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奈良・桜井の歴史と社会

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藤原宮跡のコスモス

奈良まほろぼソムリエの会のホームーページの10月の歳時記は「藤原宮とコスモス」とした。

10月 藤原宮跡のコスモス

藤原宮跡のお花畑が評判です。大和三山を背景に春は菜の花、夏はキバナコスモスやハナハス、そして秋には300万本のコスモスが咲き乱れます。透明な秋の光の中、風にそよぐピンクや紫のコスモスの美しさはたとえようもありません。宮跡の東には奈良文化財研究所の「藤原宮跡資料室」、西側には「橿原市藤原京資料室」が開かれ、藤原京と宮を理解できる豊富な資料が展示されています。いずれも料金は無料です。(雑賀耕三郎)


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         「かしはら探訪ナビ」より


およそ1300年前の持統天皇8年(694
年)125日、都は飛鳥の北西方向に広がる藤原の地へと遷った。

藤原京への遷都を計画したのは、統天皇の夫の天武天皇である。

律令国家を作るために心血を注いだ天武天皇は、中国に倣っての都の建設に着手する。

日本書紀によれば、

天武13年(684年)2月には、畿内と信濃に都の場所を選ぶ調査団を派遣している。

同年3月には天皇が京内を巡行、宮室に適当な場所を定めた。

持統天皇の4年(690年)冬10月に、高市皇子が百官と共に藤原の地を視察した。

持統5(691)10月に、新益京(あらましのみやこ)で地鎮の祭を行った。

和銅3310日(710413日)に元明天皇が平城宮に遷都するまで、持統・文武・元明の三代の宮室が置かれた。

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「春過ぎて夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山」(萬葉集 巻128)は、持統天皇が藤原宮から香久山を歌ったものとしてよく知られており、この地で歌われる萬葉歌も数多く知られている。

藤原京というが、藤原は香久山の西北、宮の東方にあたり、広大な藤原京から見ればごく一部であり、この宮を書紀は藤原京ではなく「新益京」と記した。

ただし、万葉集には「藤原の 大宮仕え 生(あ)れつくや 娘子(おとめ)がともは ともしきろか」(巻1-53)というように、「藤原の大宮」という言葉もあり、一筋縄ではいかない。

日本における宮城の画期をなした藤原京は、16年間という短期間でその使命を終えた。

「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きていなば 君があたりは 見えずかもあらむ」(巻1-78)と元明天皇が詠い、都は奈良に移される。

藤原京はその役割を終えた後、建物、柱や板は平城京に移築されることになった

大垣の軸となる7メートル余りの大きな柱があったが、1200本のすべてが抜かれて平城京に移築する。

全ての大垣、建物が平城京に移されて、新益の京は農地に変わっていった。古代の姿は、現在、奈良文化財研究所が継続的に発掘調査を進めており、新たな発見、検証を次々で、毎年のように現地説明会が開かれている。

こちらでは花を見て、宮の東側、奈良文化財研究所の「藤原宮跡資料室」と、西側の橿原市の「藤原京資料室」を見学するのが、お値打ちコースである。

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         奈良文化財研究所「藤原旧跡資料室」

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         背景は畝傍山


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         橿原市藤原京資料室の巨大模型に川、大極殿などを書き加えた



by koza5555 | 2019-09-27 16:56 | 橿原・明日香 | Comments(0)

山辺三と濡れ地蔵会式

923日の午後、宇陀市山辺三にて、濡れ地蔵会式が行われた。

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山辺三の濡れ地蔵

古くは背後の山から水をひいて、この地蔵菩薩に注いでいたと言うので、俗に濡れ地蔵と呼ばれている。この像は左手に宝珠、右手に鎖杖を持った半身彫の立像で、舟型に彫りくぼめているのが光背の部分である。

背部の右側に「建長六年甲寅八月十五日健」と二行に陰刻されているので、鎌倉時代の造立であることが知られている。像の左右には各一体十王の立像と地蔵分身の小像が陰彫されている

室生ダムが作られてからは、ダムの水位によって、お姿が見えたり、水没したりという特異な運命を新たに背負ったお地蔵様である。(現地掲示板)

会式の本日は台風の余波かの雨模様で、開催場所は濡れ地蔵から山辺三の集会所へ、急きょ変更である。

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主催する山辺三はテントを張る準備をしていたが、100㍍は人力で運ばなければならない。

