(いのちかしこみ)大殯(おおあらき)の 時にはあらねど雲隠ります (巻3-441)

刑死にむかう有間皇子とか大津皇子の万葉歌は名高いが、長屋王についても万葉集には残されている。

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添御縣坐神社の藤棚と神社の本殿

御縣神社とは、奈良盆地に置かれていた宮廷直轄領である六御縣(むつのみあがた)に置かれた神社の事で、高市(たけち)、葛木(葛城・かつらぎ)、十市(とおち)、志貴(磯城・しき)、山辺(やまのべ)、曾布(添・そふ)の六社である。

もともと御縣は古代の大王家(天皇家)の領地であり(4世紀ころから)、象徴的に大王家の食材が用意されていたとみられる。

『延喜式』の祈年祭の祝詞によれば、御縣の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されている。

添御縣神社は農の神であり、また大和平野の中央を走る下ツ道の北端にあり国境の手向けの神として崇敬されてきた。


6月2日の「平群のウォーキング」を紹介したい。下に行程も紹介している。申込先は0744-43-8205  やまとびとツアーズである。

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「平群のロマン ―鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー」

平群谷は、古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地と目されています。「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と倭建命も平群は固有名詞を挙げて讃えます。

また、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されています。

穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみます。

行程

◆平群駅前(集合1000

◆三里古墳           1030

  県指定史跡 6世紀後半、玄室に石棚。組合家形石棺

◆長屋王墓・吉備内親王墓    1100

  宮内庁が明治34年に指定。

  長屋王墓は梨本二号墳を再利用している。

  吉備内親王墓は5世紀後半の古墳を再利用。大きな石が鍵の手に組まれている

◆つぼり山古墳

  県指定史跡。7世紀初頭。方墳。くりぬき式家形石棺 


◆西宮古墳          

県指定史跡、地区座波7世紀中ごろ。一辺36mの方墳。精緻な切石石室に注目。          

◆石床神社・消渇神社      14

石床神社旧社地        

◆柿塚古墳           

 径30mの円墳。6世紀前半とみられ、今回の行程では一番古い(形あるものでは)。

◆烏土塚古墳          1500

 国指定史跡。平群谷最大の全方後円墳。組合家形石棺




by koza5555 | 2019-05-04 18:03 | 奈良市 | Comments(0)

春日祭 三勅祭

313日は春日大社の例祭、「春日祭」が斎行される。

例祭や臨時祭に天皇陛下が「勅使」を参向させる祭は「勅祭」という。そのなかでも春日大社の「春日祭」は、加茂社の「加茂祭」、石清水八幡宮の「石清水祭」が合わせて、「三勅祭」である。


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参進する勅使

春日祭は嘉祥3年(850年)に始められる。明治維新後に一般の祭祀となり、特徴のない祭となったが、明治19(1886)に加茂祭、石清水祭に続いて古式に照らして再興され、これを「三勅祭」という。


祭は310日、「立榊式」から始まる。榊は春日山で伐採された竹柏(なぎ)の木である。榊(竹柏)はお祓いを受けたあと、一の鳥居に立てられる。

ちなみに一の鳥居の榊は、御祭と春日祭の時に立て替えられる。

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13日は初めに御戸開(みとびらき)が行われ、のちに神職は二の鳥居内側の祓戸神社に移動する。

黒袍(ほう)の束帯姿の勅使が参進する。

続いて緋色袍の束帯姿の辨代(べんだい)が参進する。辨代は副勅使である。


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御幣物を納めた白木の唐櫃が二さお、神馬が二頭などが勅使のあとに続く。


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本殿への勅使の参進は、今年は「南門から」と聞いた。

祓戸神社から斜めに分かれる道は剣先道といわれる。分かれ道の敷石が剣形になっている。

春日祭の勅使が「藤原姓」の人はこの道を通って、藤鳥居をくぐって本殿へ進むとされるが、今年は(も)南門だった。

この日は、二の鳥居より上には午後一時まで入れない。ご注意されたい。


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春日祭の詳細は、『皇室』69号(平成28年冬号)に詳しい。8pもの大特集である。公立図書館には置かれているだろうから、参考にしてください。



by koza5555 | 2019-03-13 17:57 | 奈良市 | Comments(0)

筒粥祭(登弥神社)

