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奈良・桜井の歴史と社会

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東大寺勧進所の赤門と公慶上人

東大寺の勧進所の門は赤門である。おなじような赤門を法華寺にみることができ、室生寺にも赤門が残されている。

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            東大寺勧進所の赤門


4月だったか、菅谷文則先生の「歴史と色」という講義を受けた。色は身分を示したり、生死を分ける印であったりということを令義解(りょうぎげ・平安時代の法律の解説書みたいなもの)からの解説だった。


この中で東大寺の勧進所の赤門と東京大学の赤門を話題とされた。少し、時間も経っているが、最近、東大の写真も撮ってきたので、これを僕なりに考えてみた。


東大寺勧進所の門は赤門である。公慶は貞享3年(1686年)、大仏修復勧進を本格的にするため、東大寺の穀屋の地に龍松院(勧進所)を建てる。勧進をすすめて、元禄元年(1688年)には、東山天皇から上人号が勅許された。公慶の個人の評価だけではなく、大仏復興事業を朝廷が認めたということだった。


さて、赤門は門跡寺院(皇族が所属する)などに許されるものである。また江戸時代の大名屋敷などからみてみると、三位以上の官位を受けた者だけに許される門だった。その意味から見ると、公慶上人は三位相当ということなのだろうか。

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      法華寺の赤門。門跡寺院である。

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室生寺の赤門。太鼓橋を渡ると道なりにすぎ左手に見える。開かずの門である。この赤門の設置理由は不明である。


赤門といえば、東京大学である。

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文政10年(1827)加賀藩主 前田家斉にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿(ごしゅでん)門であり、重要文化財に指定されています。(掲示板)

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江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿は御守殿という。これは三位以上の大名であり、この場合は御守殿門が赤門とされた。四位以下の場合は 御住居(おすまい)と称して朱塗りにはされないとのことである。


第13代加賀藩主、前田斉泰は将軍家斉の娘の溶姫を迎えることにより、従三位に昇進したとされる。

この頃(幕末)になると、三位で御守殿、四位のままで御住居という選択は、台所の事情により藩の意向も反映する時代となったと聞く。もちろん、加賀藩は大藩だる。当然、従三位の昇進を求めて、溶姫を迎え、御守殿、赤門を用意したという論もある。

こんな歴史も経て赤門は作られて200年となる。加賀藩の赤門よりもはるかに長い時間を東京大学の赤門として、いまも役割を果たしているのである。


最後に勧進所の赤門と公慶上人に戻りたい。公慶上人はどんなふうに赤門を通っていたのかなである。ところが「公慶上人は赤門を通らなかった」という見方もできるのではと考えた。

上人と勅許されるのは1688年である。

東大寺には「大仏開眼供養図」という屏風が残されている。1692年の会式の図である。この絵に勧進所の赤門が描かれていない。

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話はそれだけである。赤門が作られたのは公慶上人が亡くなってから(1705年)のことかもしれないというのが、僕の問題意識である。
そして、公慶上人の偉業を改めて勉強できたのは、付録の喜びだった。


公慶上人は大仏の修復に成功した。大仏殿の再建の道筋はきちんとつけて亡くなった。

開眼会に参加した僧は一万人以上、俗人が20万人という。当時の奈良市民の10倍以上とのことである。

「公慶はプロデューサーの優れた能力があったように思われる。どのようにすれば人が集まるか、どのようにすれば人が喜ぶか、とてもよくわかっている.企画が優れ、段取りがよく、工夫がみられ、配慮がある。学僧でありながら勧進にも才能を発揮し、何よりも燃え滾る宗教的情熱がある。(西山厚)

参考文献  『近世の奈良 東大寺』 公慶上人の生涯  西山厚 



by koza5555 | 2017-12-29 06:40 | 奈良 | Comments(0)

嶽山(だけやま)古墳

宇陀市榛原安田の山中である。

嶽山から安田に下る尾根に真南に開口する横口式石槨墳である。見た目では横穴式石室の奥に石槨が取り付けたという形で、複雑で不思議な構造となっている。


桜井市の中心部から東を見るとまずは外鎌山だが、実はその奥に大きな山を見ることができる。

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こんな形で堂々としている。ちょっとカマボコ型で東西に長いから、きたの初瀬から見ると台形に見える。この山の南側は笠間、安田、雨師(いずれも宇陀市榛原)と西から東に並んでいる。

