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奈良・桜井の歴史と社会

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大伴小手子と「ゆるきゃら小手姫様」

崇峻天皇倉梯岡上陵

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「大伴旅人 人と作品」(中西進編集)で、平山城児が大伴氏の家系と出生をまとめている。北山茂夫に(大伴家持 平凡社)よれば

「六世紀以前に、世襲王権を確立した大王家(後の天皇家)に服属して、物部氏とともに、とくにその軍事的伴造を領掌し、その氏の名称が大伴が示すごとく、巨大な勢力の形成へと向かった」。「神代紀以来壬申の乱に至るまでの、日本書紀に登場する大伴氏一族の行動を克明に調べた結果、小手子というたった一人の女性を除けば、大伴氏の一族は一度も天皇家に逆らっていない」とのことである。

崇峻天皇は用明天皇2年(588年)82日に即位、倉橋(桜井市)に宮を作り、春三月に大伴糠手(あらて)の女、小手子(こてこ)を后として蜂子皇子(はちのこのみこ)と錦代皇女(にしきてのひめみこ)を生んだ。

5年冬104日(592年)、イノシシを奉られた天皇は、「いつかこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思う男を斬りたい」と言い放った。

それを聞いた蘇我馬子が先手を打って天皇を攻める。113日である。

撃ったその日に「倉梯岡陵(くらはしのおかのうえのみささぎ)」、葬ったとされる。

ここで小手子が出てくる。

ある本に曰く、大伴嬪小手子が寵愛の衰えたことを恨んで、人を蘇我馬子宿禰のもとに送り「この頃猪をたてまつったものありました。天皇は猪を指さして、「猪の頸を斬る如くに、いつの日にか、自分が思っているある人を斬りたい』といわれました。」また、内裏に多くの武器を集めておられます」と告げた。これを聞いて馬子宿禰はたいへん驚いたとある。

(日本書紀の解説は宇治谷孟「日本書紀」を引用)

小手子。長い歴史、大きく広がる大伴一族で君だけが天皇家に逆らった、それを言う人が現代にいる‥あ~あ、小手子である。

崇峻天皇の宮は倉梯にあり、陵は倉梯岡陵。天皇の墓地は巨大な石室を持つ赤坂天王山古墳とか、岡陵というにふさわしいスズメ塚(陵墓参考地)との論もあるが、いずれも多武峰に続く倉梯(現在名は倉橋)内、周辺である。

こちらに下居神社が置かれている。

延長5年(927年)にまとめられた延喜式 巻9 神名帳上にこの神社が記されている。

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大和国286座、十市郡19座のうち、最後に下居神社である。石寸山口神社、耳成山口神社とか、子部神社(百済大寺建立にあたり立ち退きを求められた?)などが見かけられる。

付近の等彌(とみ)神社や高屋安倍神社は式上郡となり、飛鳥から多武峰に登る気都和既(けつわき)神社は高市郡となっている。

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崇峻天皇の皇子、蜂子皇子にとっては倉橋の谷が故郷という事だろう。

突然、話は山形県に飛ぶ。出羽三山の開山の祖として、この蜂子皇子が出てくる。

推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。

・・・蜂子皇子は、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽神社」を御鎮座奉られた。今を去ること、千四百年前の御事である。

出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。(出羽三山神社 ご由緒 HPから)

出羽三山神社には蜂子社が置かれ、倉橋宮とのかかわりあいで下居神社が勧請され、下居社も祀られているという。


小手子と蜂子皇子を思って下居神社を参拝。倉橋の谷は1400年前、どんなだったか。

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下居神社の拝殿前

延喜式内社の下居神社は、寺川の上流の下居の神明神社との論もある。)

ちなみに小手子(こてこ)は、蜂子皇子を求めて奥州を放浪、福島県川俣町に落ち延びて、その地に養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」というのもある。

小手子は福島県の川俣では、「ゆるきゃら小手姫様」と親しまれ、蜂子皇子は出羽三山の開祖。奈良では崇峻天皇を人気者ではないのであるが、崇峻一家は東北では人気者である。

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で、下居神社の今年の夏まつりは行かなければならない。


by koza5555 | 2019-06-29 14:55 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

狛犬のきた道 アジアハイウェイ

談山神社の神廟拝所に祀られるのは鎌足公のご神像であるが、その前を木製の狛犬が守っている。文化財としての指定は受けていないが、「伝運慶作」とされ、細身であるが、けなげの姿である。阿形の口は大きく開かれ、口の中までしっかり彫られていて見事である。


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狛犬といえば、長谷寺の「銅版法華説相図」の狛犬がすごい。

