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奈良・桜井の歴史と社会

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大和の春がすみ

大和の春がすみ、どこでも見られるが、多武峰の万葉展望台から眺めてみた。これは春霞かなとは思いつつも、ごらんください。
正面は畝傍山…阿倍野ハルカスも見える高さだが、霞の中、雲のかなたである。


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三輪の檜原神社の境内に前川佐美雄の歌碑が置かれている。


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春がすみ いよよ濃くなる まひる間の 何も見えねば大和と思へ

この歌は大和の風景を歌った歌である。前川佐美雄は葛城に生まれて、この檜原神社と大和盆地を挟んだ反対側から大和の盆地を見ていた。

「何も見えねば」と言いつつ、それが大和だという。春霞に覆われた大和を見て、何も見ない情景だが、その中には大いなる歴史を感じるという歌だろうか。

大和の春の情景と併せて考えると、その味わいが僕でもなんとか感じられる。



『大和の南北』という池田源太さんの本を読んだ。50年ほど前の本である。「春の景物として煙霞」という短文である。(p169)


煙霞と書いて「えんか」と読む。僕の考えていたカスミとはちがう霞が論じられていた。

これをかいつまんで紹介しよう。

『拾遺集』の冒頭の四句には「霞」が出てくるという。柿本人麻呂の「昨日こそ 年は果てしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり」(巻10-1843 柿本人麻呂歌集にあり) も取りこまれている。

「年が改まったばかりなのに、春日の山には春霞が立っている」という事であるが、池田源太さんは「霞というものがどうしてこんなに読まれているのかが問題」と言うのである。

嵯峨天皇の詩に(浚雲集)は、山は屏風のようなものだ。これを見て、「煙霞春興足る」と記されている。ほかにも、詩や文を書く力が衰えることを「風月を捨て、煙霞捨てたるがごとし」という言葉もあり、平安時代には 霞(カスミ)は歌を詠むそのものの心という考えがあったと、論証される。

さらに池田さんは、煙霞の位置づけは、中国からの影響があるという。

仁明天皇(833年~850年)の大嘗祭の時、近江が悠基、備中主基の国に卜定されて大嘗祭が行われた。それぞれから「造り物」が献上されるが、その最上段に霞がおかれ、霞の中には「主基備中」の札があり、その上には西大母の像があったという。(『続日本後記』)


西王母は中国の神仙世界の女王である。霞の中、そのかなたに西王母が置かれたという事は霞は理想世界の象徴として見られていたと、解かれた。

霞を食べる仙人のたとえもあるし、カスミはなかなか奥が深い。


春の霞も、気象的な物理的に考えで、柿本人麻呂も、近代の前川佐美雄も歌っただけではないようである。

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by koza5555 | 2019-03-31 07:59 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

メスリ山古墳

6月に「谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳の案内をせよ」との依頼がある。

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メスリ山古墳のはとても面白いが、現地でどう語るかは簡単ではない。橿原考古学研究所の博物館(現在は閉館中)に、しっかりした展示・・巨大な円筒埴輪、膨大な矢じりが並べられていたが・・現地にあるのは小山である。

メスリ山古墳の主要部分は桜井市高田にあり、後円部の一部は上の宮である。メスリ山に接する上の宮の垣内(かいと・小字ではない)の名前が・・これが「てんのう」という垣内名である。周りの人々が陵とみていた歴史もあるというのも一つの前提である。

昭和34年に奈良県によって発掘された。所在地は高田のメスリ、上の宮の東出という事で当時は、東出塚古墳(古墳・桜井市文化叢書)とか、鉢巻山古墳(葺石の並ぶさま)とも呼ばれていたようであるが、橿原考古学研究所の報告書は「メスリ山」で出されて、名称が確定する。


御破裂山の尾根の先端に築かれている。東西の軸線の前方後円墳で北方から見ると存在感が明瞭である。

全長250㍍、後円部径128㍍、前方部幅80㍍。後円部が三段で、全面に葺石が残るのが特徴である。四世紀半ばの古墳で、全国的に見ても14位の巨大古墳である。

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墳頂で、石室の天井石をみることができる。私有地で本来は許可が要るだろうけど、しっかりしたのぼり道ができていた。

