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奈良・桜井の歴史と社会

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タグ:万葉集 ( 28 ) タグの人気記事

藤原京から阿騎野への道

6月に「桜井市をテーマに万葉集」のお話をする。

「桜井の事なら何でもよいよ」と鷹揚なリクエストだが、「ただし、みんなが知らないような話を」と言われるのである。そこで初瀬をテーマに話すことにした。

持統天皇6年(692年)、阿騎野をうたった柿本人麻呂の歌がある。

超有名歌である・・。

東(ひんがし)の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月 西渡(かたぶ)きぬ  巻1-48 

 

「阿騎野だから桜井じゃない」という声も出そうだが、先立つ長歌があり、それにつづく短歌なのである。

ここに初瀬が出てくる。

「京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を」とあり、初瀬を通過している。

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藤原京から大宇陀に向かうならば、忍阪から女寄(みより)峠の国道166号線が現代の道だが、古代では初瀬街道を経て出雲から狛、笠間に抜ける峠道が使われていたようである。しかもこの道はつい最近まで実用的な道だった。後でも触れる野淵龍潜の『大和国古墳墓取り調べ書』に狛の村が出てくるが、いかにもこの村の絵は街道風だし、戦後になっても榛原町の笠間の中学生は朝倉中学(当時は現在の朝倉小学校にあった)に通ったとのことで、通る道はこの道である。

それで僕も、長谷寺駅から笠間まで歩いてみることにした。

初めは出雲の野見宿禰墓、その前身の古墳

次は狛の大石古墳

峠を越えて笠間の新陽明門院墓

最後に花山西塚・東塚古墳である

柿本人麻呂が確実に見たのは野見宿禰墓(古墳)と大石古墳である。

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野見宿禰墓。もともと古墳だったことは間違いない。狛・岩坂の谷の入り口にあり、この古墳群の盟主的古墳だった可能性を感じる。

鎌倉時代には長谷寺の支院が置かれ、その頃に五輪塔が建てられた。五輪塔は古墳が解体される明治の初めに出雲の十二柱神社に移された。

宿禰塚の周囲の田植えは直前である。あぜ道には石室に使われていたとみられる大小の岩が使われている。

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近鉄のガードを越える狛の村である。この道を上っていくと、左側に大石古墳が残されている。山口家の石垣の下に横穴石室の玄室の一部だけが保存されている。明治18年のころの状態は『大和国古墳墓取り調べ書』に記されていた。

狛村の中央に位置していた小字「弓場辻の古墳」と書かれており、宅地に古墳が取り込まれるときに石室が保存された。「地元の思い、自力で守られた古墳」である。

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狛の村を登りきると、「ひだりは嶽(だけ)」、「右は笠間」の道しるべがある。

盆地から見ると嶽山は外鎌山の後方に見え、大きな存在感である。長谷寺の舞台から見ると正面に見える大きな山である。

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さて・・・「真木立つ 荒山道」である。

振り返ると三輪山が見える

道は

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笠間に出た。「真木立つ荒山道」はこれだけだが・・歩かねばわからない話もあった。

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笠間の陵を拝見する。新陽明門院墓である。

南朝、後醍醐天皇を継いだ後村上天皇(97代)の中宮顕子の陵である。顕子は北畠親房の娘で、若くして天皇の

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もとを去り長谷寺で出家、その後、この地で亡くなったとのことである。

笠間に来るならば花山塚西古墳は必須かも。

石槨の左側には扉の軸穴があり、扉石は前に倒れている。この扉が持ち出されて小学校(朝倉村笠間小学校・現在は宇陀市で廃校)の沓脱石になっていたとことである。大正時代(1925年)には戻されている。

小学校の沓脱石に古墳の石を持ち出せるのだから、当時は笠間村の領地だったと思い浮かべることができる。

榛原の安田(ここも元磯城郡朝倉村)まで下がると嶽山古墳というすごい横穴古墳があり、石室の入室は不能だが、これもすごい古墳である。


やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷しかす 京を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根の 楚樹(しもと)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かきる 夕さりくれば み雪ふる

