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奈良・桜井の歴史と社会

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天皇と民の大嘗祭

来年の今日、今上天皇は退位され、翌日の51日には新たな天皇陛下が即位されることになる。

201951日は即位の儀式が行われるが、「神器」献上は先に行わることが原則であることから見ると、430日に「神器」献上が行われるとみられる。

今日は、その後の大嘗祭のことである。

『天皇と民の大嘗祭』」(展転社・高森明勅)を読んでみた。実は、いくつか読んだ見たが、これが一番・・良い。

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先帝から皇位を譲られた時の大嘗祭は、その即位が7月以前の時はその年の11月、8月以降なら翌年の11月に行われる。

この例から見ると、来年は即位があり、大嘗祭も11月に行われるが通例である。

スケジュールは以下のとおりである。

4月に悠紀(東日本)・主基(西日本)の「国」、「郡」が卜定される。大嘗祭の神事に用いる稲をどこで作るか、という決定である。田植えの時期が関係するから、その前には決まっていなければならない。

大嘗祭の行事所が任命される。行事所は悠紀・主基、それぞれに置かれる。

8月には大祓の使い、天神地祇に幣帛を奉る使いが出される。畿内に一人、七道に一人づつで8名である。

9月には由加(ゆか)物使を紀伊(和歌山)、淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)の三国につかわす。

由加物とは、アワビ、あゆ、たにし、ウニなどの魚介類や蒜英根(ひるのはなね)漬物や橘子などである。たてまつるものが決められているとのことである。

9月には悠紀・主基で抜穂を行い、斎田の稲が到着する。

10月からみそぎが始まり大嘗祭は始まっていく。

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大嘗祭が始まると天皇は先に悠紀殿に入られる。

ここで奈良県が関係、宮内省の役員に率いられた吉野の国栖らが朝堂院に参入し、大嘗宮の南門の外の庭上にて古風(ふるぶり)を奏上する。つづいて悠紀地方の歌人が・・・

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天皇が高御座におつきになる、いわば直来ともいえる豊明節会(とよのあけのせつえ)でも、吉野の国栖が歌笛を奏することから始まり、そのあと久米舞などが奏じられるとのことである。


高森明勅さんは、悠紀・主基の国郡からの献上は「豪族たちの服属のシンボル化されたもの」とする。

由加物を献上する紀伊、淡路、阿波の三国は重要である。これらの国は悠紀・主基とはちがい、すべての大嘗祭に献上する。非耕作民(漁民)の奉仕は歴史が深いとされる。

須恵器をたてまつるのは、河内、和泉、尾張、三河、備前の五ヶ国である。

そして、国栖・隼人、悠紀・主基の民の国風(くにぶり)の奉仕も注目すべきであるとされる。「海・山の民が天皇のお側近くまで参上して奉仕を行う。それによって平素は見えにくくなっている天皇統治の全体性と根源性を浮かび上がらせる効果がある」とのことである。

悠紀・主基殿を取り片づけると豊明節会(とよのあかりのせつえ)で、天皇は高御座におつきなる。ここでも吉野の国栖の歌舞は初めに奉られる。


大嘗祭、全体は「民とのつながり」で進められる。

高森明勅さんは、大嘗祭の成立、大嘗祭の行事の中身を詳細に展開して、天皇の民との大きなつながりを丹念にたどり、日本の国の在り方を検討している。

大嘗祭を研究する文献は、あれこれ見ているが、民の戸の関わりを焦点にした高森さんの炉は共感が持てる。いま、大嘗祭が興味深く、そして、おもしろい。ここでとどまめず、さらに勉強してみたい。


by koza5555 | 2018-04-30 23:29 | 読書 | Comments(0)

大坂山口神社(穴虫と逢坂)

履中天皇と言えば、僕の住む「桜井の成り立ち」に欠かせない大先輩・・じゃないだろうか。

磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)で即位、磐余池を作った。磐余市磯池で舟遊びをしているとき桜の花びらが飛んできたなどという話が記紀に記されている。

この履中天皇、即位前にイザホワケ(仁徳天皇皇子)と名乗っていたころ、弟の住吉仲皇子の反逆に合って大変な苦労をするのである。

難波を逃げ出し、石上神宮に向かう。河内飛鳥の山の入り口で、少女に「敵がいない当麻道を行きなさい」と助言され、竜田山方面に向かう。

山間を出たところ、「数里のところ」に「仲皇子に通じた直吾子籠(やまとあたいあごこ)が兵を備えていた」。その場所は「攪食の栗林(かきはみのくるす)」という。

この「攪食の栗林とはどこ」、「それは大坂の辺りなんだ」との論を最近、読んだ(『悲劇の皇子たち』青垣出版社)。


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大坂と言えば、大坂山口神社、崇神天王の時代(崇神9年春3月)に、「天皇の夢の中に、神人があらわれて教えた。赤の盾を8枚、赤の矛を8本で墨坂の神を祀れ、また黒の盾を8本、黒の矛を8本で、大坂の神を祀れ」で、疾病は平いだという大坂である。

