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奈良・桜井の歴史と社会

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葛城氏に関する古墳の数々

『古代豪族葛城氏と大古墳』、小笠原好彦著、吉川弘文館を読んだ見た。昨年(2017年)の9月の本である。

馬見古墳群の250基もの古墳をだれが築造したのか、それは葛城氏だけにより、築造され得たのだろうか、それが小笠原さんの問題意識である。この疑問を検証したい、そして最近の考古学の研究成果も含めて、あえて、被葬者の名を具体的に検討する(p5)

小笠原先生の論を見てみよう。

まずは建内宿禰である。小笠原さんは「建内宿禰は実在」と明瞭である。その墓は、巣山古墳(4世紀後半)だと断定される。

「モガリを正しく行わない玉田宿禰は允恭天皇に追われる。玉田は墓に逃げ隠れるが、允恭は見逃す。その墓は巣山古墳であり、巣山古墳は特別な古墳、特別な墓域ということではないか」(意訳)との論(p91)で、大和朝廷側も建内宿禰には敬意をはらっていたとのことである。

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上方、右側、周濠に囲まれた古墳が巣山古墳


主題である。
葛城襲津彦が葛城氏のすべての秘密のカギを握っていて、しかも、その葛城襲津彦は3名はいたと論じられる。葛城襲津彦とは、葛城氏の有力首長が世襲で名乗ったと言う意味だろう。

まず、葛城襲津彦は382年に実在したとみなされる。この時期に活躍した葛城襲津彦をBとする。

それ以前に朝鮮半島から技術工人を連れ帰ってきたのは葛城襲津彦Aである。秋津遺跡や南郷遺跡で4世紀後半以前に、朝鮮半島から工人らを連れ帰った可能性が高い。

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秋津遺跡の水田跡。これは弥生時代の水田で、今回は直接は関係ないが、葛城地域の隆盛を示すために写真を出した

さらに仁徳朝に女(娘)が皇后となった(磐之姫)襲津彦がいる。Bとは別人とされて、葛城襲津彦のCである。

仁徳天皇は倭の五王の讃とされている。「倭五王の讃」が宋に使いを派遣したのは421年、425年、430年と絶対年代で明確である。すると『百済記』のソツヒコ(382年)とは年に隔たりがありすぎる。(p63)小笠原先生の結論は「別人を考えるべき」となる。

僕もあれこれ計算してみると、磐之媛がBの女とすると、仁徳天皇の活躍した430年頃には50歳をはるかに超えてしまうため、葛城襲津彦Cの存在が必要である。

葛城襲津彦はAとBとCの3人。

古墳の編年に照らし合わせて、3人の葛城襲津彦の墓を推測したのがこの本の面白いところである。

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大和高田市の築山古墳が葛城襲津彦Aが埋葬されている。磐園陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城襲津彦Bが埋葬されているのは、御所市の室宮山古墳である。円筒埴輪列により墓域が囲まれ竪穴式石室、長持型石棺が置かれていた。こちらは4世紀末から5世紀初めにかけての首長墓とみられていて、小笠原論にピッタリである。

『百済記』に記された、382年に実在の葛城襲津彦が埋葬されていると推測される。

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磐之媛の父親とみる葛城襲津彦Cが埋葬されているのは馬見丘陵内の広陵町三吉の新木山(にきやま)古墳である。5世紀前半に築造されたとみられる。この新木山古墳も三吉陵墓参考地として宮内庁が管理している。

葛城地域の大型陵墓はすべてが葛城氏に関わる首長の墓域だったことは確からしい。

さらに付け加えるならば、小笠原さんは、以下の葛城氏関係者にも、この地域の古墳を定めている。

河合大塚山古墳は葦田宿禰

河合城山古墳は玉田宿禰

掖上灌子塚古墳は円大臣(つぶらのおおおみ)

屋敷山古墳は飯豊青皇女

明瞭に被葬者を特定されていて簡明だ。あれこれの考えはあるにしても、葛城地域の古墳歩きには大きな助言となるだろう。

最後に、馬見丘陵の古墳群の役割についても紹介されている。

「葛城氏と同一の墓域に、それぞれの氏族の古墳を築造することによって、葛城市との同族関係、あるいは擬制的同族関係を具現化したもの」とされる。

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馬見丘陵内の古墳。これも一つの代表的な古墳のナガレ山古墳。

葛城氏の衰退の後は、平群氏、波多氏、曽我氏、巨勢氏のそれぞれが本拠地に古墳を築造する。

4世紀、5世紀は馬見丘陵をぼいきに。葛城氏が衰退する6世紀以後は各地に・ということである(p184)。

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by koza5555 | 2018-05-22 14:03 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

傘堂 當麻のレンゾ

當麻寺から二上山に登ろうとすると、當麻山口神社の鳥居に差し掛かるあたり、右側を見ると番傘を立てたような不思議なお堂を見ることができる。傘堂と言われる。

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「この堂は本多侯の菩提の為に恩顧の臣が立てたものである。軒の瓦の面に本と書かれれているのはその証拠。柱の上の方に扉があり開けると位牌があり、また北には添え柱、間に横木が渡されて鐘をかけ、朝晩はこれをつき、旧恩を忘れない(西国三十三カ所名所図会)

この傘堂の法要は9月の第1日曜日であるが、それとは別に5月14日にも法要が行われるとのこと、出かけてみた。


傘堂に置かれていた案内文。とても明快である
二上山の東麓、當麻山口神社の鳥居の北側に、真柱一本のみで宝形造りの瓦屋根を支える総ケヤキ作りの風変りな建物があります。小振りながら、重厚な風格を備え、他に類例のほとんどない珍しい建築遺構です。