阿騎の大野に はたすすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしえ思ひて 巻1-45

阿騎の野に 宿る旅人 打ちなびき 眠()も寝らめやも 古(いにしえ)思ふに巻1-46

東(ひんがし)の野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月 西渡(かたぶ)きぬ  巻1-48

         以上 『新訓万葉集』(佐々木信綱)による


by koza5555 | 2019-05-22 13:11 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

添御縣坐神社

62日(日)に「平群の古墳」を訪ねるウォーキングを募集している。大和人ツアーズだが、こちらに長屋王墓・吉備内親王墓が置かれている。

長屋王とか万葉集をボヤ~と考えていたら、「添御縣坐神社(そうみあがたにいますじんじゃ)には藤棚があるよ」という声が聞こえてきた。

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こちらには長屋王の歌碑がある。

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長屋王(ながやのおおきみ)、馬を寧楽(なら)山に駐めて作る歌二首

佐保(さほ)過ぎて寧楽の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は 妹(いも)を目離(めか)れず相見(あひみ)しめとそ (巻3-300)

添御縣坐神社は平城山を越える歌姫街道、しばらく行けば京都府というところに置かれている。

こちらは平城宮からはあまりにも近く、ここでいいかなとも思うが、検証の上での歌碑建立だろう。

峠を越えるにあたり、幣を奉って安全を祈る。道中の安全を「妻にまた会えるように」という言葉に込める・・

長屋王の憤死は万葉集にも残されている

「神龜六年己巳(729年)、左大臣長屋王(ながやのおほきみ)死を賜ひし後、倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)が作った歌」

大君の命畏み(いのちかしこみ)大殯(おおあらき)の 時にはあらねど雲隠ります (巻3-441)

刑死にむかう有間皇子とか大津皇子の万葉歌は名高いが、長屋王についても万葉集には残されている。

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添御縣坐神社の藤棚と神社の本殿

御縣神社とは、奈良盆地に置かれていた宮廷直轄領である六御縣(むつのみあがた)に置かれた神社の事で、高市(たけち)、葛木(葛城・かつらぎ)、十市(とおち)、志貴(磯城・しき)、山辺(やまのべ)、曾布(添・そふ)の六社である。

もともと御縣は古代の大王家(天皇家)の領地であり(4世紀ころから)、象徴的に大王家の食材が用意されていたとみられる。

『延喜式』の祈年祭の祝詞によれば、御縣の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されている。

添御縣神社は農の神であり、また大和平野の中央を走る下ツ道の北端にあり国境の手向けの神として崇敬されてきた。


6月2日の「平群のウォーキング」を紹介したい。下に行程も紹介している。申込先は0744-43-8205  やまとびとツアーズである。

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「平群のロマン ―鎮まる古墳から大和の歴史を考えてみるー」

平群谷は、古代には巨大な勢力を誇った平群臣の本拠地と目されています。「命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみごも) 平群の熊かしが葉を 髺頭(うず)に指せその子」と倭建命も平群は固有名詞を挙げて讃えます。

また、この地には反逆の汚名を着せられた長屋王が葬られたという歴史も残されています。

穏やかに鎮まる古墳から、日本の歴史を考えてみます。

行程

◆平群駅前(集合1000

◆三里古墳           1030

  県指定史跡 6世紀後半、玄室に石棚。組合家形石棺

◆長屋王墓・吉備内親王墓    1100

  宮内庁が明治34年に指定。

  長屋王墓は梨本二号墳を再利用している。

  吉備内親王墓は5世紀後半の古墳を再利用。大きな石が鍵の手に組まれている

◆つぼり山古墳

  県指定史跡。7世紀初頭。方墳。くりぬき式家形石棺 


◆西宮古墳          

県指定史跡、地区座波7世紀中ごろ。一辺36mの方墳。精緻な切石石室に注目。          

◆石床神社・消渇神社      14

石床神社旧社地        

◆柿塚古墳           

 径30mの円墳。6世紀前半とみられ、今回の行程では一番古い(形あるものでは)。

◆烏土塚古墳          1500

 国指定史跡。平群谷最大の全方後円墳。組合家形石棺




by koza5555 | 2019-05-04 18:03 | 奈良市 | Comments(0)