さらに、箸墓古墳の築造にあたっては、「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んだ」とされ「おほさかにつぎのぼれる いしむらを たごしにこせば こしがてんかも」という歌まで乗せられている、その大坂である。

それで、念願の大坂山口神社、拝観してきた。

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大坂山口神社(穴虫)

祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)である。

式内社(しきだいしゃ)大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座(ちんざ)されます。

本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺()きで、文化十三年(一八一六)の再建とされますが、寛永ニ年(一六二五)以来の棟札(むねふだ)が残されています。それには、背後の山の石巌(せきがん)を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺(ぎおんぐうじ)とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(一七四四)の再建になります。また、平成元年三月に秋の大祭には宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。境内には石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。

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とあり、さかんに境内で相撲が行われていたことがわかる。

また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組があり、二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。              

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式内社大坂山口神社は、実はもう一カ所残されている。

逢坂の集落におかれ、近鉄大阪線を挟んだ北側にあたる。こちらは伊勢街道に面しているという。

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本殿が奈良県の指定文化財である。三間社流造、檜皮葺で江戸時代のものであるが、細部には室町時代の建築様式があるとのことである。

御神像が十一体、平安時代から江戸時代にかけての8体の狛犬(木造含む)が残されているとのことである。

うーん、魅力的、ツアーで行きたいけど。

例えば、崇神天皇陵、大神神社、墨坂神社、大坂山口神社なんかを回ればおもしろそうである。



by koza5555 | 2018-04-17 21:31 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

黒塚古墳・三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡

黒塚古墳。130メートルほどの前方後円墳、3世紀から4世紀のものである。

墳丘は、中世・近世に砦、お城として使われた歴史があり、改造が著しい。

竪穴石室は後円部の中心、南北にむけて設けられていた。石室に関わる施設では、前方部につながる鞍部から作業道(墓道)が発見されていて、葬送の儀式の入り口、石室を作るための作業通路として使われたらしい。


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盗掘や開発を逃れて、1997年、タイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。鎌倉時代の地震で石室の一部が崩落していたことが幸いであった。

これを復元した、展示館が設けられていている。古墳に登れて、石室模型が見れて、34面の鏡が見られる、県内では稀有の最良の勉強と楽しみの場所である。

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棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡が置かれていた。棺の中、一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。北枕の遺体の頭の上である。


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「邪馬台国は纒向」というツアーで何度も訪れた。

そのツアーでは、「不思議な鉄パイフ遺物」を、「難升米が受け取ったとされる黄憧の可能性がある」などとガイドしてきたが、34枚の鏡についてはあまり語れてこなかった。ちょっと反省するのである。

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昨年に橿原考古学研究所が、「黒塚古墳のすべて」という展示会を行っている。

面白い図録も出ているし、三次元計測という技術を駆使した素晴らしい写真も出ていることが分かった。一つの鏡を測るのに、400万点を計測する(撮るのではなく)という技術らしい。

データベース化もすすみ、同范、同型鏡は一発で判明である。

そんな研究によると、どうも黒塚古墳の鏡はすべてが舶載鏡らしい。

今度のツアーは三角縁神獣鏡、大いに語ってみたい。

まずは、黒塚古墳の三角縁神獣鏡のことである。

●直径が23センチ程度で大型

断面が三角形の縁

漢字を用いた銘文がある

神像と神獣が描かれる。西王母、東王父


発掘された角縁神獣鏡のことである。

まず、同范、同型鏡という言葉を紹介したい。

同范は同じ鋳型を何度も使う。同型は母型から何度も鋳型を作り、使用する。区別は鏡の傷(鋳出しの時)などからわかるようである。

日本には三角縁神獣鏡は140種類、380枚が発見された。黒塚古墳からは33枚出ているが、黒塚だけというのは3枚しかないとのことである。言い換えれば、ほとんどが流通版だという事である。

中国の鏡の始まり。中国鏡の文様は、もともとは装飾的な図柄が中心だったが、前漢時代(紀元前202年から5年まで)の終わりころに世界観、宗教観を示す図柄が現れる。図柄は四神や霊獣などであった。


