ブログトップ

奈良・桜井の歴史と社会

koza5555.exblog.jp

<   2018年 06月 ( 7 )   > この月の画像一覧

纒向遺跡とモモの種

纒向遺跡でモモの種が論争の的となっている。

纒向遺跡では大型建物の柱跡付近の土坑から様々な遺物に交じり2000個以上のモモの種が発掘されている。

このモモの年代が最新の技術で、分析をされている。今までも土器などからその古さは指摘されてきていたが、発掘されたモモそのものもの試験である。

a0237937_00180038.jpg

桜井纒向学研究センターは『研究紀要第6号』(330日付け発行)をめぐって記者発表している。

名古屋大学の中村俊夫名誉教授が纒向遺跡から出土の桃(モモ)の種を放射性炭素年代測定法で調査をしたという論文や、

同所の森暢郎研究員が動物の骨の発掘(183次調査)の論文を乗せたりしており、売り切れになるという具合で、この号は好評となった。

a0237937_00175654.jpg

その、モモの種について紹介する。

まずは検査の方法。放射性炭素年代測定法のことだ。

植物遺物には「放射性炭素原子14C」が含まれるが、これが規則的に壊れていき、5730年で半減となる。だから、きちんと調べれば、何年前の植物・・、それがわかる。

基準は1950年で、実はこの時期の水爆実験により、大量の14Cが大気に放出されたことからその後のデータは使用できなくなる。だから、1950年が原点となり、そこからビフォー1800年などという形で示される。

a0237937_00181238.jpg
分析結果。12個のモモの種  Momoと書いてある

名古屋大学が加速器質量分析計で調べてみると、モモの種の12個は平均で 1820 BPとなり、基準の1950年から1820年を引き算、誤差の補正をすると、西暦130年から230年の間であることが証明された。

卑弥呼は170年に生まれて、248年まで生きたとされているで、これは卑弥呼、邪馬台国と同時代である。

吉野ヶ里の高島忠平先生は、「分析に信用できない。また、たとえ時代が当たっていても邪馬台国論争とは別の話」(産経新聞615日付けを意訳)と言われているが、反論にはなっていない。

時期も時期だが、モモも種ももう一つ考えてみたい。

『卑弥呼は何を食べていたか』。廣野卓  2012年の本だ。

「卑弥呼の呪術と桃」がテーマだ。

平成21年 当時の大型建物群の柱跡が発見、平成22年、すぐ近くの土坑から2000個余りの桃の種が出土した。

卑弥呼の宮室説がある場所から、古代中国で呪術に用いられてきたモモの種が出土。

中国ではモモは仙果として、邪悪を避ける力があると信じられてきた。

モモの木で作った人形(桃人)を門に立てたり、モモの枝を門に挿したり、モモ板に呪文を書いたりした。

モモは不老長寿を願って、儀式参加者に食べさせた(菅谷文則)

『記紀』の国生み神話にも。イザナギは黄泉の国から逃げて、黄泉比良坂でモモの実を投げて窮地を脱する。

お伽話の「桃太郎」も、モモが鬼を退治する話。

出土したモモの種は、呪術に長けた巫女の存在を感じるさせる。

2000個のモモの採取は大仕事で、その桃は纒向遺跡付近でモモの林で採取された(花粉が大量に出る)と解析されている。モモが巫女の呪術の為に栽培されていた。


時期が大切。モモの種が肝心なんだ。卑弥呼の作法は、大和王権にも秘儀継がれた。

a0237937_00180791.jpg
a0237937_00181721.jpg


by koza5555 | 2018-06-30 00:22 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

夏越の大祓 村屋坐弥富都比賣神社

村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社を「ディスカバー!奈良」(毎日新聞奈良版)で紹介した。

a0237937_05162006.jpg

神社の主祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと・弥富都比賣)。「三穂津姫命は大国主命の后神として高天原(たかまがはら・天上の世界)から稲穂を持って降り、稲作を中津国(なかつこく・現実の世界)国に広めたとされる神である。