「雄略」(Yurahaku)ポストカード、朝倉郵便局(桜井市)

産経新聞に「雄略天皇で町おこし」、「キラキラ★★ポストカード作成」、こんなふうに桜井市の朝倉郵便局が作成したポストカードが紹介されていた。

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雄略天皇ポストカード

 雄略天皇の宮殿「泊(はつ)瀬(せ)朝倉宮」の推定地に近い奈良県桜井市の朝倉郵便局が、雄略天皇をイメージしたイラストなどが入ったポストカードを作成、「ふみの日」の23日から同局で配布する。

 企画したのは、同郵便局の山下貴司局長(42)。ポストカードは縦14センチ、横23センチで、「雄略 古代国家統一の礎を築いた恋多き帝」などのロゴとともに、雄略天皇を現代イケメン風にイメージしたイラストが描かれ、万葉集巻1の冒頭に登場する雄略天皇の歌などを掲載。裏面では、その歌碑がある白山神社を紹介している。
ポストカードでは、雄略天皇を「超肉食系帝」と紹介。「データ」として、「好き=猪肉、女性」「趣味・特技=狩り(色んな意味で)」などとしている。
イラストを担当したのは桜井市内の広告制作会社のイラストレーター、米田友美さん。ポストカードは120円切手を貼ればそのままはがき(定形外)として使用できるほか、切手を貼って「消印台紙」としても使えるようになっている。
 朝倉郵便局の北東約600メートルの脇本遺跡では昭和50年代の発掘調査で、古墳時代の大型建物跡が見つかり、雄略天皇の泊瀬朝倉宮の宮殿跡の可能性があるとされている。同局では雄略天皇をイメージしたオリジナルのご当地消印も作製、今月1日から郵便物に押印している。

地元の黒崎地区出身の山下局長は、「雄略天皇は地元のヒーロー。古代の歴史を秘めたこの地域に多くの人に足を運んでもらいたいという思いを込めました。地元の人たちにも情報発信のツールとして利用していただきたい」と話した。

ポストカードの作製枚数は千枚。問い合わせは朝倉郵便局((電)0744・43・2407)。
(産経新聞7月23日付奈良版)


朝倉郵便局の窓口でお聞きすると、「ポストカードとして差し出すと120円(定形外)だが、『消印台紙』として持ち帰ると(52円切手を貼り消印を押す)と52円。台紙だけでは販売できないとのことである。

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朝倉郵便局消印

誰かに送れば120円、自分で持ち帰りたいと思えば52円、「朝倉郵便局に行かなければ手に入らない」というところがミソで、これが、これも一つの町おこしとのことである。

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旧伊勢街道、佐野の渡し・佐野の追分を東にすすむと朝倉郵便局である
by koza5555 | 2015-07-24 13:21 | 桜井・初瀬 | Comments(0)

あすかロータリークラブで卓話

あすかロータリークラブの会員の吉田さんからお話があった。
「例会で卓話の当番である。万葉集でも話して」とのことである。
吉田さんは、昨年の12月まで民生・児童委員でいっしょに苦労された方である。
ロータリークラブの会員とは一言も聞いたことがなかったけど。

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会場は橿原ロイヤルホテル

食事・例会のあとに会員が卓話をするとのことで、事情によっては誰かを連れてくるというシステムのようである。責任重大である、これは。
「万葉集を話せ」であるので、演題は「万葉集といまをむすぶ」と定めた。

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初めから・・・
倭は國のまほろば 畳(たた)なづく青垣 山隠もれる 倭しうるはし
倭健命(ヤマトタケルノミコト)を朗々と歌い上げるという作戦である。

