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奈良交通大和路再発見 夏の特別企画!(「さあ始めよう、近鉄グループキャンペーン」にも掲載)です。
7月27日(水)と8月10日(水)に真夏の古墳ツアーをご案内
コウモリがいない、ぴょんぴょん虫(カマドウマ)も(あまり)飛ばない、とにかく「涼める」という古墳を見つくろいました。題して・・「納涼、横穴式石室体験大会~~~~」
7月27日(水)は「『石の女帝』斉明天皇の足跡を飛鳥できわめる」
石の女帝と言われた斉明天皇をテーマとし、ゆかりのある橿原・飛鳥方面の古墳を案内します。
大和八木駅9時出発、小谷古墳(橿原市)、益田岩船(橿原市)、【昼食】は夢宗庵あすか店。酒船石(明日香村)、牽牛子塚古墳(明日香村)、岩屋山古墳(明日香村)、飛鳥駅(降車可)、大和八木駅解散(16:30頃予定)
基本旅行代金は12,000円ですが、5,000円の割引で「お支払実額は7,000円」。
「いまならキャンペーン」2022プラス対象商品で、ワクチン3回接種済またはPCR検査・抗原定量検査等の結果が陰性である証明の提示が必要です。
申し込み受け付けは電話でのみ。奈良交通・本社旅行センター(0742-20-3140 受付時間9:00~18:00 年中無休)
8月10日(水)は「夏の古墳に涼む 大和路横断 横穴式石室(古墳)に大和の栄華をおもう (「さぁはじめよう、近鉄グループキャンペーン」対象商品)」
香芝から桜井まで大和路を横断しながら横穴式石室を中心に見学します。普段、施錠されており入室できない「平野塚穴古墳」や「牧野古墳」の入室ができます。古墳ファンには必見、入り口のテーマです。
午前9時30分、「近鉄奈良駅・奈良ラインハウス」を出発。
尼寺廃寺跡史跡公園、平野塚穴山古墳、牧野(ばくや)古墳。【昼食】はレストランあすか野、谷首古墳、文殊院西古墳(安倍文殊院内)、艸墓(くさはか)古墳、大和八木駅解散(16:30頃予定)
牧野古墳、谷首古墳は涼めます。
基本旅行代金は13,000円ですが、5,000円の割引で「お支払実額は8,000円」。
「いまならキャンペーン」2022プラス対象商品で、ワクチン3回接種済またはPCR検査・抗原定量検査等の結果が陰性である証明の提示が必要です。
申し込み受付は電話でのみ。奈良交通・本社旅行センター(0742-20-3140 電話受付時間9:00~18:00 年中無休)
お待ちしてます。
奈良交通からの申し入れは、「奈良交通」のホームページ、検索窓で「大和路再発見」と打ち込む。
直通のアドレスは
https://www.narakotsu.co.jp/ryoko/nara_tour/index2.html
鹿谷寺跡(ろくたんじあと 太子町)と凝灰岩の石切場跡
葛城歴史博物館の「二上山麓を辿る道」に刺激を受けて、鹿谷寺跡(ろくたんじあと 太子町)と岩屋峠の岩屋を拝見してきた。
「竹内峠越」と「岩屋越」(岩屋峠を越える道)の分岐点辺りに、広く凝灰岩が分布しており、寺跡として、あるいは石切り場として残されている。ここは高松塚の石室石の採掘場としても喧伝されている。
大きな岩を掘り進めて、塔の形だけ彫りのこす。仕事量の膨大さに驚くが、凝灰岩はそんな石であるということでもある。
二上山に登る駐車場から登る。雌岳の登山も兼ねて山道を3時間も歩くとすべて回れた。但し‥暑いわ・・。そしてヘロヘロ(笑)
駐車場から二上山登山道を進むと、お地蔵様。左は「岩屋越」、右は「竹内越」である。
これを左にすすむ、二上山の雌岳への登山道は岩屋峠の直下まで舗装道路が通じている。
ここに鹿谷寺跡(ろくたんじ)への道標がある。
しばらく登ると右手に石を彫り込んだ小仏塔が見える。掘った石を置いたのではなく、岩を削って作り上げたものである。
さらにすすむと、凝灰岩の大石を削って造られた十三重の塔が現れる。
岩を掘りすすめて、平らになるまで彫りくぼんでお寺の境内が作られたという。奈良時代の初期の造立とのことであるが、その労力のたいへんさと、同時に凝灰岩はそんなふうに掘り切ることができるのだと改めて感心をする。