国土地理院の地図には526mと記されるが、山名が記されていない。登山道は笠間の新陽明院陵の横から登っていくとNHKの中継塔が設置されている頂上に到着する。

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            新陽明門院陵

笠間の方に山名をお聞きしたことがある。「ダケだ」とのことである。「いや、山の名は」と重ねて聞くと「ダケ」。

違う機会に雨師の方に聞いたら、「ダケ」、しいて言えば「雨師のダケ」。

「ダケ」だけという山名、村にとっては大事な山だったんだなと思われる。

この名前の古墳があることに、今更ながらだが、最近気が付いた。それは「嶽山(ダケヤマ)古墳」という名である。「ああ、ダケは岳じゃなく、嶽なのね」、という感じである。

明治26年に調査されたという野淵龍潜の調査でも286番として記録がある。

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これをさがした。なかなか見つからなかった何とか到着できた。

安田区の農事集積所をまっすぐ西に上がる。左手に「嶽山古墳150m」の看板がある。

そのまま上ると右に電柵が張られた道が見える。そのまま20mも上がると車が停められる。電柵のフックを外して山に入る。すぐに左に分かれる道があり、それを登る。100mほど登ると右手に看板、右へ行けである。ブッシュをかき分けながら右に入ると尾根の真ん

中に大右があり、到達できた。

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入口見る、狭い。先も見えない。これは絶対に無理である。

墳丘の上に上ると、僥倖、カメラが入る穴があった。横穴古墳かと考えたが、一番おくに石槨が築かれている。

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玄室の奥に石槨があるとはと驚くが、これは大阪府羽曳野市の飛鳥千塚古墳群、奈良では桜井(この古墳と近接)の花山西塚古墳(国史跡)位のものらしい。

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「村の西方帰山の峰にあり。石窟ありといえども・・・入りえず」と龍潜は記した。ほかにも「石槨は見ることができない」とされていたが、最近、羨道の合間に口が開いたと思われる。だから、カメラは入る、滑りこめば入れると思うが、出てくるのが至難の業。それは現場で判断してください(笑)。

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by koza5555 | 2017-12-27 21:41 | 宇陀 | Comments(0)

谷(桜井市)の綱かけ

12月23日は、桜井市谷の綱かけ行事が行われた。
昭和19年の『和州祭礼記』(辻本好孝著)には、写真入りで紹介されている。
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谷の氏神様である磐余若桜神社で15メートルほどの綱を綯う。この綱作りは若桜神社の境内で行うが、事前に作られていて、23日は綱かけと神事だけである。

9時くらいから古い綱を外す。
さっそく綱掛が始まる。谷は市街化がすすんだ地域で、「どうしてここが綱掛け場?」とも思えるが、古くはここが村の入り口だった。参加されている最長老が「谷本町は28軒、純粋な農村だった」と言われるが、その雰囲気はあまりない。

頭部が三つに分かれた龍頭があり、それは東のエノキに取り付けられる。西には樹木は無く綱掛け用のポールが建てられている。
エノキに取り付けられた龍頭はアキの方向、来年は南南東に向けられる。

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ちなみにご幣は北向きで谷本町という村から見ると下流向きである。
「邪気に対してはツナ、エノキに取り付けられた龍頭が農神を迎える」と、説明される。

もともと谷の村、特に谷本町(若桜神社周辺の家々)で綱掛行事が行われてきたが、平成に入ってからは「大昭会」(大正・昭和世代で)という講のようなものを設立、そのうちの若手を「二期会」と称して未来に続く組織づくりをされている。
綱を作るのは大昭会と二期会、ツナを掛けるのは谷本町という分担である。
玉串奉奠を見ていると、谷区長、谷本町総代、磐余若桜神社総代、大昭会、二期会の代表の5人だった。
神事、行事が継続できる体制ができている。