続いて、万葉集の初まりというお話をする。
まずは雄略天皇。ワカタケル大王は国を広げたと埼玉の稲荷山、熊本の江田船山のワカタケル鉄剣で語り、九州から関東まで、実質的に支配したスーパー天皇だったと強調する。

「こもよみこもち」の巻一の1も求婚の歌ではなく、
「そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそおれ 
しきなべて 吾こそおれ 我こそは 告らめ 家をも名をも」と言い切るところは、国を広げる、いわばたたかいの歌と紹介するのである。ここらあたりの飛躍は、まあ、許されよ。

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続いて巻2の巻頭を飾る、磐之媛(イワノヒメ)皇后を語りつつ、衣通姫(そとおりひめ)を語る。


三人目は、万葉集の実質の一番目の歌い手としての舒明天皇である。
雄略天皇の巻一の1が「国を広げ、国を大きくしていく歌」とすれば、国を治めるため、暮らしを豊かにするための予祝の営みが施政者に求められた、これが舒明天皇の国見の歌だと紹介する。
万葉の時代もいまの時代もそれは同じことである。

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雪の中を撮ってきた平野南部

大和には 群山あれど とりよろふ 
天の香具山登りたち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ
美し国ぞ 蜻蛉島 大和の国は(万葉集巻1-2)舒明天皇 

とここで詠って、ピシリと終える。大きな拍手をいただいた。

実は、これらの話の間に相聞もたっぷりやったのである。
参加者は全員が男性、相聞はちょっとそこが難しい。愛の歌、恋の歌は男女のお客がいないと盛り上がらない。
熱心に良く聞いていただけたが、笑いが取れなかった。 よーし、またがんばろう。
by koza5555 | 2014-02-13 18:22 | 橿原・明日香 | Comments(0)

熱いガイドに旅満喫

15日(土)は奈良交通の「大和路万葉の旅」である。
車坂、檜原神社(井寺池)、大神神社、仏教伝来の碑、まほろばキッチン、忍阪、聖林寺を案内した。
健脚ならばハイキングとして歩き続けても楽しいコースだが、これは要所、要所でバスが待っていてくれるというツアーである。

お客様は20名、ガイド・サポートが4名で今回は産経新聞の記者とまほろばソムリエの会の鉄田専務理事が同行するという「取材ツアー」でもある。

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これが、今日16日付の産経新聞である。「夫婦で奈良に転居」は誤りで、「結婚して僕が奈良に転入」である

井寺池のヤマトタケルの歌碑、大神神社の大美和の杜の笹百合園、忍阪の鏡王女墓、聖林寺の倉本住職の講話など、みなさんにすべてを喜んでいただいた。

午後になってからは激しい雨、奈良盆地では待ちに待った雨ではあるが、僕らにはタイミングが悪い。忍阪あたりからは大変な降りでぐしょ濡れとなったが、幸い全員が全行程に参加されて元気にツアーを終えることができた。

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また、忍阪では鏡王女の歌碑のあたりでお会いした地元の方が、お聞きすると忍阪の森本藤次区長で、詳細な「忍阪」のパンフレットを全員分持ってきてくれてたり、玉津島明神ではあいさつをしてくれたりでツアーは良い方向、良い方向で盛り上がった。


朝のことである。
お客様が全員そろう。バスが出る。僕にとってはここがまずは最大のヤマである。今回なら万葉集と桜井のかかわりを話しながら、万葉集のそのもの論とツアーの行程、目的もお話しする。
今回は雄略天皇のこと、磐之媛皇后のこと、舒明天皇のこと語って、万葉の時代と現代の桜井を一気に結びつけるお話である。

「さて」と始める段になり、テキストのすべてを忘れたなどと気が付いたらどうなりますか?
今回はこれだった。
もちろん、ここは力を入れて考え、調べ、練習したお話だから問題はなかったが、これは大失態だった。油断というより・・・何を考えていたのだろうか。
地元の活動だったから、あっちゃんに届けてもらい、途中からは対応できたことは幸いだったが深く戒めたい。