2月1日は登弥神社(奈良市石木町)では「筒粥占い」を行する。

大釜に米と小豆を入れ25リットルほどの水を加えて煮立てる。その窯には紐で縛った38本の竹筒を立てる。竹筒は節のない20㌢ほどの長さの女竹(女竹とは限らないとのことだが、見た目はすべてが女だった)をタコ紐ですだれ状にくくり上げ、それを大きく丸めてくくられる。


朝の
5時に点火、630分まで煮立てられる。お釜は何度も鍋ふたを吹き上げ、お米や小豆はその勢いで「上から」竹筒に入っていくようすである。

630分に菜箸で竹筒が取り出される。慎重に三宝のお皿に移されて、神饌の中央に供えられた。

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神事は7時から。神事のあと、神主と総代・世話役によって占いが行われる。竹筒の束から一本づつ竹筒が外されて、小刀で断ち割られる。


神主が丹念に小豆を数えて「ひのひかり 上」、「こしひかり 上の上」、「人参 上」などと、順々に読み上げる。

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37
種類のお米、野菜、イチゴとか果物の作柄が占われ、38本目は総合・・・である。今年の結果は「総合 上」だった。


上中下の三段階、これがまた三つに分かれており、合計で
9段階の占いである。「古都華(いちご)は下の下」、参拝者の悲鳴が上がるが、「よし、頑張って作れと言うことや」という声も出たりで、氏子の皆さんもにぎやかである。

占いの結果は逐一掲示されて、皆さん、熱心に写されている。

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氏子は奈良市の大和田町、石き町と大和郡山市の城(じょう)町である。粥占いの当番は三町の輪番制であるが、全氏子ではなく選抜である。

今年は大和田町だったが、当番でない町も無関係ではない。昨年の当番町は城町で「後番」というお手伝い。来年は石木町であるが、「見習い」というお手伝いである。

おかゆを焚き上げる火の番は2時間、ずっ~と火の守りをされていた方は当番の大和田町ではなく石木町の方で、「来年は夫が総代、3年ごとの当番だが、役目を総代で果たすのは生涯でおそらく一度の事。夫も頑張っているが、私も頑張らねば」とのことだった。

神事、粥占いを終えると、小豆粥の振る舞いがある。いつまでも熱くておいしい。

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登弥神社(とみじんじゃ)は、奈良市西部、富雄に鎮座。延喜式内社とされている。

春日造りの二社が本殿で東本殿は「高皇産霊神」「誉田別命」、が、 西本殿は「神皇産霊神」「登美饒速日命」「天児屋命」を祀っている。

境内掲示にあるように、筒粥祭は「奈良市指定文化財」に指定されている。


奈良市指定文化財

登弥神社の粥占い  昭和五十七年三月一日指定

粥占いは、粥を用いて農作物の出来を占う年中行事です。

登弥神社ではもともと小正月の行事でしたが、今は二月一日に行います。氏子が毎年交代で、早朝から、米・小豆と、青竹の筒三七本を束ねたものを、湯釜で炊きます。一時間あまりで竹筒を引き上げ、農作物の品目ごとに竹筒を小刀で割り、粥の入り具合でその年の作柄の良否を占います。

豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして、古風な形態をよく残していて貴重です。奈良市教育委員会

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祭祀が終わり、帰路に就こうとすると、生駒山が真っ白・・美しかった。




by koza5555 | 2019-02-01 18:15 | 奈良市 | Comments(0)

都祁水分(つげみくまり)神社の秋祭り

奈良まほろばソムリエ試験のソムリエ級の試験には「400字問題」という論述の課題がある。指定された(5カ所)施設を軸にツアーコースを作り、400字で紹介するという試験である。これを資料の持ち込みなし、漢字を正しく書く(神様の名前だけはカタカナで可)などで書きあげるのだから、けっこう四苦八苦である。



僕は、都祁水分神社を選んだのである。都祁水分神社、都祁山口神社、三陵墓古墳、小治田安麻呂墓などを書いた。ソムリエ級の試験は一発で合格、都祁には足を向けては眠れない。

ここのお祭りが拝見していなかった。西名阪の針インターを通るごとに、ちょっと後ろめたい・・思いがあった。

都祁は古くから開けた。大事な話だが、この話は最後に紹介しよう。

「都祁水分神社の秋祭は1025日と26日だったが・・4年ほど前から土・日に変わった。ウィークディでは困難となった」(西口宮司のお話し)、ということで、お祭りは10月の第4土曜日・日曜日となった。

祭は友田の都祁水分神社と小山戸のつげ山口神社の間の神輿のお渡りである。

土曜日に水分神社の神様は山口神社にお渡りする。もともと水分神社は天禄2年(971年)に山口神社の所から友田に移されたとされる(都祁山口神社由緒)。だから、この渡御は里帰りである。