濡れては困る仏具もあり、順次、車で集会所に移動して開催された。

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導師は融通念仏宗の西方寺のご住職、高らかに会式は執り行われた。

法要の後は数珠繰りが行われる。「9回か13周か」などと言いながら、数珠繰りが始まった。この会式は山辺三の行事で、参加者は村の役員、濡れ地蔵近辺のご婦人たち、5歳くらいの子供も参加している。

村の中には別のお地蔵さんも祀られており、数珠繰りは年に何度も行われているようである。


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立派な集会所には「山辺三賛歌」という額が掛けられて。歌がある区(町内)は珍しいというか、すごい。村の歴史を誇りとされている。

「むかしもゆかし赤人や 心を洗う濡れ地蔵 いわれも深き山辺三」(「山辺三賛歌」3番)と歌詞にあるように、山部赤人の碑や濡れ地蔵は山辺三にとっては誇りである。

濡れ地蔵はすばらしい村人に守られていた。

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濡れ地蔵から大和富士(額井岳、戒場山をのぞむ)




by koza5555 | 2019-09-23 17:10 | 宇陀 | Comments(0)

大阿太(大淀町)の梨

ここらあたりでは梨といえば大阿太高原(大淀町)の二十世紀梨、みずみずしくおいしいと評判である。

「大阿太(おおあだ)高原の開墾、梨の栽培をはじめて約110

大阿太高原の梨の栽培の歴史は古く、明治10年頃から開墾がはじまり、明治35年頃から二十世紀梨(当時は凱歌(かちどき)梨と命名)の栽培が始まりました。

大阿太高原は標高150200メートルにある丘陵地帯で、昼夜の温度差が大きく果樹栽培に適した気候です。土質は強粘土質で、見た目には赤土とよばれる色でミネラル分を多く含み、梨の糖度を高める要因となっています。

大淀町果樹組合(組合長 中元安則)は、昭和42年に栽培技術の向上や販売用資材の購入等を目的に、佐名伝地区と薬水地区が共同で設立し、組合員数は現在44名です。」(近畿農政局HP)。

歳時記と言えば、花と行事・・もう少しなんかないのかとつらつらと考えていたら・・

「梨食べたい、梨なら大阿太や」とさっそく、行ってきた。

福神の駅(近鉄吉野線)を越えると、それが大阿太高原。大きな看板があり、佐名伝への入り口を示す案内掲示板がある。ざっと数えて25軒ほど、お名前や屋号が書かれている。

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なんとなく進むと、取入れ作業中の栽培農家を発見。直ちに突撃取材、「農園に入ってもいいですか。作業の写真撮ってもいいですか」と声をかけると、明るく「いいよ」の返事がある。しばらくパシャパシャと撮っていると、「袋、取ったろうか」などと、大サービス。

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袋ごと収穫する。後で確かめると、この袋はパラフィン紙。二十世紀梨は栽培を始めたころは黒斑病の戦いの歴史だったとのこと。100年前だそうです。軍隊で医療品の包装紙だったパラフィン紙、雨水を通さない特徴があり、これで梨をくるんだ、黒斑病対策に大きな効果あり、これが全国でも注目されて、二十世紀梨の栽培は一気に広がったとのことです。

ともかく、パラフィン紙を外す大サービス、「マスコミの取材も全部これまではやります」とニッコリされたのは、緑三園の山口さんである。


みずみずしい二十世紀梨、10個ほど分けていただいた。自宅用で包装はなし、1800円でした。

シーズン的には9月までという事だが、収穫はまだまだこれからという果樹園はたくさん。

ぜひ、お出かけください。

ちなみに大淀町のマンホールは「鮎と梨」。

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大阿太高原からは金剛山が正面に
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by koza5555 | 2019-09-22 22:29 | 吉野 | Comments(0)

キトラ古墳 白虎天文図公開は10月20日まで

キトラ古墳の壁画の実物が、921日から1020日まで拝見できる。白虎と天文図、足元の戎(十二支神)である。


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キトラ古墳の石室は全面に漆喰が塗られており、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武、さらに足元には十二支神、天井には天文図と日月が描かれていた。高松塚古墳の壁画には無かった(盗掘穴で破壊された?)朱雀も見事に残っていたことが特徴である。


