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奈良・桜井の歴史と社会

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立子塚古墳

『桜井の横穴式石室を訪ねて』という本がある。桜井市埋蔵文化財センターの発行である。

34基の横穴式石室古墳()が紹介されているが、その第一番目が立子塚古墳。景行天皇陵(渋谷向山古墳)の東の丘の上、渋谷村(天理市)の共同墓地に隣接していて、天理市との市境である。もっとも北側に位置しているから一番目に記されたと思うが・・

この古墳は探すのが難解、さらに超難解は石室に入ることである。


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     正面のミカン畑の上に円墳が残されている

「やまとびとツアーズ」で「古代史の聖地・桜井の古墳に入ろう」のツアーを案内しているが、ここに入れたら素晴らしいなあ・・でも、無理だよなあ・・という話である。

コースは柳本駅から黒塚古墳、崇神天皇陵とか・・長岳寺。そのあとにここ、立子塚古墳(見るだけ・・覗くだけ?)、穴師兵主神社に寄り、珠城山古墳、纒向駅なんだけど、「石室に入ろう」が「ウリ」なんだよね。

立子塚古墳。景行天皇陵の東側から柿畑を上がっていく。そのまま上って右手の林に入る。三叉路を超えて共同墓地の六地蔵が見えたら、立ち止まって、左を見る。そこらあたりの雑木にテープがつけられている。

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雑木林・・・竹林に入る。無茶苦茶な倒れ方である。わからなかったら頂上まで上がると、上から土の切込みがはっきり見える。これが羨道であるが、羨道の側石、天井石は抜き取られているのだ。


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こんな竹藪。これが羨道。

かき分け、踏み分けて入ると・・入り口は小さい。

しかも、邪魔するかの如く竹が一本・・


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これは無理だわ。ライトとカメラを下ろして・・・転げ落ちたら拾えないから・・・紐付きでしっかり下ろしたら・・こんな写真が撮れた・・。僕は見ていない(泣)


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入るのは、ずるずると行けそうだが、さて・・出てこれるだろうか・・(笑)

古墳から降りると素晴らしい三輪山が正面に。今は竹やぶで見えないが、古墳を作ったときはくっきりだっただろう。

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「築造時期については出土遺物も不明であるが、二段積みを指向していることや、切石技法を用いていないことなどの石室構造の様子から見て、7世紀前半頃と考えられる。」(桜井の横穴式石室を訪ねて)

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by koza5555 | 2019-02-26 21:08 | 桜井・山の辺 | Comments(0)

安倍文殊院の文殊お会式

奈良まほろぼソムリエの会のHP、3月の歳時記は安倍文殊の文殊会式とした。

325日~26日、文殊お会式(えしき)で安倍文殊院(桜井市)の境内は賑わいます。本堂前には「智恵のお授け所」が設けられ、参拝者の頭に智恵袋を当てる加持祈祷が行われます。子供たちも智恵がたくさん授かれるように、この時ばかりは神妙に頭を下げます。

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文殊菩薩の法要と貧者や病者のための施しを行うのが「文殊会」、もともとはお寺の行事だったが、平安時代には朝廷が財政を負担したという記録も残されている。

会式の日にちもさまざまである。興福寺の文殊会は425日に行っているが、歴史をさかのぼると325日、425日であったり、7月に行うところもあるという具合で、それぞれの解釈によるものと思える。

安倍文殊院は325日、一山僧侶により大般若の転読大法要が厳修される。

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智恵のお餅まきは25日と26日、1630分から行われる。けっこうな大人の奪い合いで、ちょっと子供は怖いかもである。

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祈祷した餅米で作った「智恵の餅」が舞台からまかれるが、「貧者に施給するは、文殊菩薩を供養すること」との教えによれば、智恵の餅というより、貧者への施し(大げさ)ともいえるのでは。平安仏教でいえば、「会式」で貧者へ施しをするはもともとの行事。御供まき、御供ひろいを貧者への施しなどと言ったら、いまでは笑われるんだろうけど・・・

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「三人よれば文殊の智恵」。安倍文殊院の文殊菩薩像は、快慶作で獅子にまたがり、総高7メートルと文殊として日本最大。一度は拝観、お勧めする。干菓子付きの抹茶をセットにした拝観で700円。ツアー客は大満足される。



by koza5555 | 2019-02-25 20:29 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

嶽の立石

榛原駅(近鉄)から南へ8キロメートルほど、高井を超えた内牧というところに面白い意志がある。
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嶽太郎

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嶽次郎

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嶽三郎

これらの石は「嶽の立石」とよばれる。

さらに谷に点在する岩石の数々を「カラトの寝石」。

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立石は釣鐘のような形である。谷に転げ落ちた「寝石」も、同じように円形の石も多い。