日曜日は還幸である。僕は還幸だけ、拝見した。

1030分頃に出発。御幣、太鼓、榊、神輿である。神輿は12名、分担は最後まで変わらない。

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神輿は小山戸、安楽寺などで休憩をとりつつ、都祁福祉センター前で大休止。1130分頃に到着するが、それから水分神社からの迎えが来るまで2時間の休憩である。あまり早く帰るのはいけないらしい。

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ここまでは30人ほどであるが、2時頃に水分神社から200名からのお迎えが到着する。

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神輿を先導して秋の神輿道を水分神社に向かう。

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にぎやかな子供神輿の迎えもうける。



水分神社に到着

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神輿は境内を激しく駆け回る。息もあがるが最後は気力だ

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ご神体の還御・・宮司の手でご本殿に安置される。

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神楽があり、御供まきである。

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最後の都祁のことである。都祁は古くから開けた。

仁徳天皇の時代に氷室に関わって闘鶏大山主(つげのおおやまぬし)が出てくる。闘鶏(つげ)は旧都祁村にあたる。

仁徳天皇の皇子の額田が洞を見つけて、何のためにあるかを問う。大山主は氷室と答え、「土を掘ること一丈あまり、カヤを以て其の上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りて其の上に置きます。夏を越しても消えません。暑いときに水酒に浸して使います」(宇治谷孟)すぎてもまり掘り、草をその上に蓋としてかぶせて、厚くちがやや荻を敷いて、氷を取りその上に置きます。」と説明する。

額田はその氷を仁徳天皇に献上した。

大山主、額田大中彦皇子・仁徳天皇は氷室神社のご祭神である。


允恭天皇の時代にも都祁は出てくる。

忍坂大中姫(おしさか の おおなかつひめ)が子供のころ、一人で遊んでいたところに、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)が馬に乗って通りかかり、大中姫をからかう。「庭が造れるか」、とか「そこの野蒜(のびる)を一本」と言う。道端から話しかけるんだから、大した話では無いのだが、のちに姫が皇后となったことから、厄介な話になるというくだりである。

都祁から磐余あたりの宮の道中に忍坂大中姫の住まいがあったという事が良く分かる。

また、この闘鶏国造は、大山主のことと想定されている。



by koza5555 | 2018-10-30 17:41 | 奈良市 | Comments(0)

お水取りの神名帳

『東大寺のなりたち』(岩波新書 東大寺元管長の森本公誠著)の後半部は、「天皇大権の確立」を求めた桓武天皇(系)と東大寺の確執である。

具体的には、修二会に示される御霊(早良親王や井上内親王)の問題や、仏教勢力の排除が紹介されている。


東大寺のお水取り・・修二会のことである。この悔過法要では「神名帳」が毎日読み上げられるが(5日と12日だけ読み上げられる過去帳とは別で)、その最後は十一柱の御霊の名が読み上げられる。御霊(ごりょう)を祀るとは、皇室や政治のトップレベルが冤罪により処罰される、それに祟られるという考えがあり、祀り、しずめるという考え方である。


東大寺が御霊として読み上げるのは、「冒頭は『八嶋の御霊(早良親王) 霊安寺の御霊(井上内親王) 西寺の御霊(淳仁天皇か?) 善光寺の御霊(善光寺は縣犬養刀自が聖武天皇のために建立、二人の間の子、井上内親王・安積親王・不破内親王がいずれも不運な生涯となった) 天満天神(菅原道真)』」
(『東大寺のなりたち』東大寺元管長の森本公誠著)となっている。

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八嶋の御陵


順番で言えば、八嶋の御霊(早良親王)。

早良親王(さわらしんのう・光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇の弟)。長岡京遷都に反対して「大友・佐伯」のクーデターが計画されるという事件がある。桓武天皇を廃することを目的とし、藤原種継を暗殺した。皇太子の早良親王が関わったとされる。

早良親王は淡路に移送される中で死去する。その後、早良親王が激しく祟ったことから、崇道天皇の追称し、奈良の八嶋に祀った。早良親王は11歳の時、東大寺で出家、親王禅師と呼ばれたが、立太子で還俗したとのことである。