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国宝にこちらが指定されていなかったが、このほど(令和元年723日)、キトラ古墳(明日香村阿部山)の壁画が国宝に指定された。今年の公開の参加者には、それを記念して「キトラ古墳壁画 国宝指定記念 作ってわかる!ミニチュア石室」という、ペーパークラフトがいただける。

先着一万人までとされているので、それなりに早めにお出かけください。

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ミニチュア、丁寧に作ってみた。子供のころ、プラモデルを造るといつも部品が余ったが、これは大丈夫だった()

併せて高松塚壁画修理作業室も9月21日から27日(金)まで公開されている。「何度も行きました」と言われるでしょうけど、「キトラ古墳壁 国宝指定記念」の高松塚のミニチュア石室(ペーパークラフト)がいただける。こちらは期間が短いから・・併せて・・急いで

キトラ古墳、高松塚古墳の壁画についての詳細は最近、僕もブログで書いています。来村多加史著の「上下する天文」の感想文である。併せてお読みください。



by koza5555 | 2019-09-21 20:44 | 橿原・明日香 | Comments(0)

『文学で読む日本の歴史』

『文学で読む日本の歴史』。桜井の図書館本である。

元東大教授の五味文彦先生、中世史の研究家である。5年ほど前の本であるが・売れ行きはどうだったんだろうか‥

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五味先生は日本の中世を研究されたが、「日本中世史の分野・領域の研究の限界を知ることになった。その歴史に限って探っていてはあまり見えないことが多すぎると思う中、新たな視角から日本の歴史を広く探ってゆく必要を痛感し、そのためには時代区分を再考しなければならないと考えるに至った。」

として、時代区分の検討…それを中世だけではなく、有史の古代からの変化を考えるとして100年単位(三世代)で、歴史を区切られた。
その区分は、なかなか魅力的で、そのまま紹介ると・・:・以下のとおりである。

57年 倭奴国、漢に朝貢     弥生時代の後期

266 倭の女王、晋に使者を派遣 古墳時代前期

369年 百済、七支刀を倭の贈る  古墳時代中期

477年 倭の武王、宋に朝貢    古墳時代後期

572年 敏達天皇即位       飛鳥時代

667年 天智天皇称制       律令時代

767年 道鏡政権         律令体制の変容

866年 摂政藤原良房       摂関時代

969年 摂政藤原実忠       後期摂関時代

1068年 後三条天皇即位      院政時代

ムリムリに当てはめているところもあるかもだが、ネーミングも含めてとてもおもしろい。
弥生時代、古墳時代、飛鳥・藤原時代・奈良時代のような言い方よりも、はっきりわかりやすい、語りやすい。
「文学で語る」の本筋は、何も紹介できないけど・・これだけ読んだだけでも価値があった。
『古事記』、『萬葉集』、『日本書紀』、『古今和歌集』などと続いて、最後は『枕草子』と『源氏物語』である。

清少納言の『枕草子』は、最近読み直したばかりで興味深かったが、

「その自然観を端的に物語っているのが第一段」として、

「はるはあけぼの.やうやう白くなり行、山ぎはすこしあかりて、むささきだちたる雲のほそくたなびきたる」

であり、

「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし」。

「秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音などいとあはれなり。」

「冬はつとめて。雪のふりたるは、いふべきもあらず。霜のいとしろきも、またさらでも、と寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。

いいよなあ・・この景色、これが日本人の一つの自然観を形作ったと思うが・・

「総じて一段は、枕を交わした人と見たり、聞いたりする景色をあげたもの」とのことで、ああ、なるほど・・・

である。

こんなことが、次々と書き連ねられる、文学を通して歴史を考えようという本である。

350ページほどである、楽しめた。

『文学で読む日本の歴史』山川出版社。元東大文学部教授の五味文彦著である


by koza5555 | 2019-09-18 21:32 | 読書 | Comments(0)

『金剛の塔』

1400年前、百済から渡ってきた工人(大工)が、四天王寺の五重塔を作り上げたという。

『金剛の塔』。小説である。木下昌暉著。「技能時代小説」というらしい。

「兵火雷火で七度も破壊されつつも、そのたびによみがえった宝塔のことよ。まあ、火や雷には弱かったが、自慢なのは地震では倒壊したことがないことじゃ。これはわが四天王寺だけでなく、日本の全ての木造五重塔がそうじゃ」というところから物語は始まる。