祭神で考えれば、大国主命を祀る大神神社とは夫婦の関係かと思われますし、また、天上の世界と現実の世界を稲作で結ぶ役割を果たした神だった。(神社の掲示から)

この神社の夏越の大祓式を拝観、拝見して大祓の要素をいくつか感じた。奈良盆地、数ある大祓式の中から、今回はこちらを紹介することにした。



心身清める夏越の大祓  村屋坐弥富都比賣神社

630日には「夏越の祓い」が各地の神社で行われます。猛暑を前にして、人々にたまった罪けがれを払い落とす神事です。

大和川に沿い、奈良盆地の中心に位置する田原本町の村屋坐弥富都比賣(むらやにますみふつひめ)神社の「夏越大祓式」を紹介します。

祭典は午後4時から始まります。参列者は茅の輪をくぐって結界が張られた神前に上がります。紙を切った人形(ひとがた)に息を吹きかけて厄災を移したり、カヤの葉や切り紙で罪けがれを払います。祭典が終わると茅の輪を外し、子供たちが人形、供え物と一緒に大和川岸に運び、川に流すのです。「大和川で刈ったカヤで茅の輪を作り、人のけがれをうつして、川に戻します。子供たちもそのお手伝いをいたします。神社の古来からの風習です」と守屋広尚宮司は語ります。(奈良まほろぼソムリエの会 理事 雑賀耕三郎)

 

a0237937_05224949.jpg
 

a0237937_05162670.jpg
取り外された茅の輪は子供たちの手で大和川岸に

a0237937_05162998.jpg
最後は大和川に流される

村屋坐弥富都比賣神社には近鉄俵本駅下車、東へ徒歩40分。JR桜井線巻向駅下車、西へ徒歩30分。駐車場は大和川堤防沿い(神社の東南)などに整備されています。

a0237937_05193619.jpg


a0237937_05265652.jpg



by koza5555 | 2018-06-21 05:28 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

雄略天皇 稲荷山鉄剣と脇本遺跡

雄略天皇をクラブツーリズムの「第5回古事記ツアー」のテーマにした。

        

a0237937_10112546.jpg

まずは稲荷山古墳の鉄剣である。今更であるが、勉強しなおしてみた。

a0237937_10131936.jpg

鉄剣の銘文発見はインパクトがあった。

「東国だけでなく、九州も同じ雄略のとき、ヤマト王権のもとにちゃんとおさまっている光景なのです。これは倭王武の上表文の在来の明治以来の通説と全く同じであって、その点で、私は通説が支持されたと直感しました。しかも通説は文献だから間接的だけれど、実物で証明されたというのが、私の印象です」(p19  井上光貞)

稲荷山古墳(埼玉県)から鉄剣が出土。その内容が元興寺文化財研究所で解読されたのが1978年である。昭和の時代やなあ・・・

a0237937_10112800.jpg


稲荷山古墳。埼玉県の川名さんにいただいた。丸墓山古墳から桜の時期に撮られたとのことである


表「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣」などと刻まれ、

裏「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」

a0237937_10113159.jpg

併せて、熊本県の江田山古墳の鉄剣も銘文の解明もすすんだ。

明治6年(1863年)に発見された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と推定されていたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、読みはワカタケル大王に確定した。

中国南朝の宋(420 -479年)の歴史は『宋書』に書かれているが、 その中の「宋書倭国伝」に倭国が記される。昇明2年(478年)の条には、倭王武が紹介されている。


 倭国の雄略天皇が宋に遣わした使節が携えた上表文に、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと)など)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」とされている。この内容が、「モノ」によって証明されたということである。