その形容から、一般に『傘堂』と呼ばれていますが、江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君である郡山藩主の本多政勝の没後、その菩提を弔うために延宝2(1674)年に建立した「影堂」(えいどう)「位牌堂」であることが、棟札やその他の資料から判ります。もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の君臣関係にあったことが推測されます。

『傘堂』は、統家らが開いた大池(傘堂すぐ西側の溜池)により、益を被った付近の新在家、今在家、染野の三地区の人々によって、その後も守り続けられています。特異な建立の経緯にも関わこらず、毀誉褒貶されることもなく、300年以上もひっそりと歴史の流れの中に佇んできました。

また、いつの頃からか、真柱の周囲を身体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、514日の當麻連座(れんぞ)には大勢の人々が『傘堂』を訪れます。民俗、建築双方から注目されるとともに、柳沢家に至るまでの初期郡山藩にかかわる数少ない遺構としても貴重な存在です。 傘堂に置かれる説明書の本文

五色幕が張られた傘堂に参詣される女性

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真柱の上部の扉の中には阿弥陀如来が祀られている。5月14日と9月の法要の時だけお戻りになるようだった。


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お参りにおいでになられた方、真柱を背にして手を合わせられた。真柱の周囲を体を接しながら回る・・・背中をつけて回るんだね。

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これが大池。この池の恩を忘れず、三か村(新在家、今在家、染野)で、この位牌堂を祀ってきた。
さらにその上には、真の大津皇子墓とされる鳥谷口古墳が
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by koza5555 | 2018-05-14 15:35 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

語りだす奈良 118の物語   西山厚  

いま、古事記の音読をしている。おもしろい。
なぜ、こんなことを連休に初めたか。それは西山厚さんの本を読んで啓発されたのである。


毎日新聞の連載が本になった。この本の紹介は、アウトラインではなく、いくつかを抜粋した方が良いと考えた。

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こんな人いた!

どうしょうもない悪い世界に住んでいたとして・・どう生きたらいいだろうか。方法は三つである。それは

あきらめる。

別の世界に行く。それは浄土宗の法然の考え。

この世界を変える。これが貞慶の意見である。

奈良国立博物館で、10年くらい前に貞慶展をやられたとのこと。この貞慶を巡っての話である。
貞慶は鎌倉仏教の本流で、解脱上人・・

最後に住んだのが海住山寺、浄瑠璃寺に関連し、貞慶の関係者が造ったのが伝香寺の地蔵菩薩であり、それらの寺々からご仏像がおでましになったとのこと。(p108

古事記を読む

奈良国立博物館の「古事記の歩んできた道」・・・の準備を進めるうち、久しぶりに『古事記』の原文に触れたくなり、新潮日本古典集成(西宮一民さん耕注)で、全巻を声に出して読んでみた。いい!実にいい!『古事記』がこんなに魅力的な作品だったとは、今まで十分に認識していなかった。(p117


日曜美術館

琴は特別な楽器である。琴を弾く人物埴輪がたくさん見つかっているが、それは神さまに向かって弾いている。琴は神と人をつなぐ楽器、日本人は琴を特別視していた。

琴は絃の下に柱(じ)を立てる。これを琴柱(ことじ)という。琴柱がないと美しい音が出ない.絃の下で美しい音を支える琴柱。私の母の名前である(p230

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天理参考館で拝見した琴。ブラジル移民が慰めの為に琴とかを作った。ちなみに琴は、雅楽で使われる楽器の中では最古から使われたものと言える

談山能

安時代に円仁という比叡山の僧が唐に渡り、常行三昧を伝えた。常行三昧は不眠不休で念仏を唱えながら、本尊の阿弥陀如来像の周りを歩み続ける厳しい修行でそれを行う場所が常行堂である。(談山神社の儀式殿、前は権殿)

お寺では大きな法会のあとに、僧侶によってさまざまな芸能が演じられることがあった。これを延年という。多武峰の常行堂はその代表例のひとつで、正月の修正会のあとには、「翁」をはじめとする66番の猿楽が演じられたらしい。

お堂の後ろの入り口を後戸という。後戸から入ったところの空間には、東大寺法華堂のように、執金剛神像のように、本尊を護る神や、何か特別の力を持つ神仏が祀られた。

多武峰の常行堂の後戸には摩多羅神(またらじん)が祀られていた。摩多羅神は円仁が帰国する船の中に現れた神で、常行三昧に入った僧を守護してくれる存在かと思われるが、

談山神社の常行堂、その後戸の天井の裏の小部屋には「摩多羅神」と墨書された箱が置かれており、中には大ぶりな翁の面が入っていた。

平成23年(2011年)、観世流宗家の観世清和さんが、権殿(現在の儀式殿)において、この面を用いて能「翁」を奉納した。(p345



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談山神社の常行三枚堂。現在は儀式殿に呼ばれている

くっつく

正倉院展に聖武天皇のベッドが展示された。展示されたのはひとつだけだが、正倉院には同じ大きさのベッドがもう一つある。ふたつをくっつけて聖武天皇がおひとりでのびのび寝ておられたのか、ふたつをくっつけて、聖武天皇と光明皇后が仲よく休んでおられたのか。

・・・

ところで、聖武天皇の御陵と光明皇后の御陵はくっついている。地図で見ると,二つの御陵は完全に合体しており、よくみると、合体した姿はハート形だ!(p310

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ハート形かな?

奈良が好きになる。聖武天皇・光明皇后が好きになる。仏教のことを考えたくなる。

そして、こんなわけで、古事記の音読を始めたのである。


by koza5555 | 2018-05-02 20:46 | 読書 | Comments(0)