後漢時代(25年~220年)には、神仙と霊獣を描かれた神獣鏡が登場する。

西王母などの人の姿の仙人が不老不死の象徴となってくる。

道教の強い影響が感じられ、鏡の所有者には福がもたらされると信じられた。

国内、とくに畿内で大量に埋蔵されたとみられる画紋帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、これらの鏡の紋様をそのまま引き継いでいる舶載(中国産)、もしくは仿製(国産)の鏡である。

黒塚古墳の資料館では、たっぷりとこの図柄を楽しむことができる。

24号鏡と8号鏡を僕は注目してみたい。

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号鏡。名前は「三角縁天王日月・唐草紋帯四神四獣鏡」 


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この鏡の同范・同型鏡は全国に分布している。

 奈良 佐味田宝塚古墳

 京都 椿井大塚山古墳

 兵庫 吉島古墳1号墳

        2号墳

 滋賀 雪野山古墳

 静岡 赤門上古墳

 東京国立博物館

 直径は23.7センチ

 
 西王母、東王父を感じ取ってほしい。

8号鏡も人気者。三角縁神獣鏡龍虎画像鏡


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こちらは、二人の神人と二体の龍虎。とても大柄で見栄えが良い。

同范・同型なし。ここだけ、これだけオリジナル

平壌(北朝鮮)画紋帯同向神獣鏡(後漢代の後半)には、

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西王母、

東王父、

伯牙(はくが)琴の名手。事の調べで陰陽を調和させる。

黄帝(こうてい)。中国の神話では最高の帝王。巨悪な蚩尤(しゆう)を滅ばす。しゆう・・農耕の神か。人の体で頭に角、足にはヒズメ、81体の同じ形の兄弟がいる。

が描かれている。

これは、今回見れるものではないが、鏡を見るうえでの必須の

西王母がいて、東王父がいて、伯牙、黄帝がいる。

ここらあたりが見とれるだろうか。

クラブツーリズムのツアーの「古事記でたどる大和の旅」の「ヤマトタケル編」で、こんなことをお話ししたい。18日(水)は満席、21日(土)はアキがある。


by koza5555 | 2018-04-10 17:50 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

『奈良・大和を愛したあなたへ』

『奈良・大和を愛したあなたへ』東方出版  千田稔著

今年の1月に刊行されている。桜井図書館の新刊コーナーに並んでいたので、そそくさと借りました。何度も書店で「買おうかな」と悩んだ本でもある。
千田先生、図書館の借り読みですいません。しかし、先生は奈良県の図書館長されているんですから、許していただくということで。

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「奈良にゆかりの多彩な人たち その足跡に思いを寄せ、大和への愛惜を綴る」とある。

奈良で活躍した先人に千田稔さんが手紙を出すという設定である。
リストアップされている40名は、ほぼ明治時代の方々、そして歴史学だったり、文学者であったり。

ベルツ、ゴーランド、ブルーノ・タウト、アインシュタイン、バーナード・ショーなどの外国人も取り上げている。

いずれの手紙も唸らせられが、今の問題意識では、伊藤博文、与謝野晶子(『与謝野晶子と大和』」、直木三十五、宮本常一などが興味深かった。

「石上神宮の禁足地で太刀発見」と題した菅正友は特に面白い。

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「大宮司が禁足地を発掘するというのは大胆不敵な調査」。「前代未聞の発掘調査を敢行されたのは、水戸史学の考証的学的学風を持って歴史学に向かっておられたからであろう」と評価し、発見目録(明治7年㋇24日付け)によれば、「神剣一振や菅玉、勾玉、丸玉、鈴一個などで、神剣については実測図がつけられていました。」

「カムヤマトイワレビコの東征の折、タケミカヅチ命が高倉下に下したフツツノタマは石上神宮に鎮座している」と古事記に記されているフツツノミタマはこれと断定したのは菅正友だった。

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       6月30日、神剣渡御祭の日のお守り

「修史家(歴史家)が知っておくべきことは地理である。地形の高さ、低さ、険しいこと、なだらかなることを知っておかなければならない。土地の遠さ、近さ、東か、北かも知っておかねばならない。」(『修史家は地理を知らざる可からず』)

この言葉に歴史地理学を専攻する千田稔先生は激しく共感して、この書を結んでいる。

僕も同感である。

歴史家でなくても、なんでも関心を持つ野次馬であっても、「地理」は大切。地図から読み取れなければ、「現地に行け」である。

この本はおすすめしたい。買うなり、図書館で借りるなどして。
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鎮魂債祭の日に。夕闇が迫る。灯が入る。人はそれから集まってくる。



by koza5555 | 2018-04-04 21:13 | 読書 | Comments(0)