さて、メスリ山古墳
●その大きさもさることながら巨大ハニワ

●古墳の斜面の全面に敷かれた葺石

●発見された埋蔵物

之らの状況から被葬者は大王級であることは間違いないとされている。

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まずはハニワの事。

後円部は三段で作られており、各段には円筒埴輪列が巡っている。さらに後円部、方形部とも最上段に密集していた。

円筒型の器台型の埴輪は高さ2.4㍍、径が1.3㍍で日本では最大である。

竪穴式石室を巨大埴輪が二重で取り囲む形で配置されたていた。

発見されたときから大きなものだと考えられていたが、奈良教育大学の学生だったの赤塚次郎(現在は愛知県埋蔵文化財センター調査課長)さんが、破片を整理して高さが2㍍を超えるものと判明した。さらに、欠けた部分を継ぎ足して復元に成功した。

桜井の陶芸教室で複製にチャレンジ、奈良芸術短期大学の学生も焼き上げている。

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これらの複製品は、橿原考古学研究所博物館(閉館中)と桜井市民会館ホールに展示されている。

葺石もすごい。ゴロゴロの川原石で、今でもたくさん残っている。三段の築造で葺石が巻いていたことから、鉢巻山とよばれていた・・・とか、「漬物石を拾いにいった」という話も聞いた。


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発掘された埋蔵物がすごい。未盗掘の副室があった。

後円部墳頂には竪穴式石室(主室)がほぼ南北方向に位置し、その東には副室がある。

石室は板石が積んで作られている。石室材は亀ノ瀬の安山岩とされ、その上に8枚の天井石が載せられている。この天井石は露出しており、現地で見ることができる。

すぐ東側、石室を取り囲む高坏型の埴輪の下の石室(副室)があり、大量の副葬品が埋められていた。副室は持ち送りの竪穴式石室で、こちらの天井石は小さい。この石室が未盗掘で、大量の遺物が出土した。玉杖、鉄製の弓、200本以上の槍先、236本の銅矢じりが納められていて、武器庫のようだといわれた。



平成17年(2005年)に「メスリ山古墳出土品 一括」として重要文化財に指定された。

古墳本体としては昭和55年(1980年)に、国の史跡に指定されている。

メスリ山古墳の歴史の中での位置づけ

桜井茶臼山 → メスリ山 → 渋谷向山は同一系統(工人が同じか)という豊岡卓之(橿原考古学研究所)さんの編年をお聞きしたことがある。とても興味深い論で、その詳細は当時、20161月のブログで紹介している。興味があれば、「桜井茶臼山・メスリ山古墳と柄鏡型古墳」を見ていただきたい。

このツアーは東京方面のお客様対応の案内であるが、11月3日(先のことだなあ)に一般参加のウォークを計画しているので、また、その詳細は紹介いたします。



by koza5555 | 2019-03-19 10:59 | 桜井市と安倍 | Comments(0)

春日祭 三勅祭

313日は春日大社の例祭、「春日祭」が斎行される。

例祭や臨時祭に天皇陛下が「勅使」を参向させる祭は「勅祭」という。そのなかでも春日大社の「春日祭」は、加茂社の「加茂祭」、石清水八幡宮の「石清水祭」が合わせて、「三勅祭」である。


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参進する勅使

春日祭は嘉祥3年(850年)に始められる。明治維新後に一般の祭祀となり、特徴のない祭となったが、明治19(1886)に加茂祭、石清水祭に続いて古式に照らして再興され、これを「三勅祭」という。


祭は310日、「立榊式」から始まる。榊は春日山で伐採された竹柏(なぎ)の木である。榊(竹柏)はお祓いを受けたあと、一の鳥居に立てられる。

ちなみに一の鳥居の榊は、御祭と春日祭の時に立て替えられる。

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13日は初めに御戸開(みとびらき)が行われ、のちに神職は二の鳥居内側の祓戸神社に移動する。