国宝指定で、国宝は奈良国立博物館の仏像館、レプリカが境内の本長谷寺に置かれている。

「千仏多宝仏塔」といい、釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したものである。この宝塔の左右に狛犬が彫られている。銅板の作成は686年、698年説があるが、いずれにしても「国内の最古の狛犬」と言われている。

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ウィキペディアから拝借した銅板の図

狛犬には阿形、吽形があり、阿形は口を開け、吽方には角が生えている・・などと話してきたが・・あれこれの問題もある。それは

狛犬は神社で見かける。しかし、お寺で見ることもある。

狛犬というが、本当に犬だろうか?タテガミがあったりして、これはライオン?

角(つの)が生えている犬はいないし、ライオンにも角はない。

そこで、『狛犬のきた道』幻のアジア・ハイウェイ 本阿弥書店(鈴木英夫著)という本を読んでみた。30年ほど前の本である。

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「ギリシャのミケーネの遺跡にある獅子門、トルコ中央部の王城ハットウシャシュの城門のそれ、さらにメソポタミアにおけるバビロンのイシュタル門の獅子像」。

「一対の守門像がメソポタミアにあることは確かだろう。それが時代と場所によって多少のデフォルメを加えながら、一方は西へ伝わり、一方は東に進んで、日本まで達した」(p22)と鈴木英夫さんは考える。

それを現地で確かめるために、鈴木さんはギリシャからインドまでバスで訪れるツアーに参加、その旅行記である。

鈴木さんのツアーはギリシャ、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドに至る。


初めに紹介するのはギリシャのミケーネの守門獅子。ここは、僕も訪れて写真を撮っている。

シューリマンの黄金の仮面が有名だが、それに劣らず、この獅子は名高い。

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狛犬は西、ローマに流れる。ローマ人により抹殺された当方からイタリア半島に入ったエトルスキ人には、「門前を一対の獅子で飾る」という風習があった。ルネサンスの時代にはこれが掘りだされてあちこちに飾られたとのこと。

ギリシャ、オリエントの守門獅子は東にも伝わっていく。

鈴木さんは歴史を時系列だけでは見ないこと、地域的に横への伝播を見なければ文化の歴史は見られないと強調する。

アフガニスタンに入る。

このころは、バーミヤンの石造仏は健在である。インドの大学生が補修工事をしていることも紹介されている。

パキスタンのタキシラでは、ストーパを両側から守る一対のライオンが置かれている。B.C5世紀ころの都市である。守門獅子が、古代仏教と会い、ストーパの守護獅子になったという事だろう。

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最後に狛犬の角(つの)の事である。

日本に中国(朝鮮半島)から、仏教が伝わり、狛犬も併せて伝わったとみることが自然である。

日本の狛犬には角がある。キリンという想像上の動物が中国にいる。ライオンが一般的でない中国で獅子一対に、「麒麟(きりん)を付け加えたと見る」考えだが、いかがだろうか。



by koza5555 | 2019-06-28 16:43 | 桜井・多武峰 | Comments(0)

東吉野のコアジサイ群落

東吉野と川上村を結ぶ川上街道という道がある。標高が1000㍍ほどの峠がある。「足ノ郷峠」というが、ここにコアジサイの群落がある。


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今が満開、6月いっぱいくらいだろうか。薄い青みがかかった白い花である。軸が赤くて、陽の当たり具合では、紫色に見えたりもする。

この街道は天誅組行軍の道でもあり、ここから東吉野村鷲家に攻め入り、終焉を迎えた。

以下は「東吉野村」の掲示を書き起こしました


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「峯越衆(おごししゅう)

 川上街道(東熊野街道支線)は、かつて東吉野と川上の交流を支えた重要な街道であった。菟田野や大宇陀の米が鷲家口(小川)を経由して川上村に運ばれた。川上村には東川辻越え、白屋辻越え、足ノ郷越えの3ルートがあって、東川・白屋・武木、井光への生活物資輸送路として利用された。また、正月や盆前には鷲家口に「市」がたってにぎわい、普段でも川上からの買い物客がこの街道を往来した。

昭和初期頃まで、鷲家口には「峯越衆」と呼ばれ生活物資の運搬を本業にする人たちがいた。服装は白襦袢に紺バッチ、夏は素足、冷え込みの時期には自家製の足袋にワラジ履きであった。荷物は米60㎏が通常で、他に酒、醤油、魚介類、陶器、針金、釘なども運んだ。