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この本の面白いところは、初めに造った(578年)大工の工夫と努力だけではなく、承和三年(836)の落雷で焼失した後の再建、天徳4年(960年)の火災のあとの再建、天正19年(1591年)の再建、享和元年(1801年)の落雷で焼失したのちの再建など、その時々の大工の努力と工夫を紹介しながら、五重塔の構造を解説していくところである。


中国にも朝鮮にもなかった木造の五重塔、大量の雨が長く降り続く日本の風土に合う五重塔でなければならない。しかも、その当時も何度も地震に襲われる(南海トラフの崩壊、内陸の断層のズレによる揺れ)日本で耐えうる五重塔を設計、建設した大工の智恵である。


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これは中国の西安(長安)の大雁塔。ちょっと日本の塔とは雰囲気が違う

それは心柱の発明である。

「一本の心柱が、通し柱のように五重塔を貫いている。だが、この柱は五重塔を支えていない。ただ、それ自体が独立して立っているだけだ。‥全く無意味な材だ。にもかかわらず、これしかないと思う。倭国の地揺れにたえる仏塔は、この形しかないと断言できた。」

どうして、百済の工人が新柱に行きついたかの解明はない。ちょっと超能力的な聖徳太子の啓示によるとのことで、ここは小説である。

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この心柱の考え方、技術は現代のスカイツリー、東京駅前の新丸ビルに生かされていると、話が広がって、『金剛の塔』はまとめられる。

技術的なことは『おもしろサイエンス 五重塔の科学』(日刊工業新聞)が、解明している。併せて読んでいただけるならば、理解が深まるだろう。

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ちなみに現在の四天王寺の塔は鉄筋コンクリート、飛鳥時代の技術を傾注しているとのことだが、空襲で焼けた塔は昭和38年に再建された。



四天王寺にとって、西門の石の鳥居は海からの入り口だったことがふれられていて、これは興味深かった。昨年のお彼岸に写真を撮っている。

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最近、瀧川寺社建築の社長に「天平尺」の定規をいただいた。1尺は2954センチメートル。



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by koza5555 | 2019-09-16 22:20 | 読書 | Comments(0)

飛鳥(大字)の弥勒法要

9月の第一日曜日、午後2時から明日香村岡の弥勒堂にて、「弥勒法要」が行われた。

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強烈な陽ざし、猛暑のなか、飛鳥寺の僧侶の読経の中、参加された来賓、村民など30名あまりが様々な願いをミロクさんにお願いをする。

もともとは旧暦の85日の行事だったが、昨年(平成30年)から9月の第一日曜日に日程を変更されている。


弥勒堂の前の表示

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弥勒石

この「弥勒石」は、真神原の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が細工されているだけである。

 弥勒石を拝むと下半身の病気が治るといういい伝えがあり、今も地元や周辺の人々の信仰を集めるとともに、「ミロクさん」と呼ばれている。

 毎日旧暦8月5日に飛鳥大字がお祭を行っています。

                   明日香村大字岡です

掲示されている由緒と別に、今では足の仏さんと言われるようになり、わらじの奉納が行われている。

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ミロク石は「飛鳥川の十流から流れて来たとも、近くの飛鳥京苑池のものとも、また、現在は百㍍程上流になっている木の葉堰の石であるとも言われている」。「弥勒石が川から引き上げられたとされる旧暦の8月5日」、(『繋――明日香村の大字に伝わるはなし』)に飛鳥の大字により法要が行われる。飛鳥川下流の飛騨(橿原市)の村からも参列がある。

ミロク石は岡の大字に所在するが、この祭りにはあくまでも飛鳥の大寺の主宰で、岡は来賓としての参列する。



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「あすか夢の楽市」から県道124号線をセブンイレブン(亀石ちかく)の方向にむかい、飛鳥川を渡る橋の手前の左手を見ると小さなお堂が見れる。川沿いの側道ができており、どんな靴でも軽く入れる。

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今年、撮った初めてのヒガンバナ

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by koza5555 | 2019-09-08 21:50 | 橿原・明日香 | Comments(0)