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宮司は等彌神社の佐藤宮司である

祭典の最後には、神職を先頭に土地の神、ツナの神をたたえて参列者全員が祭祀場(道路であるが)を三周するという所作がある。
ツナの下を出て、ツナの下から入る、これを黙々と3回である。祭のあとに、たき火の廻りを「ええと、かいと」、「ええと、かいと」と唱えられながら回る儀式を八咫烏神社(宇陀市」の秋祭りで拝見して衝撃を受けたことがあるが、同じ形の行事である。何か、古式に則っているのだろうか。

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先日、東京で勧請綱を講演した時、「それにしても奈良って、本当にすぐそこに神様がいるんだなあ……と思ったりしました」という感想をいただいたが、僕も今日、それを感じた。
谷の綱かけ行事、毎年12月23日、午前10時(9時くらいには来てほしい)からである。
by koza5555 | 2017-12-23 21:54 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

かぎろひを観る会 大宇陀の万葉公園

12月21日付の『毎日新聞』の奈良版、ディスカバー奈良に、大宇陀万葉公園の「かぎろひを観る会」を書いた。

例年、歳末に行われる「かぎろひを観る会」は、今年は年明けの1月3日に実施される。
「かぎろひ」とは、日の出前に東の空が赤紫色に染まる現象というのが大宇陀の観光協会の「公式見解」である。東の空が赤紫色に染まる、かぎろひである。振り返れば西の空に月が見える、これが旧暦の11月17日に見られる現象だろうという事である。今年は、この日が新年の正月月3日ということである。

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この写真は現地では、「かぎろひ」とは認定してもらえないものであるが、僕が撮った最近の写真だ。曙光をバックに高見山が浮かび上がるすばらしい絵となった。

阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠(い)も寝らめやも 古(いにしえ) 思ふに
(巻1―46)阿紀神社に歌碑

東の 野にかぎろひの 立つみえて かへり見すれば 月傾きぬ 
    (巻1―48)    かぎろひの丘

これらの一連の万葉歌は秋の気配を示していて、柿本人麻呂の歌が旧暦11月17日とということを示しているのではと僕は考える。

こんなことを考えながら、毎日新聞のディスカバー奈良で、「かぎろひを観る会」を紹介させていただいた。

1月3日。午前4時から7時まである。
たき火を囲んでの講演や演奏が行われる。今年は元天理大学の谷山正道先生が、「宇陀の歴史と薬草」
というテーマで語られる。

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大宇陀、阿紀野は600年代から日本書紀に記され、万葉集に詠われた歴史に名を留める名所である。
①推古天皇19年(611年)5月5日に、菟田野で薬猟が行われている。
また、壬申の乱(672年)、天武天皇(大海子皇子)の東国発ちでは、吉野から東国へ向かう時、この宇陀・阿騎野を越えたことが記されている。

「その日に菟田の吾城に到る。大伴連馬來田・黃書造(きふみのみやっこ)大伴、吉野宮(よしののみや)より追ひて至けり。この時に、屯田司の舍人土師連馬手、從駕(おほみともにつかえまつる)者の食を供る。
甘羅(かむらの)村を過ぎ、獵者(かりびと)二十余人有り。ことごとくに喚して、ともにつかえまつらしむ。

その後は柿本人麻呂人麻呂が随行して、歌を歌った持統天皇6年(692年)、草壁皇子の遺児である軽皇子(後の文武天皇)の狩である。

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②古代、宇陀の地は丹の生産地だった。弥生時代から古墳時代、藤原・奈良の時代を通して、宇陀の赤土には丹が含まれていることが知られ、産地として知られている
丹(水銀)は不老不死の薬だと思われたが、食べることができなかった。そこで、丹を草木から採れると考え、菟田のキノコを食べた人が長命を保ったと日本書紀には記されている。

この地に、中山正實画伯が描いた『阿騎野の朝』が橿原から、移されたことも貴重である。
この壁画は、大宇陀の公民館(万葉公園に隣接)に壁画として展示されている。

今シーズンは正月3日である。お正月休み中で、チャンスと考えて、ぜひともお出かけください。
そんな思いで紹介させていただいた。

写真はすべて僕が撮影したものである。

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これが当日の地図、駐車場である。

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by koza5555 | 2017-12-21 05:37 | 宇陀 | Comments(2)