黒袍(ほう)の束帯姿の勅使が参進する。

続いて緋色袍の束帯姿の辨代(べんだい)が参進する。辨代は副勅使である。


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御幣物を納めた白木の唐櫃が二さお、神馬が二頭などが勅使のあとに続く。


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本殿への勅使の参進は、今年は「南門から」と聞いた。

祓戸神社から斜めに分かれる道は剣先道といわれる。分かれ道の敷石が剣形になっている。

春日祭の勅使が「藤原姓」の人はこの道を通って、藤鳥居をくぐって本殿へ進むとされるが、今年は(も)南門だった。

この日は、二の鳥居より上には午後一時まで入れない。ご注意されたい。


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春日祭の詳細は、『皇室』69号(平成28年冬号)に詳しい。8pもの大特集である。公立図書館には置かれているだろうから、参考にしてください。



by koza5555 | 2019-03-13 17:57 | 奈良市 | Comments(0)

ワカタケル大王と稲荷山古墳

トリップアドバイザーが、「日本の人気の古墳トップ10」を発表している。2010年~2015年にかけて、旅行者の口コミ投稿を集計して算出したという。ベストファイブは

  1. 石舞台古墳(奈良県)

  2. 西都原古墳群(宮崎県)

  3. 五色塚古墳(兵庫県)

  4. さきたま古墳(埼玉県)

  5. 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)(大阪府)

である。いろいろな異論もあると思うが投稿数などで決められるだろうから、おもしろさ、展示の整備方法、公共交通機関や駐車場などの行きやすさなどが総合的に関係して、こんな順位なんだろうか。

このうち、「西都原」と「さきたま古墳群」に僕は訪れていなかった。

いま、ワカタケル(雄略天皇)を考えている僕は、とりあえず、さきたま(埼玉)古墳というか、なかでも稲荷山古墳を訪れなくてはならない。しかも展示施設には稲荷山鉄剣が常時展示されているとのことである。一月に東京の奈良まほろば館の講演当番となったので、そのあとに訪れてみた。

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    さきたま古墳群稲荷山古墳

上野から高崎線。一時間ほどで行田である。一日、4本のコミュニティバスが出ているが、時間が合わなかった。それで往きがタクシー、帰りはバスということとなった。参考までにタクシーは2200円程度、バスは150円である。ちなみに古墳群には大きな駐車場があり、特別なイベントでなければ駐車は問題がない。

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「さきたま古墳公園」には、9つの大きな古墳が残されている。


墳丘に登れる古墳は稲荷山古墳と丸墓古墳、墳丘には登れないが石室が復元されて当時の埋葬状態が見学できるのは将軍山古墳である。

まずは、稲荷山古墳から発見された鉄剣が展示されている博物館に入る。古墳群から出土した遺物が展示されている。稲荷山古墳から出土の遺物の金錯銘鉄剣は、この博物館で常に展示されている。ボランティアガイドは「どこにも貸し出さない、出陳はない」と断定される。大事にされているのだ。

1968
年に出土、金錯銘鉄剣のほか、画文帯神獣鏡や勾玉(まがたま)など一括して国宝に指定されている。


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「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣・・・・」(表)

「杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル・・・大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」(裏)

この稲荷山鉄剣の解読からを経て、江田船山古墳の鉄剣も併せて解明された。1863年(明治6年)に発掘された鉄剣の「獲□□□鹵大王」は、従来は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)、または水歯別命(古事記)と推定されてきたが、稲荷山古墳の鉄剣銘により、読みが、ワカタケル大王と確定した。


ワカタケルの時代に大和王権の支配(影響力)が関東平野まで、西は熊本に至るまで広がっていたことが確実となった。

ワカタケルは宋書で記される「武」(大泊瀬幼武尊)とみられる。この雄略天皇が宋に送った上表文には、「祖先の時代に、東は55国の毛人(えみし)(蝦夷)を、西は66国の衆夷(しゅうい)(熊襲(くまそ)・隼人(はやと))を征服し、さらに海を渡って、北に95国を平らげた」と、宋の昇明2年(478年)の条に記されていて、西暦年代で確定された古代の英雄である。

