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歌集を読んだ。
「三輪山に友らと登り祈ることそれぞれなれど皆同じ年」
この歌に息をのんだ。きっと同窓生との登拝だろう。
『歌集 大和まほろぼ』(京阪奈情報教育出版)という本を松森重博さんが書かれた。
松森さんは10年前に「毎日新聞やまと歌壇」に初入選。2013年には「新あららぎ」には入選された。その後投稿を続けられ、合計すると500首も採用されたとのことで、それをまとめられた。
松森さんは、奈良もちいどのセンター街理事長、ならまほろばソムリエの会の理事でもある。
この歌集を入手して、すべてを投げうって一気読みだった。
社寺のたたずまい、奈良の行事の姿、風景や人の暮らしを丹念に写生するかのような歌が続くが、奈良愛、さらに具体的にもちいどのへの愛がものすごい。
「奈良っておもしろいやん」と言う若者増えてたのもしもっとつながれ
ハルカスより亀の瀬越しに遥か霞める山は吉野か宇陀か 大阪あべのハルカス展望台より
奈良の地に生まれ育ちて住み継ぐは恵まれしこととつくづく思う
もちいどの商店街ともちいどの夢CUBEを見つづける歌も数多い。
町の名が「餅飯殿」ゆえ皆出て歌に合わせて餅を回しぬ PRビデオ
秋の連休人出多き商店街我も汗かき店番する
高校時代の恩師が師匠とのことで、
わが歌を評し下さる小谷先生「他人の歌読め」「字は丁寧に」
「短歌は報告ではいけない。もっと写生を。もっと具体的に」との恩師(小谷先生)の教えはいきていそう。
最後に、この歌・・・桜井の友は僕かも
桜井より若草山の火の見えしと友より望遠写真の届く 若草山焼き
松森さんは10年くらい前に友達になった。ちょこちょこお世話になったから、足を向けては寝れない関係である。松森さんと知り合いになってから、10年間、ぼっと僕は生きて来たけど、松森さんはこんな歌を詠み、本までだして。すごいわ・・・
奈良市の啓林堂で販売されている。1500円である。奈良がもっと好きになる・・買って・・読んで
塚穴山古墳(天理市杣之内古墳群)は西山古墳の北側に接している円墳である。土取り工事中に発見され、そのまま天理高校の敷地内で保全されている。墳丘は崩されており、また石室は中世以来の度重なる破壊により、天井石の全てと壁の上部の積み石のほとんどが失われている。
古墳の大きさと石室の大きさに特徴がある。墳丘は直径63mの円墳、周濠と周りを囲む堤防あり、すべてを含めると直径が112mである。
南方の西山古墳に食い込む形で作られているのが異様である。
石室は花崗岩の巨石で作られており、全長は17m、玄室は7m×3mの広さがあり、玄室の左側(東側)の巨石は幅6m、高さが3,3mもあり、一枚で玄室を構成するほどである。
●石舞台の玄室には奥壁・側壁に沿って、コの字型の排水溝が付けられていた。同様の溝は塚穴山古墳にも残されていること、
●羨道の石積みは、どちらも奥の方は縦長、手前側は横向きに置かれており、製作の意思の共通性が見られる。
●積み石の加工状態は石舞台が素朴、塚穴山のほうが洗練されており、石舞台が先行しているとみられた。
古墳は天理高校の敷地内にあり、見学するときは天理高校の事務室に連絡を取る必要がある。
とにかくでかい、物部は蘇我物部戦争を経た後でも、これだけの古墳を造る力を残していた事にも驚く。
天理のイチョウ並木も色づきかけている。この秋の天理散策のコースにはぜひ、付け加たい塚穴山古墳である。
『天理参考館』第3号 塚穴山古墳発掘中間報告(竹谷俊夫著)参照
奈良まほろばソムリエ検定(奈良商工会議所)のお手伝いをしている。それは「体験学習プログラム」の講師である。
プログラムは30講座ほど用意されるが、二級合格者はこの受講が一級の受験資格となるのである。
「奈良まほろばソムリエとゆくⅣ ~安倍文殊院と磐余の道をゆく」2019年11月3日(日)の講座は、僕が企画して、僕が案内するプログラムである。
集合は桜井駅南口、午後1:00に出発して吉備池廃寺、磐余若櫻神社、安倍寺跡、安倍文殊院、抹茶を楽しみコスモスも見て、文殊菩薩のディープ解説、谷首古墳、コロコロ山古墳を経て、桜井駅南口午後4時20分解散という行程。
大和王権にとって特別の意味を持つ磐余(いわれ)の中心部を歩くウォークである。
大津皇子が「ももづたふ磐余の池になく鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と歌った磐余池はこの地であり、さらに安倍寺跡や安倍文殊院を訪ねる。文殊院西古墳、谷首古墳、コロコロ山古墳の横穴式石室への入室も計画、見どころ満載のウォーキングである。
とてもお値打ちプレミアムウォークで、残席は若干名である。申し込みは10月16日まで、奈良商工会議所(0742-23-1610 奈良商工会議所 奈良検定事務センター)まで電話で申し込みをお願いします。