奈良まほろばソムリエとバスツアー 桜井の万葉歌碑巡る
2013.6.16 02:03
 ■熱いガイドに旅満喫

 奈良通で知られるNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」のメンバーがガイドを務めるバスツアー「奈良まほろばソムリエと歌って巡ろう!大和路・万葉の旅」が15日、桜井市内の寺社や遺跡などをコースに開かれた。万葉集の和歌などが刻まれた碑を巡る日帰りの旅で、参加者たちは熱のこもったガイドの案内に耳を傾けながら“古代のロマン”を満喫した。

 同会は昨年9月から奈良交通とタイアップしてバスツアーを企画し、今回は万葉集ゆかりの地に建立された歌碑を巡るツアーを開催。ガイド役には、奈良のご当地検定「奈良まほろばソムリエ検定」合格者が務め、同会の雑賀(さいが)耕三郎さん(65)がメーンガイドを担当した。

 バスツアーには県内外から約20人が参加し、奈良市内を出発。道中の車内では雑賀さんが万葉集の序盤に登場する“ヒロイン”として磐之媛命(いわのひめのみこと)を紹介し「当時の女性が元気で、大事にされていたことが伝わってくる」と魅力を語った。

 三輪山の麓では山中を散策しながら、檜原(ひばら)神社周辺に残された万葉歌碑を散策した。井寺池ではノーベル賞作家、川端康成が古事記から抜粋した「大和は国のまほろば-」の歌碑を見学。雑賀さんは、この歌碑がノーベル文学賞受賞演説の原稿から筆跡を拾い集め、刻まれたエピソードなどを紹介した。

 ツアーはその後、多くの歌碑が残る大(おおみわ)神社や聖林寺なども巡回。9月には同会のガイドとともに天皇御陵(ごりょう)を巡るツアーも開かれる。

 参加した斑鳩町の主婦、鶴間良子さん(62)は「ガイドの話は県内に住んでいても初めて知ることばかり。これまで断片的だった歴史の知識がつながっていくのが楽しい」と話していた。

産経新聞ウエブ版より
by koza5555 | 2013-06-16 06:44 | 万葉の旅 | Comments(2)

記紀万葉と万葉植物図鑑

まほろばソムリエの会が奈良交通とタイアップして万葉集のツアーをすすめているが、僕もこのツアー、①初瀬と桜井、②宇陀、③盆地南部(橿原・田原本、三宅)、④来年だけど藤原宮周辺の4コース8回を引受けた。

このツアーを受けた直後、入手した本は・・・「原色万葉植物図鑑」桜風社発刊、1960年代の本である。著者は小村昭雲さんというが、ご存命かどうか(明治35年の生まれである)である。
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奈良、「もちいどの」のフジケイ堂で幸運にも手に入れた。万葉集の勉強、これが僕のいまの宝刀である。

万葉集で忍阪をガイドする予定がある。
忍阪の玉津島明神にて、古事記の衣通王(そとおりひめ)の
君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へをゆかむ 待つには待たじ を紹介する。

当然、君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ (巻2-85)磐姫皇后の歌を合わせて紹介することとなる。

明らかに出所は同じであるが、磐姫皇后の歌は「山尋ね」と書かれており、「山路をさがして」などと解説されている。
ところが元とみられる古事記の歌は「山たづ」とあり明らかな相異がある。しかも古事記には「やまたづは造木(みやっこき)というもの也」と注まで付けられているのである。
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山たづ。開花は今しばらく先か?