稲荷山古墳の鉄剣の銘文の「辛亥」(かのと しんがい)は西暦471年か531年。

宋書には478年という年号があり、ワカタケルの実在性、それも何時生きたか、活躍したかが疑いない形で明示されたのである。



ワカタケルは面白い。ワカタケルは刺激的である。

古事記や日本書紀がどう書いたか、エピソードはてんこ盛りである。

それに見合う形で宋書(中国)は雄略天皇を取り上げている。倭の五王のうち「武が雄略天皇」であるとすると、雄略天皇は絶対年代(西暦の)がわかる初めの天皇ということになる。

『日本霊異記』、『萬葉集』の冒頭は、これも雄略天皇なのである。

また、雄略天皇が生きた5世紀末、『記紀』が示している「朝倉の宮」あたりで、宮に匹敵する建物跡が発掘されている。脇本遺跡という。時期的、規模的に雄略天皇の宮跡とみることができる。

「シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本」(新潮社)。古い本だが、たくさんの勉強をすることができた。読書感想文にならないのだが、「実物で証明された」が結論である。

クラブツーリズムの「古事記でたどる大和の旅」はあと2回である。ぜひ、おいでください。
第5回は16日(土)と20日(水)「古代の英雄!略天皇」。
最終回の第6回は7月18日(水)、21日(土)で「古事記の女性たち その愛とたたかいから学ぶこと」である。




by koza5555 | 2018-06-14 10:21 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

鏡女王忍阪墓前祭

69日、忍阪区(桜井市)生根会(忍阪区老人会 会長 東井さん)は、鏡女王墓前祭を斎行した。

談山神社の長岡宮司以下神社関係者が祭祀を執り行った。

a0237937_21351591.jpg

鏡女王忍阪墓は、談山神社が管理しており、日常的には忍坂の生根会が樹木の管理、草刈などの墓域の清掃を奉仕されている。墓前祭を実施するのも生根会である。

a0237937_21350904.jpg

こうした行事、管理とは別に忍阪の陵墓に対する区民の思い入れはすごい。

外鎌山の南麓には、西から東へ舒明天皇陵、鏡女王墓、大伴皇女墓が鎮まる。

忍阪のみなさんは、これを総称して、「三陵墓」と呼び、敬愛しながらも親し気な付き合いである。

宮内庁が管理しない鏡女王墓は、とくに「中の御陵さん」と呼び、大切にしているのである。


舒明天皇陵、大伴皇女墓は宮内庁の書陵部が管理する。畝傍監区、忍阪部といい、周辺の陵墓と合わせて、日常的に補修とか草刈が行われる。


しかし、鏡女王墓は別である。陵墓を繋ぐ野の道もだれも草刈はしないのである。


万葉の旅で、犬養孝が鏡女王墓を語っている。こんなくだりがあるのである。

戦後ま近のこと、お隣の舒明天皇陵はきれいに掃き清められているのに、このお墓は草ぼうぼうに荒れていた。見れば、談山神社保存会の所有になっている。私はしばらくお待ちください。草を抜いてみたが、とうていおいつくことではない。
(『万葉の旅上』犬養孝)

こんなことから始まったわけでないだろうが、この管理を現在は忍阪生根会が行っているのである。


最後に鏡女王のことである。
まずは興福寺。鏡女王の藤原鎌足への思いが凝縮して興福寺は始まった。

天智天皇8年(669年)、鎌足が重病の時、婦人の鏡大王は夫の病平癒を祈って仏殿建立を発願した。当初は鎌足の許しを得られなかったが、ついには婦人の願いが叶えられたという。仏殿には、鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した釈迦三尊像と四天王像が安置されたと伝えられる。これが「山階寺」と称されて、興福寺の起源 と興福寺はHPに記している。