花崗岩と比較すると凝灰岩は、人力で削ると100倍くらいの量が削れるとのことである。
鹿谷寺の十三重塔は「近つ飛鳥博物館」に、レプリカが造られている。
鹿谷寺(ろくたんじ)石塔(高さ8m、十三重塔)の復元模型(原資料は大阪府太子町所在)
岩を掘りこむことで南北24m、東西20mにわたる平坦面を作り、岩を掘り残すことによって十三重の石塔が造られている。石塔の上部が失われているが、5.1mの高さが残っている。塔の周辺からは奈良時代の土器や貨幣が出土しており、奈良時代後期に造られたものと考えられる。また、塔の東側面には線刻の仏像が刻まれた石窟が置かれている。
「鹿谷寺跡の形成過程について、当初凝灰岩の石切場として利用されていたとされ、そのはじまりを家形石棺の石棺材を必要とした古墳時代と推定し、その場所を利用したという考え方と、鹿谷寺跡周辺で凝灰岩の岩質葉大形石材の採取に不向きなことから、当初より寺造りを目的とした採石により形成されたという二つの考え方が提起されています。」『二上山麓を辿る道 葛城の古道を辿る2』(葛城歴史博物館)
石切場(岩屋)
岩屋(岩屋峠)
葛城市歴史博物館は、「二上山麓を辿る道」の企画展を開催している。会期は5月14日から7月10日(日)まで。見どころは多い。そして二上山麓を歩いてみたいと思わせる展示である。
企画展「二上山麓を辿る道」 葛城市歴史博物館(忍海)
葛城市歴史博物館は、「二上山麓を辿る道」の企画展を開催している。会期は5月14日から7月10日(日)まで。
二上山の周辺の交通路、「関屋越」、「田尻越」(R165)、「穴虫越」、「岩屋越」(岩屋峠を越える道)、「竹内峠越」、「平石越」の6つの道を解説し、沿線のポイント史跡を紹介している。「それぞれの道を歩いてみたい、そんな展示である。入場料は大人でも200円。おすすめである。
はじめに「竹内(たけのうち)街道を紹介しよう。
竹内街道は堺市の大小路(おおしょうじ)から金岡、松原市の岡、そして羽曳野市の古市を経て、二上山の南麓に通じていて、ここで「岩屋越」に分かれる。道標がある。左は岩屋越、右手は竹内越でお地蔵様、道標も置かれている。
右へ進むと、しばらくして峠に差し掛かり、そこが府県境、まっすぐ東へ坂を下ると長尾神社(葛城市)である。大小路から長尾神社までの道、約30キロメートルの道を竹内街道というのである。
長尾神社から東に向かうと横大路とされ、古代の大和の中心地にまっすぐ入る道でもある。
大小路付近(堺市)
右 竹内越。左 岩屋越に分岐(太子町)
府県境の道標が立派で華やか・・・
長尾神社(葛城市長尾)
長尾神社 一の鳥居
難波と大和を結ぶ古代の幹線道路は、『日本書紀』に記されている。
「大道(おほち)を京の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑(たじひのむら)に至る」(仁徳14年)
「又難波より京に至るまでに大道を置く」(推古21年 613)
「処処(ところどころ)の大道を作る」(白雉4年 653)
難波と大和の古代の幹線道路は竹内峠と穴虫峠だと考えられていた。
「大道を今日の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑に至る」(仁徳14年)
「又難波より京に至るまでに大道を置く」(推古21年 613)
「処処の大道を作る」(白雉4年 653)
ところが各時代のこの「大道」(おほち)が、現在のどこを指しているか、それに各論がある。古墳などと同じである。
『書紀』が記した古道は、一般には竹内峠と穴虫峠とされてきた。
それがどちらで論じられてきた。
峠の標高を見てみよう。竹内峠の標高は280㍍、近鉄南大阪線が通る穴虫峠は標高が120㍍である。現代の常識なら穴虫峠が上であるが、標高が455㍍もある暗峠が街道になったりするのだから、歩いた時代の考え方は、今一つ別であると考えねばならない。
さらに新論がある。柏原市の安村さんが提起した。「大和川の水運」と、それに「沿った街道」(竜田道)が7世紀初頭の「大道」との論(安村俊史)である。街道に沿って社寺が建立され、「見える景色も適切」との論で、今、これが注目されている。
