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9月29日(日)に戒長寺(宇陀市榛原)や西方寺、濡れ地蔵と椋下神社やあぶらやを訪ねるウォーキングを計画して、今日がその下見の日である。
その詳細は、また旅行社(やまとびとツアーズ)からご案内するが、「戒場山の山腹にたたずむ戒長寺の秘仏に会おう」である。
なかでも榛原(宇陀市)の戒長寺は、米野住職とよく話し合い、ひときわ力を入れて書いた。
紹介はこんな感じである。本とは少し違うかもしれないけど・・
戒長寺 (宇陀市榛原戒場386) 梵鐘の十二神将に戒長寺の歴史をみる
宇陀市の北部にそびえる額井岳、それに連なる戒場山の深い森の中に戒長寺は佇んでいます。「真言宗御室派に属し、薬師如来を御本尊として祀り、戒場薬師ともいわれています。用明天皇の勅願により聖徳太子が建立し、その後は空海が伽藍を整えたとの長い歴史がございます」と、住職の隆光和尚は語ります。
戒場の集落から長い石段を登り詰めると山門に迎えられます。門には梵鐘が吊られていて、門と鐘楼を兼ねる楼鐘門となっています。
ここに吊られている銅製の梵鐘が戒長寺の歴史を語る鍵となります。鐘の表面には十二神将が鋳出されていて、注意深く見上げれば、誰もが拝見することができます。この梵鐘には刻印があり、「正応四年」(一二九一年)に作られたと刻まれています。さらに「大和国宇陀郡山辺内 戒長寺之薬師仏鐘也」とも刻まれ、所在地や薬師仏の鐘であると明記されています。
薬師如来を守護するのが12神将の役割で、それを眷属(けんぞく)と言います。生活に追われ病気に苦しめられている山里の民の声に耳を傾け、手を差し伸べた薬師如来。12神将はその眷属として梵鐘に入って、鐘の音とともに山間の民に薬師の思いを共に送り続けたように思われます。この十二神将の健気さに心が打たれます。
境内のイチョウの大樹は、葉の縁に銀杏が実るお葉つきいちょうです。晩秋にはいちょうの落ち葉で黄金色に境内は染まります。
本は奈良県では啓林堂にて。アマゾンで求めることもできる。
大和の春がすみ、どこでも見られるが、多武峰の万葉展望台から眺めてみた。これは春霞かなとは思いつつも、ごらんください。
正面は畝傍山…阿倍野ハルカスも見える高さだが、霞の中、雲のかなたである。
三輪の檜原神社の境内に前川佐美雄の歌碑が置かれている。
春がすみ いよよ濃くなる まひる間の 何も見えねば大和と思へ
この歌は大和の風景を歌った歌である。前川佐美雄は葛城に生まれて、この檜原神社と大和盆地を挟んだ反対側から大和の盆地を見ていた。
「何も見えねば」と言いつつ、それが大和だという。春霞に覆われた大和を見て、何も見ない情景だが、その中には大いなる歴史を感じるという歌だろうか。
大和の春の情景と併せて考えると、その味わいが僕でもなんとか感じられる。
『大和の南北』という池田源太さんの本を読んだ。50年ほど前の本である。「春の景物として煙霞」という短文である。(p169)
煙霞と書いて「えんか」と読む。僕の考えていたカスミとはちがう霞が論じられていた。
これをかいつまんで紹介しよう。
『拾遺集』の冒頭の四句には「霞」が出てくるという。柿本人麻呂の「昨日こそ 年は果てしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり」(巻10-1843 柿本人麻呂歌集にあり) も取りこまれている。
「年が改まったばかりなのに、春日の山には春霞が立っている」という事であるが、池田源太さんは「霞というものがどうしてこんなに読まれているのかが問題」と言うのである。
嵯峨天皇の詩に(浚雲集)は、山は屏風のようなものだ。これを見て、「煙霞春興足る」と記されている。ほかにも、詩や文を書く力が衰えることを「風月を捨て、煙霞捨てたるがごとし」という言葉もあり、平安時代には 霞(カスミ)は歌を詠むそのものの心という考えがあったと、論証される。
