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寺崎白壁塚古墳
●大和国古墳墓取調書
明治26年3月 野淵龍潜
第470号として記載。丙のランクに指定されている。
野淵の古墳ランクは以下の通り。
甲 陵とみられるもの
乙 それに準ずる貴重なもの
丙 それ以外
「第470号は小塚にして且つ考査の資料を欠り」と解説は簡略である。
「高市郡越智岡村大字寺崎字白髪山356番 山林四畝 民有地」
「高さ2間 根廻23間」
●古墳の立地
白壁塚は高取町と橿原市との境界に沿って東西に延びる貝吹山丘陵から南に派生する尾根の南斜面に立地する。貝吹山は標高210m、白壁塚古墳は142m、古墳のある丘陵麓は100mである。
明治26年の野淵龍潜の調査図では、石室の羨道部が玄室より大きく描かれており、当時から同じ丘陵上の群集墳とは一線を画す古墳とみられている。
●墳丘
尾根の南斜面をカット、その土を前面に盛り土して築造している。いわゆる山寄せの古墳である。
背面と側面に幅6m深さ2mの掘割があり、この内部に30m四方の台地を作り、さらにその上に15mの墳丘が築かれた。二段築成の方墳である。
墳丘の基礎から考えると東西90m、南北60mの大規模な造成が行われた。
風水思想が取り入れられた立地である。
●埋葬施設
南に開口する横口式石槨である。石室は花崗岩の切石を組み合わせて作られる。
石槨は長さ2・24m、幅1・1m、高さ0・9m
羨道は長さ8・8m、幅1・6m、1・6m
石槨は両側壁、奥壁、天井をそれぞれ一石(床は2石)。
側石には扉石を設置する切り込みや溝があるが、扉石は不明である。
石槨部は羨道部よりも40cm高い。
羨道は半分くらいの石が抜きとられているが、壁面は1石から3石で作られている。
●石室の特徴
石材の間に漆喰が詰められていたことが特徴である。石槨には漆喰の形跡はない。
羨道の中央には花崗岩の割石を立てて仕切り石としている。羨門の正面は貼り石状態になっている。
●築造年代、出土品と被葬者
盗掘の被害があり、また13世紀には墓として使われ、内部は攪乱されている。羨道の床には榛原石の断片が大量に残されている。中世の土器に混じって、ミニチュア炊飯具(甑こしき、鍋、甕かめ)、TK217(640年~660年)を示す須恵器が出土している。
石槨、羨道の構造と出土品から7世紀中ごろの築成とみられる。
同じ構造の古墳は巨勢山323号、近つ飛鳥の観音塚古墳、オーコ8号墳などで、被葬者像は渡来系の首長とみる。
図面は『寺崎白壁塚古墳』(高取町教育委員会)による
参考文献
『大和国古墳墓取調書』野淵龍潜 橿原考古学研究所が復刻
『寺崎白壁塚古墳』高取町教育員会 平成18年
『寺崎白壁塚古墳』高取町教育委員会 平成12年の現地調査会の資料か?高取町図書館在
上の太子駅から近つ飛鳥丘陵に、横口式石槨で有名なオーコ8号墳をさがしに上った。道なき山中を彷徨する古墳探しである。
今回は到達できた。二回目のチャレンジだった。
一回目の時は飛鳥新池からの直登を考えた。しかし、ブッシュがきつくて直登を断念し、飛鳥新池まで下り、西側に迂回してブドウ園から登りなおした。方向は良かった。しかし、3月下旬の暑い日で、体力の消耗が大きすぎて断念した。
今回(4月17日)は、前回に断念したところまで登り、寺山の頂上に向けて登りつめていった。寺山から西に下る稜線と南への稜線が分岐する処に、封土の無いオーコ10号墳が開口していた。
オーコ10号墳
8号墳は、Googleマップによれば、10号墳の南西100mほどである。地図の示す方向に進む。稜線を南に下っていく。
ここらあたりまで来るとブッシュもまばらになり、前方に墳丘が見え、その先に近つ飛鳥の盆地がみえる。」
古墳の下から盆地を見下ろす。遠くには葛城山、その先に金剛山。眼下にはブドウ園の白いシートが広がっている。
終末期の古墳は丘陵から伸びる稜線にあり、平地を見下ろす高所にあることが多い。
終末期古墳を含む群集墳はいずれも高所。大きな荷物を持たない僕らでも登るのは大変だが、築造はとても困難だっただろう。居住地からも遠く離れている。住まいの近くに墓地を作り、いつも拝めるという形とも大きく異なる。