飛鳥の立石(奈良県高市郡明日香村飛鳥、岡、上居、祝戸、立部、豊浦)
飛鳥の盆地の周辺に、花崗岩(石英閃緑岩)で造られた長方形の石が立てられている。それを「立石」と呼ぶ。これを、飛鳥寺辺りを中心に時計回りに紹介してみよう。
飛鳥の立石(ミロク石)
飛鳥寺の南西の飛鳥川の東岸に高さ2メートル、幅1メートル、奥行下部で80センチメートル、川に向かって三方に面取りをする。上部は径50センチメートルに丸く造り出す。背面は円みをおびた野面のままであるが、正面からみると地蔵菩薩を造りかけたようである。後世に顔の輪郭と口を追彫し、覆い屋を建てている。
この石を拝むと下半身の病気が治るという伝説があり、現在は石を被う祠が建てられ信仰の対象となっている。
条里制の標石とも言われるが確かな用途は不明である。
飛鳥坐神社の奥の大石
信仰上の大石で他の石とは同様には考えられないが、これはこれで見事な石で紹介しておきたい。囲ってあった板塀の一部を外してよく見えるようにされている。
高さは1.5メートル程度である。
岡の立石
岡寺の北側にはイノシシ除けの防護柵が張られているが、山門の辺りに扉が取り付けられている。そちらから入り、滑らかに200メートルほど山を登り詰めると左手に見えてくる。観音山の尾根という。
「縦長の野石のはく離した箇所を下にして立てている。頂部南端に矢の痕跡があり、もとは野石を立てたままであったのだろう。高さ2,5m、幅1m、奥行2,5m。『飛鳥古跡考』に「立石というもの観音山の松林の北はずれにミユ、高サ八尺余、いはれはしらず」とある。
上居(じょうご)の立石
石舞台から多武峰に行く道の途中、上居の村へ登った道端に置かれている。字(あざ)は「立石」という。
石は高さ2.5m、幅1m、奥行きは下が厚く1m、上は30cmほどの長方形である。
加工の痕跡はない。昭和48年の発掘によると地山をすり鉢状に掘り据えていることがわかった。
『明日香村の大あざに伝わるはなし』の「上居」によると「あの立石はもともとあそこにあったのではない。下方に県道ができる時、そこにあったのを上に引き上げてきた。今より9m下にあったそうだ。下にあった時、そこは古墳であったらしく、風化した人の骨がでてきたそうである。立石をお祭りする行事はないが、いつの間にか花が供えられたりしている。」と書かれている。これからみると、古墳に関わる石?との感じもある・・・
祝戸の立石(マラ石)坂田寺域
飛鳥国営飛鳥歴史公園祝戸地区への入口に在り、傾斜した長方形の石がある。現状は高さ画1.25m、幅0.65mの四角い柱状である。先端は円形に縁取りして、丸みをおびるため男の陰茎を思わせる石である。西国三十三所名所図会」(1853年)には「陽石、祝戸の道の傍に在り、その形あたかも陽根に似たるを以て号く、大石なり」と記され、石田茂作が『飛鳥時代寺院址の研究』でマラ石と名付けた。坂田寺寺域の結界石説もある。『飛鳥の石造物』による。
立部(たちべ)の立石
定林寺跡に1メートルくらいの石がある。またの名を「乳母石」(うばいし)といもいわれている。聖徳太子が三歳の頃まで戯れた遊び道具ともいわれている。聖徳太子がこの寺で仏法を広められた時に馬を繋いだ石戸も言われている。」(明日香村の大字に伝わるはなし)立部編より
ウィキでは「頭・首・肩・10センチメートルの右目などの初期加工の痕跡があり、人面相」と書かれるが、そんな感じには見えなくて、むしろ陽根という感じであった。
豊浦(とよいら・とゆら)の立石
「豊浦の甘樫坐神社では、4月第一日曜日に盟神探湯(くがたち)神事が行われる。
当日は、豊浦、雷両地区の氏子によって甘樫坐神社境内にある「立石」の前に釜を据えられ神事が行われる。」『明日香村に伝わる大字のはなし』
境内説明板には、「『立石』と呼ばれる謎の石はこの豊浦のほか、村内の岡・上居・立部・小原などにも残っています。」と書かれている。
飛鳥の立石とは何だろうか。
立石は古代寺院跡に関わる場所に建てられているものもあり、ここで見れば寺院の境界石との見方がある。