風雨にさらされて、こんな形になったかと思ったが、「酸性岩類は噴出時の粘性度が一般に高く、鐘状を呈することが普通」とのことである。

内牧の山頂付近には鐘状の岩石がたくさんできて(1300万年前か)、その後の長い歴史の中でもみくちゃになってきたと思われる。


室生火山群が作り出した大量の岩石を考えてみた。もともとは隆起した溶岩が固まってできたと考えられてきたが、実は多数の噴出口から大量の火山灰が噴出、堆積、凝固した溶結凝灰岩とみられる。この室生火山群の岩石は顕微鏡で調べると軽石を含んで凝結したことが明確で、火山灰からできたとみるのが順当である。冷却・凝結の過程で柱状の節理も作られたとみられる。

同時に噴火とは別に溶岩の噴出によって作られた岩石もあるわけで、内牧の「嶽石」は深成岩(火成岩の一種)で、岩質が非常に堅いために侵蝕に耐えて釣鐘状で今に生き延びてきたとみるのが妥当である。


山添村の神野山(こうのやま)のなべくら渓には、角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)という固い深成岩(火成岩の一種)が侵蝕にたえて山をかたちづくり、割れた固い岩は谷底に転げ落ち、滑り落ちて集まり「岩の川」になったが・・よく似たケースだろうか。


山の稜線部には「嶽の立石」、谷には転げ落ちてきたと思える「カラトの寝石」である。

室生の「九穴八海」、曽爾の鎧岳や屏風岩、あちこちで見られる柱状節理、その石を切り出した石切場跡(榛原檜牧)、塼槨式の横口式石槨を持つ花山西塚古墳など見たり、考えたりするだけで、わくわくしてしまう。


嶽の「三兄弟」は内牧の山の中、地図に示しておく。「内牧区民の森」というのが整備されていて、桜はすごそうである。


車で安全に行くことができるが、単独行動は無理かも。

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この項は「榛原町史」地質を参考にしました。引用はここからしました。


by koza5555 | 2019-02-21 20:13 | 宇陀 | Comments(0)

音羽三山、下り尾・百市・飯盛塚の祭

談山神社の社報、「談」(かたらひ)の2ページ目は毎号、僕が書いている。
「多武峰の村の話を書いて」と長岡宮司に3年ほど前に頼まれた。神社のことより神社へのアプローチを書かせたい様子である。
神社の宣伝みたいな話はあまり書けていないが、それなりに話を探しながら、多武峰という山とか里を紹介している。
今回は音羽三山のふもとの村々・・下り尾(さがりお)・百市(もものいち)・飯盛塚(いいもりつか)の村の祭を取り上げてみた。

桜井市の中心部から南方を望むと音羽三山とよばれる山塊を望むことができる。北から音羽山、経ガ塚山、熊ガ岳である。今回は、この山々に祀られている神の姿、その祀り方を考えてみた。

下り尾(さがりお)から粟原川に流れ落ちる川の名は清滝川と聞いた。「清滝川といえば滝があるのか」と川沿いを歩いたが、滝は見当たらない。この滝へは川沿いではなく下り尾の神明神社の東側から登る道があった。登ること30分、清滝は轟々と流れ落ちていた。岩壁には不動明王が刻まれている。

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下り尾の東幸次郎区長にお聞きすると、「清滝のお祭りは七月の最後の日曜日。毎年、やっている」とのことだった。さっそく同行させていただいた。祭といいながらも参加者は鍬やカマを持参して小枝を片付けたり、石を積んだり、転がしたりしながらの「道作り」の風情である。道を補修しながら、音羽山の中腹まで上り詰めると清滝不動尊に到着する。持参したお米、塩、お酒などを供えて般若心経を読み上げる。
滝の水は、どんな日照りでも枯れることがないといわれる。清滝不動尊の祭は水源を見守る祭りであり、年ごとの豊穣の実りを祈る祭りだと思われた。
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山の上の神社と言えば、百市(もものいち)の住吉神社も紹介しておきたい。県道を多武峰に登っていくと寺川を挟んで左側に百市の集落が見えてくる。百市の住吉神社は村の奥深くの山中に鎮まり、10月の第一日曜日に例祭が斎行される。
祭の朝、神饌や祭祀道具を担って神社に向けて出発する。しっかりした登りを800mほど歩くと神社に到着する。登山とまではいわないけど、息が切れるしんどい登りである。
急な山腹に、長い柱に支えられて拝殿、本殿が建てられている。実はちょっとした祠みたいなものかと思って登ったので、この社を作り、維持してきた百市の力の入れ方に声も出ない。
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境内を掃除し、鳥居には榊と同じ感覚で青竹を立てて、祭が始まる。
秀麗な山の上に祀り敬ったという事かとも思えるが、「山の中に村があった。宇陀から針道、百市を経て倉梯へ出る街道沿いの村だった。人は山を下りたが、神様には下りて頂けないうちに百年が過ぎた」は西基之区長の言葉である。神社には「大神宮・村安全・おかげ」(天保3年・1833年)と刻まれたおかげ燈籠も残されていて、伊勢神宮にはこの地から旅立ったことも示されている。
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百市から県道をさらに上ると飯盛塚(いいもりづか)である。飯盛塚の杉山神社は村の上方の山中に祀られていたが、村の集会所の山側に二十年前に遷座されている。