鏡大王(鏡王女―萬葉集、鏡姫王―日本書紀)の願いが凝縮して興福寺が創設された。

鎌足、鏡の夫婦愛が興福寺の出発ということで、僕もちょっと、びっくりである。

忍阪と言えば舒明天皇陵。いわゆる段ノ塚古墳である。


a0237937_21351853.jpg
日本初の八角形墳といわれ、被葬者は舒明天皇(第34代天皇、天智・天武天皇の父)。

「鏡女王、在 大和国城上郡押坂陵(舒明天皇陵)域内東南 無 守戸」(『延喜式諸陵』)と記され、
以上から・・・

鏡王女の墓は忍阪に存在すること。

それから、舒明天皇の陵域で祀られた鏡王女は王族と見て間違いないだろう。陵墓の姿からは、鏡女王は舒明天皇の皇女か皇妹とみる説が有力と思われる。(『日本書紀』小学館)という論説も見られる。

鏡女王は天武天皇12年(683年)75日に亡くなった。
7
4日、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊いたまう。

75日、鏡姫王薨りぬ。


この日に準じて、談山神社は6月第二日曜日に鏡女王祭、その前日に忍阪生根会は墓前祭を行うのである。


a0237937_21350278.jpg

忍阪、鏡嬢王墓前の谷川〜〜



by koza5555 | 2018-06-09 21:46 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

花筏、嫁の涙、ウラバ、ツキノデキ

a0237937_22165451.jpg

葛城の道を歩いたら、・・ツアーの下見で高天彦神社と橋本院の間だけだが・・、珍しい花を見つけた。葉っぱの真ん中に蕾だか、実だかがわからない突起がついている

a0237937_22164190.jpg


植物なら「何でもこい」の太子町のYさんに聞いてみると、「花筏」とのこと。名前は「花の載った葉」を筏に見た形とのことである。

北海道に至るまで広く分布しているらしいが、何よりも驚いたのは、この葉っぱが食用にもなると聞いたのである。

そんなところを『大峰こぼれ話』で、元長崎大学教授の銭谷武平先生が紹介していた。ちなみに銭谷先生は、天川村洞川出身である

a0237937_22195282.jpg

「春先になると山菜取りが始まる。・・・・特に珍しいのが洞川方言ウラバである。乾燥したものは、黒い海藻のヒジキのようで、初めて見た人は、その元の姿を全く想像もつかないと思う。それを調理したものを食べていたが、その元が何であるかは全く知らなかった。」

「洞かわの食用ウラバというのは、つまりハナイカダの若葉を摘み取って、湯がいてからあくを取り、乾燥したものであることが分かった。」、とも記され、『大和本草』(貝原益軒)には、「ツキノデキ(ハナイカダのこと)は灌木なり。・・・食うべし、美味なり、冬は落つ」。

(『大峰こぼれ話 銭谷武平』)

これが花筏である。蕾かと思ったが、すでに花は終わり、実となった状態だった。

ハナイカダ(花筏、Helwingia japonica)はモチノキ目に属する落葉低木。別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)。北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴である。


花とは、本来は一つの枝の先端に生殖用の葉が集まったものであり、芽の出来る位置に作られる。従って通常は葉に花が付くことはない。この植物の場合、進化的には花序は葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈と癒合したためにこの形になったと考えられる。(ウィキペディア)



葉から花が咲く、実がなるものなら・・お葉つきイチョウがある。これは筏の形ではなく、葉の端っこに実がつく・・

a0237937_22165071.jpg


by koza5555 | 2018-06-08 22:23 | 橿原・明日香・御所・吉野 | Comments(0)

押熊八幡神社

6月6日は奈良市押熊の定光寺、歓喜天の開扉日である。一年に一回の開扉日である。

お寺に向かう時、押熊神社・・これが気になった。
拝観を終えた後に、参拝してきた。
押熊八幡神社である。主祭神は八幡神、応神天皇である。

a0237937_23104373.jpg

「押熊に八幡神社か」と思いつつ、境内図をよく見ると、忍熊王 麛坂王 旧跡地と記されている
a0237937_23104961.jpg


以下、境内看板による

日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。

 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。

 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、宇治まで退却した。一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、宇治に至って河の北に布陣、戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き、近江との国境の逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入水、亡くなられた。