さらに池田さんは、煙霞の位置づけは、中国からの影響があるという。
仁明天皇(833年~850年)の大嘗祭の時、近江が悠基、備中主基の国に卜定されて大嘗祭が行われた。それぞれから「造り物」が献上されるが、その最上段に霞がおかれ、霞の中には「主基備中」の札があり、その上には西大母の像があったという。(『続日本後記』)
西王母は中国の神仙世界の女王である。霞の中、そのかなたに西王母が置かれたという事は霞は理想世界の象徴として見られていたと、解かれた。
霞を食べる仙人のたとえもあるし、カスミはなかなか奥が深い。
春の霞も、気象的な物理的に考えで、柿本人麻呂も、近代の前川佐美雄も歌っただけではないようである。
6月に「谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳の案内をせよ」との依頼がある。
メスリ山古墳の主要部分は桜井市高田にあり、後円部の一部は上の宮である。メスリ山に接する上の宮の垣内(かいと・小字ではない)の名前が・・これが「てんのう」という垣内名である。周りの人々が陵とみていた歴史もあるというのも一つの前提である。
昭和34年に奈良県によって発掘された。所在地は高田のメスリ、上の宮の東出という事で当時は、東出塚古墳(古墳・桜井市文化叢書)とか、鉢巻山古墳(葺石の並ぶさま)とも呼ばれていたようであるが、橿原考古学研究所の報告書は「メスリ山」で出されて、名称が確定する。
御破裂山の尾根の先端に築かれている。東西の軸線の前方後円墳で北方から見ると存在感が明瞭である。
全長250㍍、後円部径128㍍、前方部幅80㍍。後円部が三段で、全面に葺石が残るのが特徴である。四世紀半ばの古墳で、全国的に見ても14位の巨大古墳である。●古墳の斜面の全面に敷かれた葺石
●発見された埋蔵物
之らの状況から被葬者は大王級であることは間違いないとされている。
まずはハニワの事。
後円部は三段で作られており、各段には円筒埴輪列が巡っている。さらに後円部、方形部とも最上段に密集していた。
円筒型の器台型の埴輪は高さ2.4㍍、径が1.3㍍で日本では最大である。
竪穴式石室を巨大埴輪が二重で取り囲む形で配置されたていた。
発見されたときから大きなものだと考えられていたが、奈良教育大学の学生だったの赤塚次郎(現在は愛知県埋蔵文化財センター調査課長)さんが、破片を整理して高さが2㍍を超えるものと判明した。さらに、欠けた部分を継ぎ足して復元に成功した。
桜井の陶芸教室で複製にチャレンジ、奈良芸術短期大学の学生も焼き上げている。
これらの複製品は、橿原考古学研究所博物館(閉館中)と桜井市民会館ホールに展示されている。
葺石もすごい。ゴロゴロの川原石で、今でもたくさん残っている。三段の築造で葺石が巻いていたことから、鉢巻山とよばれていた・・・とか、「漬物石を拾いにいった」という話も聞いた。
発掘された埋蔵物がすごい。未盗掘の副室があった。
後円部墳頂には竪穴式石室(主室)がほぼ南北方向に位置し、その東には副室がある。
石室は板石が積んで作られている。石室材は亀ノ瀬の安山岩とされ、その上に8枚の天井石が載せられている。この天井石は露出しており、現地で見ることができる。
すぐ東側、石室を取り囲む高坏型の埴輪の下の石室(副室)があり、大量の副葬品が埋められていた。副室は持ち送りの竪穴式石室で、こちらの天井石は小さい。この石室が未盗掘で、大量の遺物が出土した。玉杖、鉄製の弓、200本以上の槍先、236本の銅矢じりが納められていて、武器庫のようだといわれた。
平成17年(2005年)に「メスリ山古墳出土品 一括」として重要文化財に指定された。