こういう時に、この「原色万葉植物図鑑」が力になる。
「山たづは現在のニワトコと解されている」とし、細長い葉柄が対になっていることから、万葉では逢うなどの対の意味にとり、迎えるという行為の枕詞として使うと解説がある。
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対の葉脈を持つニワトコの葉
これで忍阪の玉津島明神にて、右大将藤原道綱母、光明皇后と並んで本朝三美人という衣を通してその美しさが光るという衣通姫(そとおりひめ) の歌が存分に語れるというものである。
君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へをゆかむ 待つには待たじ 
by koza5555 | 2013-04-20 21:30 | 万葉の旅 | Comments(0)

出雲国造神賀詞と雲梯

12月に橿原から田原本、広陵、川西にかけて万葉集のツアーをガイドする。
犬養孝の万葉の旅(上)、平野南部の巻である。
ここで雲梯(うなて)の森が出てくる。超有名歌が二首ある。
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雲梯の川俣神社

この神社の森が「真鳥(イヌワシ)住む雲梯の杜(もり)」といわれるような神々しい社(もり)なのである。
この「特別の森」はどこから始まるか、それは出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかんのよごと)に触れられるところから始まると言われている。

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんのよごと)は、新任の出雲国造(県知事みたいなもの)が天皇に対して奏上する寿詞である。
霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回の記録があり、さらにそれよりも数十年早くには始まっていたという論もあるようである。

この神賀詞(かんよごと)に国譲りのことや、オオナムチが天皇の世を支え、祝う言葉が連ねられている。

万葉集のツアーで雲梯(うなて)に行けば、この神賀詞を紹介する。
一番の簡単説明だと次のようになる。

出雲の県知事が「国を譲った。そしてオオナムチは出雲大社にいて、自身の和魂(にぎたま)は三輪に、子どもは葛城の鴨社に、子どもは雲梯に、子どもは飛鳥坐神社に坐して天皇を守っている」と奏上して天皇の世の末永きことを祝った。そこで言われている雲梯はこの場所で、神にかけてというような誓いの対象となるような神々しい森なんだ・・・という具合だ。

もう少しキチンと紹介するパタンであれば、
大穴持命は八百丹杵築宮(きつきのみや、出雲大社のこと)に御鎮座
この国は大倭国でありますと申されて
御自分の和魂(にぎたま)を八咫鏡に御霊代(みたましろ)とより憑かせて倭の大物主と御名を唱えて大御和(おおみわ)の社に鎮め坐させ、
御自分の御子、阿遅須伎高孫根命(アジスキタカネヒコ、オオナムチの三子)の御魂を葛木の鴨の社(御所市高鴨神社)に鎮座せしめ、
事代主命の御魂を宇奈提(雲梯)の河俣神社(かわまたじんじゃ)に坐させ、
賀夜奈流美命(かやなるみ)の御魂を飛鳥の社(飛鳥坐神社、事代主神・高皇産靈神・大国主と並んで)に鎮座せしめて皇御孫命の御親近の守護神なろう


こんなことを話しながら、川俣神社の由緒や雲梯の杜のお話しをするつもりである。


万葉歌は…

真鳥棲む雲梯の杜(もり)の菅の根を衣にかき付け着せむ子もがも  (巻7-1344)未詳
思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神し知らさむ(巻12-3100)未詳


古い本だが松山健氏の「出雲神話」(講談社現代新書)を読み、出雲国造神賀詞奏上式を勉強した。
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この本では他にもたくさんのことを学んだ。いくつかを列挙すると・・
①出雲神話には虚像と実像がある。
虚像は記紀における出雲を舞台とする神話群
実像は「出雲国風土記」に記されている。
②出雲神話を国中に広めたのは巫覡(ふげき)である。神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝える人。女性は「巫」、男性の場合は「覡」で合わせて巫覡という。
③出雲が大和朝廷に政治と文化で対立するほどの証拠はないとしている。
④出雲神話を大和朝廷に持ち込んだのは、出雲国造らの始めた神賀詞奏上式であり、これでオオナムチを売り込んだ。

とりあえず、こんな具合で出雲国造神賀詞の話が、できるところまでは到達できた。ツアーは12月である。
by koza5555 | 2013-04-19 20:37 | 橿原・明日香 | Comments(0)

前川佐美雄

万葉集のツアーの準備で檜原神社に何回も通った。
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崇神天皇の時代、天照大御神を笠縫邑に祀ったという。これが檜原神社で伊勢への遷座後も祀り、「元伊勢」と今も呼ばれる。大神神社と同じくご神体を三輪山として、三ツ鳥居で禁足地を区切っている。万葉集では「三輪の桧原」と詠まれ、山辺の道の歌枕になっている。

