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奈良・桜井の歴史と社会

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『文学で読む日本の歴史』

『文学で読む日本の歴史』。桜井の図書館本である。

元東大教授の五味文彦先生、中世史の研究家である。5年ほど前の本であるが・売れ行きはどうだったんだろうか‥

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五味先生は日本の中世を研究されたが、「日本中世史の分野・領域の研究の限界を知ることになった。その歴史に限って探っていてはあまり見えないことが多すぎると思う中、新たな視角から日本の歴史を広く探ってゆく必要を痛感し、そのためには時代区分を再考しなければならないと考えるに至った。」

として、時代区分の検討…それを中世だけではなく、有史の古代からの変化を考えるとして100年単位(三世代)で、歴史を区切られた。
その区分は、なかなか魅力的で、そのまま紹介ると・・:・以下のとおりである。

57年 倭奴国、漢に朝貢     弥生時代の後期

266 倭の女王、晋に使者を派遣 古墳時代前期

369年 百済、七支刀を倭の贈る  古墳時代中期

477年 倭の武王、宋に朝貢    古墳時代後期

572年 敏達天皇即位       飛鳥時代

667年 天智天皇称制       律令時代

767年 道鏡政権         律令体制の変容

866年 摂政藤原良房       摂関時代

969年 摂政藤原実忠       後期摂関時代

1068年 後三条天皇即位      院政時代

ムリムリに当てはめているところもあるかもだが、ネーミングも含めてとてもおもしろい。
弥生時代、古墳時代、飛鳥・藤原時代・奈良時代のような言い方よりも、はっきりわかりやすい、語りやすい。
「文学で語る」の本筋は、何も紹介できないけど・・これだけ読んだだけでも価値があった。
『古事記』、『萬葉集』、『日本書紀』、『古今和歌集』などと続いて、最後は『枕草子』と『源氏物語』である。

清少納言の『枕草子』は、最近読み直したばかりで興味深かったが、

「その自然観を端的に物語っているのが第一段」として、

「はるはあけぼの.やうやう白くなり行、山ぎはすこしあかりて、むささきだちたる雲のほそくたなびきたる」

であり、

「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし」。

「秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音などいとあはれなり。」

「冬はつとめて。雪のふりたるは、いふべきもあらず。霜のいとしろきも、またさらでも、と寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。

いいよなあ・・この景色、これが日本人の一つの自然観を形作ったと思うが・・

「総じて一段は、枕を交わした人と見たり、聞いたりする景色をあげたもの」とのことで、ああ、なるほど・・・

である。

こんなことが、次々と書き連ねられる、文学を通して歴史を考えようという本である。

350ページほどである、楽しめた。

『文学で読む日本の歴史』山川出版社。元東大文学部教授の五味文彦著である


by koza5555 | 2019-09-18 21:32 | 読書 | Comments(0)

『金剛の塔』

1400年前、百済から渡ってきた工人(大工)が、四天王寺の五重塔を作り上げたという。

『金剛の塔』。小説である。木下昌暉著。「技能時代小説」というらしい。

「兵火雷火で七度も破壊されつつも、そのたびによみがえった宝塔のことよ。まあ、火や雷には弱かったが、自慢なのは地震では倒壊したことがないことじゃ。これはわが四天王寺だけでなく、日本の全ての木造五重塔がそうじゃ」というところから物語は始まる。

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この本の面白いところは、初めに造った(578年)大工の工夫と努力だけではなく、承和三年(836)の落雷で焼失した後の再建、天徳4年(960年)の火災のあとの再建、天正19年(1591年)の再建、享和元年(1801年)の落雷で焼失したのちの再建など、その時々の大工の努力と工夫を紹介しながら、五重塔の構造を解説していくところである。


中国にも朝鮮にもなかった木造の五重塔、大量の雨が長く降り続く日本の風土に合う五重塔でなければならない。しかも、その当時も何度も地震に襲われる(南海トラフの崩壊、内陸の断層のズレによる揺れ)日本で耐えうる五重塔を設計、建設した大工の智恵である。