しかし、全体としてみると「立石」の中心は飛鳥板蓋宮(皇極天皇)とみて、立石は宮の境界石ともいわれる。奈文研の「飛鳥の石造物」(昭和61年9月)は宮の境界石論としている。
板蓋宮は皇極天皇の時代に「乙巳の変」の舞台となり、さらに重祚した斉明天皇の時代にも。板蓋宮として、この地を宮として活用している。
立石は宮の境界石との論も得難いが、立石の石ごとの不均等が気になる。
参考文献
『飛鳥の石造物』飛鳥資料館図録16(昭和61年)
『明日香村の大字に伝わるはなし』明日香村文化協会(平成31年)
『明日香村村史上』明日香村(昭和49年)
『飛鳥の石造文化と石工』飛鳥資料館図録73冊(令和2年)
唐招提寺の境内と金堂前面の列柱
『奈良で学ぶ 寺院建築入門』海野聡著
「日本の寺院の建築様式はさまざまだが、その源流は奈良に見ることができる」という。
その歴史と魅力を建築の目で、唐招提寺・薬師寺・興福寺・東大寺を解明している。
それで、今日は唐招提寺を考えてみた。
唐招提寺は奈良時代に鑑真によって開かれた。鑑真は「戒を授ける」伝戒の僧として日本に渡来した。はじめは東大寺にてそれを行ったが、のちに自らの寺としての唐招提寺を開いた。鑑真亡き後も、唐から伴った弟子たちにより唐招提寺の伽藍は整えられていったとみられる。
前面に金堂、その奥は講堂である
古代寺院を考える時、先ずは境内を、とくに塔と金堂の位置を見ることが必要と言われる。
「本尊を祀る金堂、仏舎利(釈迦のホネ)を納める仏塔、経典の講義や説教する講堂、僧侶の斎食(さいじき)のための食堂など、…配置を「伽藍」と言い、時代によって大きく変わります。」
古代寺院、はじめは塔と金堂は回廊に囲まれて置かれた。塔・金堂が一直線に並ぶ四天王寺・山田寺・若草伽藍、さらに法隆寺や法起寺、薬師寺なども塔・金堂は並列ではあるが、いずれも回廊の中に置かれている。
「奈良時代に入って「法会」が重要になってくると、儀式のための空間が必要となってきます。金堂院(金堂を囲む一角)に仏塔が建っていると、法会の空間が十分に確保できません。そこで、仏塔を金堂院の外側に出し、金堂の前に法会の空間が確保されるようになってきます。」
塔よりも金堂(法会)が大事と変わったとのことである。
興福寺、中金堂落慶の大法要がおこなわれたが、あれが奈良時代の姿だった。東大寺の大仏殿前の広場も同じだが、唐招提寺の境内も同じ形だった。
現在の金堂の姿を考えてみよう。
「唐招提寺の金堂正面の列柱は、屋根の下なのに吹き放しの空間となっている。法隆寺金堂ならば柱は内部空間として囲まれるが、唐招提寺は吹放しの形で、利用の仕方も異なるのである。
この空間は通路だった。金堂の吹き放しの両側は回廊が連なっており、回廊からそのまま金堂の正面に至る道筋となる。今はなき回廊の面影を金堂正面の吹放しに感じることができる」と言われる。
同じ形の本堂・回廊の例は、大官大寺、川原寺にもあったが、多くの古代寺院は回廊の中に金堂(塔も)が取り込まれていた。
「金堂と回廊をつなげて金堂院としたことは伽藍設計のうえで画期的なこと」だったのである。
會津八一が歌った金堂正面の列柱、あれは通路を挟んだ列柱だったのである。
唐招提寺に入山する。金堂を前にして左右の森の深さに安らぎを覚えるのだが、金堂・列柱を背景にしての「大法会」の姿を想像するのも面白いものである。
金堂の前面に西側の植え込みに「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」の會津八一の歌碑が置かれている。これもまた、御覧なされよ。今はサツキの花が覆ってきていて、字も隠れそうであるが(2022年6月5日)。
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> 八木田真史さん こ.. |
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恐れ入ります。 実は今.. |
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