奈良まほろぼソムリエの会のホームーページの10月の歳時記は「藤原宮とコスモス」とした。
10月 藤原宮跡のコスモス
藤原宮跡のお花畑が評判です。大和三山を背景に春は菜の花、夏はキバナコスモスやハナハス、そして秋には300万本のコスモスが咲き乱れます。透明な秋の光の中、風にそよぐピンクや紫のコスモスの美しさはたとえようもありません。宮跡の東には奈良文化財研究所の「藤原宮跡資料室」、西側には「橿原市藤原京資料室」が開かれ、藤原京と宮を理解できる豊富な資料が展示されています。いずれも料金は無料です。(雑賀耕三郎)
藤原京への遷都を計画したのは、統天皇の夫の天武天皇である。
律令国家を作るために心血を注いだ天武天皇は、中国に倣っての都の建設に着手する。
日本書紀によれば、
天武13年(684年)2月には、畿内と信濃に都の場所を選ぶ調査団を派遣している。
同年3月には天皇が京内を巡行、宮室に適当な場所を定めた。
持統天皇の4年(690年)冬10月に、高市皇子が百官と共に藤原の地を視察した。
持統5年(691年 )冬10月に、新益京(あらましのみやこ)で地鎮の祭を行った。
和銅3年3月10日(710年4月13日)に元明天皇が平城宮に遷都するまで、持統・文武・元明の三代の宮室が置かれた。
「春過ぎて夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山」(萬葉集 巻1-28)は、持統天皇が藤原宮から香久山を歌ったものとしてよく知られており、この地で歌われる萬葉歌も数多く知られている。
藤原京というが、藤原は香久山の西北、宮の東方にあたり、広大な藤原京から見ればごく一部であり、この宮を書紀は藤原京ではなく「新益京」と記した。
ただし、万葉集には「藤原の 大宮仕え 生(あ)れつくや 娘子(おとめ)がともは ともしきろか」(巻1-53)というように、「藤原の大宮」という言葉もあり、一筋縄ではいかない。
日本における宮城の画期をなした藤原京は、16年間という短期間でその使命を終えた。
「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きていなば 君があたりは 見えずかもあらむ」(巻1-78)と元明天皇が詠い、都は奈良に移される。
藤原京はその役割を終えた後、建物、柱や板は平城京に移築されることになった
大垣の軸となる7メートル余りの大きな柱があったが、1200本のすべてが抜かれて平城京に移築する。
全ての大垣、建物が平城京に移されて、新益の京は農地に変わっていった。古代の姿は、現在、奈良文化財研究所が継続的に発掘調査を進めており、新たな発見、検証を次々で、毎年のように現地説明会が開かれている。
こちらでは花を見て、宮の東側、奈良文化財研究所の「藤原宮跡資料室」と、西側の橿原市の「藤原京資料室」を見学するのが、お値打ちコースである。
9月23日の午後、宇陀市山辺三にて、濡れ地蔵会式が行われた。
山辺三の濡れ地蔵
古くは背後の山から水をひいて、この地蔵菩薩に注いでいたと言うので、俗に濡れ地蔵と呼ばれている。この像は左手に宝珠、右手に鎖杖を持った半身彫の立像で、舟型に彫りくぼめているのが光背の部分である。
背部の右側に「建長六年甲寅八月十五日健」と二行に陰刻されているので、鎌倉時代の造立であることが知られている。像の左右には各一体十王の立像と地蔵分身の小像が陰彫されている
室生ダムが作られてからは、ダムの水位によって、お姿が見えたり、水没したりという特異な運命を新たに背負ったお地蔵様である。(現地掲示板)
会式の本日は台風の余波かの雨模様で、開催場所は濡れ地蔵から山辺三の集会所へ、急きょ変更である。
主催する山辺三はテントを張る準備をしていたが、100㍍は人力で運ばなければならない。
濡れては困る仏具もあり、順次、車で集会所に移動して開催された。
導師は融通念仏宗の西方寺のご住職、高らかに会式は執り行われた。
法要の後は数珠繰りが行われる。「9回か13周か」などと言いながら、数珠繰りが始まった。この会式は山辺三の行事で、参加者は村の役員、濡れ地蔵近辺のご婦人たち、5歳くらいの子供も参加している。
村の中には別のお地蔵さんも祀られており、数珠繰りは年に何度も行われているようである。
立派な集会所には「山辺三賛歌」という額が掛けられて。歌がある区(町内)は珍しいというか、すごい。村の歴史を誇りとされている。
「むかしもゆかし赤人や 心を洗う濡れ地蔵 いわれも深き山辺三」(「山辺三賛歌」3番)と歌詞にあるように、山部赤人の碑や濡れ地蔵は山辺三にとっては誇りである。
濡れ地蔵はすばらしい村人に守られていた。
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