続いて井上内親王、聖武天皇の第一皇女であり光仁天皇の皇后である。

井上(いのえは御霊神社 いがみは東大寺)内親王は白壁王(のちの光仁天皇)の后となり他戸皇子を出産、770年に光仁天皇即位に伴い立后、その後天皇を呪詛したとされ、皇后を追われ、他戸皇子と共に宇智郡(五條市)に追われ、さらに訴追をうけ775年に皇子とともに亡くなった。庶人としての扱いをうけたが、天変地異が起き、これが井上内親王の崇りだとされ、墓が改葬されて御墓となった。

「宇智陵 皇后井上内親王 在大和国宇智郡 兆域東西十町 南北七町 守戸一烟」(延喜式)とあり、陵墓の扱いを受けている。


直接は東大寺の消長には関係ないが、森本長老は、こうした方々を神名帳の最後の読み上げていくところに、東大寺の考え方が示されるといわる。延喜式神名帳も心して聞くようにしたいものである。

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光仁天皇皇后井上内親王御陵


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一度は皇太子となった他戸親王陵。母(井上内親王と同じ日に亡くなる)

「天皇大権の確立」。桓武天皇(系)が仏教勢力を排除していく経過も奈良、長岡京、平安京遷都の歴史を考えるうえでの大きなポイントとなる。

これが、遷都の根本的な理由だと良く分かる。

「律令制に基づく権力者としての天皇位を志向する強い意思」(p177)は桓武天皇の決意。

桓武天皇は光仁太上天皇の「服喪期間をめぐって貴族たちとの軋轢が生じるなか、塩焼王の子の氷上川継の謀反が起こった」(p177)が、このたたかいで勝ち、問題で、貴族たちとのたたかいで勝利する。天武天皇系(塩焼王は天武天皇の子、新田部親王の子だから天武天皇の孫となる)の貴族はさらに敗北となった。

仏教勢力の排除と弱体化は強力に進められた。国分寺の僧侶が都にとどまっていることを厳しく摘発したり、大寺の経済活動(独自の高利貸業の禁止)に介入する。

東大寺は仲麻呂によって封5000戸を切り取られていたが、のちに2000戸の返却を受けた。しかし、用途は聖武天皇・光明皇后の供養の仏事に限られていた。この2000戸分も取り上げられて、平安京の東寺・西寺の造営費用に充てられた。そして、造営終了後は東寺、西寺の運営費になるという事で東大寺の経済基盤は沈下していった・・・ 

 

しかし、東大寺は不滅だった。大仏とか修二会とか法華堂の信仰で国の中での役割を取り戻したりしていくのである。

この新書はおすすめしたい。

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御霊神社本宮。五條市には御霊神社は20社以上も現存する

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悠々と飛ぶ、トンビを見ました



by koza5555 | 2018-10-20 10:37 | 奈良市 | Comments(0)

東大寺の法華堂と戒壇院

『東大寺のなりたち』。岩波新書、今年の6月の本である。東大寺元管長の森本公誠長老が書かれた。東大寺を考えてみたいと思っていたが、これは期待通りである。

目次をみると「東大寺前史を考える」とあり、「責めは予一人にあり」で、これは、聖武天皇の心とわかる。

ほかに気になるところは「天皇大権の確立」。桓武天皇(勢力)が仏教勢力を排除したところだった。

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東大寺山堺四至図(さんかいししず)のことである。東大寺の寺地が確定(756年)する。佐保川と能登川が最初に描かれた。この区域内が世俗世界と切り離された聖域とみえる。


この山堺四至図に「山房」と記されている。

天平8年(736年)には、「山房は聖武天皇にとっては観音信仰の場、光明皇后にとっては薬師信仰の場、さらに二人にとっては阿弥陀信仰の、それぞれ基親王を偲ぶ霊場であったことが確認できる」(p18

その後、この山房は金鐘寺となり、隣には福寿寺が建立された。この二寺が合併して丈六寺が建立される。金銅仏の丈六釈迦如来仏が安置された。(p30)併せて、羂索堂の建立もこのころには行われている。

丈六堂の場所は不明だが、「丈六伽藍の立地を探しても、残るは現在の大仏殿当たりしかない」(p31)とされる。

この地はのちに大仏造立の立地となり、金銅仏は「やがて大量の銅が必要となる盧遮那大仏像の一助にする、いわば盧遮那仏増に化身することになった」(p34)。


羂索堂(法華堂・三月堂)の諸仏に関わる解明がある。丈六堂の「天部の諸尊像については羂索堂に移安することになった。つまり現在法華堂に祀られている巨大な乾漆八天像が元は金光明寺の丈六堂の諸尊だったのではないかという見解である」(p34