この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物、王の一人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。

古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。

忍熊王子神社の祭礼は418日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」戸言って農作業を休み、ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。

「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里に「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。

なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王にちなんでつけられた地名であろう。


a0237937_23105547.jpg


かご池? 鳥居前の池に咲くスイレン

ここは押熊八幡神社である。八幡神社なら、応神天皇・・やろ
同じ境内に、忍熊王、麛坂(かごさか)王の旧跡を持ち、祭りがある。神功皇后、応神天皇の軍の滅ばされた両王、一緒に祀られているのである。
このおおらかさ、どうでしょうか。
a0237937_07113680.jpg

a0237937_23105937.jpg

境内には押熊の資料展示室、収蔵庫。どんなものがあるんだろうか。水利組合長の許可があると開くとのこと、表示されていた。


by koza5555 | 2018-06-06 23:31 | 奈良 | Comments(2)

ワカタケル大王のツアー

クラブツーリズムの『古事記』で巡る大和の旅、第5回は「古代の英雄!雄略天皇」である。

616日(土)と20日(日)、2回の計画だが、いずれも出発が確定した。


a0237937_23411859.jpg

地元、朝倉郵便局(桜井市)の限定絵葉書、ワカタケル大王


雄略天皇、ワカタケル大王を奈良県でたどってみるのであるが、脇本遺跡(桜井市)とか、一言主神社(御所市森脇)は、誰が考えても必至、その上であれこれ工夫して一日コースを作り上げた。
面白くて、バスが入れて、ご飯を考えて、お土産が帰るところを考える。観光化されていない神社や史跡を回るから、トイレの確保も大切である。

さて、ワカタケル大王まで来ると、残る史跡が具体的になってくるから、緊張もするし、面白さも広がり深まる。

ワカタケル、どういう人か。

従弟や遠縁の皇子・王をとにかく、殺し、焼いた。きわめて残酷であるが、ちょっと考えれば、大和王権と葛城氏族の激しい戦いもその中に透けて見えていて、歴史の一つの必然である。


極楽寺ヒビキ遺跡出土の柱穴から想定された屋敷の姿

a0237937_23414399.jpg

ワカタケルは『古事記』・『日本書紀』に詳細に紹介されている。

それだけはなく、ワカタケルは中国の史書に紹介されている。宋などの史書に紹介されている倭国の5人の王のうち、武はワカタケルとされていて、それが西暦の479年ということである。絶対年代が明白な古墳時代の天皇である。

「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と上表してきたと、明瞭である。

さらにすごいのは、稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣」(1978年)である。

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)


稲荷山古墳

a0237937_23413401.jpg

出土した鉄剣

a0237937_23412233.jpg

江田船山古墳の鉄剣もすごい。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣に刻まれていた「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇と(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と間推定されてきたが、稲荷山古墳から出土した鉄剣銘により、ワカタケル大王に読みが確定した。

文字通り、東に西である。


さらに宮として、脇本遺跡が推定されている。2012年の現地見学会では、5世紀末の石垣、建物跡が発掘・紹介されていて、この遺跡5世紀末から、6世紀、7世紀に至るまで使われていたことが明白となった。

a0237937_23415487.jpg
これは脇本(桜井市)の春日神社。ここ辺りを掘ると、宮の跡が出てくるのでは・・と言われている。

古事記・日本書紀、中国の史書、鉄剣に刻まれたワカタケルの名、宮跡と推定される遺跡の存在がある。

a0237937_23460402.jpg

ていねいに資料を作り、ていねいに語れば、今度のツアー、このシリーズで最高の評価が得られると確信している。616日、20日は楽しみである。




by koza5555 | 2018-06-03 23:49 | 桜井・初瀬 | Comments(0)