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これは中国の西安(長安)の大雁塔。ちょっと日本の塔とは雰囲気が違う

それは心柱の発明である。

「一本の心柱が、通し柱のように五重塔を貫いている。だが、この柱は五重塔を支えていない。ただ、それ自体が独立して立っているだけだ。‥全く無意味な材だ。にもかかわらず、これしかないと思う。倭国の地揺れにたえる仏塔は、この形しかないと断言できた。」

どうして、百済の工人が新柱に行きついたかの解明はない。ちょっと超能力的な聖徳太子の啓示によるとのことで、ここは小説である。

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この心柱の考え方、技術は現代のスカイツリー、東京駅前の新丸ビルに生かされていると、話が広がって、『金剛の塔』はまとめられる。

技術的なことは『おもしろサイエンス 五重塔の科学』(日刊工業新聞)が、解明している。併せて読んでいただけるならば、理解が深まるだろう。

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ちなみに現在の四天王寺の塔は鉄筋コンクリート、飛鳥時代の技術を傾注しているとのことだが、空襲で焼けた塔は昭和38年に再建された。



四天王寺にとって、西門の石の鳥居は海からの入り口だったことがふれられていて、これは興味深かった。昨年のお彼岸に写真を撮っている。

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最近、瀧川寺社建築の社長に「天平尺」の定規をいただいた。1尺は2954センチメートル。



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by koza5555 | 2019-09-16 22:20 | 読書 | Comments(0)

飛鳥(大字)の弥勒法要

9月の第一日曜日、午後2時から明日香村岡の弥勒堂にて、「弥勒法要」が行われた。

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強烈な陽ざし、猛暑のなか、飛鳥寺の僧侶の読経の中、参加された来賓、村民など30名あまりが様々な願いをミロクさんにお願いをする。

もともとは旧暦の85日の行事だったが、昨年(平成30年)から9月の第一日曜日に日程を変更されている。


弥勒堂の前の表示

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弥勒石

この「弥勒石」は、真神原の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が細工されているだけである。

 弥勒石を拝むと下半身の病気が治るといういい伝えがあり、今も地元や周辺の人々の信仰を集めるとともに、「ミロクさん」と呼ばれている。

 毎日旧暦8月5日に飛鳥大字がお祭を行っています。

                   明日香村大字岡です

掲示されている由緒と別に、今では足の仏さんと言われるようになり、わらじの奉納が行われている。

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ミロク石は「飛鳥川の十流から流れて来たとも、近くの飛鳥京苑池のものとも、また、現在は百㍍程上流になっている木の葉堰の石であるとも言われている」。「弥勒石が川から引き上げられたとされる旧暦の8月5日」、(『繋――明日香村の大字に伝わるはなし』)に飛鳥の大字により法要が行われる。飛鳥川下流の飛騨(橿原市)の村からも参列がある。

ミロク石は岡の大字に所在するが、この祭りにはあくまでも飛鳥の大寺の主宰で、岡は来賓としての参列する。



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「あすか夢の楽市」から県道124号線をセブンイレブン(亀石ちかく)の方向にむかい、飛鳥川を渡る橋の手前の左手を見ると小さなお堂が見れる。川沿いの側道ができており、どんな靴でも軽く入れる。

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今年、撮った初めてのヒガンバナ

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by koza5555 | 2019-09-08 21:50 | 橿原・明日香 | Comments(0)

祟る神と雷鳴陣

にわかに空かきくもり、雷鳴ひときわ騒がしい。昨日の事である。落雷があり、しばらくは停電があったりでバタバタする。そこで‥‥雷を考えてみた。

佐味田宝塚古墳(河合町)の家屋文鏡にも、稲妻が空を走る絵が描かれている。

宮殿はキヌガサがさしかけられ、空には稲光、稲妻の中に宮殿を見下ろす子供の姿が描かれている。これは子供に化した竜神がいつ下りようかと狙っている図とのことである。『歴史の中の大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』保立道久(岩波新書)による。
佐味田宝塚古墳の全景