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「現在法華堂内に安置されている巨大な梵天・帝釈天、四天王、金剛力士の乾漆八天像は、年代的に遅れて入ってきた」(p35


元からの諸像と重複があり、

「内陣を改変、塑像の梵天・帝釈天と四天王の六天像を他堂に移し、執金剛神は厨子に安置した」。ということで、元々の仏像が外に出されてしまうのである。

梵天・帝釈天は日光・月光と名前を変えて薬師如来の脇侍に転用され、やがて江戸期に法華堂に戻ってくる。

四天王像は、中世には中門堂に安置、江戸期に戒壇堂に移ったという。

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「諸仏諸尊像も歴史に翻弄されてきたのである」(p35

戒壇院の四天王が初めに祀られたのは法華堂である。法華堂を拝見したならば、必ず戒壇院も拝みに行こうということである。

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年代がきちんと残っているのは以下のとおりである。

神亀元年(728年)山房造営を命ずる

天平5年(733年)羂索院創建と伝えられる

天平10年(738年)阿倍内親王立太子。福寿寺の造営始まる

天平17年(745年)金光明寺(金鐘寺)で大仏造立事初め

天平勝宝4年(752年)大仏開眼供養会



by koza5555 | 2018-10-11 23:14 | 奈良市 | Comments(0)

押熊八幡神社

6月6日は奈良市押熊の定光寺、歓喜天の開扉日である。一年に一回の開扉日である。

お寺に向かう時、押熊神社・・これが気になった。
拝観を終えた後に、参拝してきた。
押熊八幡神社である。主祭神は八幡神、応神天皇である。

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「押熊に八幡神社か」と思いつつ、境内図をよく見ると、忍熊王 麛坂王 旧跡地と記されている
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以下、境内看板による

日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。

 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。

 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、宇治まで退却した。一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、宇治に至って河の北に布陣、戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き、近江との国境の逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入水、亡くなられた。

この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物、王の一人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。

古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。

忍熊王子神社の祭礼は418日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」戸言って農作業を休み、ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。

「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里に「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。

なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王にちなんでつけられた地名であろう。


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かご池? 鳥居前の池に咲くスイレン

ここは押熊八幡神社である。八幡神社なら、応神天皇・・やろ
同じ境内に、忍熊王、麛坂(かごさか)王の旧跡を持ち、祭りがある。神功皇后、応神天皇の軍の滅ばされた両王、一緒に祀られているのである。
このおおらかさ、どうでしょうか。
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境内には押熊の資料展示室、収蔵庫。どんなものがあるんだろうか。水利組合長の許可があると開くとのこと、表示されていた。


by koza5555 | 2018-06-06 23:31 | 奈良市 | Comments(2)

奈良で一番早い  植槻神社(大和郡山市植槻町)のオンダ

植槻八幡神社

平城京地鎮の古社。創建年不詳。伝承では藤原不比等ゆかりの幻の古刹・殖槻(建法)寺の鎮守社で、平城京の裏鬼門(西南)にあたる宇惠都支(植槻)の地に勧請された。清少納言『枕草子』の「森は(106・195)」に「うゑ(へ)つきの森」の記述がある。毎17日斎行の『植槻おん田祭』は古くから大和三大奇祭の1つ。 植槻神社ツィター


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大和郡山城のすぐ北である

例年は「午前10時に斎行」とのことで訪れたが、シーンとしている。オンダは午後4時から、10時からおぜんざいの接待はいたしますとのことである。大和郡山はちょっと遠いのであるが、出直しである。

ポイントは植槻神社の公式ツイッターにあるように、この神社の前身は平城京の裏鬼門備えのお寺と神社とのことである。九条三坊という条坊からみて、それは認められるとの見解が大和郡山市史に記されている。

さらにポイント。こちらのオンダは、奈良では年明け一番のオンダ祭であるということがある。

オンダは僕の今年のテーマであり、これは見逃せなかった。

神主を先頭に、牛の鼻持ち、牛役、牛追いと拝殿に上る。拝殿の中での行事に今年から変わったとのことである。

鼻持ちは翁の面をかぶり、朗々と口上を述べる。お面をかぶっての口上だが、セリフの内容、声量が氏子のレベルを超えている。そのあとは鼻持ちが鍬をもって、セリフをしゃべりながら、田を耕す(畔を作る?)。

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牛の出番である。牛はカラスキ(唐鋤)を付けて3周、その次にはマンガ(馬鍬)に代えて3周である。