この檜原神社の境内に誰しもが目につく形で大きな歌碑が置かれている。
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「春がすみいよゝ濃くなるまひる間の 何も見えねば大和と思へ」前川佐美雄である。

ツアーでは簡単に歌意を紹介しようと考えた。
「前川佐美雄って、何か知ってるの?オレ」と僕の奥深くから意地悪そうな質問が浮かび上がってきた。
こうなるともうダメだ。いろいろさがして、「歌の鬼・前川佐美雄」という本を見つけた。小高根二郎(おだがねじろう)という方が30年ほど前に書いている。
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佐美雄は明治36年(1903年)、南葛城郡忍海(おしみ)村(現葛城市)の広大な山林と田畑を有する素封家の長男として生まれ育った。林業の将来を見込んで祖父は佐美雄を吉野林業公学校に学ばせたが、その方向には佐美雄は進まなかった。しかし、植物への深い知識はこの学校時代に培われたことは確実である。

志貴皇子に共感する青年時代、佐々木信綱に師事し、大和に関わる数多くの歌も書き連ねた。
佐々木信綱は「大和の国は万葉歌人の故郷であるが、万葉以後大和に歌人の出ないのは不思議な現象だ」と薬師寺で講演したという。佐美雄はこの講演の速記をしている。速記をしながら佐美雄は恥辱にわなないたとされる。
もちろん大和の歌人といえば、「南山踏雲録」の伴林光平もいる。しかし彼は河内の人であり、大和の人とは言い難いとのことである。

佐美雄の生涯はこの言葉への兆戦で、歌人として歩むことを生涯の目的として生きた。これが小高根の論である。

佐美雄は役小角に共感したり、折からのプロレタリア芸術運動に参加する時期もあったがそれは一時期だった。

「春がすみいよゝ濃くなるまひる間の 何も見えねば大和と思へ」(昭和15年)

朝日の登場とともに、霞の内から山容を現す大和三山。その山影はやがて真昼間の盆地が吐き出す濃い霞に呑まれて、消えていくと歌である。
小高根は、「これが歌の覚知だ」という。佐々木信綱は薬師寺の塔、會津八一は唐招提寺の柱をへて大和を描いた。佐美雄は非具象の霞で大和を描き、「万葉以後大和に歌人なし・・」という佐々木信綱の指摘に応えたとされた。

伝記一冊読んだだけであるが、前川佐美雄、とても身近になった。
by koza5555 | 2013-04-13 00:27 | 読書 | Comments(2)

桜井には棟方志功の歌碑が二つ

「NPO 奈良まほろばソムリエの会」のメンバーで、6月の奈良交通の万葉集の桜井ツアーの下見をおこなった。

「外出を控えるように」という注意が繰り返し放映されていたが、「風雨の状況も見ながら」ということで決行である。
車谷から入り、檜原神社を訪れる。こんな雨の中でも中高年のハイカーが大挙、行動している。
檜原神社、4月に入って奈良県が「記紀・万葉ゆかりの地」として県景観資産に指定したばかりである。
今日は講習しながらであるから、取り急ぎの写真であるが、井寺池で箸墓古墳ごしの二上山を撮った。
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今日、ツアーでみんなに歌ってもらう歌を決めた。
先ず、バスの中で練習する。それは額田王の「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも隠さふべしや」(巻1-18)である。
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そして、いま一つは古事記の「倭は 國のまほろば 畳(たた)なづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし」(日本武尊)である。
この二つを井寺池で合唱しようという計画である。

声を出して歌うのは、始めはやはり恥ずかしい。井寺池が絶好である。ココだったらみなさん、声を出していただけそうである。

こんな具合で、下見をすすめる。
しかし、今日は奈良交通抜きで「会」のメンバーだけの下見である。催行は2か月以上先である。そんな余裕もあり、コースとは違うところもいっぱい見ながらだった。したがって下見は徐々に僕の案内ツアー(笑)に化していくのである。