祟る神と雷鳴陣

にわかに空かきくもり、雷鳴ひときわ騒がしい。昨日の事である。落雷があり、しばらくは停電があったりでバタバタする。そこで‥‥雷を考えてみた。

佐味田宝塚古墳(河合町)の家屋文鏡にも、稲妻が空を走る絵が描かれている。

宮殿はキヌガサがさしかけられ、空には稲光、稲妻の中に宮殿を見下ろす子供の姿が描かれている。これは子供に化した竜神がいつ下りようかと狙っている図とのことである。『歴史の中の大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』保立道久(岩波新書)による。
佐味田宝塚古墳の全景

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佐味田宝塚古墳は、公園の区画からは外れているが、馬見丘陵古墳群の有力古墳である。

家屋文鏡の雷神の子供、下界をうかがう


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歴史のなかでの雷の位置づけを考えてみた。

まず、清少納言が雷を書いている。

「神のいたう鳴るおりに」『枕草子』(279)である。講談社学術文庫の『枕草子 下』(p230)によると、「雷がひどくなる時に、神鳴の陣ほど、恐ろしいことはない。左右の近衛の大将や中、少将などが、清涼殿の御格子のそばに伺候なさるのが、とても気の毒な感じだ。雷鳴が終わった時に、近衛の大将が一堂に向かって『下りよ』と下知なさる。」

天皇を守り、雷と戦う近衛の武官を「とても気の毒」と書いて、同情している。

先述の保立道久先生が『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で、この神鳴の陣を書かれていた。

「雷電への恐怖は古くから続いていた。たとえば雷鳴の際に、近侍のものが天皇を護衛するために集結する『雷鳴陣』という風習があり、佐多芳彦によれば、その資料的所見は、聖武天皇の727年(神亀4)正月、冬の雷が宮廷に鳴り響いた時の例とされる。この時、宮中に天皇の側にいて雷から天皇を護衛すべき侍従の文官と武官が遊びに出ていたため、彼らはきびしく咎められた(『万葉集』巻6949)」(p186

この歌を紹介しておくと

梅柳 過るらく惜しみ 佐保の内に 遊びしことを 宮もとどろに(萬葉集6949

「梅や柳の盛りが過ぎることを惜しんで佐保に遊んだが、大騒ぎになった」という意味である。

さらに以下のような注がついている。

「右は、神亀4年正月、多数の皇族や臣下の子弟たちが春日野に集まって、打毬の遊びを行った。その日急に空が曇って雨が降り雷が鳴り稲妻が光った。この時、宮中に侍従や舎人たちもいなかった。そこで勅命で処罰し、皆を授刀寮に閉じこめ、みだりに外出することを許さなかった。そこで心も晴れず、この歌を作った。作者はわかない。」『萬葉集』二のp148 (小学館)

雷の鳴ったときに、「雷鳴陣」を取らなかったことが咎められた。

雷が鳴ると天皇を守るために欄干を前に並んで座る。なんとなく落雷を招くみたいな行為だが、その体制は奈良時代・・平安の時代を通して守られた。

雷の怖さは、自然現象の雷の怖さだけではなく、実はこれは怨霊から天皇を守ると言うのが雷鳴陣とのことである。

怨霊は雷神になるという。記録にある一番古いのは早良親王(崇道天皇)で、その後も数多くの怨霊が雷神になった。菅原道真は雷神として有名だが、道真だけではないのである。

地震があり、火山の噴火があり、落雷があると飛鳥の時代から平安時代まで、政治は大きく影響を受けた。

怨霊という考え方もあるが、それを契機に政治が変わるという契機にもなるようである。

さらに古代になると、雷神の力により、あるいは雷神そのものによって身ごもられた子供の力は強いという観念もあるようである。

雄略天皇が少子部のスガルに、「雷を連れて来い」と命令する、これが『日本霊異記』の一番目のテーマである。

「雷を連れてこい」は、天皇の婚合の場を邪魔をしたことへの怒りの無理難題かと思っていたが、婚合は雷の力を求める儀式だったとの意とのことである。「時にあたりて雷なりき」とあり、婚合の初めから、空はかき曇り、雷鳴と雷光のなかでの儀式をスガルが邪魔をしたとのことらしい。

雷神は古代(神話時代)は王権に力を授ける神である。雷神の強烈さから、奈良・平安時代にはもっとも恐れられた怨霊がこの雷神の姿となって現れるような変化も生まれた。

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by koza5555 | 2019-09-05 20:33 | 読書 | Comments(0)