古墳墓を作る場所は規制されていたのだろうか。
オーコ8号墳
石槨古墳である。
終末期古墳を分類すれば、切石の横穴式石室、横口式石槨古墳、磚状に加工された板を積んだ横穴式石室(磚槨墳)が、想定できる。
近つ飛鳥の終末期古墳は横口式石槨墳である。
内部主体は底石、奥石で各1枚、左右の側石で各1枚、天井部2枚で合計8石の石槨である。天井部は緩やかなアーチを描いている。
一段低くなった前室、羨道がとりついている。
前室は東壁が5石、西壁が6石、天井石3石で構成される。羨道は東西とも二石で作られ、先端が約60度の角度で面取り加工があり、築造当時から墳丘から露出されていた可能性がある。
石槨と天井石の間には、漆喰が残されている。
羨道先端部の天井石に幅・深さが1センチの溝が刻まれており、安倍文殊院西古墳、岩屋山古墳、ツカマリ古墳と類似の溝がある。この溝は閉塞石の場所の標、あるいは水垂溝(みずだれみぞ)などの論もある。
オーコ8号墳のデータ
●石槨
長さ1.9m、幅0.75m、高さ0.6m
●石室長(前室と羨道)
長さは5.6m、幅0.6m
参考文献
『羽曳野の終末期古墳』1981年羽曳野市教育委員会
『羽曳野市史』平成9年(1997年)羽曳野市
秋殿南古墳(桜井市浅古字秋殿)
現地説明板
「鳥見山南麓の一尾根端に築かれた方墳である。墳丘は一辺24m(奈良県文化財調査報告書39号では26mに)、高さ5mを測り、墳頂は少し平坦になっている。
内部構造は南に開口する横穴式石室で、玄室の長さ6・3m(これは書き間違いで4・5m)、幅2・3m、高さ2・3m、羨道の長さ6・3m、幅1・65m、を計測する。石室の材質は花崗岩で一部に加工した切り石を使う。玄室は、基本的には二段積みで、羨道部は巨石の一段積みである。明日香村越の岩屋山古墳の石室に近い構造であると言われている」。桜井市教育委員会
古墳の位置
鳥見山(とみやま)は複数の尾根が放射状に広がっている。
その各尾根の山麓付近に多くの古墳群が築かれている。特に南側は鳥見山と音羽山の山塊を画する谷が存在しており、峠を越えて東に抜けると忍坂(粟原川流域)、西に抜けると磐余(寺川流域)に辿りつく古代からの主要な道路だったと思われる。そのような尾根筋の先端に秋殿南古墳は築かれている。
秋殿南古墳のすぐ東にコウゼ古墳群、さらに東に伊丹宮古墳、舞谷古墳群と連なっている。
また、南方は音羽山塊の麓には(桜井中学校のグランド南)、エンドウ山古墳群が残されている。
墳丘
尾根の斜面を「 『 」状に掘り込んで墳丘を築いている。一辺は26メートルの方墳である。
石室は墳丘の中心より西側に作られており東側が張り出して見える。これは南方、東南方の側面観を意識して築造されたとみられる。
横穴式石室
玄室の長さ4・5m、幅2・3m、高さ2・3m、羨道の長さ6・3m、幅1・65mである。石室の材質は花崗岩で一部に加工した切り石を使う。玄室は、基本的には二段積みで、羨道部は巨石の一段積みである。
明日香村越の岩屋山古墳の石室の原型とも、亜流とも論じられる。
参考文献
『桜井の横穴式石室を訪ねて』(桜井市立埋蔵文化財センター)
『奈良県文化財調査報告書39集 飛鳥・磐余地域の後、終末期古墳と寺院跡』奈良県橿原考古学研究所
谷脇古墳 宇陀市大宇陀守道宇黒石モト下927 奈良県指定史跡
現地掲示板
標高約400mの尾根上に立地する東西18m、南北15m、高さ1・5mの円墳である。
埋葬施設である横穴式石室は、玄室がその主軸に対して横長のいわゆる「T字形」の平面形態をとる。現状での石室規模は全長6・5m、玄室長2・48m~2・92m、玄室幅2・45m、高さ2・8m以上、羨道長4・37m、羨道幅1・06m~1・65mである。
玄室内には、石室主軸に直交して、流紋岩質溶結凝灰岩(通称榛原石)の組み合わせ式石棺が安置されている。羨門部には閉塞石の一部とみられる石材も認められる。
1944年の発掘調査では、石室内から金環(きんかん)、須恵器、土師器(はじき)、黒色土器、鉄製品(鏃・刀子)等が出土している。出土遺物及び横穴式石室の状況から六世紀中葉の築造と考えられる。 奈良県教育委員会、宇陀市教育委員会
問題1、ホンマに円墳か。前方後円墳の可能性はないか。
問題2、築造時期は六世紀中葉で良いか?
