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奈良・桜井の歴史と社会

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水面に上下する宇陀市の濡れ地蔵

宇陀市の室生ダム湖のノリ面の岩に地蔵菩薩が彫りくぼめられている。


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山辺三の地蔵菩薩は「建長6年」(1254年)に彫られたと刻まれている。寿命は750歳である。この地蔵菩薩は目前で参れたり、遠くからしか拝見できなかったり、時には水没してしまうのである。

これはダム湖の水位調整の結果である。

室生ダムは昭和49年(1974年)に生まれた。

お地蔵さんも、彫りくぼんだ石工も、施主も700年後のお地蔵様の姿は予想打にもしなかっただろう。

奈良県は昭和42年(1967年)から県営水道を始めた。

1970年には吉野川の下渕頭首工を完成させ、74年には室生ダムを完成させ盆地に送水を始めた。

今日は室生ダムの事だけである。宇陀川は淀川水系になるが、室生にダムを作り、貯水湖からは奈良盆地に水を供給している。県営水道では、これを宇陀川水系といい、宇陀市、桜井市、天理市、田原本町、三宅町、河合町、安堵町斑鳩町、平群町などの市町に上水を提供している。

室生ダムは水利のダムだが、洪水対策も兼ねている。したがって多雨の夏は水位を下げ、冬場は水位を上げておく必要がある。洪水対策、安定した水の供給のためには必要である。

山辺三の摩崖仏のお地蔵さんはその水位管理のちょうど上下の枠内にあるという事である。


宇陀市の掲示によると

古くは背後の山から水をひいて、この地蔵菩薩に注いでいたと言うので、俗に濡れ地蔵と呼ばれている。この像は左手に宝珠、右手に鎖杖を持った半身彫の立像で、舟型に彫りくぼめているのが光背の部分である。

背部の右側に「建長六年甲寅八月十五日健」と二行に陰刻されているので、鎌倉時代の造立であることが知られている。像の左右には各一体十王の立像と地蔵分身の小像が陰彫されている


7月から10月は確実に渡れる

梅雨、台風などの大雨に備えて放流量を増やして水位を下げる。11月から6月月は渡れない事が多い。お地蔵様が水没してしまうこともある。

現在の状態。水位は一進一退である。お地蔵さんは拝観できるが、渡り石(コンクリート製)は水面下30センチくらいである。

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9月のお地蔵さまと渡り石。川として流れているので、水位は実は2メートルも下のほうにある。

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これから水位は上がると思われる。あなたも、時々見に行ってみませんか。「裾まで水が」とか、「半身水没」とか、隠れた・・とかを、教えてほしい。

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廻りを見渡すと、濡れ地蔵の200mほど北には西方寺。5年ほど前に薬師如来が重要文化財に指定された。さらに2キロほど北の山中には戒長寺。十二神将を鋳出した梵鐘(重要文化財)と薬師如来(秘仏)が祀られている。

うーん、「山懐の戒長寺の秘仏拝観、西方寺の薬師如来と濡れ地蔵を訪ねるプレミアムツアー」できるなあ。計画したら来られますか?

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上の看板は西方寺、下の山門は戒長寺である



by koza5555 | 2019-01-18 16:48 | 宇陀 | Comments(0)

増賀上人と談山神社

多武峰縁起絵巻によれば、増賀(そうが)上人は多武峰(現在は談山神社、江戸時代までは妙楽寺)の中興の祖である。増賀上人は参議・正四位下、橘恒平の男子で、10歳の時に比叡山に登り慈恵太師(良源・山門派・円仁門徒)の弟子となる。

 増賀は夢を見る。天暦2年(948年)82日のことで、32歳の時である。夢に維摩居士が現れ、「浄土を志すならこの地に住め」と景色が示された。応和3年(963年)に如覚(多武峰少将・藤原高光)の勧めで多武峰を訪れた増賀は、この地が15年前の夢の景色と同じと理解して、三間一面の庵を結び、41年後の長保5年(1003年)69日に死去した。


この増賀上人を考えてみたい。

明治36年に増賀堂が再建されている。これが増賀上人の庵跡と思われる。45年前の「磐余・多武峰の道」(金本朝一著)には、写真があるが現在は見当たらない。

増賀上人墳(そうがしょうにんつか)は残されている。神社の西口から山腹をめぐる林道を一キロほどたどると、念誦崛(ねずき)に到着する。「増賀上人墓」との看板が建てられている。 正面の石段をまっすぐ上がっていくと石積み塚にが見えてくる。

 


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二重に積み上げられた石の塚で、下段の直径が4メートルほど、全体の高さが2メートルである。覆い堂が建てられていたことは、残された周囲の基石から良く分かる。

周囲には大変な数の五輪塔、板碑が立てられているが増賀上人の石塚の規模はずば抜けている。


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念誦崛

多武峰に増賀上人を招いた如覚(藤原高光)の墓が念誦崛にはおかれていないことが不思議である。

念誦崛から2キロメートルも離れた、飯盛塚の山中に高光の墓は置かれている。東の飯盛塚に高光墓、談山神社(妙楽寺)、西口を経て北山への峠に差し掛かるあたりに念誦崛という配置である。

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藤原高光墓(飯盛塚)



『多武峰ひじり譚』、三木
紀人が記した。40年ほど前の本である。

平安時代は「誰かを語るとき、彼の死とその前後は最も関心を呼ぶ話題であった。」その意味では「増賀の終焉は格別に印象のつよいものだった」、そんな時代である。

その例として徒然草である。「増賀ひじりの言いけんように、名聞苦しく、仏のお教えにたがふらんとおぼゆる」として、増賀上人を絶対的境地に達した人、「まことの人」だったと兼好は紹介した。

増賀上人のエピソードを一つだけ紹介しておきたい。

増賀の師匠は良源である。毎年のように僧位を上げていき、行基以来の大僧正となり、比叡山の座主となった。

この良源が大僧正に任ぜられたときにお礼言上に参内する。おびただしい僧侶、従者を伴い行列を進めるが、そこに増賀が登場する。

疲れたあめうし(牝牛)の浅ましげなるに乗りて、鮭というものを太刀にはいて、御屋形口をうちけり。

屋形口とは牛車の乗り口で、そこに現れるのは警護の責任者を意味する。増賀は3000人いたという良源の一番目の弟子だった。

行列、見物人はどよめくが、増賀は再三にわたり、牛を乗り回したという。

「見るものあやしみおどらかぬはなかりけり」。

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それに対して「名聞こそ、くるしかりけれ」「かたいのみぞ(乞食の境遇こそ)たのしかりけれ」と増賀は謡った。

「悲しきかな わが師、悪道にはいりなむとす」。

これが増賀の道心である。

師の良源は、「名刹を求めぬ心は判った。但し威儀は正せ」というが、増賀はそれを受け入れることはなかった。

「いかでか、身をいたづらにせん」というのが増賀の考えであった。「投身、入海、身燈」という宗教的自殺をするものが多かった時代ではあるが、増賀は身体的な消滅を願ったわけではなかった。すべての衣服と財産を乞食に施して裸で歩いたり、山にこもったのである。増賀上人はいくつかの例外を除いて・・多武峰を出ることはなかった。山を出ることは増賀にとって、はなはだしい宗教的な堕落であった。

増賀上人の信念、信仰、道心は、その後多武峰にどんな形で引き継がれていったのか、関心と疑問は深まるばかりである。

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by koza5555 | 2019-01-13 07:42 | 桜井・多武峰 | Comments(0)