この飯盛塚の秋祭に注目した。「祭は頭屋が中心となってすすめてきたが、時を経るにつれ行事の継続は難しくなってきていた。それで平成二十九年の秋祭から、頭屋の仕事は村(区)で引き継ぐことにしました」と、北浦孝文区長は話される。

祭の準備は第一に御幣を作ることである。その御幣は神前に奉幣され、一年間は村の会所に祀られる。第二は「お人形さん」作りである。太い藁縄、細い藁縄を組み合わせながらぐるぐると巻きあげる。中心は竹筒である。頭の上にはヒゲをつけるが、これは「ジャノヒゲ」で作ることが決まっている。形を整えてから、中心の竹筒に餅をいっぱい詰め込み、衣をつけて「お人形さん」は完成である。

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御幣と共に、お人形さんは区長に抱っこされてお渡りする。
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「お人形さん」を神前に飾り、奉幣を終えると、村人はトンドの周りに思い思いに座り歓談する。男も女も、老いも若きも、そして子供もたくさん集まってきて、ゴーヤの炊いたのとか、黒豆の煮たのを、おいしくいただく。

長く頭屋を務めてこられた方には感謝したい。そして頭屋の仕事を引き継いだ飯盛塚区の考え方は、村の習俗や文化を継続させていくための大切な方法だったと納得させられた。
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by koza5555 | 2019-02-14 23:00 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

筒粥祭(登弥神社)

2月1日は登弥神社(奈良市石木町)では「筒粥占い」を行する。

大釜に米と小豆を入れ25リットルほどの水を加えて煮立てる。その窯には紐で縛った38本の竹筒を立てる。竹筒は節のない20㌢ほどの長さの女竹(女竹とは限らないとのことだが、見た目はすべてが女だった)をタコ紐ですだれ状にくくり上げ、それを大きく丸めてくくられる。


朝の
5時に点火、630分まで煮立てられる。お釜は何度も鍋ふたを吹き上げ、お米や小豆はその勢いで「上から」竹筒に入っていくようすである。

630分に菜箸で竹筒が取り出される。慎重に三宝のお皿に移されて、神饌の中央に供えられた。

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神事は7時から。神事のあと、神主と総代・世話役によって占いが行われる。竹筒の束から一本づつ竹筒が外されて、小刀で断ち割られる。


神主が丹念に小豆を数えて「ひのひかり 上」、「こしひかり 上の上」、「人参 上」などと、順々に読み上げる。

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37
種類のお米、野菜、イチゴとか果物の作柄が占われ、38本目は総合・・・である。今年の結果は「総合 上」だった。


上中下の三段階、これがまた三つに分かれており、合計で
9段階の占いである。「古都華(いちご)は下の下」、参拝者の悲鳴が上がるが、「よし、頑張って作れと言うことや」という声も出たりで、氏子の皆さんもにぎやかである。

占いの結果は逐一掲示されて、皆さん、熱心に写されている。

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氏子は奈良市の大和田町、石き町と大和郡山市の城(じょう)町である。粥占いの当番は三町の輪番制であるが、全氏子ではなく選抜である。

今年は大和田町だったが、当番でない町も無関係ではない。昨年の当番町は城町で「後番」というお手伝い。来年は石木町であるが、「見習い」というお手伝いである。

おかゆを焚き上げる火の番は2時間、ずっ~と火の守りをされていた方は当番の大和田町ではなく石木町の方で、「来年は夫が総代、3年ごとの当番だが、役目を総代で果たすのは生涯でおそらく一度の事。夫も頑張っているが、私も頑張らねば」とのことだった。

神事、粥占いを終えると、小豆粥の振る舞いがある。いつまでも熱くておいしい。

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登弥神社(とみじんじゃ)は、奈良市西部、富雄に鎮座。延喜式内社とされている。

春日造りの二社が本殿で東本殿は「高皇産霊神」「誉田別命」、が、 西本殿は「神皇産霊神」「登美饒速日命」「天児屋命」を祀っている。

境内掲示にあるように、筒粥祭は「奈良市指定文化財」に指定されている。


奈良市指定文化財

登弥神社の粥占い  昭和五十七年三月一日指定

粥占いは、粥を用いて農作物の出来を占う年中行事です。

登弥神社ではもともと小正月の行事でしたが、今は二月一日に行います。氏子が毎年交代で、早朝から、米・小豆と、青竹の筒三七本を束ねたものを、湯釜で炊きます。一時間あまりで竹筒を引き上げ、農作物の品目ごとに竹筒を小刀で割り、粥の入り具合でその年の作柄の良否を占います。

豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして、古風な形態をよく残していて貴重です。奈良市教育委員会

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祭祀が終わり、帰路に就こうとすると、生駒山が真っ白・・美しかった。




by koza5555 | 2019-02-01 18:15 | 奈良市 | Comments(0)