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奈良・桜井の歴史と社会

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手向山八幡宮と宇佐八幡宮、大仏造仏に至る道

大仏建立、手向山八幡宮と宇佐八幡宮のことを考えてみた。
「東大寺の大仏は宇佐の銅と陸奥の金があってこそ」と考えてみた。

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今朝の東大寺大仏殿。雨

743年、「廬舎那仏造営の詔」
一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があればそれを許そう」という、これである。

745年、紫香楽で大仏建立に失敗した聖武天皇が、恭仁宮から平城宮に還幸。
745年8月15日、大安殿で無遮大会を開き、東大寺での大仏建立を祈る。

749年に続日本紀には、大仏の造像に関して二つの事件が記されている。
一つは宇佐八幡宮の託宣、勧請である。大仏造像に必要な銅は滞りなく届けようという、誓いのように思えるのである。

749年11月29日、八幡大神の託宣があり、禰宜尼らが平城京に向け出発する。
12月18日大和に到着、貴族20名が平群に迎えて入京に至り、
大神の禰宜尼が、12月27日、紫色の輿で東大寺(転害門から)に入るとある。

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東大寺転害門。宮中からならば、転害門は順路であろう

「豊前国宇佐郡の八幡大神が『われ天神地祇をひきい、必ず造仏を成就させよう。それは特別のことではなく、銅(あかがね)の湯を水となし、わが身を草木土に交えて、支障が起こることなく、無事に完成させよう』と仰せられた」と、この日に橘諸兄が宣命するのである。

この年には大仏造像のためもう一つの事件がある。
陸奥国からの黄金の献上である。

749年4月1日に、「天地開闢以来、わが国に黄金は産しないとされたが、陸奥より産出された」と、廬舎那仏像に報告がなされた。

「陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌」という大伴家持の歌がある。
 
すめろきの 御代(みよ)栄えむと あずまなる みちのく山に 金(くがね)花咲く
 巻18-4097 大伴家持

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この歌は、東大寺真言院(東大寺ミュージアムの北側)内に歌碑がある

この歌に先立つ長歌があり、そこから有名な軍歌が取り出されている。
「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
 大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじ・・・」(巻18-4094)

・・・である

亡くなった親父は18年間の海軍生活を送った。よくも生きて帰ったと思えるような長い軍艦生活であった。酔えば僕らの前でも、必ず軍歌を歌ってくれたが、「軍艦では、この歌は葬送(水葬)の歌」と言い、当たり前のことであるが、良い思い出はないようで、なかなか歌わなかったのである。

万葉歌は、大伴が天皇に奉ずる軍人としての誇りと義務を歌う歌である。

大仏のことだった。ともあれ、陸奥の金があり、宇佐の銅がある。
宇佐八幡大神は「銅(あかがね)の湯を水となし、わが身を草木土に交えて」、大仏を造ろうといっているのである。
そして、宇佐八幡宮は東大寺の守護神として、手向山八幡宮としてそのまま勧請されたのである。

かくして、752年4月9日の大仏の開眼供養に至るのである。
土曜日は手向山八幡宮あたりをあんなにする。おもしろい話ができそうに思えてきた。

ここらあたりは「続日本紀」(宇治谷孟著、講談社学術文庫)を参照した。
by koza5555 | 2014-07-13 15:33 | 奈良市 | Comments(0)