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佐味田宝塚古墳は、公園の区画からは外れているが、馬見丘陵古墳群の有力古墳である。

家屋文鏡の雷神の子供、下界をうかがう


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歴史のなかでの雷の位置づけを考えてみた。

まず、清少納言が雷を書いている。

「神のいたう鳴るおりに」『枕草子』(279)である。講談社学術文庫の『枕草子 下』(p230)によると、「雷がひどくなる時に、神鳴の陣ほど、恐ろしいことはない。左右の近衛の大将や中、少将などが、清涼殿の御格子のそばに伺候なさるのが、とても気の毒な感じだ。雷鳴が終わった時に、近衛の大将が一堂に向かって『下りよ』と下知なさる。」

天皇を守り、雷と戦う近衛の武官を「とても気の毒」と書いて、同情している。

先述の保立道久先生が『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で、この神鳴の陣を書かれていた。

「雷電への恐怖は古くから続いていた。たとえば雷鳴の際に、近侍のものが天皇を護衛するために集結する『雷鳴陣』という風習があり、佐多芳彦によれば、その資料的所見は、聖武天皇の727年(神亀4)正月、冬の雷が宮廷に鳴り響いた時の例とされる。この時、宮中に天皇の側にいて雷から天皇を護衛すべき侍従の文官と武官が遊びに出ていたため、彼らはきびしく咎められた(『万葉集』巻6949)」(p186

この歌を紹介しておくと

梅柳 過るらく惜しみ 佐保の内に 遊びしことを 宮もとどろに(萬葉集6949

「梅や柳の盛りが過ぎることを惜しんで佐保に遊んだが、大騒ぎになった」という意味である。

さらに以下のような注がついている。

「右は、神亀4年正月、多数の皇族や臣下の子弟たちが春日野に集まって、打毬の遊びを行った。その日急に空が曇って雨が降り雷が鳴り稲妻が光った。この時、宮中に侍従や舎人たちもいなかった。そこで勅命で処罰し、皆を授刀寮に閉じこめ、みだりに外出することを許さなかった。そこで心も晴れず、この歌を作った。作者はわかない。」『萬葉集』二のp148 (小学館)

雷の鳴ったときに、「雷鳴陣」を取らなかったことが咎められた。

雷が鳴ると天皇を守るために欄干を前に並んで座る。なんとなく落雷を招くみたいな行為だが、その体制は奈良時代・・平安の時代を通して守られた。

雷の怖さは、自然現象の雷の怖さだけではなく、実はこれは怨霊から天皇を守ると言うのが雷鳴陣とのことである。

怨霊は雷神になるという。記録にある一番古いのは早良親王(崇道天皇)で、その後も数多くの怨霊が雷神になった。菅原道真は雷神として有名だが、道真だけではないのである。

地震があり、火山の噴火があり、落雷があると飛鳥の時代から平安時代まで、政治は大きく影響を受けた。

怨霊という考え方もあるが、それを契機に政治が変わるという契機にもなるようである。

さらに古代になると、雷神の力により、あるいは雷神そのものによって身ごもられた子供の力は強いという観念もあるようである。

雄略天皇が少子部のスガルに、「雷を連れて来い」と命令する、これが『日本霊異記』の一番目のテーマである。

「雷を連れてこい」は、天皇の婚合の場を邪魔をしたことへの怒りの無理難題かと思っていたが、婚合は雷の力を求める儀式だったとの意とのことである。「時にあたりて雷なりき」とあり、婚合の初めから、空はかき曇り、雷鳴と雷光のなかでの儀式をスガルが邪魔をしたとのことらしい。

雷神は古代(神話時代)は王権に力を授ける神である。雷神の強烈さから、奈良・平安時代にはもっとも恐れられた怨霊がこの雷神の姿となって現れるような変化も生まれた。

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by koza5555 | 2019-09-05 20:33 | 読書 | Comments(0)