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ワカタケルの宮は桜井市の初瀬朝倉宮。奈良盆地から東への出口であり、いまはコンビニとなっている駐車場の下に、ワカタケル大王の時代(5世紀)の柱穴、石垣が残されている(第18次調査。2012年)。山側、東北に春日神社の社叢が見えるが、そこらあたりにたたずむと、ワカタケルの歩いた道、ワカタケルの見た景色である。
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ワカタケルの時代には梅はなかったか。
脇本・黒崎辺りの長谷川沿いには美しい梅の花があちこちに。





by koza5555 | 2019-03-11 14:12 | 桜井・初瀬 | Comments(2)

コロコロ山古墳


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巨大埴輪で著名なメスリ山古墳の西北にコロコロ山古墳の横穴式石室が開口している。石室を覗くと天井石と側石の上部が欠けていることがわかる。掲示板があるが日焼けで消えてしまい読み取ることができないが、移築されたものと掲示されていたとのことである。

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30
年程前(平成元年)に阿部丘陵は、大規模な宅地開発(桜井市南部特定土地区画整理事業)によって風景が一変した。阿部丘陵とメスリ山古墳との間の丘、森林、田畑の土が動かされ宅地化が行われた。それに伴って桜井市により、埋蔵文化財の調査が行われた。

谷首古墳の周囲、上之宮遺跡(保存された)、中山古墳群(今はない)、中山大型建物跡(今はない),コロコロ山古墳(移築)などが調査された。
メスリ山古墳の北西にコロコロ山という小山があった。始めはメスリ山古墳の倍塚という見方で発掘がすすめられたが、横穴式石室が現れて時代が違うこと(メスリ山古墳は4世紀中ごろ・コロコロ山古墳は6世紀末)が判明した。



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奥壁は一石が残るが、本来は二段だったとみられる。玄室側壁は二段の横穴式石室である。築造は6世紀後半とされる。

もともとの墳形は一辺30㍍、高さ5㍍の方墳で南南東に開口する横穴式石室をもつ。石室は基底部分を残すのみだが、全長11㍍、玄室長5.4㍍、幅2.3㍍。


古墳築造後に追葬が行われた。初め玄室床に扁平な石が敷かれ、追葬は礫が敷かれ木棺が置かれた。数多くの釘が出ており、木棺が置かれていたとみられる。

東の端に小規模の横穴式石室も存在していた(現在は見ることができない)。


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一般的には蘇我系が方墳、物部系が円墳との仮説もあり、この地は古代豪族・阿倍氏の本貫地であり、当時の政治勢力の姿を示している。

奥壁近くからは頭骨が出土。金銅製蛇行刀子の発見が注目された。

桜井市教育委員会は現地保存を強く要求したが、組合側の強い要望で墳丘は土取りとなり、石室はその東側に移築、再建された。工事は飛鳥建設(佐野勝司社長)によって行われた。

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石室にはクサビ穴をあけられ、割られたり、割られる直前の石材が残されていた。玄室上部の側石、天井石は石材として抜き取られた。江戸時代の石工の仕事とみられる。抜き取られた石は、付近の谷首古墳の墳頂上の阿部八幡神社の石垣に使われた(石が同じ)。

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            阿部八幡神社の石垣


以上は「阿部丘陵遺跡群」(1989年 桜井市教育委員会)を参照した。

ちなみにこの本は「上之宮遺跡・谷首古墳周辺・メスリ山古墳周辺・中山古墳」などの発掘の報告がわかる得難い本だが・・・桜井市図書館や奈良県立情報館の蔵書にはないレア本である。桜井埋蔵文化財センターとか安倍殊院にはあることが分かったが・・図書館ではないし。

調べてみると県内の図書館では斑鳩町立図書館だけに、しかも二冊残されていた。禁帯出だがコピーはできる。

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by koza5555 | 2019-03-07 20:36 | 桜井市と安倍 | Comments(0)