種まきは鼻持ちがして、早苗(松葉)が育ち、田植えとなる。

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こちらの神社には、オンダ祭りに使う鍬(くわ)には、天保10年〈1839〉の墨書銘が残されているのとのことであるが、写真の鍬がそれかどうかは確かめ損ねた。

奈良一番のオンダは17日の植槻神社、奈良で一番終わりのオンダが石上神宮、630日の神剣渡御祭(でんでん祭り)の神田神社で行われるオンダである。

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こちらは石上神宮である。この日は雨で神剣渡御祭が中止。オンダだけ石上神宮の拝殿で実施された




by koza5555 | 2018-01-07 22:38 | 奈良市 | Comments(0)

東大寺勧進所の赤門と公慶上人

東大寺の勧進所の門は赤門である。おなじような赤門を法華寺にみることができ、室生寺にも赤門が残されている。

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            東大寺勧進所の赤門


4月だったか、菅谷文則先生の「歴史と色」という講義を受けた。色は身分を示したり、生死を分ける印であったりということを令義解(りょうぎげ・平安時代の法律の解説書みたいなもの)からの解説だった。


この中で東大寺の勧進所の赤門と東京大学の赤門を話題とされた。少し、時間も経っているが、最近、東大の写真も撮ってきたので、これを僕なりに考えてみた。


東大寺勧進所の門は赤門である。公慶は貞享3年(1686年)、大仏修復勧進を本格的にするため、東大寺の穀屋の地に龍松院(勧進所)を建てる。勧進をすすめて、元禄元年(1688年)には、東山天皇から上人号が勅許された。公慶の個人の評価だけではなく、大仏復興事業を朝廷が認めたということだった。


さて、赤門は門跡寺院(皇族が所属する)などに許されるものである。また江戸時代の大名屋敷などからみてみると、三位以上の官位を受けた者だけに許される門だった。その意味から見ると、公慶上人は三位相当ということなのだろうか。

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      法華寺の赤門。門跡寺院である。

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室生寺の赤門。太鼓橋を渡ると道なりにすぎ左手に見える。開かずの門である。この赤門の設置理由は不明である。


赤門といえば、東京大学である。

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文政10年(1827)加賀藩主 前田家斉にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿(ごしゅでん)門であり、重要文化財に指定されています。(掲示板)

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江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿は御守殿という。これは三位以上の大名であり、この場合は御守殿門が赤門とされた。四位以下の場合は 御住居(おすまい)と称して朱塗りにはされないとのことである。


第13代加賀藩主、前田斉泰は将軍家斉の娘の溶姫を迎えることにより、従三位に昇進したとされる。

この頃(幕末)になると、三位で御守殿、四位のままで御住居という選択は、台所の事情により藩の意向も反映する時代となったと聞く。もちろん、加賀藩は大藩だる。当然、従三位の昇進を求めて、溶姫を迎え、御守殿、赤門を用意したという論もある。

こんな歴史も経て赤門は作られて200年となる。加賀藩の赤門よりもはるかに長い時間を東京大学の赤門として、いまも役割を果たしているのである。


最後に勧進所の赤門と公慶上人に戻りたい。公慶上人はどんなふうに赤門を通っていたのかなである。ところが「公慶上人は赤門を通らなかった」という見方もできるのではと考えた。

上人と勅許されるのは1688年である。

東大寺には「大仏開眼供養図」という屏風が残されている。1692年の会式の図である。この絵に勧進所の赤門が描かれていない。

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話はそれだけである。赤門が作られたのは公慶上人が亡くなってから(1705年)のことかもしれないというのが、僕の問題意識である。
そして、公慶上人の偉業を改めて勉強できたのは、付録の喜びだった。


公慶上人は大仏の修復に成功した。大仏殿の再建の道筋はきちんとつけて亡くなった。

開眼会に参加した僧は一万人以上、俗人が20万人という。当時の奈良市民の10倍以上とのことである。

「公慶はプロデューサーの優れた能力があったように思われる。どのようにすれば人が集まるか、どのようにすれば人が喜ぶか、とてもよくわかっている.企画が優れ、段取りがよく、工夫がみられ、配慮がある。学僧でありながら勧進にも才能を発揮し、何よりも燃え滾る宗教的情熱がある。(西山厚)

参考文献  『近世の奈良 東大寺』 公慶上人の生涯  西山厚 



by koza5555 | 2017-12-29 06:40 | 奈良市 | Comments(0)