天誅組行軍の道

 文久3年(1863年)9月24日、天誅組は東熊野街道を北上して武木の庄屋大西家などで昼食の接待を受け、午後3時ごろ同地を出発した。彼らは、戦闘に耐えうる元気な隊士を先陣に、傷病の隊士を後陣にして足ノ郷峠を越えて東吉野に入ってきた。

 そぼ降る時雨の中、「五本桜」(現キリヤクボヘリーポート付近)まで来ると、百姓二人が火を焚いて待っていた。鷲家口の情勢を聞いたところ、前夜からここに来ていたので、その後の様子は知らないという。一行は二人を木にしばりつけて鷲家口突破の軍議を開いた。「本隊を2隊に分け、一隊は決死隊となって鷲家口に陣取る彦根勢を突破する。もう一隊は戦闘に上じて主将中山忠光卿を大阪の長州屋敷まで守護する」という作戦であった。小びょの隊士の多くは丹生川上神社方面に下り木津川、伊豆尾方面に向かった。隊士のほとんどは雄途空しく若い命を散らしたが、5年後に明治維新が成し遂げられた。」

そんな足ノ郷峠である。心して参られよ・・・

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東吉野の小川の「西善」。神武天皇東征をテーマにした厳へ最中と天誅組をテーマにした魁饅頭。どちらも好評だった。


by koza5555 | 2019-06-24 20:17 | 吉野 | Comments(0)

三谷の寝地蔵

小夫(桜井市上之郷 桜井市の東部の山間部・巻向から上がる道、初瀬から上がる道がある)に用があり山登りである。もちろん車だが。

久しぶりにもう一つ奥の寝地蔵に参ることにした。

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こんな掲示が出されている。

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全文を書き出してみると。
寝地蔵  花崗岩 摩崖仏     三谷(上之郷)小字 下の佛

鎌倉後期 延慶(えんぎょう)2年(1309年)

「願主 藺生(旧都祁村)庄住人裕 禅浄覚坊 延慶二年 己酉6月24日造之」


信仰

大昔から「三谷のネンドさん」という愛称にて親しまれてきた。特に腰痛に霊験があらたかだったので近在の人々の進行を集め今もお参りする人がたえない。


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参考 寝地蔵の右にいつの時代からかもう一体のお地蔵さんが立つておられる。「建武二年(1335年)乙亥 10月24日云々」とある。割れ残った摩崖に阿弥陀如来が追刻されたらしい。


伝説

昔大男あり、寝地蔵を起こそうとしたが駄目だった。最近まで其の力持ちの足跡が右の田一枚に大きなわらじの形として残っていたが、今は杉が植林されている。

三谷村 寝地蔵奉賛会」


車が必要です。小夫(小夫)から三谷へ上がるコース、案内看板がアチコリにあます。

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上之郷(小夫とか三谷とか)まで、上がると、田んぼはふさふさ、水は見えない。



by koza5555 | 2019-06-22 16:51 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

安倍文殊院渡海文殊菩薩像

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「桜井市の美しき仏に出会う旅」のお手伝いをした。

同志社大学の井上一稔先生のセミナーつき、同行しての案内で安倍文殊院と聖林寺を訪れる講演・ウォークである。最短距離を歩くと、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳とかがあり、「ここを話して」という依頼だった。

「やまとみちの会」(JR東海)の会員限定、現地の企画・実施はやまとびとツアーズだった。

安倍文殊院西古墳、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳をご案内したが・・それはさておいて、井上先生の渡海文殊騎士像の解説が素晴らしかった。

講義の一端を紹介しよう(ちなみに、僕は講義を2回、お聞きした。これはガイドの特権である 笑)

レジメもあるので、講義のあらまし書いてみよう。

崇敬寺 阿部倉梯麻呂が安倍寺を創建(7世紀後半・現在は国史跡安倍寺跡として保存)する。のちに300m東北の現在地に移転。山に囲まれたちょっとした平地、お墓を営むような場所。この地には文殊院東・西古墳があるところだった。

平安時代後期には、阿弥陀信仰の人々が活動し、現在地に別所が設けられた。お寺の出先であるが、ここで何をやるか。平地ではできない修行。それは往生極楽、阿弥陀さんのところに行く修行である。

大治4年(1129年)没した永尋(えいじん)は安倍寺で丈六のお釈迦様と文殊様を建立する。今の文殊菩薩ができる前に文殊さんがいた。これが大切である。

永禄6年(1563年)21日に軍兵(松永勢か)の乱入放火により一山焼失、本堂のお釈迦様は焼け落ちたが、文殊堂の文殊・優塡王(インドの王)・仏陀波利三蔵・善財童子は救出された。