忍坂山口神社の楠を拝見した。
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等彌神社の棟方志功が描いた歌碑も拝見した。
桜井には棟方志功による歌碑が二つある。
今回のツアーの始めの歌碑は車谷の「穴師川(あなしがは) 川波立ちぬ巻向の 弓月が岳に雲居立てるらし」(巻7-1087)である。棟方志功の揮毫で巻向川畔にある。

もう一つが、等彌神社にある。この歌は保田与重郎、画は棟方志功である。
「鳥見山のかの面この面をまたかくし時雨はよるの雨となりけり」。鳥見山に降る時雨、夜の雨となり鳥見山は闇の中に、というような感じである。
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棟方志功の不遇時代、桜井の保田与重郎の手厚い援助を受けたとのことで、棟方志功の意思でこの歌碑の画が描かれた。
今回の下見、最後に、この歌碑をみんなで拝見して終わりとした。

今日はガイドの下見だった。しかし現地のことで判らないことも多く、コース周辺のことも案内して、あれこれ巡って理解をふかめ、十分に楽しんでいただけた。
僕らのツアー、僕らのガイドはこんなふうに気持ちも形も徐々に盛り上がっていくのである。
by koza5555 | 2013-04-06 23:41 | 桜井・山の辺 | Comments(1)

万葉集で桜井のツアー

6月8日(土)と15日(土)は「大和路・万葉の旅」(奈良交通)、「初瀬・桜井コース」である。

楽しみのところは多いが、まずは6月の大神神社は?そう、率川神社、三枝(さいぐさ)祭りへの「ササユリ送り」(ササユり奉献神事)である。祭りは17日、送るのは16日である。
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6月、大神神社の笹百合は満開となる。これは昨年の6月16日の大神神社である

6月の万葉ツアー、下見を終えたばかりであるが、僕らはこれからが本番である。
ガイドが二人、オブザーバーが二人の合計4人で案内するのだ。
普通なら成り立たない体制だが、ボランティア参加も含めてで経費は最小限だ。
勉強しながらガイドもする、ここが「NPO法人、奈良まほろばソムリエの会」のいいところだ。

そして、こんどのツアーではこの4人全員で役割を分担できるように、今から良く準備してゆきたいというのが、僕の思いである。
明日、そのメンバーが集まって改めてコースを回る。明日はどうしても無理という前田さんとは今日話し合った。

いろいろと構想が深まる。
大神神社の笹百合園を拝見する段取り、時間の幅を相談した。
ガイドする場所、時間帯についての分担を決めた。
午後のトイレ休憩についても改善策を決めた。

前田さんが「拓本」を勉強していることが分かった。今回、訪ねるいくつかの碑の拓本も持っておられるとのこと、そして当日持参していただけるとのこと、これも楽しみが増えた。

大神神社の笹百合の事である。
神武天皇の后、姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたら いすずひめのみこと)の住む「川辺に山百合草多(さわ)にありき。故(かれ)その山百合草の名をとりて、狭井河という」(古事記)とあるが、これにちなんで大神神社では百合を育てている。
笹百合は7年も経たないと花が咲かない。したがって栽培、切り花販売では経営が成り立たず、山で採取して販売されるとのことで乱獲されている。
これを大神神社では豊年講が長い間かけて育ててきたのだ。
この百合を率川神社に送るのである。
豊年講の方は「育てるのも送るのも豊年講の仕事」と誇らしげだ。
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ユリ花籠

こんな満開の花が見られる6月の大神神社、ガイドするのも楽しそうだ。
万葉集には直接的な百合の花は十首あまり、今回、ここで紹介する万葉歌は二首である。

道の辺の草深百合の花咲(えみ)に 咲(え)まししからに 妻といふべしや(巻7-1257)古歌集
 
夏の野の繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものぞ(巻8-1500)大伴坂上郎女
by koza5555 | 2013-04-05 15:08 | 万葉の旅 | Comments(0)