古墳本体としては昭和55年(1980年)に、国の史跡に指定されている。
メスリ山古墳の歴史の中での位置づけ
桜井茶臼山 → メスリ山 → 渋谷向山は同一系統(工人が同じか)という豊岡卓之(橿原考古学研究所)さんの編年をお聞きしたことがある。とても興味深い論で、その詳細は当時、2016年1月のブログで紹介している。興味があれば、「桜井茶臼山・メスリ山古墳と柄鏡型古墳」を見ていただきたい。
このツアーは東京方面のお客様対応の案内であるが、11月3日(先のことだなあ)に一般参加のウォークを計画しているので、また、その詳細は紹介いたします。
3月13日は春日大社の例祭、「春日祭」が斎行される。
例祭や臨時祭に天皇陛下が「勅使」を参向させる祭は「勅祭」という。そのなかでも春日大社の「春日祭」は、加茂社の「加茂祭」、石清水八幡宮の「石清水祭」が合わせて、「三勅祭」である。
参進する勅使
春日祭は嘉祥3年(850年)に始められる。明治維新後に一般の祭祀となり、特徴のない祭となったが、明治19年(1886年)に加茂祭、石清水祭に続いて古式に照らして再興され、これを「三勅祭」という。
祭は3月10日、「立榊式」から始まる。榊は春日山で伐採された竹柏(なぎ)の木である。榊(竹柏)はお祓いを受けたあと、一の鳥居に立てられる。
ちなみに一の鳥居の榊は、御祭と春日祭の時に立て替えられる。
13日は初めに御戸開(みとびらき)が行われ、のちに神職は二の鳥居内側の祓戸神社に移動する。
黒袍(ほう)の束帯姿の勅使が参進する。
続いて緋色袍の束帯姿の辨代(べんだい)が参進する。辨代は副勅使である。
御幣物を納めた白木の唐櫃が二さお、神馬が二頭などが勅使のあとに続く。
祓戸神社から斜めに分かれる道は剣先道といわれる。分かれ道の敷石が剣形になっている。
春日祭の勅使が「藤原姓」の人はこの道を通って、藤鳥居をくぐって本殿へ進むとされるが、今年は(も)南門だった。
この日は、二の鳥居より上には午後一時まで入れない。ご注意されたい。
春日祭の詳細は、『皇室』69号(平成28年冬号)に詳しい。8pもの大特集である。公立図書館には置かれているだろうから、参考にしてください。
トリップアドバイザーが、「日本の人気の古墳トップ10」を発表している。2010年~2015年にかけて、旅行者の口コミ投稿を集計して算出したという。ベストファイブは
石舞台古墳(奈良県)
西都原古墳群(宮崎県)
五色塚古墳(兵庫県)
さきたま古墳(埼玉県)
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)(大阪府)
である。いろいろな異論もあると思うが投稿数などで決められるだろうから、おもしろさ、展示の整備方法、公共交通機関や駐車場などの行きやすさなどが総合的に関係して、こんな順位なんだろうか。
このうち、「西都原」と「さきたま古墳群」に僕は訪れていなかった。
いま、ワカタケル(雄略天皇)を考えている僕は、とりあえず、さきたま(埼玉)古墳というか、なかでも稲荷山古墳を訪れなくてはならない。しかも展示施設には稲荷山鉄剣が常時展示されているとのことである。一月に東京の奈良まほろば館の講演当番となったので、そのあとに訪れてみた。
上野から高崎線。一時間ほどで行田である。一日、4本のコミュニティバスが出ているが、時間が合わなかった。それで往きがタクシー、帰りはバスということとなった。参考までにタクシーは2200円程度、バスは150円である。ちなみに古墳群には大きな駐車場があり、特別なイベントでなければ駐車は問題がない。
墳丘に登れる古墳は稲荷山古墳と丸墓古墳、墳丘には登れないが石室が復元されて当時の埋葬状態が見学できるのは将軍山古墳である。
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