 天正8(1580)に蓮華座、獅子、最勝老人が再興される。

寛文5年(1655年)に文殊堂と礼堂が建立された。

文殊菩薩のことである。

文殊5尊、ルーツは中国の五台山にいきつく。平安時代の中頃、五台山の文殊さんに会いたいと中国にわたった東大寺のチョウネン(ちょう然)さんという人がいる。
この人が宋の皇帝に会い、五台山のお釈迦さんにも会えた。そのレプリカを作って、持ち帰った。それは嵯峨野の清涼寺のご本尊である。この像に版画が入っていた。それが獅子に乗った文殊。最勝老人と善財童子がいる。現代の文殊菩薩の原型である。

 「ちょう然」さんは五台山から文殊菩薩を持ち帰りたかった。ところが釈迦如来を持ち帰った。なぜか。
次は醍醐寺の文殊菩薩像。五尊になっていて、後ろに山が五つある。これが五台山で、ここにいる生身(しょうじん)の文殊さんがいる。

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『日本の美術』314 「文殊菩薩像」より

五台山に日本の僧はあこがれた。ちょう然さんだけでなく、奈良時代から日本の僧侶のあこがれの場所であった。宋が五台山信仰を利用した。イデオロギーと経済で。アジアで五台山へという流れを政治的に作り上げた。

安倍文殊院の文殊菩薩像の特徴。

文殊菩薩は宝冠をかぶる。五智の宝冠という。5つの智恵の宝冠。理知的な顔である。文殊菩薩は理知的なお顔でなければならない。極彩色の文様。五体とも施されており、体は黄金色。体は極彩色が本来の文殊さまの姿。

宋の時代の仏像の特徴がある。

胸からお腹にかけて。肩当があり、ベルトを締めて裳を付ける。宋の時代の特徴。

快慶の像としての特徴も鮮明。

唇の上が少し大きめ。この時代の快慶。

爪が長い。これも宋の時代の特徴。

側面、髪の毛をすき上げて、髻(もとどり)が大きい。

後ろから見ても、髪を巻き上げて、渦のように・・これが快慶の特徴である。

中に快慶が作ったという銘文があるが、作風から見ても快慶である。

極彩色の文様。五体とも施されている。

体は黄金色。体は極彩色が本来の文殊さまの姿。

持ち物は剣と経巻。

もともとは如意ですが、こちらは剣と経巻。文殊院の文殊さんは五台山を採用しているが、持ち物は違う。快慶の工夫がある。

密教の特徴である。西大寺も同じだが、こちらは安倍文殊院の影響を受けている。

○優填王 優填国の王様   表も裏も獣の皮で、力強い。

○善財童子 見上げて合掌。 先頭を歩く。先導者。横に巻いた髪の毛。中国の童子。

体の動きがある。後ろから見ると衣がなびいている。

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○須菩提(仏陀波利三蔵)

インドのお坊さん。高い鼻、歯をむき出して異国のイメージ。興福寺の無著世親がイメージされる。

〇維摩居士(最勝老人(中国の仙人))に『仏頂尊勝陀羅尼経』を持ってきたかと問われ、もう一度インドとの間を往復。

安土桃山時代に再建(獅子・蓮華座・最勝老人)宗院作。1580年。

  1. 建仁3年(1203年)に作ったと書かれている。

重源と共に快慶が作った。名前が書いてある人が50人。

  1. 像内納入の『仏頂尊勝陀羅尼』に承久2年(1220年)の年紀の見える奥書がある。

「同法沙門慧敏(えびん)奉造立九尺文殊像 為籠其一字三礼書之願・・・」

2論ある。重源が中心になって作った説。慧敏が奉造したという説。

崇敬寺の文殊信仰は、安倍寺で丈六の文殊菩薩を建立した永尋(えいじん)にはじまる。

崇敬寺の文殊信仰は、文殊の姿を見て、大菩提心(仏の悟りを得ようとする心)を開発する願う内容である。

菩提心こそが極楽往生の大本であり、安倍別所で文殊像を作造する根拠となる。

文殊菩薩が作られた目的は、極楽往生するために、まず文殊菩薩像に会って、菩提心を開発して、その菩提心によって往生するためであったと考えられる。

井上先生の講義に合わせて、『日本の美術』314 「文殊菩薩像」を参照とした。

井上一稔先生の「聖林寺観音像とその周辺」『奈良学研究第十二号』(帝塚山大学)も、奈良の仏像のガイドには必読本である。

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長々とすいませんでした。



by koza5555 | 2019-06-20 11:13 | 桜井市と安倍 | Comments(0)