問題3、石室築造の石を設置する順番は分からんだろうか。
これ等の疑問に答える絶好の参考文献が出ていた。『古墳測量調査集成1』(花園大学考古学研究室1998年発行)である。
宇陀郡内の古墳の測量調査を行い、谷脇古墳も測っていた。調査の現地責任者は大学院生の西光慎治さんである。『集成』発刊の頃には、西光さんは勤務先として明日香村と書かれている。この頃に就職されたようで、この調査が大学での最後の勉強だったかもしれない。
問題1、墳丘。ホンマに円墳かという問題である。
『集成1』の記述に従って紹介しよう。
古墳は北東から伸びる痩せた丘陵の先端に築かれていて、あたかも前方後円墳かのような地形である。
しかし、前方後円墳としては後円部と前方部に高さの差がありすぎる。後円部と前方部の等高線の密度(斜面の角度)も違いすぎる。北東から南西にかけての稜線に築かれた古墳だが、「前方部とみなす」辺りは、稜線が畑で削られたとみるのが自然で、前方後円墳とみなされる地形になったか、の推察である。
地形図を添付しておこう。僕の感じはやっぱり前方後円墳である(笑)。
問題2、築造時期は六世紀中葉で良いか?築造時期についてである。
立地や石室構造からみて6世紀初め頃の築造とされている。「交通や水系と無関係の奥地ある」にあること、「石室の形として、四方からの持ち送りが強いことなど」が根拠とされる。
基準石(左袖石)を中心に大型の石があること、基底石から垂直に立ち上がり、その後に持ち送ることから盆地内部の古墳(平群の椿井宮山塚古墳・入室不可、勢野茶臼山古墳・消滅)と比べると時期は下がるとみて、6世紀前半の築造では早すぎるとみられる。
以上も踏まえて、古墳は6世紀の中葉の築造で木棺葬、6世紀の後葉に榛原石の組み合わせ石棺の追葬が行われたと結論づけている。
問題3、石室築造の石を設置する順番が「花園大学」文書には、記されていた。
古墳の築造時期をめぐって、「谷脇古墳石室の基準石」と記されている。石室を作るときに初めに置いた石と思われる石を基準石という。
一般的に、左袖に石(基準石)を置き、奥壁の正面に石を置いて、石室の規模が決まるとのことである。
この古墳であれば、左袖①、奥壁①―1、奥壁①―2、奥壁①―3と置き、続いて右袖の①を置くというように石室は作られていく。その後の順は石の組み合わせ、介石、合石の具合で判明するとのこと。
谷脇古墳石室と基準石。
発掘調査は1944年(昭和19年)奈良県教育委員会
1996年(平成8年)、花園大学考古学研究室が墳丘及び石室の測量調査
●参考文献
『大和の古墳を語る』(泉森皎)
『古墳測量調査集成1』(花園大学考古学研究室)
御霊・落杣神社(五條市)を参拝。黒駒古墳を拝見するためのツアーだったが、偶然が重なり、本殿(奈良県指定文化財)の宮垣内での参拝が実現、本殿外陣の木像狛犬も拝見できるという僥倖にめぐり合わせた。「大和路再発見」(奈良交通)の参加者、一同、歓喜である。
黒駒古墳を見学するために御霊・落杣神社の境内に入るというコースだった。ツアー直前んに宮司から連絡があり、「境内の伐採を行っている。古墳には(北から)直接向かわず、(南の)鳥居から入山されたし。神社の説明をします。皆さんが入山中は作業を休みます」とのお話である。
鳥居をくぐり、参加一同で一斉の二礼二拍手一礼の参拝も行い、宮司の説明もみんなで聞いていたら、宮司が「本殿宮垣内からの参拝を許します」といわれる。
苔むす宮垣ときらびやかな本殿。奈良県指定文化財
本殿外陣に置かれる木像狛犬
阪合部郷(五條市)の御霊神社・落杣神社本殿は、平成5年(1993)に奈良県指定文化財(建造物)に指定された。「御霊神社本殿、附棟札5枚 一間社流造、銅板葺」。
本殿は桃山様式、延宝8年(1680)に地元の坂合部の大工が造営したとの棟札が残されていた。その後、享保18年(1733)、明和8年(1771)、天保6年(1835)、安政2年(1855)、大正元年(1912)に遷座を伴う修理があったことが記録されている。
昭和50年(1975)には、屋根は檜皮葺きから銅板葺に変えられている。
平成5年の文化財指定がされるが、平成10年(1998)の台風7号の被害を受け奈良県、五條市の補助も受け、阪合部郷の力を集めて、修復保存活動が行われた。
野木宮司によれば、「優れた彫刻と極彩色による美しい絵画に彩られた本殿であったが、修復当時は建物の損傷にとどまらず、色合いがくすんできていた。本来の色を顕微鏡で確かめつつ120枚の下絵を描いて、修復をすすめた」と話されていた。
内陣奥には、像高さ20センチと25センチの極彩色で彩られるご神像二体が奉安される。
併せて外陣には修復された極彩色の木製狛犬が置かれている。もとは浜床(はまゆか)に置かれていたもので像高62センチ。本殿を修復したとき(平成10年)に、色合わせを行い、元の姿に復原したとのことである。
御霊・落杣神社の拝殿前には、雄大な石造の狛犬も置かれており、「奉献 万延元庚申(1860)九月吉日」と刻まれている。
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